私の飼っていた黒柴(くろしば)のアッシュは、自分の気持ちに素直で、他の人にも優しい犬だった。  世界の物事に興味を持ち、気になった物は何でも匂いを調べようとしていた。私がおいしい物を食べていればそれを欲しがったし、高い所には登ろうとしたし、穴があれば入ろうとした。いつの間にか、窓の開け方も覚えている程だった。  そして、悪い人がいても、命の危険を感じるか、私に危害を加えない限り、絶対に手を出さない優しさを持ち合わせていた。  私にとって、彼はペットと言うより、好奇心旺盛(おうせい)な彼氏という感じだった。私に対していやそうな顔はめったに見せず、毎日床に就く私を見守るように添い寝してくれた。朝には私の頬(ほほ)に・・・鼻でキスをして起こしてくれて、この家での暮らしが長くなってからは、留守番もちゃんとこなすようになってくれた。

 ―――毎日が充実していた。

 それも、もう過去の話だ。  彼は私の前から急にいなくなった。  不治の病(ふじのやまい)だった。

 数日後、私の部屋にあるのは、小さな骨壺(こつつぼ)。  カラカラと儚(はかな)げな音を立てる、白い骨壺。  私と付き合っていた頃より、ずっと小さくなって。  もう、私の方を見てはくれない。

 そんな、喪失感(そうしつかん)に包まれた毎日を過ごしていた、ある日。  私はペットを亡くした人達の集まりを知った。

 一週間後の日曜日。ここは、ペットロスを患っている人たちが互いに交流を持つ事で、その傷を癒(いや)すのが趣旨(しゅし)とされている集まり。ペットロスは、ペットを失った事で生じる精神的に不安定な状況の事を言うらしい。

 そんな参加者の中で、私は、とあるお寺の住職(じゅうしょく)さんを見つけ、その人と話をする事にした。  最初は、こんなところにお坊さんなんて、と怪訝(けげん)そうに見てしまった。さすがに袈裟(けさ)ではなく洋服ではあった。が、彼もまた、つい最近飼っていた黒い甲斐犬(かいけん)を亡くしたそうで、それを聞いて私は日本犬(にほんけん)という繋がりもあり、話を聞く事にした。 「初めまして。私はイヌヨシと申します。あなたが飼われていたのは・・・?」 「はい、アッシュという名前の黒柴です。私が住んでいるこの町で生まれた、里親(さとおや)を募集していた仔犬(こいぬ)から迎え入れました。」 「おお、さようですか。私の場合はちょっと変わってましてね・・・一匹の仔犬が、寺の境内(けいだい)に迷い込んできたんですよ。」 「え・・・? それじゃ、野良犬(のらいぬ)を・・・?」  私はびっくりして彼にたずねた。 「いえ、それが実に不思議でして。私も最初は野良犬かと思ったんですがね・・・何故か私に威嚇(いかく)などをせずに、近づいてきたんですよ。」 「という事は、人に慣れていた元飼い犬とか?」 「うーん、首輪はしてなかったし、飼い犬にしても見るからに仔犬でしたからね・・・。」  彼は腕を組んで首をかしげている。 「あ、あ、わからないなら、無理に思い出さなくてもかまいませんよ。」  私は少し動揺しながら彼に言った。 「ちょっとツッコミが過ぎましたね。」 「いえいえ・・・あっ。」 「なにか思い出しました?」 「思い出すついでに、ちょっと気になっていたものも思い出してしまいまして。」 「もの?」  彼はポケットからとあるチラシのようなものを取り出した。そこには、何かゲルのような質感をもった青いベルトと、小さな機械のような物がついた商品の写真が載っていた。 「これなんですがね。」 「これは、首輪・・・?」 「そう、なんかこれを使うと、幽霊を具現化させる事が出来るみたいで。」 「まさか・・・。あなたは信じてるんですか?」 「こう言うのもなんですが、やっぱりこういう仕事をしていますとね、明らかに変な声とか聞こえるんですよ。私のお寺も、この町のはずれの山あいにあって、そんな大層(たいそう)な人出のあるお寺じゃないんですがね・・・。」  やや自嘲(じちょう)気味に、住職さんはつづけた。 「特に最近、声だけですが、若そうな男性と中年くらいの男性の2人が話をしている声が良く聞こえるんです。親父さんがどうとか、彼女がどうとか言っててね。でも、その姿を探そうとしても、声が良く聞こえるような所に行くと、急に聞こえなくなってしまうんです。もちろん、人がいたような痕跡(こんせき)も何もない。」 「お寺の中で? たしかに、少し気になりますね・・・。」 「もし、その正体を知れるのなら、こういう物を使うのも有りなのかなぁ、とは思うんですが・・・。」 「あの。」  私は彼にたずねた。 「そのチラシ、貰えますかね。」 「ええ、かまいませんよ。お役に立てれば幸いです。」

