窓から入る夏の風に吹かれ、それはまた右にふわりと揺れた。まるでネコジャラシで遊ばれる猫の様に今日もまた俺はそれに魅了される。  4限目の古文の授業というだけでも睡魔で正常な思考が出来ないというのに、手を伸ばせば触れる位置にそれはある。  あぁ、この虚ろな感覚に全ての責任を押しつけ、それに触れてしまおうか。いや、それ以上に手の中でぎゅっと握ってしまいたい。 俺は目の前で揺れるそれに向かって力なく手を伸ばした。  あと数センチで手が届きそうなその時、頭を殴られた衝撃で我に返った。  見上げると古文の井上先生が教科書で僕の頭を殴ったのだ。しかも背表紙の一番固い所で。  「小山、また居眠りか?俺の授業で何度も寝るとはいい度胸じゃないか」 太く仕上がった二の腕からわなわなと怒りを感じる。なぜ国語教師なんてやっているんだと思うほどの容姿から、付いたあだ名は”ライトニング井上” 。 「いや、あの…ははは」 「あとで職員室に来おおい!!!!」 ライトニング井上の雷が落ちた。 

「ハハハハハ!!まーたお前触ろうとしたの!?!?」  大口を開けて笑うのは友人の将太。幼稚園からの付き合いでいわゆる腐れ縁というやつだ。 「物食いながら口開けて笑うなよ。みっともない」 「もうさ、めんどくさいから言っちゃえよ。その尻尾触らせてくれーって」 「バカ!そんな事言えるわけないだろ!」  そう。うちのクラスには狼がいるんだ。  名前は尾上駿。有り体に言えば狼獣人といったところか。  そんな事信じられるわけないだろう?でも、比喩でもなんでもない。れっきとした本物の狼。いや、ちょっと違うのは二足歩行で歩いてちゃんと人間の言葉を喋っているところかな。  俺は頭が悪いからよく分かってないけど、大人たちは遺伝子操作だのDNA変異だの難しい言葉を使っているけど、ぶっちゃけ彼がどのように生まれたかなんでどうでもよかった。  昔はマスコミや野次馬がこんな田舎の小さな町に押し寄せ、オオカミ男の誕生だの連日大騒ぎだった頃もあったけど、人の興味はすぐ移ろうもので、その一大ムーブメントはそこまで長続きもしなかった。今では人間と同じように生活を共にしている。  だが俺は今でも彼に対してずっと拭いきれない思いがあった。彼の背後に付いているあのフサフサとした尻尾、あれにどうしても触ってみたいのだ。  一体どういう触り心地なのだろう。ビーズクッションのようにモチモチとした手触りなのだろうか。はたまたプニプニとやや反発のかかったゼリーのような感触がするのだろうか。毛並みは柔らかいの?強く握るとやっぱり痛い?  そんな興味からストーカー並みにあの尻尾追い続けた結果、あの尻尾から彼の心情を読み解けることを解明できたのだ。  まず、尻尾が垂れさがっていると落ち込んでいる合図。これは素人目にも分かりやすい。しかしここからだ。  彼の尻尾は偶に根元から波打つように揺れることがある。最初はどういう感情なのか分からなかったが、次第にパターンが読めてきた。詰まる所あれは喜びの感情だ。普通の犬のようにユラユラと揺らすこともあるがそれ以上の喜びを感じた瞬間、波打つ動きを見せる。滅多に見れることはないけど。  だが俺の一番の望みである尻尾を触るという願いは叶えられることはないだろう。  ああ見えて彼は校内の中ではトップの成績を誇る。おまけに運動神経も抜群。腕や胸にガッチリと付いた筋肉と、同じ高校生にして180cmを裕に超える身長はやはり人間とは違う種族であることを感じずにはいられない。  顔つきも野性味溢れるやや吊り上がった目。普段無口なだけに怒っているような印象に見えるが決してそんな事は無いらしい。  そんなクールな印象からクラスの女子から幾度となくアプローチを受ける場面に遭遇している。いつも軽くいなすくらいの反応しかしないので、彼はあまり興味は無いみたいだけど。  そんな彼と正反対の学内ヒエラルキー下位の俺が彼と仲良くなれるなんて天地がひっくり返ろうとも考えられない。もちろん挨拶程度なら交わしたことはあるが、共通の話題も分からないし、ましてや興味があるからその尻尾を触らせてくれ!なんて口が裂けても言えるはずが無い。 「彼がそんな事許してくれるわけ…あっ!!」  将太は一瞬の隙を突いていつものように俺の弁当箱の中から卵焼きを1つ搔っ攫っていった。 「お前、また勝手に…!」 