嘘つき達の秘密基地

野良笛やおふう

【一、かの日かの場所へ】  子供に戻りたいと願ったことは、誰しもあるだろう。  そこに種族の違いは無い。猫族であれ、羆(ひぐま)族であれ、ヒト族であれ、俺のような犬族であれ。子供時代は誰にでもあり、記憶は年月によって磨き上げられ、ときに美化され、本来以上の価値を帯びるかもしれない。そして、更に願いは強まっていく。  だけど。願って、万が一叶って、戻れたとして、俺はそこで何がしたいのだろう、何ができるだろうと考えていた。考えることで道中の時間を潰し、気まずさをやり過ごすしかなかった。  男三人で肩を並べて歩きながら、誰も沈黙を解こうとしなかった。こういうときに気を回すのが得意だった猫族のタビでさえ、つま先を見たまま口を閉ざしていた。羆族のユウは当時から寡黙で、不機嫌に見える表情も相変わらずだった。  十五年。長いようにも短いようにも感じられる空白は、思っていたより俺達の間に大きな隔たりを作っていたのかもしれない。  もう夕刻だというのに、八月の太陽はその往生際の悪さで依然としてアスファルトを灼(や)き、大気を蒸し続けている。ほんの十分歩いただけで、額から首筋まで汗が伝った。修行僧よろしく暑さに耐えながら練り歩くことになったきっかけは、タビだった。  四つ上の姉の結婚式が終わり、式場を後にしようとしたところだった。 「ケンくん、秘密基地に行きましょう。三人で」とタビは言った。  式が始まる前にタビとユウの姿は目に入っていた。姉の晴れの日に招待されて駆けつけないわけがない。姉は、俺だけでなく二人のことも弟のように面倒を見ていたのだから。殊に、あの事件の後は過剰とも言えるほど気を遣って。  秘密基地といっても正確には跡地だった。跡地を訪れて思い出に浸れるほどの情緒は持ち合わせていないし、事件のことも思い出したくない、と言ったら薄情だろうか。もう十五年も経っているというのに。でも、丸眼鏡の奥で見開かれたタビの目は真剣そのもので、すがるような色さえうかがえて、気付けば曖昧に頷いていた。  ユウにはもう話を付けてあるとタビが言ったとおり、式場の出入口には腕を組んで仁王立ちしている大男がいた。ユウを境に人の流れが二手に分かれ、皆がすれ違いざまにちらと顔を盗み見るも、表情一つ変えず視線も動かさない。威圧的なまでに大きな体躯は、式場に突如根を下ろした巨木か、無思慮に設置されたはた迷惑な電信柱を思わせた。さり気なく人々の動線から外れるよう誘導すると、ようやく「見つけやすいようにと思ったんだが」と低い声で言った。そう、悪気は無いのだ。その鷹揚さと堂々たる振る舞いは羆族の父親譲りだった。  タビが「寄ってもいいでしょうか」とコンビニを指差したきり、一言も交わさないまま秘密基地跡地に着いた。  砂利を敷いてトラロープで区切っただけの有料駐車場。車止めも、料金表示の看板も、精算機も無い。駐車場の裏に立つ管理人宅の戸を叩き、直接料金を手渡すのだ。  ただの空き地に見える駐車場の隅っこに、ぽつんと祠が居座っている。十五年前、この近くに神社があった。区画整理事業で道路拡張の折に取り壊され、場所を変えて祠だけ残している(名目上は移転とされている)。 「懐かしいな」とユウが溜息混じりに漏らし、「そうですね」とタビは同意する。何の跡形も無い跡地、戻れはしない子供時代、容易く取り除かれた秘密基地(秘密といっても大人には全てお見通しで、大人が知っていながら干渉しないことで子供の秘密は保たれている)。それに、サキは帰って来ていないというのに。  タビが祠に歩み寄り、コンビニ袋から何やら取り出して供えた。油揚げだった。二枚入り税込み百十円。  小さな祠。中には狐の石像が収められている。この狐は「いなり様」と呼ばれている。神社で目にする狐像は稲荷神の使いであって神そのものではないらしいが、街の発展のために引(・)っ(・)越(・)し(・)させられる神が、狐なのか不定形の存在なのか誰も気に留めないだろう。 「せっかくですから、何か願い事しておきましょうよ」  こんな寂れた祠に願い事とは。わざわざ供え物まで用意して。タビは「無理にではないですが」と縮こまる。せっかくの提案を無下にするのもばつが悪い。とりあえずは考える素振りを見せておく。  交通安全、無病息災、商売繁盛、家内安全の前に良縁成就か……硬貨二枚で願うにはどれも図々しいし、そんなコスパの良い神様がいるはずはない。どうせ叶わないのなら大願成就といこう。  大人の男が三人揃って、有料駐車場の隅で、目を閉じて両手を合わせる様はあまりに奇妙で滑稽だと思った。タビは、ユウは、何を願うだろう。