 私もバカだな、と一度は思った。でも、急にいなくなったアッシュにまた会えるなら、それもいいな、とも思った。その日の夜のうちに、私は日本のネット通販最大手モノホシドットコムで注文していた。

 翌日の夕方、私が仕事から家に帰ると、以前アッシュが出迎(でむか)えてくれていた玄関に、例の首輪が届いていた。  私は首輪の入った箱と一緒にリビングに入り、その場で首輪を取り出した。ゲル状のベルトは良く伸びるが、これだけではなんの変哲(へんてつ)もない首輪だ。 「アッシュ、いるかな・・・。」  ちらと骨壺の方を見た。生まれてこのかた霊感と無縁で生きてきた私には、暗い床の間(とこのま)に骨壺があっても、何も感じる事はなかった。 「ここに置いといた方がいいかな?」  私は首輪をそっと骨壺の近くに置いた後、またいつもの日常生活に戻った。 「きっと・・・きっと何かが変わるよね・・・。」  本当に何も起きなかったら、私は大バカ者だろう。だけど・・・でも・・・やっぱり、きっぱり別れたんだって、そう思えると思う。  洗濯して、お風呂に入って、ごはんを食べて・・・数時間が過ぎたけど、特に何も起きない。 「やっぱりダメ・・・かな・・・。」  リビングのソファに座ってテレビを見ながら、私はいつしかウトウトと眠りに落ちていった。

 私は暗闇の中にいた。そこでただ一人、仰向けになって寝ていた。 「ユウ、そんな所で寝てると、風邪引くよ。」  夢の中で、誰かに呼ばれた気がした。聞き覚えのある、懐かしい声だった。 「・・・なんて声も、届かないんだろうな・・・。」  そう聞いて私は思わず口を開いた。 「何言ってんのよ。聞こえてるわよ・・・アッちゃん。」 「え、ウソ? マジで?」  驚いたような声でそれは答えた。同事に、私は目を覚ました。

   時計は二時を回っていた。願望が夢に出てしまったのだろうか。集合住宅に住んでいる手前、私は寝言で変な事を言っていないか心配になった。 「もう、こんな時に元彼(もとかれ)の事まで夢に出てくるなんて・・・余計に辛くなっちゃう。」  アッちゃんは、私の初恋の人。本名はアツキ。好奇心旺盛で活発な一方で、実力行使はできるだけ避ける優しい人だった。でも、彼もまた、不治の病を抱え、私の前から急にいなくなってしまった。アッシュを飼い始めたのもそれからしばらく後の事だ。私の頬を涙が伝う。

「ユウ?」  野太(のぶと)い声で誰かが私を呼んだ。一人暮らしのはずなのにおかしい。まだ夢の中なのか?  涙をぬぐいながら、振り向かないまま私は尋ねた。 「誰? どうして私の名前を・・・?」 「どうしてって・・・ご主人様の名前を覚えないヤツがいるかよ。俺はアッシュだ。」  そこまで聞いて、私は振り向いた。 「こんな姿してるけど・・・信じてくれる?」  そこにいたのは、黒柴の獣人(じゅうじん)のような姿をした犬だった。ただ、少し輪郭がぼやけているような気がする。 「嘘・・・あぁ・・・アッシュ・・・。この体の柄、覚えてるよ・・・。」  私はその黒柴に抱きついて、モフモフとした胸の中ですすり泣いた。その黒柴は腕で私を抱いてくれた。  容姿はともかく、茶色い毛の混じっていない、白黒はっきり分かれた体の柄(がら)や、やさしい顔つきにアッシュの面影を感じた。 「しかし驚いたなぁ。ユウに霊感があったなんて知らなかったよ。」 「え? あ・・・、ちょっと待ってて・・・そのままじっとしてて。」  私は首輪の事を思い出した。あれを付けないと、会えなくなってしまうかもしれない、そう思った。 「この首輪、付けてくれない?」  私は首輪を持ってきて、アッシュに尋ねた。 「首輪か・・・一緒にいた時にはずっと付けていたし・・・ユウが付けてくれと言うのなら、付けるよ。」 「ありがとうね。」  私がアッシュに首輪を付けると、彼の輪郭はハッキリと見えるようになった。 「この首輪、幽霊の姿が見えるようになるって、とある人に聞いてね・・・アッシュに会いたくなって、それで・・・。」 「俺の事、忘れないでくれてたんだね・・・嬉しいよ。」 「私もよ・・・ところで、今日はもう遅いし・・・昔みたいに、添い寝してくれる?」 「うん、いいよ。」  私は、久しぶりにアッシュに添い寝してもらう事にした。体は前より大きいけれど、その分、彼を存分に感じられて、私は天にも昇る心地だった。