「だって直人の弁当のオカズめちゃめちゃ美味しいんだもーん。俺の母ちゃんが作ったのとは大違いだよ。固まり切らないこの半熟具合と、隠し味の味噌の風味がもう、う~~ん」  そう言って大きな卵焼きを口の中いっぱいに頬張る将太。せめてもうちょっと味わって食べてほしい。  いつも弁当のオカズを勝手に食べては、場を取り繕うかのように「この礼は必ずするからー」と言い出すのが一連の流れ。もちろん今のところ何一つ礼なんて受け取っていない。 「そう言えば直人、お前あの噂どう思う?」急に将太は話題を変える。 「噂?」 「あれ、お前知らないの?尾上君がオバケ病棟に出入りしてるって噂」  ”オバケ病棟”。それはこの町の言わば都市伝説のようなものだ。  町のはずれにある「吉田総合病院」。この街唯一の総合病院だ。  誤解の無いよう言っておくが廃病院でも心霊スポットでもない。普通の病院だ。  しかし問題は隣の旧病棟。そこから獣のような呻き声を聞いたという噂がここ数年の間に広がり始めた。しかも外からの視界を遮るかのようにカーテンは常に閉じられており中を覗い見る事は出来ない。  それからというもの、あの旧病棟は別名”オバケ病棟”と呼ばれるようになり近隣の子供たちから恐れられる存在となっていた。 「そこに尾上君が?」 「聞いた話だと毎週日曜日に通ってるらしいぜ」  そんな噂は初耳だ。尾上君の隠れファンとしてそんな情報を知らなかった自分が情けない。   しかし、あんな昼間でも不気味な雰囲気が漂うような場所に一体なぜ。 「直人、今度の日曜にちょっと偵察してきてくれよ」 「はぁ!?なんで俺が…」  そうは言ったものの、俺もその噂とやらは少し気になった。孤立しているというわけではないが、彼はクラスの皆とそこまでつるむようなタイプではない。文字通り一匹狼タイプなのだ。普段何をしているのかというのは些か興味がある。…ん?というか… 「お前はついて来てくれないのかよ」 「悪りぃー!週末は彼女とデートなんだよねー!」  将太は顔の前で両手を合わせ、おちゃらけた表情を向けた。 「・・・あっそ」  俺は無表情でそう言って将太の弁当箱からミートボールを一個攫ってやった。

 日曜日。照りつける太陽の下、俺は病院横の垣根に身を潜めていた。間違っても熱中症にはなるまいと多めに持ってきていたスポーツドリンクもあっという間に空になった。しかしまだ彼の姿は見えない。  病院の利用者たちからの視線が痛い。こんな真夏に院内に入るわけでもなく、垣根の中で大量のスポーツドリンクを携えた高校生が居れば誰がどう見ても不審者だ。そもそも将太の言ったあの噂自体本当なのか?  体力も限界に近い。さすがに今日は引き上げるかと思い腰を上げようとして、それを止めた。  病院の正門の方から大柄な男性の姿が見える。アスファルトから揺蕩う陽炎でハッキリとは見えないが、頭の上にピンと立った2つの耳。切れた目。そして背後にはユラユラと揺れる尻尾のシルエット。  間違いない。尾上君だ。かれこれ数百回は見たその尻尾。あれだけ遠目でも俺が間違うはずが無い。  姿がばれない様に地に這うように隠れる。熱を帯びたアスファルトが灼けるように熱い。しかし今この瞬間だけは耐えるしかない。 そして尾上君は俺の居るわずか1メートル前を通り過ぎた。幸いにも気付かれていないようだ。彼が通り過ぎたのを確認し、俺はゆっくりと体を起こした。  そういえば彼の私服姿は初めて見た気がする。紺のポロシャツに黒のショートパンツ姿。シックで飾らない服装にクールさすら感じる。いつもは長袖の制服姿で気付かなかったが、シャツがはち切れんばかりの胸筋と二の腕。そしてこれ見よがしに覗く立派な太股。通り過ぎる彼の仕上がった後ろ姿に目を奪われずには居られなかった。  尾上君はそのまま病院の入り口へ歩を進める…かと思いきやそのまま通り過ぎた。そして向かったのはその先の旧病棟だった。どうやらあの噂は本当だったのだ。  彼が中へ入ったことを確認し俺も旧病棟の入り口へ向かう。極力音を立てないよう慎重に重厚な扉を開けた。  扉の陰から中を覗く。昼間だというのにまるで廃墟のように薄暗い廊下。これが肝試しであればこれ以上に適したシチュエーションは無いだろう。  しかし真っすぐ伸びた廊下の先に彼の姿は見えない。あまりこういう雰囲気は得意ではないが, ここまで待った以上、怖気づいて帰るわけにもいかない。