雑念入り混じりながら、自分の願いも念じておく。 「その願い、叶える機会をやろう」  凛とした女声が聞こえた。  瞬間、紙芝居を引き抜いたみたいに周囲の景色がまるごとごっそり変わった。  薄暗い。正面には木々が立ち並び、足元は砂利ではなく暗褐色の土。あたりは蒸し暑さと共に草木の匂いに満ちている。見上げれば、大きなブルーシートが三角屋根を作り、壁のように周囲を覆っていた。長い枝同士が紐で結わえ付けられ、ブルーシートの支柱になっていた。直射日光と雨をしのぐには申し分ないほどよくできたテントだった。  全て見覚えのある光景。ここはまさか、 「秘密基地、だな」  落ち着き払った子供の声に代弁される。声の在り処を見やればユウだった。巨木でも電信柱でもない、子供姿のユウ。  タビの姿も子供の頃のそれだった。鏡があれば自分の姿も確かめられたが、二人と目線の近い俺もまた、子供の姿であるに違いない。 「我は稲荷神。供物を持参するとは殊勝であるぞ、人の子よ」  振り向くと、ビールケース(イス代わりに持ち込まれたものだ)の上に両手で持てるくらいのぬいぐるみが載っていた。さ(・)る(・)ぼ(・)ぼ(・)みたいに、大きな頭に対して手足は短く、吊り上がった糸目(文字通り黒い糸が縫い付けられている)、つんと上を向いた鼻。 「ここは十五年前の今日じゃ。用があればこの愛らしい人形に話し掛けよ。手が空いていれば相手してやる。供物の分は働いてやろう」  間が置かれる。質問の時間を与えられているのだと思ったが、何が何やらだった。結局誰も口を開かないまま(ものの数秒しかなかったが)、 「では、願いを叶えるがいい。お前達次第だが三日もあれば十分じゃろう。やよ励めよ」  人形が静かになると、ささやかな風で葉の擦れる音がよく聞こえた。 「せっかちな神様だな」と、両腕を組んだユウがこぼす。姿かたちは子供なのに、佇まいには子供らしさの欠片もない。俺達の中身は二十五歳なのだから当たり前だけれど、それを差し引いてもユウの悠然さは、この不可思議な状況において俺を安心させた。  子供のときも頼りになった。秘密基地はユウの指揮のもと作られたのだった。カブスカウト隊に入っていたユウは、デン作りの経験を活かして設計図の作成やら材料の調達やら手際が良かった。「デン」は獣の巣を意味するそうで、カブスカウトでは秘密基地を指すらしい。珍しくユウが口数多く説明していたのでよく覚えている。ついでに「カブ」が動物の子供を意味していることも。 「本当に、これは現実なんでしょうか」  タビは独り言のように言いながら、手を何度も表裏させてみたり、耳をぐしぐしやってみたり、眼鏡をかけたり外したり、尻尾を追いかけるようにその場でぐるぐる回ったりしている。取り乱しているわけではなく、興味深く観察しているようだった。  幸い銃弾飛び交う町に丸腰で放り出されたわけではない。頭を整理して、これから何をすべきなのかを考える猶予はありそうだ。 「おお、みんなもう来てたんだ」  間延びした声と共に女の子が現れた。猫族でも羆族でも犬族でもない。ヒト族の女の子。  心臓に氷で触れられたような心地がした。体は無意識に固まり、その姿に釘付けになった。秘密基地で一緒に遊んでいたのは、この子も含めて四人だった。  見間違えるはずがない。忘れようはずもない。十五年前の事件、世間を一時的に騒がせ(すぐ忘れ去られ)、記憶の奥底に取り除けない棘のようにいつまでも残り続ける『ヒト族女児神隠し事件』の被害者、サキだった。

【二、みんなの願い】  夢でなければ、起きていることは現実で、言葉で説明できる。俺とタビとユウは子供の姿になって、かつて俺達の手で作られた秘密基地にいる。  こうなった理由は皆目見当が付かない……わけでもない。俺の願いが叶えられたのだ。  叶うはずのなかった大願成就、戯れの願掛け。神の存在を一ミリも意識せず心で呟いた願いは『子供に戻りたい』だった。  いなり様は、それぞれの願いを叶えよと言った。「叶えてやる」ではなく「叶える機会をやる」と。そして「お前達次第」とも。自分の手で叶えろと言っている。  子供に戻るなんて、文字通り神頼みでないと実現しない。自分の手では不可能だ。何も労せず叶ったのは例外扱いだろうか。  タビとユウが何を願ったのか知っておくべきだろう。手っ取り早く済ませるなら手伝った方がいい。いなり様の言っていた三日間が十分な時間なのか分からないのだから。  しかしそれは最優先事項ではなくなった。サキが現れたことで。 「今日も暑いわあ」と脱いだ麦わら帽子をうちわにして、白いTシャツの襟を引っ張ってあおいでいる。  