影の在処

キプラ

  1  午後四時前、大きな建物のニ階にある小さな部屋の、カーテンの開いた窓から西日が差し込む。ここは、僕が今住んでいる部屋だ。ここを間借りさせてもらってから、もう三ヵ月以上が過ぎた。窓のすぐそばには白いベッドがあり、その反対側には木製の机と小さな本棚がある。僕はその小さな部屋を扉の前からしばらく眺めていたが、やがて扉を閉め、廊下を階段に向かって歩き出した。昼寝を終えたばかりで、まだ少し眠い。  階段を下りて一階に向かうと、金属か陶器のような硬いものがきしきしと触れ合っている音がした。見ると、タウが大きなテーブルにフォークやナイフをセットしていた。一階は丸ごとひとつの大きな部屋になっていて、真ん中に大きな四角いテーブルと、それを囲むようにいくつかの小さな丸いテーブルが置かれた交流スペースになっている。ここでは週に一度、近所の知り合いが集まってパーティーが開かれる。今日がそのパーティーの日だから、タウはその準備をしていたのだ。 「もう起きてたのか」  下りてきた僕に気づいたタウが、テーブルの向かい側から話しかけてきた。 「どこか行くのか?」 「いや、そういうわけではないんだけど。なんとなく」  タウは自分の手のひらにあるフォークを皿に持ち替え、四角いテーブルにひとつずつ、丁寧に黙々と並べ始める。まだ明るいからか、部屋の明かりはまったくつけられておらず、薄暗くなっている。そこに西の大きな窓から白い光が差し込んで、皿のひとつひとつが吸い込まれるような白いまぶしさを放つ。その向かい側のタウの顔は、イヌ科の生物の長いマズルの先の黒い鼻だけがギラギラと光り、それに遮られて表情が少し見えづらい。  ——退屈だ。  僕は、どうしようもなくタウに話しかけた。 「手伝おうか」 「いいって」  タウは僕の言葉をすぐに遮った。 「朝から何度言わせるんだ。今日はお前の誕生日なんだから、何もしなくていいんだよ」  そう言われるのは分かっていた。分かっていたけど、言わざるを得なかった。 「うん、ありがとう」  そういって僕は、自分の目の前にあった椅子に目を落とした。こうなると、無理に手伝うのも申し訳なくなってしまう。ミュウとは午前中に会ったし、さっきのまぶしさで目が覚めてしまったから寝ることもできない。いよいよ何もすることがなくなった。もし誕生日が単にわがままを聞いてもらえる日なのであれば、僕は僕のわがままとして、タウの準備を手伝わせてもらいたい、と思う。色々とやることだらけの普段なら簡単な「何もしない」が、こういう時にはとてつもなく難しくなるのだ。  僕は、タウに近づきすぎないようにしながら部屋の中をゆっくり歩きまわり、やがて東の窓のところで立ち止まって外を眺めた。目の前に公園の噴水が見える、そこから絶え間なく噴き出す水も、皿やタウの鼻に負けないくらい光を反射して、まぶしく輝いている。そういえば、この噴水の中には入ったことがなかったな、と僕は思った。せっかくだし外に出て、思いきり噴水の水を浴びてみるのもいいかもしれない、と思う。  ——行ってみるか。  そんなことを考えながら窓を眺めていると、ふと背後に誰かの気配を感じた。大きな音を立てている訳ではないが、小さく荒い吐息らしきものが聞こえる。そして恐らく、かなり低い目線からこっちを見つめている。まじめにパーティーの準備をしている、という感じではない。気づいていないふりをしてやろうかとも思ったが、せっかくだし少し意地悪をしたい。 「タウ」  僕はわざと振り返らずに、普段より少し低めの声でゆっくりとしゃべる。 「今、おしり撮ったでしょ」 「へへへ」 「相変わらずそういうの好きだねえ」  タウに限らず、僕の下半身を撮ろうとしてくるやつは結構いる。悪い気はしない。窓ガラスに反射してうつる僕の顔が、少しにやけている。そのにやけ顔の背後で、タウがのっそりと立ち上がるのが見える。タウは、僕の頭の上から出た耳よりも少し高いところにある鼻から息をもらした。 