勇気を出して病棟の中に入った。  扉を開けていると騒がしいほどの蝉の声がしていたのに、扉を閉めると一気にしんと静まり返る旧病棟の廊下。蒸し暑い真夏の昼下がりだというのにまるで冷気のようなものに襲われたようにぶるりと体を震わせた。  ・・・いや違う。"冷気のようなもの"ではない。これは紛れもなく冷気だ。1階のどの部屋にも明かりは点いていないのに廊下は空調で冷やされていた。  つまりこの旧病棟には誰かが居るのだ。  誰もいない静かな廊下を進む。静かな廊下にタイル踏む音が響き一層不気味さが増した。 しばらく進むと左手に2階へと続く階段があった。もしや彼は2階へ行ったのか。俺は怖々としつつも階段を上った。  踊り場を折り返し2階部分。1階のフロアとほぼ同じ構造をしている。  廊下を進もうと歩き出し、すぐにその足を止めた。  …誰かの声が聞こえる。  しかも1人や2人ではない。相当な人数がいる。 廊下の角に体を隠し、ゆっくりと先を覗いた。すると廊下の一番奥の部屋にだけ明かりが灯っているのが見えた。間違いない。声の出所はあの部屋のようだ。  恐怖で脚が竦む。しかし彼があの部屋にいるような気がしてならないのだ。  噂の真相が知りたい。恐怖と彼に対する好奇心で苦しいほどの板挟みになっていた。  勇気を出して一歩一歩その部屋に近づく。近くなる度、恐怖で心臓が張り裂けそうになる。脚の震えも止まらない。わずか10mほどの距離しか移動していないというのに、何度引き返そうと心の中で思った事だろう。  ようやく部屋の前に立つ。中からはガヤガヤとした声が聞こえる。扉の上部に嵌められた窓から中の様子を覗った。磨りガラスのため中はよく見えないが相当な人数が居ることは分かる。  バレないよう姿勢を低くしスライドドアに手を掛け、音を立てないよう慎重に扉を1cmほど開いた。  まるで周囲に聞こえるほど心臓を鼓動させつつ、隙間から部屋の中を覗き見ようとした…その時だった。 ガラガラガラガラガラ!!!!!!!!!  中から扉を開けられた。とっさに上を見上げる。  鋭い爪と牙。大きな尻尾。そして赤く光る目。狼獣人だ。  でも尾上君ではない。これは一体…。  その答えも出ぬまま、その生物は僕に向かって牙を剥き飛びかかってきたのだ。 「うわあああああああ!!!!!!」  後ろに押し倒され喉を掻き切られる。内臓を抉りだされ、俺はこのままこの生物の血肉となってしまう。  …。  …。  なっていない…?  首に手を当ててみる。傷一つ付いていない。もちろん腹が裂かれた様子もない。  飛びかかられた場所に目をやった。 「お兄ちゃんだあれ?」  尾上君を2周りほど小さくしたような狼獣人の子供が俺の胸の上に馬乗りになりぐいと顔を近付けた。  目を爛々と輝かせ、尻尾をブンブンを振っている。腹部に当たる肉球がとても柔らかい。 「えっ?えっ…!?」  俺が動揺していると部屋の奥から狼獣人の子供たちがわらわらと駆け寄ってくる。 「わぁ!人間のお兄ちゃんだー!」 「やっつけちゃえー!」 「や…やめなよ…こわいよ」 「ちょ…ちょっと君たち、やめ…」 成す術もなく、俺は狼の子供たちに囲まれ弄ばれてしまう。 「…えっ!?小山君!?」  部屋の奥から聞き覚えのある声が聞こえて顔を上げた。  ひまわり柄のエプロンを身に着けた尾上君がそこに立っていた。 「…どうしてここにいるの?」

 「獣人擁護施設のアルバイトー!?」  「う…うん」  彼に一通りの話を聞いた。どうやらこの街にいる狼獣人は彼だけではないらしい。この病院ではまだ幼い狼獣人の子供達を預かる、いわば保育園のような施設らしい。  彼は高校に入学してからすぐこのアルバイトに応募したそうだ。やはり狼獣人同士、通じるものがあったのかもしれない。  しかし1つ疑問が残る。 「どうして旧病棟を使ってコソコソやる必要があるの」  それを聞かれた尾上君は、あぁ、と困ったような表情を見せた。 「昔、僕の珍しさでこの街にマスコミが押し寄せた事があったでしょ。あの時みたいな大騒ぎをもう起こしたくないからなんだ」  大騒ぎと聞いてハッとした。確かにあの時、こんな小さな町にもマスコミや物珍しさから観光で訪れる人で賑わい、少なからずこの町は活気を見せた。  しかしその反面、観光客により街は汚され、道の至る所にゴミが散乱するなど燦々たる状況にもなってしまったのだ。  