被毛のある俺達三人と違って、サキの素肌はヒト族らしく白くつるりとしている。肩甲骨にかかる黒髪は柔らかく風になびいている。水色のスポーツサンダルも記憶に残っている。あの頃のまま、失踪当時のままだった。  呆然とする男子三人に、サキは怪訝な表情を浮かべた。 「あれ。なんか私に隠しごとしてる?」 「いやそんなことは、」  処理すべきことで渋滞している頭がとりあえず否定の言葉を捻り出すと、 「タイム!」  タビが叫んだ。手でT字を作って。 「そうなんです、ちょっと秘密の会議をしてまして。ケンくん、ちょっとこちらへ」  ユウの顔を窺うと、目が「問題無い」と言っていたので、タビに手を引かれるまま秘密基地から少し離れた。 「黙っていた方がいいでしょうか」  タビに言われて気付いた。俺達でさえ完全に飲み込めていない状況をサキに説明するのは難しい。黙っているのが吉だ。 「サキの前では子供でいこう。でも三日で願いを叶える宿題もある。俺は子供に戻りたいと願って、このとおり。だから二人を手伝うよ。タビの願いは何?」  簡単な問いなのに、タビは奥歯に物が挟まったように「ええと」と俯いてから、 「子供の頃の秘密基地にみんなで行きたい、と願いました」  と笑ってみせた。ならば既に叶っている。 「ユウには俺から話すよ。サキにうまいこと言っておいてくれるかな」  タビと入れ替わりになったユウは、「自分は何も願っていない」と言った。「考えているうちに秘密基地に来ていた」とも。  サキは不満げな腕組姿で待っていて、どこぞの電信柱を彷彿させた。タビの手には負えなかったらしい。 「秘密の会議って何。私に言えないこと?」 「まあいいじゃないですか、それより、まずはかくれんぼですよね、隊長」  そう呼ばれて思い出した。秘密基地では俺が隊長で、ユウが副隊長だった。タビは四月に転入してきたばかりで、サキが秘密基地に来るようになったのはその後だった。子供ながらに年功序列があったのかもしれない。複雑な気持ちになる。秘密基地作りの最大の功労者であるユウが隊長になるべきだったのに、「自分は副でいい」と頑なで、流されるままに俺が隊長になったのだった。  かくれんぼは好都合だ。いっぺんに色々起こりすぎて一人になる時間がほしかった。タビも同じ考えでの策だろう。 「最初はグー」は魔法の言葉だ。釈然としない様子だったサキも慌てて声を揃えた。鬼はユウだった。  身を隠しながら考える。タビは子供のときの秘密基地に行きたいと願い、叶った。そして俺も。ユウは何も願っていない。  叶えるべき願いは叶ったのだし、子供でいる必要は無い。今すぐ大人に戻ってもいい。子供に戻りたいと思ったのは、子供になりたいからではなくて、大人でありたくないからだ。希望ではなく逃避。いや、期限付きなんて逃避にもならない。こんな気休めは毒だ。  いずれ失われると分かっているなら初めから手にしない方がいい。期待に手を伸ばすのは疲れるし、指先からするりと逃げられるのは堪える。手近な諦めに身を委ねて平穏に流されている方が痛みは少ない。本当に手に入れたいものから目を背け、自分に嘘をつき続ける。そういう生き方を受け入れるのが「大人になる」ということなのかもしれない。 「ケン、見つけた」  頭上にぬっと大きな影が現れた。 「ずいぶん早いね。本気出し過ぎじゃない」 「勝負事で手は抜かない主義だ。ほら、秘密基地に戻れ」 「なんで」 「捕まったら牢屋行きだろう」  そんなルールだったか。かくれんぼで見つかった人をどう扱うか、全国共通のルールはあるのだろうか。  タビもサキも早々に収監された。ユウの捜索力をもってすれば、どんな犯罪者も行方不明者もたちまち発見されそうだ。  結局、その後も遊び続けてしまった。おにごっこ、缶けり(秘密基地にはこのための空き缶が常備されていた)、だるまさんがころんだ、木登り。散々走り回り、息を切らし、汗をかき、ひたすら遊んだ。タビは本当の子供のように溌剌(はつらつ)として、ユウも顔には出さないが真剣勝負を貫いていたのを見るに楽しんでいるようだった。  日が傾き、サキは「明日は駄菓子屋行きたい。財布持って来てね」と言い残して家に帰っていった。 「サキが、戻ってきたな」  ユウの声は重かった。当然だ。サキも三日を過ぎれば消えるだろう。いや、俺達がサキを置き去りにして大人に戻るのだ。 「サキは戻って来てないよ。俺達が戻って来ただけ」  自分の言葉で更に気が重くなった。 「疲れましたね。今日は帰りましょう」  タビが俺とユウの背中に優しく手を当てた。 「ええと、実家に帰っていいんでしょうか」 「如何にも。それぞれの家に帰るのじゃ」  いなり様人形が応えて喋りだした。 「願いは叶ったから、大人に戻してもらっていいんですけど」 「ほう……なるほどな。急がずともよい。三日くれたのじゃ。やよ励めよ」