「ちょっとくらいいいだろ」 「別にダメとは言ってないけどさ、へへ」  そう言って僕は、笑顔で背後をふりむいた。それからすぐに背筋が凍りつき、タウの目にくぎ付けになった。タウは、ほとんど笑っていなかった。東を向いた鼻はもう光っていない。もともと目つきがきつめで、全身が影になっているタウのその表情からは、狼らしい、獲物を狙う肉食獣の血の気のほかに、どこか寂しさのようなものが浮かんでいた。 「人間の頃の俺にそっくり、だろ。何度も聞いた」  そう言ったタウの凍り付くような声に、突然、心臓が止まったような息苦しさを感じた。ゆっくりと下を向いて、タウの顔から目をそらす。自分の身体を敏感に感じるようになる。息が上がり、口が開いているのが分かる。その中途半端に開いてしまった口で、そんなことを言いたかったんじゃない、と言い返そうとして、とっさにやめた。その台詞の後に、多分、という言葉をつけたがる僕がいた。  僕が何も言えないで硬直していると、タウは再び笑顔を取り戻し、画面を僕のほうに向けてスマホを持ちながら、陽気な声で言った。 「じゃ、この写真はパーティーの時にそこのテレビに映しまーす」 「えっ」 「ワハハハ、冗談だよ冗談」  タウはそれだけ言い残し、僕に背を向けて、再び大きなテーブルの方に向かっていった。僕はしばらく身体を動かせないまま、部屋のあちこちに目を向けた。決して汚れることのないフローリングに置かれた掃除機、なぜか座ることのできないソファー、番組を何も映せない大きなテレビ。この部屋には、そんな形だけの家具があふれている。それは鋭い不安や恐怖で硬直した僕を、ぬるくてあたたかな不安で抱いて、落ち着かせてくれるような気がした。  僕は背筋を伸ばして、再びタウの方を向いて呼びかけた。 「タウ」 「あのさ」  タウからも話しかけてきて、声が重なった。 「……何?」 「いや、いいよ、先にタウが話して」  タウも手を止めて、こっちを向く。表情は一応は笑顔と言えるものだったが、やはり笑ってはいない。さっきみたいな血の気はないが、少し深刻そうな顔になっている。 「お前がもとの世界とやらに帰りたいってのは俺にはよく分からないし、そういう悩みを俺がどうにかできるわけじゃないけどさ」  再び息が止まる。やっぱり、あれは全然冗談じゃなかったんだ。返事ができない僕に構わず、タウは続けた。 「せめてこの世界も楽しいって思ってほしいんだよ。せっかくここで生きてるんだからさ」 「……うん、ありがとう」  分かってる。僕だって、その言葉を何度も聞いてきた。それに、この世界が楽しくないわけではまったくない。むしろ最高だと思っている。でもそれは、タウにはあまり伝わっているような気がしない。僕が伝わっていると感じるには、タウはあまりにもやさしすぎるのだ。  ——誕生日か。  小さい頃は、一年に一度の大切な区切りの一日だった。家族や友人から、自分がそこにいるということを、何の理由もなく肯定してもらえる一日でもあった。ここ数年は、油断したらつい忘れてしまいそうになるような、あまり特別感のない普通の一日になってしまっていたが、皮肉なことに、今回はかなり特別な誕生日になりそうだ。僕はふたたび窓に鼻を張り付けて、外の噴水を眺めながら、この世界に閉め出された時のことを思い出していた。

 当時、僕はアバターを用いてサーバー上に立てたワールドを歩き回り、交流できるアプリを使っていた。閉め出されたその日に僕が入ったサーバーは、他の多くのサーバーとは違い人間の女の子のようなアバターはほぼ皆無で、みな様々な動物の種族やドラゴンなどをモチーフにした、いわゆる「ケモノ」のアバターばかりだった。僕も例によって、ケモノの姿、今の僕の身体の姿でそこにログインしていた。  僕が入っていたサーバーは、都市部に埋め立てで作った平坦な島のような形をした大きなワールドで、当時アプリを開発した企業から公式に配布されていた人気のものだった。僕は友人とオンラインで会話しながら、つい夢中になって色々な場所を探検していた。