そこは真白い空間だった。ここ、霧里町(きりさとちょう)では珍しい光景でもなかったが、気付けば目の前は、それとは違う完ぺきな白だった。  さっきまで何をしていたっけ? 大学二年目の履修登録を終えて、なにか始めないと、と思ったんだ。このままじゃあ、誰にもなれない。そう焦ったんだ。そして、昔かじったイラストレーションをまたやろうとしたのを思い出した。  そうだ、何か描くんだった。手を伸ばす。  でも何を? そう思うと、伸ばした手の先から黒が細く伸びた。それは彼方に水平線を描いた。  そうだ、強くて、しなやかで、優しい人物を描こうとしたんだ。それが俺にとっての誰かだった。  次に、目の前に輪郭をつくった。人の形をしているようだ。そういえば自分の手も今になって輪郭を持ち始めた。自分の手だが、似ているのは輪郭だけだ。詳細はぼんやりとしている。 「気付いたんだね、久しぶり」  そう言う目の前の輪郭は、顔が人間ではなかった。たくましいネコのようなシルエットだ。表情はよく見えない。  気付いた? 久しぶり? なんだっけ、知っている。でも思い出せない。 「だいじょうぶ。それより、「気付いた」なら、自分の形を決めないと」  声で気付いた。俺がよく知っている人物だ。そうだ、いつかこうなれたら、追いつけたら、と思ったんだ。 「ああ、そうだね。センリ」

 俺の手が人間のそれでないと気付くと、目が覚めた。  携帯電話のアラームを止める。天候アプリが知らせるのは、濃霧注意報。自宅の窓から見える風景は夢と同じ、霧で白い空間だった。  「今日、気付いた」                大竹 和竜  寝ているときの夢の内容を覚えていることは、そうそうない。まして後からはたと思い出すことなどもっとない。でもあの夢は覚えているし、だんだんと鮮明になってきている。俺の夢であの輪郭は言った。 「君が、君の色も、君の形も作るんだ」  散る桜も見えつつある四月中ごろ、生協の食堂でカツカレーをつつきながら、俺はこの間の、センリという人物が出てきた夢を思い出していた。  この間の夢も、夕食後の眠気に負けて見た。絵を描こうかな、と思って帰宅前にスケッチブックを買って、一息ついた矢先だった。そのスケッチブックはまだ白紙である。今日は午後にバイトもなければ授業もない。せっかくだし何か描くことにした。食堂は静か。窓の外は霧深い。天候アプリは濃霧注意報。

「あれ、三(みつ)峰(みね)じゃん」 「なにしてんの剣(けん)ちゃん? お絵描き?」  夢中になって一時間ほど、背後から聞こえた同級生二人の声に、慌ててスケッチブックを体で覆った。三峰 剣とは俺のことだ。 「あああっ! 八幡兄妹そろってかよ!」  振り返ると、顔つきの似ている双子の男女がいた。そろって淡白な顔つきの美形だ。 「なんだよ意外と面白い趣味持ってんじゃん」  兄のほうが八幡(やはた) 竜(りゅう)。色黒な肌と太い眉毛、眼鏡が印象的である。ピアノが非常にうまい。今はサークルでジャズをやっているようだ。 「うまいわねー、高校は美術部だったとか?」  妹のほうが八幡 華(はな)。筋肉質でスポーティである。高校時代から陸上を続けているそうだ。短距離をやっていると聞いている。 「じろじろみんなよ、もー、集中してたから驚いた」  スケッチブックを閉じた。正直、この程度では二人に見劣りすると思っている。  思い出せる限りの、センリという人物の姿を描いていた。描けば描くほど夢とともに鮮明になっていく。なぜか手はすらすらと動いたし、こういうのが好きだったなと気付いたのに、間の悪い。 「りゅー君、剣ちゃんも気づいてない?」 「そういや確かに。気付いてるっぽいねえ」  「気付いた」。それを聞いた途端に、足元から世界に白色が走る。みな輪郭だけになった。 「へ? なにこれ?」  「気付いた」という感覚に反して気持ちは頓狂だ。だが輪郭だけの世界以外はそのままだ。 「やっぱり。剣ちゃんもこういうの好き?」  華が取り出したのはなんだか可愛らしいが筋肉質なドラゴンのようなキャラクターのラバーストラップだった。  同時に竜も似たようなものを取り出す。こちらもドラゴンだがややふっくらとしている。  瞬間、八幡兄妹の姿が色づき、普段と違えたように見えた。彼らの手に持つような、ドラゴンの顔をした人物になっていた。  が、それもすぐに波のように引き、いつも通りに戻る。気付けば食堂には学生がなだれ込んできていた。四限目が終わったのだろう。 「え、え、何、今の?」 「あー、人がいるとだめよねー」 「なあ、三峰、今日この後酒でもどうだ? 興味あるだろ、いまの」

