それに出会ったのは、確かまだ僕が小学生低学年の時分であった。  記憶達の詰まったドロップ缶を下から覗き込んでガラガラと振ってみせると、底の方に融着していた一片が剥がれて転がり落ちてきた。しまい込んだ当初と比べると、占い師の使う水晶玉の様に綺麗だったそれは表面は細かな擦り傷で白く濁り、形も随分と歪なものへと成り果ててしまっていたが、その中心部の核から未だに生み出され続けている熱は僕の手のひらをじっとりと汗ばませる。

「なあ、その本そんなに面白いん?」  カランポーの平原を四つの足で駆け回っていたところを、クラスメイトによってこの図書室に連れ戻された。唯一無二とも言える娯楽の、いや神聖な時間を奪われたことに抗議の一つでもしてやりたい所だったのだが、場所が場所だけにそれも叶わず仏頂面で頷くのが精々だった。  尤も、彼がその様な疑問を投げかけたのも無理もない。放課後の度に此処へ足を運び、本棚の迷路を縫って進んだ先、『お』の張り紙のある場所から一冊を取り出す。それから手近な椅子に腰掛けて、ネクロノミコンと対峙する魔導師の様な手付きでそれを開くのだ。  毎日の様に繰り返される儀式に興味を抱いたのは彼だけでは無かった。或る時には先生までもが僕の奇行に目が止まったらしく、先ほどと同じ台詞を口にしたのだった。  僕の手元を覗き込んだ者の反応は決まって一様で、推薦図書にも選ばれる程の名作だけあってか自分もそれを読んだことがあると頷き、それからそんなに何回も読み返す程かと首を傾げるのだ。  この一冊は今でも僕にとって特別な存在だ。表紙に描かれた美しいポートレートに吸い寄せられる様にして手に取り、ページをめくる毎に感情が昂ぶって鼻息が紙面を揺らす。初めは冒険に心を踊らせ楽しくて仕方が無いのだが、唐突にそんな気持ちは打ち砕かれ暗雲が立ち込め始めると、やがて悲しみと怒りが嵐のごとく心の中に渦巻いて慟哭の思いに駆られるのだった。  読み終わった後、あまりの救いのなさと人間の横暴な所業に己の存在すらも消し去ってしまいたくなる。それだのに、この本を読んだ僕以外の人間の反応といたら至極あっさりとしたもので、涙を流すことも無ければ怒りで顔を赤く染める姿を見せることも無かったのだ。

 やがて自転車を手に入れる頃合いには図書室だけでは飽き足らず、休日の度に近所の図書館にせっせと足を運ぶ様になった。それは僕にとって一度目の革命と呼んで差し支えは無いだろう。  自動ドアが僅かに音を立てて口を開け、そこから漏れ出す乾燥した紙の匂いが鼻腔に届くと胸が高鳴って目眩すら覚えた程だ。  とりわけ『動物学』の棚は聖域そのもので、そこに収蔵された数々の本はアレクサンドリア図書館のパピルスよりも貴重な存在に違いなかった。もちろん、書かれている事の大半は僕にはまだ難しすぎて、写真やイラストを眺めるのが主な目的だったのだが、少しばかり背伸びして大人の真似事をしてみたい少年は獣医学の本にまで手を伸ばしたのだった。  難解な活字の波に目がチカチカとしてくると、今度は写真集などを手にとって、遥か遠くの地に、あのカランポーに生きた彼らの末裔かもしれない姿を目に焼き付ける。その気高さと美しさといったら! 闇夜を照らす二つの満月の様な金色の瞳と目が合うと、もっと見つめていたいのに顔がカアッと火照り、そわそわとして居ても立ってもいられなくなってしまうのだ。  これはもはや恋慕の情と言う他には無かった。だからこそ多くの文学作品、とりわけ児童文学に於いて退治されるべき悪者として扱われる事に、更には現実世界でも彼らは駆除されるべき害獣であり、この国に至っては取り返しようの無い歴史によってその存在が人間の手によって過去のものと成り果てた事に対して、余りにも理不尽な仕打ちに、大きな落胆と怒りが募っていくのだった。  もちろん、今にして思えばそれが正しいか間違っているかはともかくとして、自分達の生活を、家族や同胞を守るために行われた事であって一概に可哀想だからと非難される謂れは無い事は理解している。けれども当時の自分にとってそれは堪え難い事実であった。  一度など、感情に任せてページを破り捨て床に叩き付けてやろうとも考えた。無論そんな勇気があるはずも無く、心の中で呪詛を唱えるにとどまったのだが。  図書館での出会いは、何もその様な悲しいものだけでは無かった。僕は素晴らしい発見をしたのだ。それは専らフィクションの中でもホラー作品によく見られた。  それまで、僕の頭の中では人間とそれ以外の動物とはまるっきり別個の存在として線引きがなされていた。理科の授業で進化論を学んでからは少しだけその考えも改まったのだが、それでも四つの足で大地を駆ける彼らと二足歩行をする自分とでは異なるものだった。  しかしながら、幾つかの作品の中では人間が満月の光を浴びると動物に姿を変えたり、はたまた動物と人間とが融合し、二足歩行をして言葉を解す事すら可能なのだ。無論、ほぼ例外なくそれらは悪者には違い無かったが、僕にとって大きな希望の光に他ならなかった。 『僕にもなれるかもしれない』  それからは僕の聖域の中に新たなジャンルが登録される事になった。子供騙しの魔術書を読み漁り、人間を動物に変えたり獣憑きにする呪いを片っ端から自らに試してみる事となった。母親とスーパーマーケットに行った折、季節外れの林檎をせがみ帰宅するやすぐさま小さな紙片に呪文を書き連ね、嬉々としてそれらを飲み込む様はさぞかし滑稽だったであろう。