それから何時間もすぎ、もうとっくにサーバーが閉じられているはずの時間になってふと気づいたら、僕の感覚がアバターに乗り移り、この世界からログアウトできなくなってしまっていたのだ。  ——そりゃまあ、おかしな話だよなあ。  そんなおとぎ話のような出来事が起きたなんて、今でも自分ですら信じられないような気がする。窓からの反射で見える僕の顔が少しだけ笑顔になり、またすぐ真顔に戻る。鼻の少し上で肌の白黒が明瞭に分かれた顔の色。目の横よりもっと頭の上の方から出ている大きな耳。僕は今、人間とは大きくかけ離れた、ケモノアバターの姿をしている。  閉め出されてから数日の間、僕は計り知れない不安と恐怖に駆られていた。この世界には、僕以外にも一緒にログインしていた多くのケモノアバターがいたが、元の世界で人間として生きていたという事実は、当時誰とも共有することができなかったのである。僕らは元々ニンゲンという生き物として生きていて、今の僕らの姿はニンゲンからケモノと呼ばれていること。このケモノとしての身体は、ニンゲンの中でもケモナーなどと呼ばれる愛好家たちが作った架空のアバターなのだということ。この世界はそんな外部の世界から起動されたサーバー上の出来事で、僕らはそのサーバーがひらいている間だけ、ここで一度につきほんの数時間だけの交流を楽しんでいたのだということ。そういう自分が事実だと思っているすべてのことが、この世界では他の誰にも伝わらなかったのである。それどこから、この世界では昔から一緒にいることになっていた僕は、突然今までのことをすべて忘れて変なことを言い出したことにされ、しばらくこの建物の二階に隔離されることになったのだ。  それから今まで、元の世界に戻る方法を探し続けてきたが、決定的な手がかりはつかめないまま今日にいたる。ここでの生活にも随分と慣れてきた。そして、今日は僕の誕生日ということになっているらしい。人間の僕の誕生日からは少しずれているから、多分このアバターが作られた日のことだ。 「今夜はお前の誕生日も祝ってやるからな。……毎週のパーティーのついでで悪いけどさ」  背後からタウの声が聞こえる。多分タウは、さっきと同じような、少し深刻な表情をしている。それは声で分かる。 「ありがとう。うれしいよ」  僕は窓の方を向いたままそう返した。さっきから張り付きっぱなし窓ガラスは、僕がどんなに息を吹きかけても決して曇らないし、どんなに鼻をこすりつけても汚れない。この部屋にある他の家具や、たまに見える不自然な光の反射と同じ、そういう現実を形だけ模してある世界の部分部分が、ここが本当の現実ではないのだということを、僕に教えてくれる。  派手なことはしなくていい、とは言ってあるが、多分タウは今夜、僕を派手に祝ってくれるだろう。タウが気づいているかは分からないが、僕はそういう賑やかなことが苦手だった。苦手だけど、大人になっても誕生日というものを盛大に祝ってもらえるということには、少し憧れてもいた。 「よしっ」  後ろの随分と奥の方から、タウの自分をはげますような声が聞こえた。それと同時に、僕のすぐ後ろにまで、少し黄色がかったまぶしい光が差してきた。タウが、もうひとつの西の窓のカーテンを開けたのだ。 ——風?  今、確かに背中に風が吹いたような気がした。ここに来てから、屋内でも屋外でも、風などというものを感じたことはない。僕はおどろいて背後を振り向き、その直後、あまりのまぶしさに目を開けていられなくなった。 「あっちゃー」  タウは甲高い声を上げ、窓を閉めた。光源バグだ。西の窓を両方とも開けると、たまに室内全体が異様に明るくなることがある。タウはあわててカーテンを閉め、もう一度開けなおした。今度はちゃんと「正常に」光が差した。すると、そこだけ反射のきつかった皿と外から差す日ざしの均衡がとれ、室内全体に、調和した気持ちのいい明るさが演出された。 「ふう、すまんすまん。すっかり油断してたわ」  タウはそう言って笑った。