 翌朝。 「おはよう。」  その言葉とともに、頬に少しひんやりとしたものを感じて、私は目を覚ました。 「よく眠れたか?」 「うん、久しぶりに気持ちよく眠れたよ。アッシュ・・・。」  私がそう返すと、彼は口元でほほえんだ。

 まだ平日なので、私は仕事の準備をしながら朝食の支度を始めた。 「そういえば、アッシュは幽霊なんだよね・・・朝ごはんとか、食べた方がいい?」 「いや、食べても問題はないけど・・・おなかは全然空かないんだ。それに、こんなに大きな体で、ユウの食べる分が減っちゃうのも悪いしさ。」  彼は胸元に両手を当てながら答えた。 「悪いわね。また留守番も頼む事になるけど、お隣さんとか驚いちゃうかもしれないから、家でじっとしててね。」 「ああ。わかった。」  私は彼に見守られながら朝食を済ませ、また久しぶりに彼に見送られて会社へ向かった。

 そして家に帰ると、彼が私を、生前と同じように待っていてくれた・・・。

 アッシュとの生活が始まった後の、水曜日の夜。  さすがに何も食べないアッシュを見ているのは、飼い主としてもつらかった。そこで私は、人間用の細いサラミのような乾燥肉を買って、彼に食べさせた。 「どう? おいしい?」 「うん! おいしい・・・。」  サラミに笑顔でかぶりつくアッシュを、私はニコニコしながら見ていた。再び彼が戻ってきた事を、確かに実感していた。 「ところでユウ・・・話は変わるんだけど。」  サラミを食べ終わったアッシュは、急に真面目になった。 「なぁに?」 「実は俺・・・行きたい所があるんだ。今度の休みに。」 「本当? 危ない事以外だったら、なんでも良いわよ。」  アッシュが危ない目に遭(あ)う事だったら私は止めるだろうが、そうでなければ私は彼の意向を最大限尊重しようと考えていた。今までは、私が散歩で連れて行ったところが、彼の世界だったのだから。 「ありがとう。じゃあユウ、俺の口元に耳を近づけて。教えてあげるから。」  私は彼の口元に耳を近づけた。彼のモフモフとした口元と温かい吐息で耳がくすぐったい。 「え、本当に・・・?」  私は、まさか彼にそんな趣味があるとは思わず、びっくりした。 「この事は、そこの人以外には言わないでほしいんだ。俺とユウだけの秘密ね。」 「うん、わかった。」  私は、週末にそこへ行く事を、彼と約束した。

 週末、私はアッシュとその「目的地」を目指して散歩に出かけた。 「あら、おっきな獣人さんねぇ。」 「服は着なくてもいいの?」 「わんちゃんかわいい。」  街中を、服を着て歩く人間の私と、服も着ないで歩く獣人のモフモフとした彼。そんな私たちを見て、行き交う人々の何人かは声をかけてきた。  この世界では、獣人そのものは実際に存在している。いにしえのケモノ族が人間との間にもうけた子供たちで、その強い血を受け継いだ人間の子供は、全員獣人に生まれるのだ。その姿ゆえに、人間と同じような格好をしない者や、人里離れた場所で暮らしている者もいる。  しかし、人間との交雑で、人間のかからない病気を患ったり、ケモノ族の弱点を引き継いだりしてしまう事や、ケモノと人間のキメラになってしまう事もあるのだ。特に最後は、ケモノ族の血が遠くなればなるほど顕著に表れるようになる。  私の元彼だったアツキも、小学生の頃からの同級生で、首から上が柴犬の男の子だった。それでよくからかわれていたけれど、私はそんな彼が自分の気持ちを抑え込んで、できるだけ周りにやさしく接してあげていた所に、好意を抱いて、同時に慰めて守ってあげたいと思った。それがきっかけで付き合いを始めたのだった。