 一八時三〇分、大学近くの個室居酒屋「しらかべ」に俺たちは集まっていた。全員一浪しているので飲酒に問題はない。そして、全員一杯目はビールと決まっており、なかなかに不自由しない飲み会が楽しめる。  が、個室に入ってからすでに不自由である。 「剣ちゃんビールだよねー、大ジョッキ?」 「まず枝豆とから揚げだよな?」  声も態度もいつもの八幡兄妹なのに、知らない店だからだろうか、それとも悪い夢なのか、昼間一瞬見たドラゴン顔の人物二人が目の前にいた。落ち着かない。店に入った時もそうだ、ものすごく大柄なクマ男二人とすれ違った。落ち着けるのか? 無理だ。 「お、おう」  ひとまず返事をした。声は出ているようだ。 「悪い悪い、びっくりしてるよな。お前も自分の中に、こういうのがある、って「気付いた」んだろ? 最近」  と、竜は彼の顔を指さした。もともとの顔つき同様端正なのだが、今は柔和だ。何よりプロレスラーのようなしっかりとして、ふくよかな優しい体形をしている。触ると柔らかそうだな、と思う。普段のシャープな美青年とは反対である。 「あたしたちも昔からそうだったんだけどねー、この町来てからこんな風になってめっちゃうれしいの」  華が笑う。こちらも普段と同じ印象の端正な顔つきなのだが、鋼線や刀剣を束ね鍛えたような筋肉をまとうドラゴンである。普段のスポーティさを過剰にまとっている。触れた手が切れそうな、だがそれを感じたいと思わせる魅力があった。  しばらく話して、いくつかのことを教わった。この町では「気付いた」人間が自分の好きな姿を取れる、というのが一つ目だ。 「失礼しまーっす、生ビール三つと枝豆、冷ややっこ、から揚げーっす」  と、のれんをくぐりアルバイトらしき店員が入ってくる。顔はイノシシで恰幅がいい。  二つ目は「気付いた」者同士の空間ではその姿が維持されることだ。この店は「気付いた」者がよく集まる店だそうだ。 「「「かんぱーい」」」  そして三人で乾杯し、三つ目をこれから教わる。俺の姿だけ、輪郭だけだ。 「三峰はなんかこれってカッコあったりしない? こういうのいいなー、とか、思ったことはあると思う」  竜はそう言ってから揚げを口に放り込んだ。ふくよかな顔つきもあってうまそうに見える。 「えーと、そういってもなあ、あ、でもこの間なんかそんな夢見た。トラが出てきたんだけど、あれじゃあないんだよなあ」  あ、でも夢か。あの夢で確か俺は。 「思い出したかも。多分、オオカミ?」 「思い出した? 思いついたじゃなくて?」  瞬間、部屋が白く満たされ、それが俺に流れ込む。体の内側から輪郭を押し広げられるような妙な感覚だ。風船にでもなった気分だ。 「おぉっ、これ久しぶりに見るなあ」  妙な感じが続く。少し苦しいが、同時に自分が強くなるような感じもして、耐え切れた。 「へーっ、案外もとのからだ、そのまんまのオオカミねえ。黒、いや、青? みどり?」 「なんだこれ、きっつい」 「最初だけだって、大丈夫だ」  なんだか喉が渇いた感じがする。竜に勧められ、思い切り飲む。酒で喉が焼ける感覚より、のどを潤した安心感が強い。グラスを置き、一息ついて、両手を見る。指先にかぎ爪、手のひらに肉球。漆黒の毛皮は、よく見ると鮮やかな緑青(ろくしょう)が星のように照り返す。  ぱちり、とシャッター音が響いた。見ると華が携帯電話のカメラで俺を撮っていた。 「今の剣ちゃんこんな感じ。かっこいいよ」 「うっわ、まじで? 写真に残るんだ」 「ただ、「気付いた」人たちの空間じゃないとこうならないけどな」  携帯電話の画面を三人で覗く。そうか、少しだけマズルの根元に赤い模様が入っていたっけ。昔、自分で描いてうまく描けなかった、自分の代わり身がこんな感じだった。  これが三つ目。「気付き」の空間では自分の好きな姿を任意に取れ、皆がそう認識する。 「僕も、映るのかな?」 「うん、映るよ、ほら二人とも肩くんでー」  ぱちり。華がシャッターを切った。 「ほら、映ってる、って」  三人で息をのんだ。 「「「誰???」」」  俺の隣には、大柄なトラ頭の人物がいた  そしてこれが、俺が教わった四つ目、「気付いた」人間は、「ホンモノ」がいることも認知できるのだ。 「え? あ! こんばんは!」  目の前に現れたトラ人間はまるで大学の同級生のようである。眼鏡が印象的である。  店の扉が開き、「気付いた」人間の空間が一瞬揺らぐと、その姿も波紋のように揺らぐ。 「あ、君、「ホンモノ」なんだね? でもいきなり入ってくるのはびっくりしちゃうなあ」  と、華が声をかける。 「ホンモノ」は、文字通り人間でない、本物の存在である。気付いた人間同士の空間でしか認識できない。 「えと、はい、たぶん」  いまいち要領を得ない回答である。ただ、俺はこの人物を知っている気がする。 「なあ、君の名前は?」  竜が尋ね、しばしの沈黙。そして隣のグループの乾杯の音頭がとられた。 「「センリ??」」  俺の口から出た名前がその人物からも出た。  天候アプリは相変わらず濃霧注意報。

「ただいまー」  下宿のアパートに帰ってくる。帰宅の挨拶をする、実家暮らしの癖がいまだに抜けない。  「ホンモノ」は飲み食いの必要はほとんどないらしく、突然現れたセンリは何も口にしなかった。ある程度仲良くなれたが、解散に伴い、自宅に帰るとかで、退店と同時に霧のように、桜吹雪の間に消えていった。 「はー、風呂入ろっと」  一人暮らし二年目にして独り言が増えてきている。あまりうれしくはない。 「僕も入っていい?」 「あーお湯はってから、って? ええ!?」  見ると玄関にセンリがいた。 「え、きみ、自分の家に帰ったんじゃ!?」 「迷ったんだけど、たぶん、ここが僕の家、だと思う。靴、ここでいいの?」  ごついスニーカーを丁寧に脱いでそろえる。やたら行儀がいい。 「いや、もしかしたら俺は君のことは知ってるかもしれないけど、俺の知ってるセンリは絵の中だけの話で、君は、似て、ええっと」  気付けば、似ている。トラ模様は俺が絵に描くよりずっと繊細だが、グリーンの目の色から肩幅のある体格までよく似ている。 「き、君は、どこから来たの?」 「わからないけど、たぶん、そのへん?」  と、センリは俺のカバンを指さした。スケッチブックが入っている。 「と、とりあえずお風呂、入れるね」  俺はひとまず、自分の生活に戻ろうとした。 「うん」  日の照るような笑顔でセンリは答えた。