この世界のタウにとっては、この不自然さも含めて自然な日ざしなのだろう。でも僕は、その光のさなかに見えた現実の陰に恍惚として、また口が半開きになっていた。今、確かに風を感じた。細かい毛の一本一本まで再現されているわけではない僕のアバターの背中に、本当に毛をなびかせているかのように風が触れていた。 「今、風が」 「ん?どうした」  とっさに出てきた言葉に、タウが反応した。僕はあわてて、 「いや、なんでもない」  と言い直した。風はこの世界にはない。タウは少し間を置いて、 「あんまり気負い過ぎるなよ」  とだけ返してくれた。タウの表情が、さっきよりも随分やわらかく見える。僕はそれを見て思い出した。そうだ、この表情だった。タウは、みんなが僕を変なことを言い出したと思っていたときに、僕のことを一番心配して、一緒にこの建物で暮らせるように手配してくれた。隔離中の僕に毎日会って、彼には支離滅裂にしか聞こえないであろう話を聞いてくれたし、僕が忘れていることになっていたこの世界の話もたくさんしてくれた。その時の表情は、こんな風にずっとやわらかかった。  全体が適度に明るく見えるようになった部屋には、もうかすんで見える場所はなくなっている。さっきタウの表情がきつく見えていたのは、本当に光のせいだったのかもしれない、という気がしてきた。今、カーテンの外側からやってきた詐欺師が、僕らをだまして部屋の空気から闇を奪っていったんだ。僕はそう思った。 「タウ」 「ん?」 「あのさ……ありがとう」 「え?」  タウはみたび手を止めて、薄ら笑いを残したままあっけにとられたような顔をした。 「何だよ突然」 「ううん、僕が色々変わっちゃってからほぼ四ヵ月間、お世話になったなって」  タウは無言のまま僕の方を見ていた。まろやかな光にあふれた部屋の中に、またかすかにするどい空気が侵食してくるのを感じる。僕はあわてて言葉をつづけた。 「ごめん、シラケさせちゃった。僕、こういうところだよね。ハハハ」 「ああ、いや、別にいいんだけど」  言わない方がよかったのかな、と思う。でも我慢できなかったのだ。僕はタウの方を向いていた顔を横に向け、建物の東側の入口へと向かっていった。外がまだ明るいうちに、服屋に行こう思った。新しい上着と、できればズボンも手に入れたい。今夜、パーティーでみんなと出会うための、最高のコーディネートをしに行こう。 「ちょっとやりたいことができたから、外に行ってくるよ」  僕がそう言うと、タウはそっけなく「ああ」とだけ返してきた。僕がドアノブに手をかけ、扉を開けようとしたとき、後ろからもう一度、タウの声が聞こえてきた。 「悪いな。もうお前も今の生活に馴染んでるみたいだし、あんまり干渉しすぎるのも迷惑になってたか?」  自信のなさそうな声でそう言われて、僕の顔から思わず笑みがこぼれた。いつもはうらやましいほどに陽気でチャラいくせに、僕に対してはタウはやっぱりやさしすぎるのだ。申し訳ないのはこっちなのに。僕はドアノブを持ったまま振り返り、こう言った。 「全然そんなことないよ。本当に感謝してる」  タウはそれを聞いて、少し安心したような顔をした。今夜は多分、心の底から、本当にパーティーを楽しめるだろう。もちろん、今までだって楽しくなかったわけじゃない。ただ僕は、楽しいということを、タウみたいな人にも分かるように楽しいと表現するのがすごく苦手で、そのことをずっと気にしていたのだ。  扉を開ける。風はもう吹かなかった。屋内にいても屋外にいても、空気や日ざしは何も変わらない。それは僕にとって、ものすごく不自然なことのはずだ。だけど僕はこの時、その不自然さにまるで気づくことなく、温かい気持ちでいっぱいのまま、まっすぐに服屋に向かっていった。噴水の水を浴びることを忘れていたのに気づいたののは、その服屋に到着した直後のことだった。