「ユウ、今まで黙っていてすまなかったんだが・・・。」  アッシュは、頭をかきながら私に話しかけた。 「なぁに?」 「実はな、俺が死ぬ前・・・つまり、まだ犬として飼われていた頃、ユウが仕事に行っている間、時々、俺は一人でその場所に出かけてたんだ。」 「自分で窓を開けて?」 「ああ、一応、出た後は窓を閉めていたけど・・・今思うとやべぇ事してたと思う。これだけは謝らせてくれ。 ・・・ごめん。」  立ち止まって、アッシュが私に頭を下げた。 「今はもう気にしてないよ。アッシュは好奇心旺盛だったから・・・ところで、どうしてそこまでして、そこに行きたいと思ったの?」 「それはね、あそこのおやっさんが、俺の知ってる人によく似てるからだよ・・・。」 「おやっさん・・・?」 「まあ、それはそこに着いてから話すよ。」

 私がアッシュと話をしながら歩いているうちに、どうやら目的地に着いたようで、アッシュがその入り口に顔と体を向けた。 「ここだよ。」  そこは話に聞いていた通り、山あいのお寺だった。扁額(へんがく)には、『成毛富寺(ぜいもふじ)』と書かれている。 「俺は『毛風寺(もふじ)』って呼んでるけどね。」  私は彼に導かれるままに、成毛風寺の境内に足を踏み入れた。 「ぜいもふじ・・・なんか聞いた事があるような。」  私がそうつぶやくと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「おや、あなたは先週の・・・。」  境内で、参道に転がる砂利(じゃり)を竹ぼうきで払いながら私に声をかけてきたのは、先週、ペットロスの集会で出会った住職さんだった。 「あ、イヌヨシさん・・・ここってイヌヨシさんのお寺だったんですか。」  イヌヨシさんが、私とアッシュのところまで歩いてきた。 「ええ、いかにも。 ・・・立ち話もなんですし、今日は予定もないので、本堂の中でお話でもしましょうか?」 「恐れ入ります。では、上がらせていただきます。」  私がイヌヨシさんと話している間、アッシュはキョロキョロとあたりを見回していた。私とイヌヨシさんの話にも気が付いていない様子だった。 「アッシュ、行くよ? 一緒に上がらせてもらおうよ。」 「えっ? あっ・・・どうも。」  イヌヨシさんはアッシュの方を見た。 「そちらの獣人さんは?」 「あ、その詳しい事はまた本堂で・・・。」  私はアッシュを隣に引き連れて、本堂にお邪魔した。

 本堂の中の畳の部屋で、私たちは顔を合わせた。 「それで、そちらの獣人さんはどなたです・・・?」  イヌヨシさんに聞かれて、私はちらとアッシュの方を見たが、彼は再びあちこちキョロキョロしていた。それを見た私はもう気にしない事にした。 「こちらはアッシュ、この前お話した亡くなった子の・・・幽霊・・・? です・・・。」 「おお、本当ですか? という事はあの首輪、効果あったんですねぇ。」  イヌヨシさんは嬉しそうに言った。 「私も首輪を買ったんですが、相変わらずあの幽霊の居場所を割り出せなくて・・・いまだに具現化させられずにいるんですよ。」 「それは大変ですね・・・幽霊って同じ場所に出る子ばかりじゃないんですね。」 「まあ、幽霊と言ってもいろいろ種類があるようですからねぇ。私もそっちは専門外ですし・・・。」  そんな話を私とイヌヨシさんがしている時、アッシュがポツリとつぶやいた。 「おやっさん・・・いないなぁ・・・。」 「え? おやっさん?」  意外にもそれに反応したのはイヌヨシさんだった。 「アッシュ君、きみはそれを知ってるのかい?」 「ええ、まぁ・・・。」 「どうかしたんですか?」  イヌヨシさんとアッシュの会話を聞いて、私は何の話をしているのか気になった。 「あ、いやね・・・私の父親、つまり私と同じ住職の先代なんですが・・・仲の良い人たちからはよく『おやっさん』と呼ばれてたんですよ・・・。」 「そうなの? アッシュ。」  私はアッシュに尋ねた。 「いや、俺が『おやっさん』と呼んでいるのは・・・このお寺にいる、黒い犬・・・。」 「ん・・・紫墨(シボク)? シボクの事か?」 「シボク?」  イヌヨシさんは私の方を向いた。 「ああ、この前の集会ではお話するのを忘れてましたね・・・。その、亡くなった黒い甲斐犬・・・シボクって名前だったんですよ。」 「なるほど。」  そして彼は再びアッシュの方を向いた。 「アッシュ君、その『黒い犬』の居場所、わかるかな?」 「まあ、多少は匂いが残ってるようだから、それでわかると思いますが・・・あちこち嗅(か)ぎまわっていいですか?」 「ああ、いいとも。よろしくお願いします。」