 父は風呂に、母は台所で夕飯の支度をしていた。若返った母は、十五年がいかに大きな隔たりか物語っていた。 「姉ちゃんは」 「友達の家で食べてくるんだって」  この手の話で少し嫌そうな口ぶりになるのは相変わらずだった。姉の友達というのは、同じクラスのヒト族の男の子だった。どういう人なのかはよく知らない。母は、というより母の世代は、自分の子供がヒト族の子と親しくするのをよく思っていない。こういうのは世代差であって、年齢を重ねて変化するものではないのだろう。  なぜヒト族を忌避するのか、きっと誰も理由を知らない。いや、理由なんて無いのだろう。そういうものだから、そう言われて育ってきたから、それが当たり前だから。そうやって皆が作り上げた空気なのだと思う。

【三、タビの嘘】  僕は嘘をついてしまいました。  子供の頃の秘密基地にみんなで行きたい、その思いに嘘はありません。実際とても楽しかったのです。ですが、本当の願いを隠すための、その場しのぎの嘘でした。  言いづらかったのです。いなり様にお願いするほどではなく、ケンくんとユウくんに直接伝えれば済む願いだから余計に。でも十五年ぶりの再会で持ち掛けるには図々しいと思ったのです。引き延ばすほどに伝える機会は失われていきます。  ケンくんは、転入してきた僕に初めて声を掛けてくれた同級生でした。ユウくんは初め怖い印象でしたが、寡黙と温厚と懐の深さと仏頂面が共存した、一緒にいて心地良い友達になりました。  他の子達は、両親について人伝に耳にしていたようで、「住所が無い」とか「警察から逃げ回っている」とか噂していました。  中には「猫族は自己中だから平気で約束を破ったり友達を裏切ったりするらしい」と陰口を言う子もいましたが、それは確かに、少なからず見られる種族性だったので、黙って聞き流すしかありませんでした。  猫族らしく自由奔放を地で行くような両親で、一つの土地に長く住んではいられないのでした。当然、僕も二人の流浪癖に付き合わされて学校を転々としました。学校は子供にとって生活の根っこです。僕はいつまでも根を下ろせずにいました。  両親のことは嫌いではありませんでした。何か無理強いしたり、過度に干渉したりせず、自由に生きる大切さを説いてくれました。ただ、自分達の自由は全てにおいて優先されるのでした。「今の学校だけは離れたくない」と泣きついても、「付いて来るも来ないもタビが自由に決めていいんだよ」と荷造りの手を止めないくらいに。学校に根を張れないのに、親と離れたら、僕の居場所はどこに見出だせるというのでしょうか。  駄菓子屋は秘密基地からそう遠くはありませんでした。恰幅のいい猪族のおじさんが、所狭しと並べられたお菓子やおもちゃに埋もれて新聞を読んでいました。僕達がお店に入ると、眼鏡をずらして「いらっしゃい」と微笑みました。  おじさんの横では、男の子がラムネを飲んでいます。ヒト族の子です。目が合ったので「こんにちは」と声を掛けると、男の子はおじさんの顔を見上げました。何かを問いかけるように。おじさんが頷くと、お店の奥にある部屋(駄菓子屋はおじさんの家と繋がっているのです)へ引っ込んでしまいました。猪族の特徴が全く無いので、おじさんの家族ではないと思うのですが。 「おじさん、あの子はお客さんですか」  なんとなしに訊いただけでしたが、おじさんの顔を見て「しまった」と思いました。 「気になるかい」  柔和な形をしていたおじさんの目が、すっと細められました。品定めをするように。試されている心地でした。ヒト族の話題になると大人がピリついた雰囲気になるのは当時よく感じていました。理由は分かりません。理由なんて無いのかもしれません。ただ、確かにそういう空気はあるのです。以前より薄まったとはいえ、いつでもどこかに漂っているように思われます。  みんなが、みつあんず、ラーメンばばあ、よっちゃんイカ、うまい棒、きなこ棒、カルパス、ココアシガレットなんかを一つひとつ手に取って目を輝かせていました。僕もおとなしくそうしていればよかったと思いました。  言葉を選ばなければいけません。見た目が子供であっても踏んではならないものはあるでしょう。 「……友達になれたらいいなと思って」  おじさんは、にこりと笑いました。 「誰とでも仲良くなれるのは尊いことだね」  でも、と、おじさんは続けます。 「関わらない方がいい。ここはあの子の唯一の居場所なんだ。