  2  建物の入り口から公園の噴水を超えてしばらく行ったところに、大理石らしきものと大きな鏡を使った奇妙なオブジェが建っている。午後五時半頃、服屋から帰ってきた僕は、その鏡で自分の姿を確認した。  ——うん。  角度によってはちょっとしっぽが服を貫通しているように見えてしまいそうだが、全体的なバランスは悪くない。そして何より、ちょっとかっこいい。小柄でかわいいと言われるのもうれしいけど、僕はこういうのを一度着てみたかったのだ。あとは、部屋にある黒いキャップを被ればちょうどよくなるように思う。しかし、短足の僕に合うズボンは結局見つからなかった。タウやミュウからは、また下半身ばかり撮られることになるだろう。  この世界に閉め出される前、僕はこのアバターにとても満足していた。僕はケモナーとして、こういう見た目のケモノが好きだったからだ。でも今の僕は、この姿に不満を持っているとまでは言わずとも、他人の姿をうらやましいと感じることが多い。また、以前は露出した下半身を撮られるのは単純にうれしいだけだったが、この世界に来てからは、そのことに言い知れぬ恐怖のようなものを感じるようになっていた。それは多分、このアバターを僕に引き留めているものが、単なる好みや愛着だけではなくなったからだ。この世界に閉じ込められた今、この姿は単なるアバターではない、僕の身体そのものだ。だから僕はもう、この姿から逃れることはできない。人間として生きていた僕がそうであったように、この身体を引き受けながら生きていくしかなくなったのだ。  でも、と僕は思う。そうやってケモノの身体を手に入れることは、決して悪いことばかりでもなかった。たとえばこうやって色々なファッションを試していくことの楽しさは、自分がケモノになってからの方がずっと大きくなった。それは、自分がかけがえのないひとつのケモノとして見られるようになったからだ。色々なファッションをを試して、そのたびに見つめられたり目をそらされたりしながら、どんなに頑張っても狼にはなれない僕が、等身大にかわいくなったり、精一杯背伸びしてかっこよくしてみたりする。それが楽しいのは、どんなに願ってもこの姿を根本的に取りかえることはできなくなって、何にでもなれるわけではなくなったからだと思う。 「おっ、ウサギちゃんじゃない。どうしたの?いかしちゃって」  僕が鏡に集中していると、目の前に大きな影がぬっと出てきて、僕に話しかけてきた。 「あ、ナツメさん」  僕はほとんど真上を向いてそう言った。ナツメは、小柄な僕の五倍以上大きなドラゴンのアバターで、お互いに目の前に立っていると上空から見下ろされているように感じる。最初は突然話しかけられる度に驚いていたが、今ではだいぶ慣れてきた。 「へへへ、誕生日おめでとう。ウサギちゃん」 「ありがとうございます。よく覚えてましたね」  ナツメは僕のことをウサギちゃんと呼ぶ。僕の姿はどう見てもウサギには見えないと思うのだが、ナツメの独特な感性にはそう見えたらしく、はじめて会った時からずっとそう呼ばれていた。  ナツメは、僕と同じく人間の身体の記憶を残したままこの世界に閉じ込められていた。この世界でナツメと出会ったのは、閉じ込められてから一週間以上経ってからのことで、僕と同じ変なことを言うやつがいる、というのでタウに紹介されたのだった。慣れないこの世界をほとんど理解されないまま生きる僕にとって、この世界で自分以外に人間の世界のことを共有できる仲間に出会えたことが、どれだけ大きな心の支えになったか分からない。ナツメという「第二事例」が出てきたことによって、タウをはじめこちらの言い分をある程度信じてくれる人が出てきたという面もあった。 「ナツメさんこそ、こんなところで何してるんですか」  陽が出ているうちに屋外にナツメが出てくるのは珍しかった。ナツメはこの世界に来てからしばらくの間、みずから他人との接触を避けるために、昼に寝て夜に起きる生活をしていた。それが今でも習慣として定着してしまっているらしい。 「別に。なんとなくその辺を飛んでたら、キミが鏡の前に立ってたからさ。どうしたんだろうなあって」 「着こなしを確認してたんですよ。