 アッシュは、イヌヨシさんと共に境内を、匂いを嗅ぎながら歩き回っている。私は、アッシュが粗相(そそう)をしないように彼に同行した。 「どうだい? アッシュ君。」  アッシュの視線は、境内から、山の上の墓地に続く道に向かっていった。 「この先にいそうです。」 「よーし・・・ユウさんも行きますか?」  右手に例の首輪をかまえたイヌヨシさんが、私に尋ねた。 「え、ええ。もちろん。アッシュに全部任せるわけにもいきませんし・・・。」  私たちは境内を出て、墓地に向かって進みだした。

 山道を進むと、次第に『黒い犬』の匂いが強くなってきたようだった。 「うん、今度はハッキリ感じる・・・おやっさんの匂い・・・。」  アッシュは確信を持ったように言った。  墓地が見える後少しまで来たところで、いったんアッシュは立ち止まった。 「大丈夫か? ユウ。」  彼は私の方に振り向いた。 「私は大丈夫だよ、アッシュ。」 「イヌヨシさん、首輪の準備はできてますか?」  続いてイヌヨシさんの方を振り向いた。 「ああ、いつでもいいよ。」 「よし、俺が引き付けて説得するから、その後にイヌヨシさんが首輪をつけてください。」

 墓地にたどり着くと、アッシュが声を掛けた。 「おやっさん・・・いるか?」  すると、途端に墓地の中に黒い影のようなものがところどころ見えた気がした。同時に、姿は見えないが声がした。 「お? その声はアッシュか? 久しぶりだな・・・。」 「また会えたね、おやっさん。ちょっと諸事情あってな、来るのが遅れちまったよ。」 「ん・・・? なんだか見慣れないモンつけてるな。それに、人間も二人か。何かのイタズラで付けられたのか?」  まずい。おやっさんに首輪の事を悟られたようだった。悪いように取られたら、首輪を付けられないかもしれない。 「いや、これはそういうモンじゃないよ。これは・・・俺のご主人様が、俺を見つけるために用意してくれた物なんだ。」  アッシュは何とか話を逸らして、首輪に疑いを持たれないように説得を試みていた。 「だからさ、これと同じ物をおやっさんにもプレゼントしようと思って、ここに来たんだ。」 「ふぅん・・・まぁ、お前の主人がつけてくれたって言うなら、悪いモンじゃなさそうだな。それなら、俺にもつけてくれ。」  なんとか、ハードルは越えたようだった。 「じゃあ、ここに首を出して。」  アッシュが手のひらで位置を示した。 「おう。そこでいいのか。」 「じゃあイヌヨシさん、この辺に首があるので、首輪をつけてください。」  私には見えないが、おやっさんは首を前に出すように立った・・・はずだ。 「あ、はい。」  イヌヨシさんは、アッシュが示した場所に、首輪を持って近づいた。すると・・・。 「ん、あんたは・・・。」  おやっさんが反応した。 「あんた・・・俺の、ご主人様じゃないか・・・。」  同時にイヌヨシさんもその声でその場に硬直した。 「おやっさん、それはどうでもいいから、そこを動かないでくれよ。今から首輪をつけるんだから。」  アッシュがおやっさんを制した。 「アッシュよぉ、本当に大丈夫だな? いざという時はお前でも地獄(じごく)へ送ってやるぞ。」 「大丈夫だって! しれっと怖い事言うんじゃねぇよ・・・。」 「はいはい、わかったよ。 ・・・イヌヨシ、俺は何もしねぇから、首輪をつけてくれ。」  それを聞いて、少しばかり震えていたイヌヨシさんはホッと胸をなでおろして、おやっさんに首輪をつけた。

 しばらくすると、アッシュと同じく、首輪をつけた黒い甲斐犬の、たくましい獣人が目の前に現れた。 「おお、やはりお前はシボクか・・・。」  イヌヨシさんがそうつぶやくと、 「シボク・・・久しぶりだな、俺をその名前で呼んでくれた奴は。」  と、『おやっさん』もといシボクは、視線を逸(そ)らして少し恥ずかしそうにしながら答えた。 「ところでアッシュ、今、お前のそばにいるのが、いつも言ってた『彼女』か?」  シボクは、私を見ながらそう言った。 「彼女・・・? まさか。私はアッシュの飼い主ですよ・・・。ユウって言います。」 「え・・・? そ、そうだったのか・・・ユウちゃんは彼女じゃないのか・・・。」  シボクは、何故かガッカリしたような声で言った。 「とりあえず、シボクも具現化できたから、一回本堂の方に戻りましょうか。」  イヌヨシさんの提案に従って、私たちは墓地を後にした。