ろくすっぽ面倒見ない親でも、種族差別を野放しにしている学校でもなくね。あの子は救われたくて、私に会いに来ているんだよ」  まるでかわいい孫を愛でるような朗らかさでしたが、背中に汗がつうっと流れるのを感じて身震いがしました。 「誰も守ってやらないなら私が居場所になるしかないじゃないか。いつか、柵(しがらみ)も謂(いわ)れの無い忌避も置き去りにして、二人だけの居場所に連れて行ってやるんだ」  おじさんは僕に顔を向けてはいましたが、視線は僕を通り越したどこか遠い先を見ていて、全て独り言のようでした。 『柵も謂れの無い忌避も置き去りにして、  二人だけの居場所に連れて行ってやるんだ』  自由に見せかけた自縛。僕には羨ましく思われました。自由とはそんなに魅力的なものでしょうか。絶対に優先されるべきものでしょうか。猫族に生を受けたからには自由奔放であるべきなのでしょうか。  かつての僕が「居場所がほしい」と言ったなら、連れて行ってもらえるのでしょうか。 「タビもラムネ飲むか」  ユウくんにラムネの瓶を握らされて、我に返りました。手のひらが痛くなるほど冷えた薄水色の瓶。表面は結露していて、手汗と混ざり合って滑り落としそうになりました。 「あの駄菓子屋は、今もあるんですか」  帰り道、ケンくんにこっそり訊ねました。先を行くサキちゃんは、のべつ幕なしに喋っていて、隣でユウくんが「おう」「そうか」「それも人生だな」と相槌を打っていました。子供が人生を語るのはおかしくないですか、ユウくん。話題が気になります。 「タビが引っ越した後に閉まったよ。又聞きだけど、あのおじさん、おかしく(・・・・)なっちゃったらしい。お店のシャッターに意味の分からない張り紙して、いなくなったって」 「なんて書いてあったんですか」 「俺はよく知らないけど、姉ちゃんが言うには、二人の居場所に行くとかなんとかって、」 「ねえ、何こそこそ話してるの」  サキちゃんが急に振り返りました。  思いがけず「ひっ」と情けない声を上げてしまい、サキちゃんが吹き出しました。秘密基地に着くまでお腹を抱えて笑っていました。  ビールケースの上で、玉押しをぐっと押し込んでビー玉を落とすと、しゅわしゅわと音を立てて炭酸が上がってきます。急いで口を付けると夏の味が喉を滑っていきます。  買ってきたお菓子一つひとつは懐かしい匂いがして、塩味も甘みも力強く容赦がなくて、みんな夢中になっていました。あたりは常に蝉の声が満ちて、木々の隙間を穏やかに抜ける微風が、汗で湿った額や首筋の毛を撫でていきます。  あまりにも単純な時間に、どうしようもなく愛着が湧きます。ずっとこのまま、みんなといられたらいいのに、と。  とはいえ、願いは叶えなければなりません。『みんなと友達に戻りたい』  いなり様は分かっていると思うのですが、これは大人になったみんなと、です。  子供のままでは叶わない願いです。大人に戻ったら二人に……いや、三日間のうちに伝えなければいけないのかもしれません。一度嘘をついてしまった手前、言い出しにくいのですが。でも今は。今日だけは。この時間に揺蕩(たゆた)っていてもバチは当たらないでしょう。  ふと、小さな疑問が浮かびました。 「そういえば、駄菓子屋にいたヒト族の男の子は、同じ学校の子ですか」  あの学校は半年ほどしかいなかったので、同級生でさえあまり覚えていません。学年が違えばなおさらです。みんなは知っているかもしれません。ただそれだけだったのですが。  三人は顔を見合わせて不思議そうにしていました。サキちゃんがみんなを代表して言いました。 「そんな子、駄菓子屋にいなかったけど」  手の中のラムネ瓶は、また汗をかいたようになりました。

【四、姉弟と遺伝子】  今日の夕飯は姉も一緒だった。  なぜか姉の視線が突き刺さる。何を言うでもなく、観察するようにちらちらと。 「姉ちゃん、俺に何か言いたいことが……?」  姉は答える代わりにギロリと睨んだ。さっさと食事を済ませて逃げるように自室に駆け込むとドアを叩かれた。コンコンではない、ドンドンドンドンである。 「どうしたの姉ちゃん」 「あんた誰」 「俺は、俺だよ。質問の意図が見えない」 「ケンじゃない。中身が別の人みたい」  細かな変化に気付く嗅覚、正義感と誠実さは、犬族の特徴と言われる。言われているだけであって実際のところは人によるから当てにならない。血液型で性格を決めつけるようなものだ。もし遺伝子に刻まれているとしても、成長の過程で俺がとっくに失っているように、大抵の大人は嗅覚も正義感も誠実さも持ち合わせてはいない。少しでも残っていれば世の中はもっとマシなはずだ。  