普通の人

 窓のカーテンの隙間から僅かに月明かりが 差し込む深夜の部屋の中。ひ弱な身体をした 人間である俺が、狼男に見据えられていた。 煌めく牙から、舌をぬらりと覗かせるそいつ。 今にも食べられようとしている、誰が見ても 恐ろしいこの状況で俺は…… (ピリリリリリ) 「……どうした?」 「もしもし、やっほー!オンラインになって たから、電話かけていいかなって!……だめ だった?」  ……俺は、いきなりパソコンから着信音が 鳴り響き、狼男の前にポップアップが現れた ので、それに応答するのであった。  ……改めて状況を説明すると、俺は別に危 機的な状況でもなんでもなく、ただパソコン でお気に入りの動画を再生していただけだっ た。その時に、普段から話し相手になってい る奴から唐突に電話がかかってきただけ、と いうわけである。はぁ、と俺は一息つきなが ら、誰に見られるというわけはないが、どこ か羞恥心を感じて、下着姿になっていたとこ ろにパジャマをサッと羽織る。 「別に、動画見てただけだから大丈夫。要件 はなんだ?」 少し動揺する心を抑えて、努めてなんでもな いように『普通』っぽく答えた。 「あー、じゃああんまりタイミング良くなか ったね?いつものvoreもの見てたんでし ょ?」 いやなんでこいつはそこまでわかるんだよ。 何でもないように取り繕ったことも相まって、 俺はなんだか気恥ずかしくなる。……毎度、 コイツの勘は俺が勘ぐられたくないことに関 してのみ強くて困らされるんだよなぁ。 「……悪いか?」 「え、当たってた?なんかごめん」 「別に。……少し、複雑なだけだから」 当然、勘繰られたくないことを言われた俺は あからさまに不機嫌そうな声で話してしまう のだが、そんなものはどこ吹く風、それに反 した明るい声でま、そうだよねーとわかった 風に言われる。……理解があるつもりなら、 はじめからそう言うことを話しかけるなよ。 アイツにそのつもりがない、とどこかわかっ ていながらも面白がって言ってるように見え て、どうしても腹が立って仕方がなかった。 「悪いけど、用がないなら切るぞ」 俺はいらだった口調でマウスを乱暴にクリッ クする。え、待ってよ、と言う言葉が聞こえ た気がするが、それを気にする間もなく通話 がプツリと切れた。  はぁ、と俺はため息をつく。全く、迷惑な 奴だ。いきなり電話をかけてきて、こいつに 俺の性癖について話すんじゃなかったな、と 悪態をつく。最後に待てとは言っていたが、 何か大事な用があるならチャットを送ってく るだろう、と俺は関心を外そうとした。  ──いきなり何も言わずにブツ切りするなん  て、酷いんじゃない?  ……アイツが先にあんなことを言うのが悪い  んだろ。俺は悪いことをしてねぇはずだ。  ──自傷行為に人を巻き込むのは良くないよ。  うるさい。  そういって自分の心のざわつきから耳を塞 ぐ。分かってる、客観的に見たら最低なこと をしたことぐらい。アイツは至って『普通』 な振る舞いだった。ただ、俺を軽くからかお うとしただけのことを、俺が過剰反応しただ け。でも、それがわかっていても、もう後悔 にしかならないと言うのが分かっているから、 開き直るしかないのだ。自己嫌悪しても、仕 方がない。  そうだ、この気持ちは、自分が好きなケモ ノを見て紛らわせば良い。俺は、狼男のよう な獣人といったタイプの、特にオスのケモノ が好みであった。そして、動画を見て、あた かも彼らと一緒にいるかのように妄想をする ことを常としていた。  自分より大きなケモノに、包まれるように 抱き抱えられて……いや、小さなケモノの笑 顔を見てただ癒やされるのも悪くない。はた また、さっきの動画を見ようかな。自分の好 みの見た目の狼に一生を終わらせてもらえた ら、それが相手の為になれたら。きっと幸せ になれるのにな……。 (ピピピピピピ)  しかし、そんな妄想は、またも着信音が阻 害する。今度は携帯からの着信音だった。仕 事の連絡か、と更にどんよりとした顔をして しまうが、スマホに表示された着信元が違う ものを表示していたため、少しホッとした表 情で応答する。 「……母さん、どうしたんだよこの時間に」 「──ちゃん?