 本堂に戻って、私たちは人間のユウ、イヌヨシさんと獣人の幽霊のアッシュ、シボクで向かいあって座った。 「シボク、会えてうれしいよ。」 「よせやい。恥ずいわ・・・。」  イヌヨシさんに言われたシボクは顔をそむけた。 「そういえば、どうしてアッシュはシボクに会いに行っていたの?」  私はアッシュとシボクがどうして知り合ったのか気になった。 「別に何か約束があったわけじゃないんだ。俺自身、成毛風寺の事は最初知らなかった。ただ、ユウと散歩していたある日、何かの拍子(ひょうし)に急に思い出してな・・・朝言ったように、一人で外へ散歩に出かけた時に場所を把握(はあく)して、それから通うようになったんだ。」 「でも、不思議だね。なんで知らなかった事を、思い出したんだろう・・・。」

「知り合いからこういう話を聞いた事がありますよ。」  そう言ったのはイヌヨシさんだった。 「前世(ぜんせ)の事を覚えている人って、たまに出てくるじゃないですか。そう言った、前世の記憶を持って生まれてくる人は少なからずいるようですが、その記憶を開くカギとなる物に出会わない限り、それを思い出す事は無いそうです。そうして、ほとんどの人は前世の記憶を思い出す事も無く死んでいくのだと・・・。」 「そうか・・・そうなると、同じ町に偶然生まれるか、そこに訪れない限り、ほとんどの人は前世の事を思い出せないかもね。アッシュ?」  私はアッシュの方を向いた。しかし、彼は真剣な表情をしていた。 「ユウ・・・俺、何か、何か思い出せそうなんだ・・・成毛風寺の事を思い出してから、ずっと頭にある・・・誰かの名前・・・。」 「名前・・・?」 「・・・もしかしたら、私の方の『おやっさん』の事かな?」  イヌヨシさんがアッシュに尋ねた。 「いや、わからない・・・多分、覚えていたとしても、その名前自体がカギになってしまっているんだろう・・・。前世の記憶というのは、本来は思い出してはいけない記憶だろうしな・・・。」

 しばらくの沈黙の後、シボクが腕を組んだまま、口を開いた。 「・・・老狼(ロウロウ)、じゃないか?」 「ロウロウ・・・・・・あっ!!」  アッシュは天啓を得たかのようにひざを打ち大声を上げた。 「ロウロウ・・・? イヌヨシさん、知ってますか?」 「うーん、私もわからないです・・・。」  私とイヌヨシさんは、頭にはてなマークが浮かんでいた。シボクは、そんな私たちを見透(みす)かしているような眼差し(まなざし)で見つめながら言った。 「イヌヨシ、お前は知らないはずだよ。ロウロウは孫には会わないようにしていたからな。」 「え、ど、どうして・・・? それより、孫ってどういう事です・・・?」 「ロウロウは、この家系では最後のニホンオオカミの獣人の男として生まれた子だったんだ。そのうえ、珍しく完全な獣人の姿だったが、ケモノの血で子孫が苦しむのを良しとしなかった彼は、結婚せず、子供も作らなかった。他の兄弟は普通に結婚したが、それ以降は人間の血が強くなって、人間の子供しか生まれていない。」  シボクはあぐらを組みなおして、真剣な表情で続けた。 「歴史の授業で、ニホンオオカミが絶滅させられた話は聞いた事があるだろう? あれは、彼らが人間との間に獣人の子を成していた事に、支配者達が懸念を示していたからだ。特に新政府が出来て以降は、文明的な国を目指す上で、人間の能力を誇示する事が追求された時代だった。その中で、野生のニホンオオカミは絶滅・・・いや、殲滅(せんめつ)されたんだ。」  手ぶりを交えて雄弁(ゆうべん)に語るシボクを前にして、私も、アッシュも、そしてイヌヨシさんも、ただ黙って聞き入る事しかできなかった。 「獣人となった者は、家族や親族が必至で隠し通したおかげで、その後もしばらく生き延びていた。しかし、ニホンオオカミの血を断たれてしまった子孫たちは、代を重ねる毎に特徴が薄くなり、いわゆる半人半獣のキメラとして現れるようになってきてしまった。こうなると、今度はそれを病気と決めつけられ、収容されていった。そんな中で完全な獣人として生まれたのが、ロウロウだったんだ」 「そんな・・・私の知らない親族がいたなんて・・・。」  イヌヨシさんは何か喪失感を感じているように、うなだれていた。そこで私は、一つ気になった事をシボクに質問した。 「ところで、シボクさんはどうしてロウロウを知っているんですか・・・?」 「あたりまえさ。俺の前世はイヌヨシの親父さんの同級生で、首と手足としっぽ以外が人間の、柴犬の獣人だったんだからな。」  私の質問に、シボクは想像の斜め上を行く答えを返した。 「ええええ!?」  私とイヌヨシさんは大声を上げた。