ところが、姉は子供のときから人一倍鋭い嗅覚を持ち、大人になっても失われなかった。正義感と誠実さにあっても時に苛烈と思えるほどだ。 「何を根拠に」 「いつもと違っておとなしすぎる。玄関の靴が揃えてあったし、箸の持ち方が直ってた。言われる前に食器を流しに置いてた」 「成長だよ、成長。圧倒的成長」 「意図だの根拠だの難しい言葉を知ってるはずない」 「ばかにしすぎでしょ」 「姉ちゃんなんて呼ばれたこと無いし、ケンは俺って言わない」  それは失敗だった。この頃の呼び方は、お姉ちゃんであり僕だった。 「何より、ケンの隠し事を見抜けなかったことなんか無い。私の弟なんだよ。しら切るつもりなら、思いっきりぶん殴る」  姉は有言実行を座右の銘としている。つまり観念せざるを得なかった。「信じてもらえるとは思えないけど、」と前置きして洗いざらい白状した。昨日は投獄され、今日は暴力を盾に自白を強要されている。ただ、たとえ拷問されようともサキの失踪事件については伏せておくべきだと思った。目の前の姉のためだ。あんなに暗く沈んだ顔をしたのは、後にも先にもあれっきりだ。二度もあんな顔はさせたくはない。 「なるほどね」 「信じるんだ。俺でさえ半信半疑なのに」 「うん、嘘の匂いがしない」  鉄拳制裁を回避して胸を撫で下ろすと同時に、かつて俺はどんな嘘の匂いを嗅ぎ分けられていたのだろうとぞっとした。 「でもさ、おかしいよね。最初から三日間も要らないはずじゃない」  姉の言うとおりである。いなり様は願いを聞いた時点で分かっていたはずだった。 「大人に戻してくれなかったのって、誰かの願いが叶ってないからじゃないの」 「いや、そんなわけ、」 「例えば、本当の願いを秘密にしてる子がいるとか」  はっとした。考えもしなかった。ふと、願いを訊ねたときのタビが思い起こされた。ありえるかもしれない。  願いが無いと言ったユウが子供に戻るのもどうだ。タビの「子供のときの秘密基地にみんなで行きたい」という願いを叶えるなら、サキと同じく子供時代のユウがいればいい。大人のユウが子供に戻る必要は無い。 「それにケンは本当に願いが叶ったの? 子供に戻ったのは体だけって感じがするけど」  首を傾げる俺に、姉はごまかすように言う。 「そういえば、将来の私ってどうなってる?」 「言っちゃっていいの、それ」 「……いや、やっぱりいいや。たぶん聞いても私の将来は変わらないし。私は私に嘘をつかないし、自分が正しいと思うことをする。大人になっても今のままだと思う。私は私を貫くのみってことよ」  おどけて拳を突き出す姉を見て、なぜか泣きそうになった。自分に嘘をつかなくても大人になれる姉は、確かに犬族の遺伝子を持っている。

【五、ユウの嘘】  自分は嘘を付いた。 「何も願っていない」わけがない。誰よりも強く願った自負さえある。叶うはずがなくとも、滑稽であろうとも、願わずにはいられなかった。不謹慎ですらあったかもしれない。だから言えなかった。ケンが聞いたら「言っていいことと悪いことがある」と怒るだろう。タビですら眉をひそめるに違いない。  今日はいなり様が言うところの三日目だ。サキは「花火大会に行こう」と言っていた。町内掲示板でポスターを見たらしい。  午後七時から打ち上げが始まる。花火大会といっても、夏祭りの終わり三十分間で六千発ほど。夜空に騒々しく爆発が連鎖するような花火より、一発ずつ丁寧に咲くこの町の花火は自分にあっている。  事件の後は、夏祭りに足が向かなかった。区画整理で立ち退きになり別の町に移り住んでからも(提示された移転先は測って切り分けた羊羹みたいな小綺麗さで土地が隣接していて、「狭っ苦しくてやってられるか」と父が激怒して新たに土地を購入したのだった)。  サキが失踪したのは夏祭りの最中だった。大勢の人がいて、自分達と直前まで一緒にいたにも関わらず、誰の目にも触れることなくサキは姿を消した。  秘密基地がある山(高くも広くもなく、ほとんど丘と言っていいし、遊歩道や駐車場もある)や、用水路やら川やらも捜索されたが(水辺を探されるのはそ(・)う(・)い(・)う(・)可能性を早くも視野に入れているようで気分が悪かった)何の痕跡もなく、『ヒト族女児神隠し事件』は誘拐として捜査が進められた。  父は「他の種族に関わるから危ない目に遭うんだ」と言った。自分が被害に遭ったわけではない、とは言い返せなかった。父は口答えを許さないし、羆族至上主義だった。「小物種族とつるむのは羆族の恥」と常に言っていた。何を言っても無駄だった。  父を憎んではいない。大人になって分かった。父もまた言い聞かせられて育ってきたのだ。