あいつが初めて私の前に姿を現したのは、三年前の冬だった。いい出会い方だったとは、とても言えない。雪がうっすらと積もる寂れた町の路地裏。そんな夜の暗がりの下、彼は悲痛な声で唸っていた。 「あおー、ううー!」  子犬がただ吠えている。初めはそう思った。しかし、傍には二人の男。飼い主が飼い犬を躾けている――のでないことは、一目見ればすぐにわかった。 「役立たずのバケモノめ!」 「爪と牙を持つお前を野放しにしておくわけにはいかないんだ。大人しくしてくれよ」 「なかなかくたばらねえ。しぶとい野郎だ」  飛び交う物騒な声。犬には首輪と口枷が付けられ、首から延びた鎖を一人の男が引っ張っている。もう一方の男は犬を踏みつけながら、刃物を突き付けようとしていた。それだけでも異様な光景だったけれど、さらに異質だったのは犬の方だった。薄汚れた藍色の毛をした犬は、幼児のような体格をしていた。三角の耳と長い尻尾をピンと立て、大人二人を相手に必死に抵抗している。 「何をしているの?」  私は考えるよりも先に、男たちに声をかけていた。自分でも驚いた。極力面倒を避けて生きてきた私が、自らあからさまな厄介ごとに飛び込んでいくなんて。でも、その奇妙な犬から「死にたくない」という気持ちを強く感じ取ったのは確かだった。  怪訝な表情でこちらを振り向く男たちに対して、肩掛けカバンを素早く開くと、そこから二丁の銃を取り出し構えた。 「なっ、こんな寂れた町に銃使いがいるなんて聞いてないぞッ!」 「命が惜しければ、その子を放して立ち去りなさい!」  すると、あっけないほど簡単に男たちは逃げ出した。結局あいつらにとって、この子はそれだけの存在だったということか。実際、私は銃使いなんかではない。ただの武器屋の商人だ。己の商売道具を、こんな風に使う日が来るとは思っていなかった。 「……大丈夫?」  拘束された犬のような生き物に近寄ると、それは不安げにこちらを見つめていた。私は片手に銃を握りながらも、口枷を外してやる。すると、「わうっ!」と高い声で鳴きながら飛びかかってきた。一瞬身構えたのは、杞憂だった。彼は子どもがそうするように、ぎゅっとコートの裾に抱き着いてきただけだった。全身から伝わる温もり。不思議と穏やかな気持ちになる。 「とりあえず、うちに来る?」 「うー!」  できるだけ優しく問いかけると、それに応えるように尻尾を振る。どうやら言葉を理解しているようだ。  それから彼との生活が始まった。名前がないと不便だったので、コロと名付けた。犬っぽいのと、呼びかけるとコロコロと表情を変えるところが由来だ。コロの正体が何なのか、商売のお得意先や情報屋にそれとなく聞いてみたけれど、手がかりはまるでつかめない。あの男たちの扱いを考えると、他人の前には出さない方がいいと判断していた。  コロはといえば、うちに来てから数日はそわそわして縮こまって過ごしていたけれど、本来は好奇心旺盛な性格らしく、部屋にあるものを興味津々につついていた。目が離せないので大変だ。  そのかわり、簡単な言葉は話せることがわかった。言葉を教えてあげると、飲みこみも早く、武器の名前もすぐに覚えた。銃の手入れをしていると、目をキラキラさせて覗いてきては、自分も同じようにやりたがった。 「コロ、てつだうー!」  人の手より小さく、犬のような肉球のついた手を大きく振りながらはしゃぐ彼は、人間の子どもとどこが違うのだろうか。とはいえ、難しい仕事を頼むわけにはいかないので、弾を詰めていない銃を運んでもらったりしていた。もちろん、小さな手ではうまく運べずに、銃を落としてしまうことが多々あった。 「ご、ごめん、なさい……」  すると、過剰に怯えながら謝るのだ。その表情を見ると、今までどんな生活を強いられてきたのかが伝わってきて、とても怒鳴る気にはなれなかった。  それがある日、コロは大事件を起こしてしまった。私の留守中に、火薬庫を爆発させてしまったのだ。死傷者は出なかったものの、周囲の建物は破壊され、被害は小さくない。それ以上にショックだったのは――コロが消えてしまったことだ。けれど、悲しみや怒りを覚える暇もなく、火薬庫の管理不備と建造物損壊の罪を償うため、牢に拘束された。その間三年という月日は、ひたすらに虚無。すべてを失い、残されたのはぽっかりと空いた心の穴だけだった。  そして、現在。