「なんか、私・・・父親にもそんな話聞いた事なくて・・・浦島太郎(うらしまたろう)になったような気分です・・・。」  イヌヨシさんは遠い目をしていた。 「まあ、そう言わないで聞いてくれ。今でこそ獣人の人権は保たれているが、さっきも言った通り、ほんの数十年前まで、俺たちの人権はないも同然な時代があったんだ。」  シボクは腕を組んだ。 「イヌヨシは知らなかったかもしれないが、ロウロウはこの寺院の裏にある山の反対側で、獣人のための保護施設を運営していたんだ。今は廃止されてしまったがな。そして、墓地には秘密の裏道があったんだ。」 「もしかして、シボクがこの寺院に迷い込んできて保護された理由って・・・。」  私は少し真相が見えた気がして、シボクの話に乗っかっていた。 「そう、俺は病気で死んだ後、黒い甲斐犬に生まれ変わったんだが・・・その後、偶然にもその獣人の保護施設があった近くに遺棄されたんだ。俺が死ぬ少し前にはもう、イヌヨシの親父さんにそこが閉鎖される事は聞かされてたし、遺棄した奴はその辺の地理に詳しい人間だったんだろう。俺は、廃墟の看板に書かれていた文字や廃墟の外見から、前世の記憶を取り戻した。その瞬間、この成毛風寺まで来れば、誰かいるという事を理解したんだ。」 「ところで、シボクは何故、ロウロウと関係を持つ事になったんですか・・・?」  今度は、イヌヨシさんが乗ってきた。 「実はな、俺が最初に会ったのは、お前の親父さんじゃないんだ。」 「えっ、そうなんですか?」 「ああ、子供の頃はこの近くに住んでいたんだが、その頃は獣人にまだ抵抗感のある人もいてな・・・近くの公園で自分の存在価値を嘆(なげ)いていた時、少し変わったフードを被っていた人に声を掛けられた。最初は逃げようとしたが、その時後ろから出てきて俺を呼び止めてくれたのが、お前の親父さんだ。同級生ではあったが、その頃は人数が多くてクラス分けされてたからな。その時までは、ただ一緒の学年にいる他人でしかなかった。」  イヌヨシさんは一字一句聞き逃すまいと耳を傾けていた。私はアッシュがまだ何か思い出せなさそうな顔をしていたのを見て、もうしばらくシボクの話を聞く事にした。 「親父さんは、ロウロウから獣人について色々聞いていたらしくてな、いつも俺の事が心配でロウロウと話をしていたそうなんだ。そうしたらロウロウが動いてくれて、俺のために他の獣人たちと交流を取れる機会を用意してくれたんだ。それで知ったのがあの保護施設だった。無理に人間社会に溶け込む必要はない、少しずつ、お互いの壁を溶かして行けばいい。それをロウロウから聞いて、俺は救われた。 ・・・それから、俺は親父さん、ロウロウと仲良くなったんだ。」 「・・・・・・。」  私もイヌヨシさんも、何も言い出せなかった。前世の記憶を通して、まるで過去のこの街を追体験しているような気分に浸っていた。

「・・・話は変わるがアッシュ、お前は何か思い出せたか?」  シボクがアッシュの方を向いた。 「ああ、おかげでだいぶ思い出せたぜ・・・ありがとう。そしてユウ、お前の事もな。」  私はアッシュの言葉に驚いた。 「え? 私の事はもう思い出していたんじゃないの・・・?」 「それは俺が黒柴に生まれ変わってからの事だ・・・思い出したのは、俺が生まれ変わる前の話さ。」 「えっ・・・それって・・・ま、まさか・・・?」 「そう、アツキの時の記憶だ・・・。」 「・・・・・・! アツキ・・・? あなたはやっぱり・・・?!」  私は口元に手を当て、震えるような声で言った。 「そしてシボクは俺の親父・・・シロキだな。」 「フッ、ようやく思い出してくれたか、アツキ。お前が思い出すのを待っていたぞ。」  シロキから転生したシボクは、フフンとドヤ顔をしながらアッシュを見下ろした。 「親だからな。口癖(くちぐせ)とか、この街に見覚えがあるとか、主人の名前とか俺の前世の記憶と符合する所で、お前が転生したアツキだと気が付いてから、散々お前との昔話をしたり、お前の彼女の話をしたりして、前世の事を思い出させてやろうとしたのに、思い出せずにまた逝(い)っちまうんだからな。まったく、この親不孝者(おやふこうもの)め。」 「ロウロウの事黙ってた親父に言われたかねーよ・・・ったく、もう。おまけに今度は俺の後を追うように死にやがって。そういう所が犬っぽいんだよ。」  アツキから転生したアッシュは悪態(あくたい)をついたが、シボクと共にお互い笑っていた。 「アツキ! ・・・アツキ、アツキぃ・・・・・・!!」  私はアッシュにしがみついてわんわんと泣いてしまった。 「すまなかったユウ・・・親父も、そして俺も、ケモノの血が強すぎたのか、ケモノの細胞が人間の細胞を侵食して、機能不全を起こしてしまう難病にかかってしまっていたんだ。 ・・・お前にも、もっと話してやるべきだったな・・・。」  アッシュも私を抱きしめてくれて、私は・・・しばらく泣き続けた。