ちょっとかっこいい感じにしてみたくて」 「どうやらそうみたいだね」  僕がナツメの東側に立っているので、ナツメの影が僕の方に落ちている。太陽を背にしたナツメの顔は暗くなっていて、ドラゴンらしい迫力がある。ナツメはその迫力のままに顔を僕にぐっと近づけて、 「でも多分、かわいいとは言われてもかっこいいとは言われないよ」  と言った。 「服もオーバーサイズでズボンも履いてない、だらしないケモセーフスタイルだし、なんかガキっぽさがぬぐえない」 「うーん。それは分かってるんですけどねえ」  ケモセーフスタイルという単語を今はじめて聞いた。人間でやったらアウトなスタイルということなのだろう。しかしまだパーティーの前なのに、ハッキリと言ってくれる。そういうところはとても意地悪だ。僕はわざとむすっとした顔をして、ナツメから目をそらした。 「ごめんごめん、気を悪くしちゃったかな」 「いえ、別に」  口ではそう言いながら、僕がまだ不機嫌そうな顔をやめないでいると、ナツメは少し焦ったような顔をして、少し早口で話しかけてきた。 「そうだ。せっかく誕生日に会えたんだし、キミのお願いをかなえてあげようかな」 「お願い?」  何だろう。ナツメとはそれなりに頻繁に会っていたが、特に何か重大なお願いをした記憶はない。不思議そうな顔をしている僕を見て、ナツメは大きく回り、僕に背中を向けて言った。 「一度私の背中に乗って飛んでみたいって言ってたでしょ」  そう言ってナツメは、僕の身体より大きい翼をバサバサと大きく動かした。そういえば、いつだったかにそんなことを言ったような気がする。アバターの中には、その形状に応じて特別な機能を持ったものがある。僕の場合、それはしっぽを動かすとかその程度のものでしかなかったが、ドラゴンのナツメは、その翼を使って空を自在に飛ぶことができた。それは、もはや姿を交換できなくなった僕にとって、ずるいとすら思ってしまいそうなほどうらやましいことだった。 「どうする?」 「うん、じゃあせっかくだし、お願いします」 「よしきた」  ナツメはそう言うと、前足としっぽの先を地面におろし、身体全体を低くかがめた。それでも頭のてっぺんは、僕の視線よりもかなり高かった。 「じゃあ、背中に乗って」  そう言われて僕は、ナツメのしっぽの付け根の部分から、背中へとよじのぼった。

「飛ぶよっ!」  僕を背中に乗せたナツメは、そう言って公園の草むらをぎこちない四足歩行で走り出し、やがて翼を大きく開いて空へと飛び立った。僕ははじめての空に緊張し、ナツメの首元にしがみついた。  ナツメはものすごい勢いで高度を上げ、あっという間にワールドの高度限界ギリギリまで達した。これ以上の高さへは、見えない壁があっていけないようになっている。元の世界で言うと海抜五百メートルくらいだろうか。ここまで来ると、見わたすだけで島の端から端までが見えそうだ。上昇中は不安定に揺れ動いていたナツメの背中も安定しているし、空気抵抗も感じないので、思っていたよりは安心できた。しかし、飛行機と違ってシートベルトもないため、怖いことに変わりはない。 「ねえ見て!」  緊張が解けない僕に、ナツメが大声で話しかけてきた。 「東の海に影が映ってる!」  東がどっちかなんて考えている余裕がなかったが、ナツメが左を向いているようだったので、僕は慎重に左の方を首を向けた。島の沖、光輝く海に、ゆっくりと翼を羽ばたかせる大きなドラゴンと、その上に乗っている小さな生き物の影が映っているのが見えた。 「どう?結構楽しいでしょ」  ナツメから答えを求められたが、声を出す余裕がない。僕は景色が見えないようにナツメの背中に顔をうずめて、何とか気持ちを落ち着かせて答えた。 「すいません、ちょっと怖いです」 「何、もしかして高所恐怖症?」 「……はい、多分」  ナツメはしょうがないなあとでも言いたげな声でそう返し、ゆっくりと高度を落としていった。