 やがて第二の革命が訪れた。  僕の住む小さな田舎町にも時代の波が押し寄せて、漫画喫茶が出来たのだ。それは図書館よりも遠い場所にあったし、何よりもただそこに居るだけでお金が掛かるという厄介さもあったので毎週通う訳にはいかなかったのだが、少ない小遣いはほぼ例外なくそれに消えていった。  初めは年頃の少年らしく、うず高く積まれた漫画に没頭した。中にはほんの一握りではあったものの、僕の恋焦がれる存在が描かれ、それも悪役でなく正義の味方として活躍していたのだ。  そんな宝探しも長くは続かなかった。何しろ壁一面にびっしりと並んだ本の中で僕のお気に入りは数える程しか無かったし、それらも手垢がべっとりと付く位には読み尽くしてしまったのだ。  必然的に辿り着いたのはオープン席に整然と並んだパソコンの前。ブラウン管と一体型となった青みがかったスケルトンの筐体は、学校で見かけたくすんだクリーム色とは随分異なっていた。  今でこそポケットの中に納まって何時だってアクセスが可能になったが、当時にしてはテレビや映画の中でしか見た事の無い電脳空間。恐る恐る、神託を待つ巫女の様に慎重にマウスカーソルを動かして、キーボードに手を伸ばす。コンビニでグラビアアイドルが表紙になった雑誌を手に取る時の様に、背後に誰も居ない事を確認してから震える指先でカチリとボタンを押し込んだ。

 タリホー! ああ、なんということだ!  僕だけじゃ無かった。僕だけじゃ無かったんだ!  初めて図書室に行って、あの本に出会って以来ずっと抱いていた恋心。両親にも、兄弟にも一番仲のいい友達にすら打ち明ける事の出来なかった『異常な恋』。この地球上で僕だけが見つめ続けていた秘密に辿り着いた同胞がこんなにも居たなんて。  もちろん今でもそれは少数派である事には違いない。それでも仲間が居て、僕はもう孤独では無いんだと歓喜の波が心一杯に溢れたのだ。  更に、更にそれだけに留まらず、彼らから沢山の事を学んだ。なんと彼らはあの存在に出会う術を、また自らが変身する術を編み出していたのだ。ある者は筆を取り、別の者は針を使い、術式は様々ではあったが何れも僕の目には魔法のごとく映るのだった。

 また今宵も僕は独り闇空に立ち、そっと目を閉じる。大きく深呼吸をしてから息を止め、胸の内側にあのドロップ缶から出てきた結晶をはめ込むと、気高き獣の魂が肉体へと宿るのを感じた。無尽蔵のエネルギーが溢れ出して、姿形までもがそれにつれて変容していく。  月光に照らされたそれは、すうっと息を吸ってから歓喜の調べを解き放つ。初めは小さな一筋の流れであったが、やがて方々からも湧き起こり、大きなコーラスとなって夜に響くのだった。

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