「・・・落ち着いたようですね。」  アッシュから体を離して、涙をぬぐった私を見て、イヌヨシさんは言った。 「なあ、ユウちゃん。」  私はそう声を掛けてきたシボクの方を向いた。 「もう忘れてしまったかもしれないが、きみは一度だけ、アツキと一緒にこの成毛風寺に来た事があるんだ。」 「え・・・?」 「さっき、アッシュがロウロウで自分がアツキだと思い出しただろう? ユウちゃんは、周りにからかわれているアツキを心配して、俺に相談してくれたんだ。まだ小さい頃だったから覚えてないかな・・・そして、俺がイヌヨシの親父さんに連絡して、ユウちゃんにアツキ、俺、イヌヨシの親父さんと一緒に成毛風寺の保護施設に行って、ロウロウに会ったんだ。」  私の脳裏には、和装に褌を付け、下駄を履き、立ち耳を外に出せるような変わったフードを被った、モフモフしたしっぽのある姿が浮かび上がった。 「そういえば・・・なんとなく、狼っぽいおじさんに会ったような・・・気もする。」 「ユウちゃん、もうさすがにこの姿では結婚とかは無理かもしれないが・・・どうか、これからもアッシュを・・・いや、アツキを見守ってやってくれないか。」  いつの間にかシボク、もといシロキは正座して私に頭を下げていた。 「俺たち獣人は、理解を得てくれる人が増えるまで、こうして苦しい時代を過ごさなければならなかった。ロウロウは、自分達を守ってくれた命の恩人だ。 ・・・ユウちゃんは、彼と同じような『心』を持っている。」  私はそう言われて、少し恥ずかしい気持ちもあった。 「え、そんな・・・。」 「大丈夫。ロウロウと同じになってほしいわけじゃない。ただ、俺の願いは・・・今ここにいる、ユウちゃんにも、俺にとっても大切な、アツキを守ってほしい事だ・・・」  私はアッシュ、もといアツキの方を見た。彼は少し恥ずかしそうにうつむいていた。 「アツキが過去から持ってきた『記憶』を、守ってほしい。アツキの生きた証(あかし)を、未来へ・・・。」

 夕方、気温が下がってきた頃、私とアッシュは成毛風寺を後にした。シボクは、イヌヨシさんのいる成毛風寺でこれからも暮らしていくという事だった。  私は、アッシュのモフモフに体を寄せながら、二人一緒に歩いた。 「ねぇ、アッちゃん。」 「なんだユウ? アッシュでいいよ。」 「・・・繋がるって、あったかいね・・・『記憶』は大事にしなくちゃね・・・。」 「・・・・・・ああ。ロウロウが、俺たちを繋いでくれたんだ。」  アッシュは天を仰(あお)いだ。私も見た。空には、一番星がきらめいている。 「ありがとう、ロウロウ。」 「そして、俺からもありがとうだぜ、ユウ。」 「ふふっ、どういたしまして。」  お互い顔を合わせて、ニッコリと笑顔を見せた。

 その日の夜。シボクは夕飯の後、成毛風寺の境内で月を眺(なが)めていた。  すると、どこからともなくしゃがれた声が、誰もいないシボクの背後から聞こえてきた。 「・・・シロキ君。少しヨイショが過ぎなかったかね?」 「何を言いますか。あれが・・・俺から見たあなたですから。」 「そうか。じゃあまた、墓地のところで待ってるからな。 ・・・いつでもおいで。」  その声は、遠のいていった。 「いつもありがとう・・・ロウロウ。」  シボクは、そっとつぶやいた。