やがて現実で言う高度二、三十メートル、ちょっとしたマンションの屋上くらいの高さにまで下りてきた。速さも並の人間の全力疾走より少し速いくらいになっている。 「このくらいなら大丈夫?」 「はい、大丈夫です。ありがとうございます」  僕は自分が運動したわけでもないのに激しく息こんでしまっていた。ドラゴンのような生き物に乗って飛ぶシーンは、ゲームやアニメなんかではよくあるが、実際にやってみると、こんなに恐ろしいものだとは思わなかった。 「まあ、いきなり高いところはきつかったね。ごめんごめん」  ナツメはそう言って笑った。僕のお願いをかなえるという名目だったのに、ナツメの方が楽しそうだった。  僕らが出会ったオブジェのある公園は、島の南東の端の方に位置している。僕らは、そこを起点に反時計回りに飛んで島を一周することにした。ナツメに乗っての空の移動は、高度が低い分にはそれほど怖くなく、僕にも話す余裕が生まれてきた。僕らは色々なことを話しながら、ナツメの希望で、島の一番北にある小さな建物の上で小休止することになった。 「空を飛ぶのも結構楽しいですね」  僕はナツメの背中から降りながら言った。 「……ちょっとうらやましいです。僕にはそういうことはできないから」  そう言うと、ナツメは一瞬だけ驚いたような顔をした。そして、さっき僕の服にケチをつけた時みたいに、意地悪な表情で顔を近づけてきた。 「ふふふ、ウサギちゃんって、結構よくばりなんだね」 「え?」  僕はナツメの発言と顔の近さに驚いて、思わず尻もちをついた。ナツメの影が、また僕をまるごと包み隠す。 「だってキミ、前に言ってたよね。別世界に閉じ込められてケモノにされちゃったっていうのは、今はそれが自分のことだからすごく不安で怖いけど、人間の世界に帰れたらこれは自慢話になるって」 「……そんなこと言いましたっけ」 「言ったよ!」  ナツメはまるで責め立てているかのような激しい声で言った。 「私、その一言で結構救われたんだから」  救われた?僕はさらに改めて驚いた。でもその驚きは、急に心臓が止まるようなものというよりも、ゆっくり、じんわりと胸にしみこんでいくような驚きだった。ナツメと出会って救われていたのは、僕だけじゃなかった。昔の僕の、自分でも覚えていないような発言が、今日までナツメの心の支えになっていたんだ。驚きは、だんだん喜びに変わっていった。しかし、ナツメは僕が笑顔になる隙も与えてくれなかった。 「だからさ、キミも私もケモノになってるって地点で、もうケモナーみんなが憧れるような、夢のような体験をしてるはずなんだよ。それなのにこれ以上をもとめるなんて、よくばりだなあって私は思う」  ナツメの発言には、今まで感じたことがないくらいに気迫がこもっていた。確かにその通りだ。でも、ナツメにそう言われてしまうと、どうも反論したくなる。 「ナツメさんの言うことも分かるけど、でもそれとこれとは別ですよ。自由に飛べる存在を目の前で見たら、僕も自分の好きなように飛んでみたいって思います」  僕は、またわざとふてくされたようにそう言った。するとナツメは「ふうん」とだけ言って、近づけていた顔を離し、直立に近い立ち方に戻った。そして僕が少しほっとしたところに、ナツメは突然次の言葉を刺してきた。 「キミ、さっきから自由広場に行きたがってたでしょ」  僕ははっとしてナツメの顔を見上げた。自由広場は、島の真ん中にある大きな六角形の広場で、そのさらに中心には小さな木造の塔がある。その塔は登れないようになっているが、ナツメと一緒にいる今なら、それを実現できるんじゃないか、などととぼんやり思っていたのだ。 「え、なんでわかったんですか」  ナツメはその質問には答えず、話をつづけた。 「飛ぶアバターを使ったことのないキミは知らないかもしれないけど、実は人を乗せて飛んでるとき、主導権は乗っている方にあるの。今まではキミが何もしなかったから私も好きに飛べたけど、キミが本気で私を操縦したら、私はそれに逆らえない。