町おこしをしたいという主張と、環境を守りたいという主張がぶつかり合い、諍いが発生したことも一度や二度ではなかった。 「こんな幼い仔達がこれだけ居ると知れば、またマスコミも放っておかないでしょ。ましてや今はSNSも活気だし。またあの時みたいな事が起きてほしくないからこの施設はこうやって人目につかない場所で活動しているんだ」  彼は子供の頭を撫でながらどこか悲しそうな顔をする。こんな表情初めて見た。 「ところで、小山君はどうしてここへ?」  急に話が振られて意味も無くドキッとしてしまう。 「いやぁ、なんだろう、その…ああ!学校で噂になってる真相を確かめに来たんだよ!」 「噂?」  俺は彼に噂の経緯を話した。この旧病棟がオバケ病棟と呼ばれていること。そこに彼が出入りしているという怪しいという話が流布されていること。  もちろん、俺がひっそり彼の事を気にして追い駆けてきたなんて事実はおくびにも出せないけど。 「でも、ちょうど良かったよ。今日、いつものスタッフさんが休みでさ、人手が足りなかったんだ。良ければ手を貸してくれない?」 「え?あぁ…うん。いいよ」  ありもしない噂を信じ、スパイみたいな事をしておきながら、面倒だから帰るなんて言えるはずもない。俺は渋々了承することにした。 「おーいみんなー!お昼ご飯が出来るまで今日は直人お兄ちゃんが遊んでくれるぞー!」  尾上君はそう子供たち全員に声を掛けた。  え?遊ぶ?俺はついさっき元気いっぱいに揉みくちゃにされたこの仔達のお守をさせられるのか?  そんな事を考えているのも束の間。俺は十匹の狼獣人の仔達に再びおもちゃにされることとなった。

「みんなお待たせー!お昼ごはんの時間だぞー!」  子供達と遊ぶことおよそ1時間。全く疲れなど感じていない様子の狼の子供達は一斉に食卓へ走っていく。ようやく解放された。服も顔も毛だらけだ。帰って母さんに何て説明すればいいんだろうか。 「お疲れ様。お腹すいたでしょ。小山君の分も用意したから一緒に食べよ」  ありがたい事に俺の分のお昼ごはんも用意してくれていたらしい。払い落せる分だけの毛を払い、俺も食卓へ向かった。  大人数用の大きなテーブル。隅の空いた席に座った。  食卓には人数分の食事が用意されている。今日のメニューは野菜のスープにピーマンと豚肉の炒め物。そして白ご飯だ。 「じゃあみんな手を合わせて」  彼のその合図に子供たちは両手の平を合わせる。俺もそれに倣って手を合わせた。 「いただきます!」 「「「いただきます!」」」  子供たちの元気な声。俺はちょっと恥ずかし気に小声で食事の挨拶をした。  まずは野菜のスープを一口。コンソメスープをベースに、小さく角切りにしたニンジンとタマネギが入っていた。うん…なるほど。  次にピーマンと豚肉の炒め物。輪切りにしたピーマンと豚こま肉を塩コショウと少量の醤油でシンプルな味付けに仕上げている。  どちらも、決して悪くない。悪くないが…。 「健太君、また残して!ダメじゃないか」  尾上君の叱責する声が聞こえてそちらを見る。すると一匹の仔がしょぼんとした顔で俯いている。ちょっと内気な性格のあの仔だ。見ると皿の上にスープから取り出したニンジンやタマネギが並んでいる。どうやら野菜を除けて食べていたところを見つかったらしい。 「いつもいつも野菜だけ残して!今日こそはちゃんと食べるって約束したでしょ!」  ただでさえ彼は体つきも大きく強面なだけに叱る時の迫力は一入だ。同じ高校生とは思えない貫禄にさながら父親の影を重ねてしまう。 健太と呼ばれたその子はしゃくり上げる様な声を出し、次第にポロポロと涙を流し始めた。

「ごめん、嫌なとこ見せちゃったね」  昼食が終わり、隣で皿洗いを手伝う。 「あの仔は前から野菜がダメでね。どれだけ小さくしても全然食べてくれないんだ」 「ふぅん…」 「まったく、困ったものだよ」ため息交じりに彼は言った。その言葉に耐え兼ね、俺は言った。 「言っちゃ悪いけど、悪いのはそっちじゃないかな」 「えっ?」思いがけない言葉に尾上君は目を丸くしてこちらを見た。 「野菜嫌いの克服のために小さく刻んで食べさせるのは意味がないよ。そもそも根本的な解決になってない。しかも叱ってまで食べさせようっていうのは大人のエゴじゃないか」  まさか責められるとは思っていなかったのか、耳と尻尾が垂れ、見るからに落ち込んだ表情を見せた。こんな表情をすることもあるのか。それを見かねて俺は言った。 「今日って夜の食事も尾上君が作るの?」 「う、うん。そうだよ」 それを聞いて軽く笑い、彼の目を見た。 「ちょっと俺に任せてもらえないかな」