よかった、電話かけるのが遅 くなったから起きてないと思ってた」 「大丈夫、と言うかいつもこの時間なら起き てるだろ」 「それもそうだったわね」  それは母からの電話だった。仕事先からじ ゃないという喜びと、しばらくぶりだったも のだったものから、少し声色が明るいものに なった。  それからしばらくは、とりとめもない世間 話をしていた。風邪はひいてないとか、仕事 が大変だとか、『普通』の家族らしい会話を していたのだが。 「それはそうと……あなた、そろそろ彼女は できた?」 その母の言葉にふと、言葉を詰まらせる。 「……まだだよ。」 「え、まだなの?もうそれなりの歳なのに」 少し、呆気に取られたように言う母。俺に対 して、こう言った話は来ないとは思ってなか ったが、実際に言われると……ズキズキと心 が痛むものだ。 「なぁ、結婚のことは諦めてくれよ。俺には ……多分、出来ないと思う」 努めて、冷静にそう言う。事実を淡々と伝え るように。母が、傷つかないように。 「どうして?あなたなら大丈夫よ、いつか彼 女が出来るわよ、私もあなたのお孫さんを見 たいのよ」 しかし、母さんから帰って来た言葉はそんな 俺の意図を一切汲まれていないものであった。 いくら母が相手でも、少しムッとしてしまう。 「……やめてよ」 「なに?」 「そういうの、やめてほしいんだよ」 俯きがちに、手を震わせながら俺はそう告げ た。しかし、母にはどうやら声色だけでは俺 の表情は見えないようだ。 「どうしてよ、親が孫の顔が見たいと思うの は『普通』じゃない?」 その言葉に、ギリッ、と音を立てて歯ぎしり をする。コップから溢れ出した水のように、 いやひっくり返したバケツのように、感情が 溢れ出して、俺は大声で張り上げた。 「やめろっつってんだろ!!!俺が『普通』 じゃねぇんだよ!!!俺は!動物のキャラし か、しかも男しか好きになれないの!!!こ れでどうやって、『普通』の恋愛をしろって 言うんだよ!!!」 そうだ、俺には孫を親に見せることも、好き な人に会わせることすらできないんだ。『普 通』ではないものを好きになっているんだか ら。だからそれを期待されても何一つ……応 えることができない。その事実を伝えてしま った。 「……ごめんなさい……私が、間違ってたわ ね」 しかし、それは同時に、母の期待を無惨に打 ち砕くことを意味する。しばらく間を置いた のちに、鼻を小さくすすりながら、弱々しい 声でそう言った母の言葉に、俺はハッとする。 「ちが、そうじゃ……」 「いえ、あなたが正しいわ。あなたが好きな 相手を、決めるんだもんね……それを押し付 けがましく……私が、間違っていた……」 違う。確かに俺はそれを求めないで欲しいと は言ったが、間違いだったと言わせたかった んじゃない。俺への期待が、間違っていたな んて言いたくはない。しかしだ、じゃあ期待 を無下にした俺が……どんな言葉をかければ、 いいと言うんだ。 「お母さんは大丈夫だから……元気にしてて ね……」 結局、何の声を出せずに、母に電話を切られ てしまう。カタリ、とスマホを力なく机の上 に置いて、床に倒れ伏した。  やはり、言うべきではなかった。こんなの 絶対に『普通』じゃないから。俺が、ケモノ が好きだなんて、そんなの絶対『普通』では ないから、絶対相手を傷つけるから、言いた くなかった。  ……いや、違う。ただ、俺が変わっていな いと思わせたかっただけなんだ。どこに居て も異端だった俺を『普通』だと思い込んでい て欲しかった。だから、拒んだ。『普通』で はないと扱われることを。俺自身が、傷つき たくないから。  ──それで、『普通』は得られた?  あぁ、得られてないよ。  ──親は泣いていたね?  あぁ、泣かせたよ。  ──悪いのは自分だよね?  あぁ、そうだよ。  そう思っても、ケモノに抱く執念を捨てる ことはできない。決してこの気持ちを譲るこ とができないと気づいた俺は、失ったつなが りを後悔しながらも、もう『普通』でいるこ とを諦め、どこか吹っ切れたような笑顔を浮 かべる。  部屋の外でいつの間にか降っていた雨によ って、無機質に放たれるパソコンのブルーラ イトは、また自分の部屋へと反射されていた。

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