なにより、悪いのはヒト族でも、羆族以外と遊ぶことでも、それを咎める父でもなく、子供を拐った奴なのだ。  父に内緒で捜索隊に志願したが、子供では相手にされなかった。神社で子供用の水色のスポーツサンダルが右足だけ見付かったと聞けば、早朝にランニングと嘘をついて神社に赴き一人で探した。引っ越すまで毎日。捜索隊が解散した後も。  何も見つからなかった。まさに神隠しだった。かくれんぼの鬼が得意であろうと何の意味も無かった。  日が沈むにつれて、屋台の白熱電球は輝きを増す。呼び込みの声が響き、鉄板から香ばしい匂いが立ちのぼる。夏祭りの雰囲気は、ほとんどが屋台によって作り出されていると思う。夏祭りでしか着ない浴衣、賑やかしのお囃子(はやし)、普段は埃を被っているであろう神輿(みこし)なんかは添え物でしかないのかもしれない。屋台が無かったらどれだけの人が集まるだろう。剰(あまつさ)え花火も無かったら。祭りとは、もはや神のものではなく人のものだ。  皆と連れ立って屋台を回るが、気乗りはしない。事件と同日の夏祭りに自分達はいる(ケンもタビも気にしていないようだが)。一抹の不安、考えたくもない可能性が何度も脳裏をよぎる。  サキの神隠しが再演されるのではないか。  起こるはずがない。映画のフィルムを巻き戻したわけではないのだ。いなり様は自分達で願いを叶えるように言ったのだから、決められたシナリオに沿っているのではない。  サキはここにいる。あの時みたいに過ちを犯さなければ、サキが離れる原因を作らなければ、連れ去られることはないはずだ。  打ち上げ時間まであと数分。タビが神妙な顔で「あの、」と弱々しく言った。 「ケンくんとユウくんに、お話ししなければいけないことがあります」  サキの名前は挙がらない。ふとサキの顔を盗み見ると、一瞬だけ寂しそうな表情をしてから、茶化すような笑みを浮かべた。 「また秘密の会議? 仕方ないなあ、みんなの焼きそば買ってきてあげるから、ちゃっちゃと済ませてよ」  一歩踏み出したサキの腕を、咄嗟(とっさ)に掴む。 「行かなくていい」 「ちょっと、痛いよ」  ごめん、と手を引っ込める。力加減は昔から苦手だ。タビは困惑気味に眉を寄せ、ケンが「どうして」と非難するように言った。 「サキを一人にさせられないだろう」 「言いたいことは分かるけど、サキが気を遣ってくれてるんだから」  気を遣ってくれているから、一人で行かせろと? 「お前、本気で言ってるのか」 「何を怒ってるの」 「怒らずにいられるか。忘れたのか、あれは夏祭りの日だっただろ」 「ちょっとユウさん」と口を挟んだタビにも腹が立った。 「自分達が原因じゃないか。くだらないことで喧嘩してサキを放っておいたから」  タビの表情が悲痛に耐えるように歪んだ。冗談じゃない、むしろ泣きたいのはこっちだっていうのに。 「そんなむきにならないでよ。とりあえずタビの話を聞こうよ、ね」  ケンは普段と変わらない温度で言った。子供を宥(なだ)め賺(すか)すように。なんて薄情な、と思った。昔のケンはこんな奴だったか。いや、もっと芯のある奴で、やけに正義感が強くて、真っ直ぐな奴だった。変な噂にまみれた余所者(よそもの)のタビも、ヒト族のサキも、「放っておけない」と真っ先に受け入れた。自分は後に付いてきただけだ。それなのに。今ここにいるケンは、大人になったケンは、まるで別人のようだった。ケンの心のベクトルが分からない。こんなのは悔しすぎる。  ケンの胸ぐらを掴んでいた。驚く様子も怯える気配も無く、やれやれといった具合に一つ溜息をついた。昂ぶった感情が鎮まっていくのを感じる。頭が冷えたからではない。これは、諦念だ。かつてのケンは、もう戻ってこないのかもしれない、と。 「サキちゃんがいません!」  タビが張り上げた声で、ケンを解放する。一番近くにある焼きそばの屋台、並ぶ人々の列に、サキはいない。  血の気が引いた。寒気がした。  再演。また自分達のせいで。 「探そう」というケンの言葉を背に、足は既に動き出していた。