 センリはとてもおとなしい。「ホンモノ」の習性なのか、風呂に湯を張るという、俺の行動を観察してくる。 「な、なに? なんか珍しい?」 「うん、見るのは初めてで」 「そ、そうなんだ。ほかの「ホンモノ」さんたちはどこに住んでいるの?」 「わからない。ごめんね。剣くん」 「じゃ、じゃあ、「ホンモノ」のみんなってお風呂とか睡眠とかいるの?」 「たぶんいらないけど、あったらうれしいな」  まるで右も左もわからないようだ。 「そしたら、入る? お客様だし一番風呂!」  やや気まずいがそれなりに愛くるしい「ホンモノ」を見るのは悪くない気分である。なによりいいやつそうだ。 「いいの? 嬉しいな。ありがとう、剣くん」  数十分後、服を着たまま入浴し、ずぶ濡れで出てきたセンリを拭くのは、大変だった。

 桜も散った初夏、今日の授業はすべて終わった。携帯電話の天候アプリを見ると、先日の大雨で起きた土砂崩れと、それに伴う国道の通行止めが解消されたとのニュースがあった。バイトは先週たんまりやったので今週はシフトがない。今日は図書館で絵を描く。上達してきていると思う。ネット上での評判も良くなってきている。  この数週間でセンリについて分かったことは多い。まず、やはり俺が昔、自分で作った創作上の人物に極めて似ている。誕生日や見た目などがすべて一致していた。  次に、どういうわけかセンリはまだこの世に現れてすぐのようである。風呂に着衣のまま入ったり、横断歩道を使わないなど、常識の類がまるでなかった。一定の知識はあるのだが、まるで教科書で読んで知ったかのような印象である。しかしセンリは、周囲をよく観察しているようで、日に日に普通の人間と同じような立ち居振る舞いを覚えている。 「剣くん、みんな帰ったよ。そろそろ帰ろう」  そしてセンリは、背後霊のごとく日中も俺についてきていることも分かった。その間に俺の行動を見ていろいろ学んでいるようだ。今は近くに誰もいなくなったのか、俺に見えるようになっている。図書館は学生証さえあれば出入りが自由なので、司書も出てしまったのだろう。  図書館のマナーを教えるため、俺は口に人指し指をあて「シィ」といった。 「シィ」  センリはそれをマネして静かにした。

 霧里町はその名の通り霧が多い町である。あちこちに濃霧注意の標識が立っている。そして今日も霧が深い。  こんな霧深い日は「ホンモノ」が現れやすい。実際、いまセンリと並んで歩いている。 「今日も僕が見えてるんだね。うれしいな」  なんだかくすぐったいことを言ってくれる。  そういえば、気になることがある。 「なあ、お前から俺ってどう見えてるの?」 「え? 剣くんは剣くんだよ? 変な質問。講義でも質問すればいいのに」  そう言ってセンリはあははと笑った。  こいつは講義にまでついてきているのか。 「なんだよそれ、答えになってねえなあ」  単に、今の自分が彼からどう見えているか、気になったのだ。手のひらを見ると、見ようとすれば「気付いて」いるときのオオカミだが、気を抜くといつもの手のひらである。 「変な剣くん。ねえ、今日は「しらかべ」行かないの?」 「え? なんで?」 「みんなと会えると嬉しいから。剣くんも最近いそがしかったでしょ? いこうよ」  気を使ってくれてるのか。うれしいな。

「いらっしゃい! お、剣サンとセンリっちっすね! カウンターでいいっすか?」  以前、八幡兄妹と来てから何度か顔を出しているうちに、俺もセンリもこのイノシシウェイターに名前を覚えられた。彼の着けている名札には「ヤバイ」の三文字が躍る。正気かと思うがその下に小さく漢字で「矢場居」と書いてある。同じ大学の学生と聞いたが、素顔は知らない。 「あ、いいですよ。大丈夫です」 「こんばんは。今日は竜くんと華ちゃんは?」  センリはどうやら二人を気に入っているらしい。俺の気晴らしじゃないのか。内心不服である。ウェイターが答える。 「はい、こんばんは! あ、今日は二人とも遅くに来る日っすね。あれ?」  彼は俺たちをまじまじと見つめてくる。 「あれ、お二人さんなんか、あったっすか?」  しまった、顔に出ていた。 「なにもないけど、どうして?」  センリが目を丸くして困惑している! 「そうですよ、俺たちそんなんじゃないです」 「そんなのって?」 「ああもう、いいからほら、いくぞ」 「カップルさん一組ごあんなーいっす!」 「違いますって!」