私は逃亡生活を送っている。しかも、人間の姿を奪われて。そう、コロと同じような姿になっているのだ。こんな事態を、はたして想像できただろうか。  釈放されたその日。世間と隔絶されている間に、社会はすっかり変わってしまったことを知った。コロの事件をきっかけに、人間のような、獣のような存在が知れ渡り、駆逐運動が各地で勃発しているらしい。そんな次の日。目が覚めると私は町のはずれに倒れていて、毛むくじゃらの姿になっていたのだ。  これは、呪いであり、罰なんだ。生半可な気持ちで、彼を助けた罰だと。救いの手を差し伸べたことは、彼と私の運命に反するものだったのだ。  ヒトにも獣にもなりきれない姿で。バケモノとして生きていくしかないのか。けれども、この罰には意味があると信じたかった。どこにゴールがあるかはわからない。耳と尻尾を隠す布切れ一枚をまとい、ひたすら逃げる。体を覆う紅色の体毛は、雪の降る森の寒さから守ってくれるけれど、肉球のついた足は雪面に足跡を残してしまう。人に見つかって銃で撃たれかけたことは何度もあった。皮肉にも、自分の商売道具で殺されようとしているのだ。  小回りの利く体で、なんとか危機をかいくぐってきたけれど、今目の前に見えるは天まで延びる絶壁。頭上に備わった耳は、多くの人間が接近する音をとらえる。最後を悟ったその瞬間、銃弾が頭を掠め――  刹那。身体中が宙に投げ出されるほどの衝撃が走った。  いや、本当に体が宙に浮いていたのだ。力強く、暖かい温もりに包まれて。 「危ないところだったな」  頭上から声がする。思わず閉じていた目を開くと、藍色の毛皮が目に入った。その上には、前に伸びた鼻先と、真っすぐに立ち上がる三角の耳。 「ひょっとして、コロなの……?」  声も、体格もまるで違っていた。人間の大人よりもひと回り大きな胸に、私は抱かれていた。それでも、そんな懐かしいあたたかさが、コロであると確信をもたらしていた。 「ああ。おれも、においでわかる。おまえは武器屋の女主人だな」  言いたいことは山ほどある。生きていたの。どうして、約束を守れなかったの。怖い思いをさせて、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとう。けれども、それらは嗚咽となって漏れるだけだった。 「驚いたよな。おまえの留守中に泥棒が入ってきて、追い返そうとしたんだが火薬庫を爆発させやがった。吹っ飛ばされた場所で、おれは同族に助けられたんだ。そして、世間ではおれのせいになっていることを聞いた」  三年振りに会ったコロは、ことさら立派になっていた。流暢に言葉を話し、優しく私の身体を抱擁する。コロの言うことは、にわかには信じられない。だけど、そんなことは問題ではなかった。  生きていてくれて、よかった。 「とにかく、おまえが助けてくれたおかげで故郷に帰れたんだ。ありがとう」 「あなたは……あなたたちは、いったい何者なの?」 「おれたちは、ケモノ。人間とも、獣とも違う。けれど、同じように生きている。ただそれだけだ」  今の私の姿は、ケモノ。姿が異質というだけで追われる身となり、その辛さを十分に思い知った。それに、コロと過ごしたのは短い間だったけれど、ケモノが私たちと同じであることはよくわかっていた。 「なあ、おれたちの村に来ないか? その姿になった理由は聞かない。おれを迎え入れてくれたようにな」  頼もしく語るコロの提案に、私は考えを巡らせた。コロの村にはケモノたちがひっそりと暮らしているらしい。だけど、人間に追われるこの状況のままでは、その村もいずれ危険な目に遭うかもしれない。 「私には責任がある」  人間への誤解を解き、人とケモノをつなぐ責任が。私はコロの腕から降りると、はっきりと彼に告げた。提案は受け入れられないと。そのかわりに、あるお願いをした。 「私に恩を返させて」 「なるほど。それは認められないな」  一瞬戸惑う私に、コロは口元から牙をちらつかせてニッと笑うと、尻尾を振りながらこう答えた。 「当然、おれたち二人でやるべきことだ」  大きな肉球のついた手が、目の前に差し出される。私は迷わずその手をとると、白い雪の上で、藍色と紅色の手を交わらせた。長い道のりになるかもしれない。けれども、きっとケモノと人たちは分かり合える。そんな希望を乗せて。 (10枚)