 午後5時。子供達への夕食の準備をする時間。 「よし、やるか」借りたエプロンをピンと張り、俺はキッチンに立った。  予めもらっておいた今日の献立に改めて目を通した。  献立はやはりビタミンとたんぱく質を摂れるよう、肉と野菜をメインとしたものになっている。子供向けの施設で出るものであるが故、当然のメニューと言えるだろう。 「じゃあメニューを少し変えさせてもらうね」 「えっ」  そう言って俺はペンを取り、献立表のメニューに二重線を引いて、上から書き直した。それを彼に見せる。  ”野菜スティックとピーマンの肉詰め”  それを見て彼は驚きの表情を見せる。 「えっ!?このメニューだとほとんど野菜を刻んでないじゃないか」 「そうだよ。野菜本来の味がそのまま感じられるような料理ばっかりだ。もちろん、施設が考えた栄養バランスもあるだろうから使う材料とかはほぼ変えてない」 「まぁ、それはそうなんだけど…」  心配する彼の表情を尻目にまずは冷蔵庫に向かう。そして開けたのは野菜室…ではなく冷凍室だ。そこから取り出したのはカチカチに凍ったピーマン。 「冷凍したピーマン・・・?」 「ピーマンが苦手な仔が多い理由は、あの独特の青臭さと苦味があるからだ。実はそれって軽く下茹でするとかなり軽減することが出来るんだけど、さらにそれを冷凍することで一段と軽くすることが出来るんだよね」  説明しながらも手際よくピーマンを縦割りに切っていく。 「昼食のピーマンを輪切りにしてたけどあれは駄目。ピーマンは縦に繊維が入ってるからそれに逆らうように切ると苦味が増すんだ。だからピーマンは繊維に逆らわず縦に切ること」  次に取り出したのは予めレンジで少し熱を通しておいたハンバーグ。 「通常はハンバーグのタネをピーマンに詰めてから火を通すのが普通だけど、俺の場合はまず少しだけ肉に熱を通しておく。そうするとピーマンに火を通す時間が短くて済むからみずみずしい食感を残すことが出来るんだ」  熱したフライパンに肉を詰めたピーマンを並べ、弱火でじっくりと焼いていく。 「さ、焼いている間に次だ」  野菜室からニンジンを取り出した。その皮をピーラーで手早く剥いた後、スティック状に切って縦長のグラスに立てかけるように入れた。 「これで完成だ」 「えっ、これだけ!?生じゃないか!」 「そう。ニンジンが嫌いな子の多くはニンジン独特のあの甘みを苦手にしている子が多い。火を通すとその甘みが増してしまってむしろ逆効果なんだ。生のニンジンの方がよっぽど食べやすい」  そして俺は小皿にマヨネーズと醤油、少量の味噌を加えてスプーンでしっかりとかき混ぜたソースを作った。 「このソースにニンジンを付けて食べる。名付けて"なんちゃってバーニャカウダ"」 「早い…この分量をこんな短時間で…。」  時計を見ると6時を少し回ったところだ。 「よし、ご飯の時間にしよう!」

 お昼の後も元気いっぱいに遊びまわっていた子供達はまた行儀よく食卓についた。 「わー!いい香りがする!」 「見て見て!ニンジンさんが棒みたいになってる!」 「これに付けて食べるの?」  どれもこれもあまり見たことのない料理のようで、食べ始める前から口々に嬉しそうな声が飛び交う。しかし健太君はあまり嬉しそうではない。  それはそうだろう。いつも以上に大きく切られた野菜の数々。不安になるのも仕方ない。 「それじゃみんな手を合わせて」皆が顔の前で合掌する。 「いただきます!」 「「「いただきます!!」」」  今度は俺もちゃんと大きな声で言った。 「んー!このハンバーグ柔らかくて美味しい!」 「ピーマンもシャキシャキしてるー!」 「このソースも甘じょっぱくて好きー!」  他のみんなが楽しそうに食事をする中、健太君だけは一切箸をつけずにいた。  何か言おうとした尾上君を手で制し、健太君の側に歩み寄る。 「健太君、やっぱり野菜食べるのはイヤ?」  少し間を置いてから彼はは小さく頷いた。 「そっか。そうだよね!俺も野菜は大嫌いだったもん!」 予想もしていなかった言葉に健太君も彼も驚いた表情を見せた。 「で…ても、これお兄ちゃん達が作ったんでしょ?」 