「ねえ、カップルって、恋人同士のことだよね? 僕たちそうなの?」 「ちーがーう」  カウンター席で、夕食代わりに酒をちびちびやりつつセンリと話す。  確かにセンリは俺が昔憧れたような人物である。眼鏡はしていなかったと記憶しているが、絵の中から出てきたようなものである。そんな人物が現れるとなると、流石に心が揺らぐ。しかし、やきもちを焼くとまでは思わなかった。しかもそれが顔に出るとは。ああ、また多分顔に出てるなこれ。 「そうなんだね。一緒に寝てるけど、僕たちは友達?」 「シィッ!」  静かにさせようと再び人差し指を口に当てる。センリもきょとんとした顔で真似をした。ちなみにセンリの触り心地は蒸しケーキのように柔らかい。できれば今も触っていたい。 「お二人さん、ここいいっすか?」  すると先ほども聞いた声。イノシシ頭のウェイター、矢場居が俺の隣に腰かけた。 「あ、はい。あれ? シフト中じゃあ?」 「俺、仕込みからやってるっすからこの辺で上がるんっすよ。まあ手伝いもさせられちゃうっすけど。あ、今更だけど、俺はヤバイです。矢場居。本名っすよ!」 「ヤバイくんね、料理すっごく上手なんだよ。僕もやりたいなあ」 「え? センリここにきてるの?」  さすがに俺についてきているのは四六時中というわけではないらしい。 「センリっちは日中結構ここ来てるっすよ? 剣サンが忙しいってしょんぼりしてたっす」 「えっ、そうだったのか、知らなかった」 「だって剣くん帰ってきたらお風呂も入らず寝ちゃうんだもん。剣くんのバイト中はお話しできないから、ここにきてたんだ」  寂しそうなセンリに俺は申し訳なくなった。 「でも大丈夫! お友達増えたし、ヤバイくんに料理教えてもらったから一緒にやろう!」  何か声をかけようとしたところでセンリがにっこり笑った。 「あ、ああ、そうだな」  センリと一緒に料理、いいな。 「剣サンとセンリっち、やっぱりつきあってるんじゃないっすか?」 「違いますって!」 「あはは、否定するとそれっぽいっすよ!」 「剣くん、ぼくたちそうなの?」 「あーーーもう!」  そのように騒いでいると、ふと沈黙が訪れる。俺と矢場居さんはすっかり日本酒で上機嫌だ。「ホンモノ」であるセンリも、直接飲むことはできないものの、味覚のようなものを備えているようで、みな上機嫌である。よい沈黙だ。そこを縫って、声が聞こえてきた。 「こないださ「ばけもの」見ちゃった。マジでビビったわー、しかも噂通りだった!」 「えーマジ? そのあとなにあったの? まさかこないだの土砂崩れ?」 「一発で当てるとかさー、つまんねー」 「えーマジ? ねえ その「ばけもの」どんなだったの?」 「えっとね、めっちゃでかい熊。なんか山のほうにめっちゃのしのし歩いてった。土砂崩れのあった方角だったし間違いない!」  聞こえてくるのは普段からやかましいが、愉快な常連の女性二人組だ。声だけは知っている。「ばけもの」とは初めて聞く言葉だ。  同時に、小柄な男が背後を通り過ぎて行った。常連だが、あまりよく知らない。逃げるように会計を済ませ、出て行った。そういえば、普段はクマの姿のはずだが。 「あの、ヤバイさん、「ばけもの」って?」 「あー、俺も詳しく知らないんすけど、なんでも「気付いた」人たちと「ホンモノ」にしか見えない、でっかい怪物みたいっす。リュウさんとハナッちなら何か知ってるかも? 噂だと、よくないことの前触れみたいっすー」 「そうなんだ。センリは知ってる?」 「ううーん、わかんない。大きい知り合いはいないなあ。見たこともないや。ごめんね」 「だぁーいじょーぶ! っすよー、センリっちはやさしーっすねー! もふもふしたいー」  と言って矢場居さんはセンリに抱き着いた。 「えへへー、ヤバイくんお酒臭いよ」  少し、その光景に胸が締まる感じがした。