それはゲームみたいにどっちが強いとかじゃなくて、システム上そういうものだから」  随分と長くしゃべる。僕は、ナツメの言わんとしていることがだんだん分かってきた。 「どうする。日が暮れるまで、キミの好きなように飛んでみる?」  ナツメは、僕の目をまっすぐに見つめていた。笑っている。でも意地悪な顔ではない、野心に満ちたような顔だった。 「……分かりました。お願いします」  僕がそう言うと、ナツメはふたたび四足歩行の姿になり、身体を低くかがめた。乗れ、ということだ。僕はさっきと同じようにしっぽの付け根からよじのぼり、背中の上、首元のあたりに座った。 「あ、それと、私を操縦するうえでひとつ、飲んでほしい条件があるの」 「何ですか?」  ぼくはふたたび緊張し、すっかり真顔になっていた。ナツメはそんな僕の方は見ず、あくまで前をにらむようにして言った。 「今から私の背中を降りるまで、ウサギちゃんの方は敬語禁止。乗ってる側がへこへこしてたら雰囲気出ないから」

 地面の方へと勢いよく下りながら左旋回し、運河にかかった橋の下をすり抜けるように通る。五分も乗った頃には、ナツメと随分と息が合ってきて、割と自由に飛べるようになっていると感じられるようになった。はじめのうちは恥ずかしくて、控えめな声で「右」「左」「ちょっと下」などと指示していたが、やがて何も言わずに僕の身体を動かしたり、ナツメの首元を押したりして、文字通り「操縦」するようになった。結局二十分以上も飛び、島をまた一周した後、僕らはついに自由広場に向かっていった。 「自由広場の塔に向かうぞ」 「へい、ご主人」 「ご主人は恥ずかしすぎるからやめてほしい」 「へい」  ナツメは自分の意志で飛んでいる時よりも元気で、いきいきとしているように見えた。それを見ながら僕は、やっぱりナツメさんの方が楽しんでいるじゃないか、と突っ込みたくて仕方がなかった。でもその姿を見ていると、僕も楽しくなってくる。緊張はもうすっかりほぐれていた。  日暮れ前、もうかなり暗くなっている中でも、自由広場にはポツポツと、さまざまな種族を象ったケモノ達の姿が見えた。その中には、午前中に会ったばかりのミュウとおぼしき姿があった。僕らはスピードをゆるめつつ、地上数メートル上空まで降りて行った。 「おーい、ミュウ―」  ミュウとおぼしき者が、その声に振り返った。別人だ。僕はとたんに恥ずかしくなり、ナツメの首元をぐっと引っ張って、中心の塔を回るように急上昇させた。 「ハハハハハハハ」  それを見たナツメが突然、僕どころか地上の視線をすべてこちらに向かせるくらいの勢いで笑い始めた。ナツメがここまで興奮して笑う姿を見るのは初めてかもしれない。僕はさらに恥ずかしくなり、操縦どころではなくなった。自由に動けることに気づいたナツメは、僕が驚いて操縦を止めてしまったことに気づき、 「ごめん、超おかしくて、ハハハハハ」  とだけ言って、そのまま自由広場の塔の頂上に止まってしばらく身体を激しく動かしながら、細い塔の頂上からうっかり転落してしまいそうなくらいの勢いで笑い続けていた。あまりの恥ずかしさにただ呆然としていた僕も、やがてナツメにつられて思わず笑顔になり、言うかどうか少しだけ迷ったのち、わざと演技っぽい声を出して、 「ナツメ竜よ。僕をそんなに笑うな。ここから落とされたいのか」  と言い、激しく動くしっぽを思いきりつかんで、投げ飛ばすふりをしようとした。しかし、戦闘ゲームも出しているメーカーが作ったこの世界は妙なところだけよくできていて、僕の小さな身体ではこの大きなドラゴンをびくりとも動かすことはできなかった。僕が全力でナツメのしっぽを引っ張るのを見て、ナツメはさらに激しく笑い転げた。沈みかけた夕日の光をほぼ平行に浴びたナツメの翼の薄い影が、ものすごい勢いで回る日時計みたいに島の東側を駆け回り、この世界の建物や、道行くケモノ達の姿を切り裂いた。

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