「そうだよ。でも俺だってお肉とかお菓子の方が大好き!それだけ食べて生きれるならそっちの方がいい。でもね、どんな食材も誰かに美味しく食べてほしくて作られたものなんだって、誰かを嫌な気分にするために作られた物なんて無いって教えられてから全然嫌いじゃなくなったんだ」 「…美味しく食べてほしい?」 「そう。この肉も野菜も全て皆に美味しく食べてほしくて作られたんだよ」  健太君は皿の上の料理に改めて目を向けた。 「…僕、食べてみる」  健太君はハンバーグが詰まったピーマンにゆっくりとフォークを刺した。ぱりっと瑞々しい音がなり、中から肉汁がじわりと溢れ出る。 「健太!頑張れ!」 「とっても美味しいよ!」  周りの子達の声援に後押しされ、最後の勇気を振り絞り大きな口を開けた。そこに居る全員が彼に集中する。  目をぎゅっと閉じ、覚悟を決めたのか一気に口を閉じて咀嚼した。バリッという小気味の良い音が響く。 それから2度、3度と咀嚼を繰り返す。  見ると強張っていた顔の筋肉がゆっくりと緩んでいくのが分かる。強く閉じられた目をゆっくりと開けた。 「…美味しい!!!」  水晶のような瞳をキラキラとさせ、満面の笑みを見せた。周りからは大きな拍手が起こる。 「健太やるじゃん!」 「すごーい!見直しちゃった!」 健太君はその後、2つ目のピーマンとニンジンスティックもあっという間に平らげていった。

「あれから健太君、色んな事に自信がついたみたいで、何でも積極的にするようになったよ」 「それは良かった」  あの日から一週間後、学校屋上のベンチで施設の現状を尾上君から聞いた。 「何かを乗り越えるっていう成功体験は自分の自信に繋がるからね。きっとあの子、今回の自信を糧に色んなことに頑張れるんじゃないかな」 「・・・ねぇ。一つ聞こうと思ってたんだけどさ」 「何?」 「小山君はどうしてあんなに料理について詳しいの?」  ふいにそれを聞かれ、照れ隠しに頬を指で掻きながら答えた。 「あー…俺さ、昔は超が付くほどの偏食家でさ。好きな物以外は全く口に入れないってくらいの徹底ぶりだったんだ」 「そんなに!?」 「もちろん、そのツケはすぐに回ってきた。いわゆる栄養失調ってやつ。知ってる?栄養失調って体が不調になるものだと思われがちだけど、実は精神面への影響も強い。集中力が続かず鬱々とした気分になりがちで中学の頃は学校にもほとんど行けてなかった。」  尾上君は適宜相槌を打って聞いてくれる。俺は話を続けた。 「そんな俺を救ってくれたのが保健室の先生だった。学校に頑張って来ても居場所は放課後まで保健室のベッド。そんな俺に説教の一つもせず、ずっと見守ってくれた優しい先生だった。そんな先生がある日、手作りのカップケーキを作って持ってきてくれたんだ。一口食べて大好きなメロンの味だとすぐに分かってほぼ二口くらいで食べきった。でもその後クスクスと笑いながら言われたんだ。メロンなんて入ってないって」 「もしかして…」 「そう。全部野菜で出来てた。クリームもスポンジも全部。でも不思議と騙された気分にはならなかった。むしろ、野菜が食べられた自分に自信がついたんだ。色んなものを食べた。料理の勉強をいっぱいした。自分の知らなかったものがまだまだこんなに沢山あるんだってことに感動した。きっとあの子にその時の俺を重ねてたのかもしれない」  一気に語り切っている自分にようやく気付いた。これまであんまり話してこなかった彼の前もあって急に恥ずかしくなる。目を合わせるのも憚られて意味も無く地面を見た。  その時だった。真横から物音がした。ふさっと風になびくその音に顔を上げ、音がした方を向いた。  彼が自身の大きな尻尾を持ち上げ僕の方へ向けている。 「触ってみる…?」  彼は恥ずかしそうな顔をしてそう言った。  2人の間に沈黙が流れる。空気の読めない晩夏の風が2人の間をひゅうと通り抜けた。そして俺はようやく口を開く。 「えっ、えっ…えっ?なっ…なん?」  自分でも何を言ってるのか分からない。気が動転して呂律が思うように回らない。頭の中が掻き混ぜらているように混乱する。 もしや彼の尻尾に陰ながら興味を持っている事に気付かれていたのか?いやそんなはずはない。細心の注意を払い、最低限の行動で必要十分な欲求しか満たしていなかったのだ。少し見られているような視線を感じこそすれ、邪な感情を持たれていようとは毛ほども思わないはずだ。 