 夏。この時期の霧里町はさわやかで過ごしやすい。気温の上昇に伴い霧は減り、携帯電話の天候アプリも静かである。  試験期間も無事終わった週末、八幡兄妹と遠出の予定を立てた。意外にも、矢場居さんも他学部とはいえ同級生だったらしく、彼も参加することとなった。  最初はあまり気乗りしなかったが、絵ばかり描いているのもよくない、とセンリに言われてのことだった。最近、上達が止まっている気がする。「気付いた」の時の自分の姿を描いたり、センリにモデルになってもらったりしているのだが、センリの絵のほうが評判がいいのもあって、もやもやとしている。そういえば、センリの帰りが遅いこともあり、それも原因かもしれない。  行先は、山あいの渓流だ。飲み仲間の集まりといえば、と「しらかべ」で相談して、羽を伸ばしにバーベキュー、と相成った。  ボックス席に四人でかける。矢場居さんの普段の姿は「気付いた」時とほぼ同じ、ずんぐりとした体格だった。程よく日に焼けて、快活ないい笑顔をしている。ラグビー部らしいがあまり熱心ではないと聞いていた。バイトのほうが楽しいらしい。 「いやー、いいっすねー、ボックス席!」  車窓には、徐々に緑が増えてくる。 「普通のカッコの矢場居ちゃんって新鮮ね」 「いやいや、リュウさんとハナッちも新鮮すよ。いいなー細くて!」 「いや、矢場居くん痩せる気ないでしょう」 「あは、そっすねー、リュウさんもどう?」 「まだいいかな」  どうやらなりたい姿と普段が一致していないタイプの「気付いた」人もいるようである。 「そういえばセンリちゃんと一緒じゃない剣ちゃんも珍しいわねー」  その一言に少し妙な気分になる。 「見えてないだけで、今日もついてきてるはずですよ。遠出は初めてだからはぐれてないといいですけど」 「意外としっかりしてるし、大丈夫っすよ」  確かに、センリは日に日に普通の人間のようになってきている。 「そういえば、この間うちに遊びに来たな。三峰の絵ってどうなのか、って聞きに来たぞ」 「あー、うちにもきたわねえ、そういえば」  どうしてセンリが? と思ったとき、ふと、あたりが暗闇に包まれる。同時に叫び声。 「わあーっ! 待って、待って待ってー!」 「「「「うわああああっ!!!!????」」」」  突然、両腕を振り回すセンリが現れた。 「見えないからって僕のうわさしないで!」  センリは真っ赤なふくれっ面で、八幡兄妹の隣で腕を組み、仁王立ちしていた。  トンネルに入り、あたりをよく見ればこの車両には俺たちだけ。「気付いた」人間だけの空間になっていたようだ。「気付かなかった」のだから、センリも見えなかったわけだ。 「いやー、ごめんごめん、でも三峰はほんとに上達してきてるよ」 「そうそう、剣ちゃんなんでそういうサークルはいらないのか不思議!」  八幡兄妹は、白々しくも、うっかり、というような表情をしているが、しっかりと謝った。双子の息の合ったコンビネーションだ。 「あ、ごめんなさい、叫んじゃって」  センリは、顔を真っ赤にして耳をぺたんと伏せてしまった。まったくこの兄妹は。 「大丈夫っすよー、センリっち、剣さんのことが心配だったんすよね?」 「え? 俺、なんか変だった?」 「うん、なんだかずっと剣くん、お家でスケッチブック見ながらこんな顔だもん」  と、センリは眼鏡を取って眉間にしわを寄せた。ついでにペンを持つ仕草もつけている。 「最近そんな顔よね。根詰めすぎじゃない?」  華にも見られていたようだ。 「絵くらいしか今の俺、取柄がないから」 「それを根詰めてるっていうんだよ、三峰」 「そうだよ剣くん、ちょっとは休もうよ」 「まあ、そうだなあ。あ、トンネル抜けるぞ」  この話は、続けたくなかった。  トンネルを抜けた。片方の車窓には深緑の森が、もう片方には渓流をはさみ、切り立った斜面に国道が走っているのが見えた。渓流は澄んだ深緑で、とても冷たそうだ。 「うおー、絶景っす!」 「うわー! すごいね、剣くん!」 「あ、ああ、そうだな」  矢場居さんとセンリが窓に張り付いた。センリに至っては窓際の俺のひざに乗っかってきている。無邪気な奴らめ。  しばらくすると、対岸の深く美しい緑の合間に、切り傷のような土色が走っているのが見えた。土砂崩れの痕だ。国道は、その部分だけ片側一方通行で、まだ修復中のようだ。  そういえば以前、凶兆である「ばけもの」が出た後、土砂崩れが起きたと聞いた。なぜか「気付き」の感覚がそこから伝わってくる。更に、そこに誰かがいるのと、花束が一つあるのが見えた。異様な感覚に俺は身震いした。 「なあ、竜、華。「ばけもの」って、なんなんだ? 詳しいって、矢場居さんから聞いた」  彼らも窓の外を見ていたが、こちらを向く。 「なんでも、最近こんな噂がある。「ばけもの」は災害の化身であると同時に」  竜は、眼鏡の位置を右手小指で直した。 「案外身近な存在かもしれない。なんてね」  華は左手小指を眉間に当て、深刻な表情の後、ウィンクしてとぼけて見せた。 「学部の連中の「気付いた」奴らや先輩にも聞いてるけど、噂レベルだ」 「どうしたの、剣ちゃん、突然「気付いた」人たちの話するなんて。絵とかセンリちゃんの話してるほうが剣ちゃんらしいよ?」 「いや、なんか気になっちゃって。俺たちだけの噂なんだ?」 「そうだな。去年から見ている限りだと「気付いて」いない人たちとは何も関係がない。普通の人たちにとってはただの災害だ」 「でもあの土砂崩れなんかは、霧里町もモロに影響するからみんなにインパクトあるわね」  俺は、「ばけもの」の何が知りたいんだろう、どうして気になるんだろう、そう思ったが放っておいた。多分、考えても仕方ない。 『次は、みやまきりさと、深山霧里、です』 「剣くん、つぎ、目的地でしょ? すごいなあ、こんなに遠くに来たのはじめて!」 「みやま、ってくらいだからミヤマクワガタとかいるっすかね!?」 「ヤバイくん、クワガタって? ミヤマ、だとなんかすごいの?」  どうやら俺以上にセンリが楽しんでいるようだ。センリは初めて触れる物事に目を輝かせている。ついてきてよかった、と思う。 「ミヤマはやべーっすよ! センリっち、いっしょにさがそ!」 「はいっ!」  素直にはしゃげるセンリが、少し羨ましい。  そうこうしているうちに、そろそろ到着だ。 「あ、ドア開くよね。みんな、またね。絶対はぐれないから、僕のうわさ話禁止ね!」 「はいはい、わかったよ」 「もー、剣くんほんとう!?」  そっけなく答える俺にセンリが抗議の声を上げた。そして、みんなで笑った。  停車と同時に俺が「開く」ボタンを押すと、自動扉が開いた。直前に、センリと俺の手が触れる感じがした。そして、深山特有の水と森の香りが吹き込んできた。

「なんか、絵のモデルになるって不思議な気分だな。三峰、イケメンに頼む」 「それなら普段のほうがいいと思うよ」 「竜くん、違う顔もするの? 見てみたいな」 「うう、ごめん、センリ、練習してからで。って、矢場居さんと虫取りにいったんじゃ?」 「ヤバイくん、今トイレだって。あ、戻ってきた、いってくるね」  バーベキューで食べるだけというのも、ということで自由行動となったのだが、俺の願いで、みんなの「気付いた」姿を絵に描かせてもらえることになった。 「気を付けてねー二人ともー、肉は最低限とっとくからねー」 「最低限よりも多めでおねがいでーっす」  トングを振り回して叫ぶ華に、矢場居さんが答えた。 「どうしたんだ、急に。なんかあったのか?」 「いや、大体描くの、センリか、俺のこのカッコくらいだし。たまには。練習になるし」  ちょっとした隠れスポットとして見つけた渓流は、俺たちしかいないため「気付き」の空間が成立していた。  竜には折り畳み椅子に座ってもらい、楽にしてもらう。足元にはビール缶。普段と真反対の体つきで、がっしりとしたドラゴンの竜は結構様になる。が、可愛らしい顔つきなので何とも言えない絵が出来上がりつつある。 「どう? 最近。サークルとか、大学生活」 「なんだよ、床屋みたいだな。そうだな、いままで弾いたことない曲ばっかりで大変だよ。でも、楽しいかな」  下半身はなるべく動かさないようにしてもらい、似た姿勢を維持してもらう。 「大変じゃない? 新しいことやって。うまくいったと思ってもそうじゃなかったり」 「ん、そうだな。でも気付かないよりはよっぽどよかったかな、と思うよ」  表情が決まったのは最後。竜がそう言った時の表情を描いた。白黒だが、ふんわりとした、温かみのある絵になった。

「モデルになるなんて初めて。ちょっとおなか引っ込めて大丈夫?」 「リラックスの範疇を超えないでね」  次は華だ。彼女の足元には、紙皿の上に焼いた肉が山を作っていた。 「カッコよくおねがいね!」 「兄妹そろってさ。まあ華はかっこいいかな」  少し離れたところで火の番をしている竜を見ると、満面の笑顔で、焼いたカルビと白米を食べていた。あれを描けばよかったかな。 「あはは、まあ双子だしね。でも最初りゅー君のあのカッコ見たときはびっくりしたなあ」  人生ほぼすべてを一緒に生きているみたいなもんだから、と華は付け加えた。 「華はさ、いつから陸上やってるの?」 「あー、そうねえ。中学からやってるけど、そろそろやめるかなーって思ってる」  ここまで続けてきて、それなりにできることも多いだろうになぜ、と俺は聞いた。 「大変だから。バイトもできないし。それにほら、楽しいことはそればっかりじゃないし。今みたいにさ。まあこういうことやってばっかりにも行かないけど」  すこし寂しそうだが、前向きないい笑顔だった。表情が決まった。 「しかし剣ちゃんもお絵描きこんなにうまかったなんてねえ、高校の美術とかよかったんじゃない? なんで今突然?」 「昔ちょっとかじったのを、またやってみようかなー、って。ちょっと、やめてたんだ」 「新しいこと、ね、いーじゃん」  そして、しばらく集中する。木々のざわめき、渓流のとどろきが心地いい。 「剣ちゃん、なんかあったでしょ? りゅー君が思ってるのは大体あたしも思ってるよ」 「うーん、どうしてそう思うの?」 「らしくないっていうか、まあ、センリちゃんも一緒だしね。なんか変わるのもそうか」  図星だった。 「うん、センリのせい、かな?」  それでも筆は進む。鋭い肢体の女ドラゴンが見せる、前向きな笑顔。俺は、こんな顔、できるだろうか。 「自由だもんね、あの子。ねえ、センリちゃん、うちに来てなんて聞いたと思う?」  あたりをきょろきょろ見ながら華が言った。センリがいないところでなら、と思ったのだろう。筆を止めて、彼女を見た。 「ぼくを見ると、剣くん不思議な顔するときがあるんだ、なんだろう? だって」  書きあがった華の姿は、日差しに負けない凛とした笑顔をたたえていた。

「まさかほんとにミヤマが取れるとは思わなかったっす」  センリと共に戻ってきた矢場居さんにも、モデルになってもらう。もともと虫好きなのか、虫かごを持ってきていたのには驚いた。 「俺も久しぶりに見たよ。あんなでっかいの」  火のそばでセンリと竜が一緒になってミヤマクワガタにはしゃいでいるのが見える。 「センリっちと一緒だと楽しいっすね。なんでも喜んでくれて、こっちも嬉しくなるっす」  いい年をこいた大人が虫取りから戻ってきたのだが、楽しそうな姿は見ていてまぶしい。牙の立派なイノシシ頭の、はつらつとした笑顔。首からかけたタオルが似合いすぎている。 「俺もそう思うよ。最近は、なんか家族みたいになって変な感じもするけど。早く起きろ、とか、絵ばっかり描いてたらだめ、とか」 「あはは、センリっち、だいぶ色々物知りになったというか、もう立派な友達っすね」  彼は運動部だけあって、四肢はがっしりとしている。樽のような体格だが、健康的だ。 「剣サン、センリっちと生活してどうすか?」 「え? うーん、どうって、どうだろう」 「あー、倦怠期? ってやつっすね?」 「だから俺とセンリはそんなんじゃ」  ふと、筆が止まった。どうなんだろう。俺にとっての、センリって。 「ま、まあ、半年もたってないっすし、ねえ」  矢場居さんのその一言で気付いた。まだ半年。お互い知らないことばかりだ。  はつらつとした笑顔のイノシシ頭がやや傾いた陽に照らされる、暖かい絵になった。