「触ってみたいんじゃなかったの?ずっと尻尾見てなかった?」  全部バレてたじゃないか…!!!!!  大きく伸びをするフリをしてチラと見たり、わざと消しゴムを落として近付くチャンスを作ったり、特に意味もなく席を立ってはその尻尾を観察していたあんな行動やこんな行動の意図が全て知られていたと思うと頭が沸騰するほど恥ずかしい。 「この間のお礼もしたかったし、少しだけならいいよ」  落ち着け。たじろぐな。これは一生に一度のまたとないチャンスだ。  ここを逃すときっと自分は一生後悔するぞ。 「じゃあ…お言葉に甘えて…」  俺は指先を震わせながらゆっくりと彼の尻尾に右手を近付ける。あまりの緊張に息をすることさえ忘れてしまっていた。落ち着いて鼻で少し大げさに息を吸った。  長い毛先がまず人差し指の第二関節に当たった。くすぐったいと思っているのも束の間、右手全体がじわじわと体毛に覆われていくのが分かる。  思った以上に柔らかいその毛並みに心臓が張り裂けそうなほどの興奮に襲われた。  更に奥に手をやると固い部分に当たった。ここが根元のようだ。  五指を広げて軽く握ってみた。筋肉が張ったような感触の奥から彼の体温を感じる。  んっ!と小さく驚いたような声を上げ彼の体がびくっと震える。一気に毛が逆立つのが手全体を通じて分かる。牙の隙間からすーっと息を吐く音が聞こえた。 「ちょっと…!急に握らないでよ!びっくりするじゃないか!」顔を思い切り紅潮させ、牙を剥きだし、いつものクールさでは考えられないような慌てた表情を見せた。  …ちょっと可愛いじゃないか。 「も…もういいでしょ!はい、おしまい!」  そう言って彼は自身の尻尾を奪い取るように自分の体に引き戻した。  右の手の平を広げ、わきわきと何度か指を折り曲げてみる。さっき握った感覚が残っているような気がした。すると途端に先ほどの体験を思い出し、悶えるような恥ずかしさが湧き上がってくる。 「う…うん!ありがとね!じゃ…じゃあまた明日!」  変に理性が壊れぬうちにこの場を去りたい。横に置いた鞄を雑に抱えて急いで立ち上がり、屋上の出口へ向かおうと走り出そうとしたその時だった。 「あっ!」  足が縺れ、完全に体のバランスを崩した。  倒れる。そう思った時にはもう遅かった。衝撃に耐えうるべく、ぎゅっと目を閉じた。  あれ?痛くない?目を開けると真っ暗だった。少し顔を離すと車のエアバッグのように柔らかい素材が顔を守ってくれていたのが分かった。少なくともケガはしていないらしい。  でも、このクッションは何だ?そう思って視線を真上に上げた。  尾上君が自分を見下ろしている。先ほど尻尾を握った時以上に顔を紅潮させ、口を一文字に閉じている。  「えっ?」  ようやく全てを察した。俺の頭を守ったクッションは彼の逞しく育ったその胸板だった。そこに俺は計らずもそこにダイブしてしまったのだ。  鍛えあがった胸筋と、尻尾とはまた違う毛並みの感触に一時浸ってしまう。微かに石鹸の良い匂いがした。  違う違う!はやく離れなければ!と思う心と、もうちょっとこうしていたいとする内なる本能が正面からぶつかり合い、一瞬の間完全に思考が停止した。 「あ!直人ー!一緒に帰ろう・・・ぜ…」  この最悪のタイミングで将太が屋上の入り口から顔を覗かせた。将太の目には2人きりの空間で彼の胸にしっかりと顔を埋め、恥ずかしそうに目を合わせている俺と彼の姿が写ったことだろう。 「将太、違うんだ、これは」  俺は極めて冷静に言った。 「うん、ごめん。邪魔したな」  表情一つ変えずにそう言って屋上の扉をバタンと閉めた。 「将太あぁぁ!!!!!!!」

「見て見て!こんなに大きくなったよ!」  子供たちが持ってきたプランターには赤々と膨らんだミニトマトがいくつも実をつけている。  これも俺が彼に教えた野菜克服法の1つだ。自分で丹精込めて我が子のように育てた野菜を最後に食べられないという子はなかなか居ない。この方法が何より有効だとも思っているくらいだ。 「凄いね!収穫だ楽しみだ」  そう言ってあげると、満面の笑顔で尻尾をこれでもかというくらいにブンブンと振った。相変わらず感情表現の豊かさには事欠かない子達だ。 「直人さん、ちょっといいかしら」  施設長の村田さんから呼ばれる。あれから何度か施設には出入りしていたため、顔馴染みになっていた。 