「おーい、センリも描くからこっちこーい」  いつも描いているが、せっかくだし勢いにのってセンリも今描こうと思った。 「ちょっと待って、これすごくきれいなの!」  センリの興味を引く何かが現れたようだ。 「虫取りなんて久しぶりにしたな、クワガタもいいけどこういうのもいいだろ」  虫かごの隣で腕を組んで自慢げな竜が見えた。見ると、虫かごの中には大きな蝶がいた。黒い印象の中に鮮やかな緑青と少しの赤。竜が捕まえたのだろう。 「おおっ、ミヤマカラスアゲハっすね!」 「剣くんに色がそっくり。きれいだね」  センリの素直な感想は、いつも通りそれ以上の意味はないはずなのだが、その一言を意識してしまう自分がいた。 「なあ、センリ、あっちでおまえを」  と、言ったところで、不意に「気付き」の空間が霧散した。周囲を見ると、小柄な男がいた。見覚えがある。「しらかべ」の常連だ。 「あ、ベアっちじゃん! 奇遇っすね! 久しぶりっす! 最近お店こないっすね?」  そう、「気付いた」時の姿は大柄な熊で、自信に満ちた言動が記憶の大部分を占める。 「あ、ヤバイくん。ひ、ひさしぶり」  彼の様子は、いつもとだいぶ違った。 「あ、ベアちゃんだ、熊じゃないね、珍しい」 「あ、ああ、ひさし、ぶり」  華の挨拶に彼はなんだかばつが悪そうだ。 「ご、ごめんね、知ってる声がしたから。気になっただけなんだ」 「そうなんすねー。あ、そういえば例の「ホンモノ」さんとは」 「ごめん、帰るね。お邪魔しました」  今までの自信に満ちた姿とは全く別の、小柄な本来の姿よりも、小さく見えた。彼が離れると「気付き」の空間が戻った。 「今、誰か来てたよね? 誰だったの?」  呑気なセンリの声が聞こえた。俺が答える。 「誰って、ベアさん。久しぶりだったなあ」 「え? ベアくん? 気付かなかったなあ。お花の匂いがしたけど、そうだったんだね」  そういえば、なぜ彼は「気付き」の姿をしていなかったのだろう。 「なあ、センリ、お花の匂いって?」 「あっちからもするよ。行ってみる? もしかしたらミヤマ? の蝶がいるかも!」  俺達にはわからない匂いをセンリは感じているようだ。何か、嫌な予感がした。

 帰りの電車。深山霧里駅を出てすぐ、土砂崩れの現場をまた見ることになった。先ほどセンリに連れられ、たどり着いた先だ。 「ベアくんの匂いと同じお花だよ! あれ、ベアくん、ここにいない? なんだろう、前お話ししたときと同じ感じがする」  あの時センリが指さした花束が、今見える。土砂崩れの現場に備えられた花束だった。センリはあの時、去ったはずのベアくんを探した。俺たちも、よく知る「気付き」の空間を感じたが、俺たち以外誰もいなかった。そのままバーベキューはお開きとなった。  今は、電車の中には休日のレジャー帰りの客もいて、気づきの空間はないが、センリも近くにいるためみな黙ってしまっている。  口を開いたのは矢場居さんだった。 「ベアっち、「ホンモノ」さんともっと仲良くなりたかったみたいっす。でも、彼不器用っすよね。堂々としてたけど、薄々わかってたっす。「気付いて」いるからできてたんす、ああいうの。結構そういう人、いるっす」 「じゃ、じゃあ、あの花束は、「ホンモノ」に? でも「ホンモノ」って死ぬの?」  華が声を上げた。正直何もわからない。 「そういや、なんでベアが「気付き」の空間を壊せたんだ?」  竜の疑問に、皆再び黙ってしまった。  天候アプリは、障害で機能していない

 秋。天候アプリは接近中の嵐のことばかり。  連休前のバイトの合間に事件は起きた。 『絵、うまいけど可愛くないですね』  ネットに上げた絵にそんなコメントが付いた。その絵は、気付いた時の俺を描いたものだった。ようやく上達があった矢先の出来事に、そのコメントで俺がふてくされていたのがよくなかった。 「剣くん、そんなに怒らないで。ぼくは剣くんの絵、好きだよ」  いるだけでみんなが惹かれる、みんなを和ませる、センリがうらやましかった。 「でも、センリが好きでも、変わらないよ」  つい、突き放してしまった。自分の姿より評判のいいセンリに、嫉妬した。  センリは最初きょとんとしていたが、ショックを受けたのだろう。とても悲しげな顔をしていた。俺もすぐにハッとした。  センリはその後すぐ、出かけてくると言い残して、行ってしまった。声が、震えていた。  夜になっても、センリは帰ってこなかった。  嵐が近づくにつれ、雨風はひどくなった。

 朝早くにセンリは帰ってきたが、テーブルに向かい、背を向けたまま俺と目を合わせてくれない。流石に、謝らないといけないな。 「あの、センリ。昨日は、ごめんな」  センリからの返事はない。  気付けば、センリの向こうに、人影が見えた。なんだ、あれは。センリと話しているようだが、その声は聞こえない。 「わかったよ、剣くん。ぼくも行くね」  センリは、それと話している。  それは、「気付いた」時の俺によく似ているが、明らかに異なる、オオカミの「ばけもの」だった。輪郭は霧のように揺らぎ、どんどん大きくなっている。 「ぼく、また山に行きたいな。紅葉? がきれいなんだっけ? たのしみだなあ」  センリは「ばけもの」と出て行ってしまった。その「ばけもの」はセンリに優しく微笑みかけていた。  追いかけなくては。天候アプリが何か騒いでいるが、見る暇はない。  部屋を飛び出すと、雨で間白い世界の中をセンリと「ばけもの」は散歩でもするかのように歩いている。町の人通りは嵐の早朝ということもあり、皆無だった。  どうして、俺のほうを見てくれない? どうして「ばけもの」ばかり見ている?  猛烈な雨風にもかかわらず、センリの声だけはなぜか聞こえてくる。 「まだ剣くんみたいなミヤマの蝶、いるかな? いたらいいな」  センリは「ばけもの」を俺と認知しているのか? そんな。 「また一緒に出掛けられてうれしいな」  それは俺じゃないんだ。強風で転んだ。手のひらを擦りむいた。追いかけなくては。 「学校、おやすみなんだね。誰もいないの、不思議」  大学の前を通り、駅へと向かう。猛烈な雨で、服がべったりと張り付いてくる。彼らは歩いているはずなのに、遠ざかる一方だ。  「ばけもの」はすでにセンリの倍ほどの身の丈になっているが、センリはいつもの俺に話しかけるように、それと話している。 「なに? 剣くん。え? いいけど?」  駅へ向かう道。頓狂なセンリの声が聞こえた。姿は、激しい雨でよく見えない。  何が起きている? 追いつくんだ。急げ。センリをあれにとられてたまるものか。  雨の間に「ばけもの」があらぬ所から生やした手を、センリの手と繋いでいたのが見えた。俺が、したくてもできないことだった。 「くそぉっ」  駅に近づくにつれ、大きな音が聞こえてくる。そうだ、あの渓流はここまで続いて川になっていたんだ。橋を渡らなければならない。 「駅、いけないね。通行止め、だって」  センリとそれの動きが止まったようだ。 「剣くん、どうしたの?」  大きくなった「ばけもの」とセンリが向き合っていた。  「ばけもの」の腕がさらに増え、センリに抱きついた。さらに「ばけもの」がセンリに覆いかぶさる。 「あれ? 剣くん、おおきくなった? あはは、あったかいね」  雨の勢いがひどくなる。追いつくと、川面は、堤防を今にも乗り越えんとしていた。 「センリ!」  構うもんか。「ばけもの」にセンリを渡してなるものか。足を動かす、とにかく早く。 「あはは、剣くん、くるしいよ、ううー」  呑気な声だが、センリは苦しそうにしている。黒い体がセンリを飲み込んでいく。  ひときわ大きい音。川面が堤防を越えて近づいてくる。あと少しでセンリに手が届く。 「うう、やめてよ、剣くん、いたい」  悲しそうなセンリの声が聞こえた。追いついた。濁流なんて構うものか。 「センリを、返せ!」  今にも黒く埋まりそうなセンリの背中に、抱き着くように飛び込んだ。「ばけもの」の生暖かい感触と、触れたことのあるセンリの感触がした。同時に、視界が暗転した。

『センリ、お前は俺がなりたかった俺なんだ』  気付けば、白い世界で俺の声が俺に聞こえてくる。「ばけもの」は、「気付いた」時の俺の顔そのもので話す。いつか見た白い世界に俺たちはいた。センリは、俺たちの間に立っている。俺には背中を向けている。  「ばけもの」は、俺だったのだ。センリのようになりたいという気持ちを、それがかなわないとあきらめた気持ちだった。 『でも、俺はセンリになれなかった。だから、傷つけたかった』  それ以上、言うな。嫉妬の気持ちだ。 『見るとイライラした、うらやましかった』 「そうなんだ、でも、剣くん何も言ってくれなかったから、わからなかった、ごめんね」  言うな。でも、俺は言わなくては。 『だから』「センリ!」  ようやく俺の声が出たとき「ばけもの」は少し安心したような顔をした。 「あれ? 剣くんが、二人?」 「ごめんな、センリ、痛かったよな、あんなこと言われて、つらかったよな」  涙があふれてきた。今度は、俺がセンリを正面から抱きしめられた。 「うん。びっくりした、嫌だった」 「だから、ごめん。ごめんな。」 「うん。剣くん泣かないで。山に行くのはこんどにして、帰ろう。剣くんびちゃびちゃだよ。お風呂に入ったぼくみたい」 「うん」 『言えてよかったよ、俺も』  「ばけもの」はそう言うと白い世界に霧のように散り、俺の中に戻ってきた。

 また、目の前は真っ白だ。天井のようだ。周囲は暖かい。どうやらベッドのようだ。  病院のベッドで目を覚ました俺は、看護師や医者に酷く叱られた。大嵐の、しかも警報が出ているときに川に近づくなんて自殺行為だ、と。聞けば、堤防で倒れていたのを、近くを通りがかった車に助けられたらしい。 「堤防の決壊がひどかったら、おぼれてたんですからね!」  そう、偉そうな看護師に怒られた。理由は「どうしても行かなければならないところがあった」と答えたが、電車が運休だったらしく、酷く馬鹿な学生に見られたことだろう。  ひとまず一日は入院して様子を見ることとなったが、打った頭が痛む以外は何ともない。  センリは、どうしたのだろうか。

 翌日は、台風一過でからりと晴れた。携帯電話は電池切れ。家にやっとたどり着いた。 「ただいま」  帰宅のあいさつの習慣は、センリがいたから続いていたのだと、今日気付いた。 「センリ?」  部屋の中は静かだ。センリがいればかならず「おかえりー」と呑気な声が返ってくるはずだが、聞こえない。やっぱり、あの時。  そういえば、家を飛び出る前、センリはここに座っていたっけ。  そこにへたり込んで、俺はため息をついた。自分の手を見る。「気付き」の空間を確認する。いつものオオカミの手だ。 「おかえり、剣くん」  後ろから、聞いたことのある声。  振り返る。ベッドに隠れたセンリがいた。 「びっくりした? このあいだのお返しだよ」  柔和な笑顔だった。センリが初めて俺にした意地悪だった。

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