「直人さんもあと半年足らずで卒業よね。卒業後の進路はもう決めてるの?」 「いや、まぁ…特には」   勉強が大の苦手な俺の頭の中に大学進学という選択肢は無かった。とは言え、とりわけやりたい仕事があるわけでもなかった俺は平凡なサラリーマンになっていくんだろうとぼんやりと考えていた。  そんな俺の様子を見て、施設長はデスクのファイルから一冊のパンフレットを手渡した。 「フードコーディネーター…?」 「そう。シェフやパティシエ、栄養士とも違う新しい食のアーティスト。それがフードコーディネーターよ」 「へぇ…」 「実は私の古くからの友人がそういった"食の探求"をテーマにしたレストランを経営していてね。見習いシェフを募集しているの。あなたそこに行ってみる気はない?」 「俺がですか!?いや…そんな…」  食に関わる仕事というのは確かに興味があった。しかし自分の料理の腕はせいぜい趣味程度。それを生業にするなんて自分では考えられなかったのだ。  そんな俺の腹の内を見透かされたのか、施設長は言葉を続けた。 「貴方、自身を過小評価しすぎよ。貴方は自分が思っている以上に凄い才能を持ってる。私が保証するわ。もっと自信を持ちなさい」  強く、だが温かい叱責に胸が少し熱くなった。そして改めてパンフレットを見る。 「フードコーディネーターか…」  俺の心の中で何かが湧き立つのを感じた。 「・・・そういえば、あの噂って何だったのかしら」  急に村田さんは話題を変えた 「尾上君がここに出入りしてるって噂ですか」 「ええ。私の娘も同じ高校に通ってるんだけど、この前、例の噂が学校で広がってる件について聞いてみたの。そしたら…」  村田さんは首を傾げて言った。 「そんな噂聞いた事無いって言うのよ」

 直人、上手くやったみたいじゃないか。昔からの幼馴染としてこんなに嬉しい事はないよ。俺も無い頭フル回転させて陰ながら協力した甲斐があるってもんさ。  俺はあの時2つの嘘をついた。1つは”彼がオバケ病棟に出入りしていることがクラスで噂になっている”ってこと。  もちろん俺は彼があの病棟に足繁く通っている理由をずっと前から知ってたさ。俺の情報網をナメて貰っちゃ困る。  クラスで噂になってるってことにすればアイツも気にしないわけにはいかないだろうと思ってね。まぁここまでとんとん拍子で上手くいくとは俺も思ってなかったけど。  もう1つの嘘は”週末は彼女とデートだから”。  俺が彼女なんて作るわけない。  当然だ。だって俺は…。  いや、これは言っても詮無きことだよな。  だって俺はあいつの目の前で何度も約束したじゃないか。”弁当の礼はいつか必ずする”ってさ。

 「これでしばらく会えなくなっちゃうね」  「うん…」  そして春が来た。俺は施設長の推薦のもと、東京のレストランで修行をすることにした。家族は少し寂しそうにしていたが、俺の門出を盛大に祝福してくれた。  駅に見送りに来てくれた尾上君と最後の会話を交わす。  彼は幼児教育を学ぶため、地元の大学に進学するそうだ。勉強もできるし、あの施設で何度も見た優しい性格ならきっと良い教育者になれるだろう。  そして発車のベルが鳴った。俺は電車に乗り込み振り返って彼の方を見る。  電車の中から見る尾上君の姿を見て思わずハッとした。  目の前にいるはずの彼がとても遠くにいるようなそんな錯覚を覚えたのだ。  この電車の扉が閉まれば、もうしばらく彼の顔をみることは出来ない。次に会えるのは何か月後?いや、1年。もしかしたらそれ以上かもしれない。  最後のチャンス。何か伝えたい。何か…何か…!!!!! 「あ・・・あのさ!帰ってきたらまた尻尾触らせてくれないかな…!!尾上君さえよければ…その!また抱きつかせてほしいというか…!その…!」 「…えっ?」  プシューという空気の音とともにそこで扉が閉められた。そしてゆっくりと外の景色が流れ始める。  俺は今、何を言った。目一杯思いの丈をぶつけてやろうと息巻いて、頭で整理せぬまま口に発したその言葉。まるで変態のそれだ。  電車は徐々に速度を上げる。遠のく駅のホームから手を振る彼の表情はここからはもう覗うことは出来ない。  だが、完全に視界から消えるその刹那、彼の背後にある尻尾のシルエットが波打つように揺れた。  まるで俺に見せつけるかのように大きく、力強く揺れた。