【六、サキの嘘】  私は嘘をついた。  何も知らないふりをして、子供を装って、みんなを騙した。全部知っている。みんなが本当は大人だってことも、本当の願いも。まだ迷っていたから、みんなには言えなかった。  子供時代は思い出したくない。父は私が産まれる前から家にいなくて、母には別の家で一緒に住んでいる恋人がいるらしかった。  学校からのお便りや、必要な物があれば書いておくメモ紙は、ポストに入れておく決まりだった。学校に行っている間に母が回収し、食費と必要物資を買うお金を置いていく。  美人で優しい声で人気な鹿族の担任の先生は、うちの事情を知っていて、「何か困ることはある?」と訊いてくれたけれど、家事はひととおりできると答えると、「じゃあ大丈夫ね」と、それきりだった。ヒト族の家庭に首を突っ込むのは御免だ、と顔に書いてあった。  学年が上がるにつれて、学級内での私は腫れ物扱いになっていった。私は何も変わっていない。変わったのは周りの空気だ。仲の良かった子達は少しずつ離れていって、気付けば別の仲良しグループに混ざっていた。ケンが秘密基地に誘ってくれなかったら、いずれ学校に行かなくなっていたかもしれない。  秘密基地は私の居場所だった。そこでは猫族羆族犬族ヒト族なんて区別に意味は無い。みんな子供で同級生で隊員で友達だった。それで良かった。確かにあの日まではそうだったのに。

 打ち上げ花火が始まる前にお手洗いから戻ると、ケンとユウが言い合っていた。周りの大人は「あらあら」といった様子だったけれど、初めて見る二人の剣幕に足がすくんだ。何より恐ろしかったのは、その合間に「ゼッコウ」と聞こえたことだった。ゼッコウは友達における最後の一手で、禁断の言葉で、二度と元には戻れない覚悟をもって放つ最悪の兵器だった。  おしまいだ、と思った。私達はもう。私の居場所もまた。三人に背を向けて逃げ出した。タビが「サキちゃん」と呼びかける声も無視して。  神社の境内は静かだった。光源は淡い月明かりだけで、社殿をぼんやりと不気味に浮き上がらせていた。買ったばかりのスポーツサンダルで無理に走ったから、ヒールバンドで擦れて踵(かかと)の皮がめくれた。右足だけ裸足になった。水色は好きな色だったのに。なんでこんなことになってしまったのか、と思った。  祭りの帰りにアイスでも買おうと残しておいた百十円を賽銭箱に放り込み、ぎゅっと目を閉じて手を合わせた。 「いなり様、お願いです。みんながゼッコウしませんように」  叶うはずがない。でも他にできることは無かった。私を助けてくれる人なんて誰もいなかった。 「その願い、叶える機会をやろう」  突然、辺りが明るくなり目が眩んだ。目が慣れて見えてきたのは、純白の衣装に身を包んだ白狐だった。大きな二つの耳と、足元を包むようにぐるりと横たえた豊かな尾。滑らかで一点の汚れもない白生地、緩やかに広がった裾、長く垂れた袖。白無垢みたいだと思った。角隠しで頭を覆っていたら、狐族だと見当も付かなかったけれど。首には翠色(みどりいろ)の勾玉を紐にとおして下げ、手には稲穂があった。  堂々たる立ち姿で、(楽観が過ぎるかもしれないけれど)敵意無く微笑んでいるように見えた。混じりけの無い白い被毛は非現実的な輝きを放っていた。 「狐に抓まれたような顔をしておるな」  と、したり顔だった。決め台詞のつもりなのかもしれない。 「本当に、いなり様?」 「如何にも。お前の願いだが、その賽銭ではちと足りぬな」  そう言われても、手元には一銭も無かった。「どうしたらいいですか」 「巫女として我を手伝うがよい。三日間働けばよかろう」  手伝いをするだけで願いが叶う。みんなはゼッコウせずに済む。断る理由が無かった。 「やります」 「よかろう。やよ励めよ」  期間限定の巫女は大した仕事ではなかった。いなり様が天界と呼ぶ場所から神社を見下ろして、参拝者が来たらいなり様にお知らせする。いなり様の散らかした巻物を棚にしまう。いなり様の肩を揉む。いなり様にお酌する。  巫女は他にもいて、狐族の子がほとんどで、ちらほら他の種族もいた。ヒト族は見た限り私だけだったけれど、誰もそんなことは気にしなくて、あの嫌な空気も無くて、久々に女の子同士で仲良くお喋りもした。  あっという間の三日間が過ぎて、 「下界ではお前が行方不明になったと騒ぎになっておる。我の力でどうにでもなるが、戻りたいか」  と、いなり様は言った。まるで私の心を見透かしたように。私はもう、ずっと巫女のままでいいと思っていたのだった。戻ったところで家には誰もいないし、学校の空気は重いし、秘密基地のみんなはまたゼッコウするかもしれない。  捜索されているのは知っていた。神社まわりはここからよく見える。サンダルを置いてきたのはまずかったかもしれないと思いさえした。 「戻りたくないです」と答えると、いなり様は「お前が決めることじゃ」と頷いた。

 あの日をやり直せるかもしれないと思って、せっかく花火大会に誘ったのに。  まさか二度も逃げ出すことになるなんて。蘇った居場所の無い感覚が、足を神社に向けていた。右の踵が痛いのも同じ。でも、あのときとは違う。きっと、みんながすぐに追いついて私を見付けるだろう。  願われなければ、みんなと再会することもなかった。ユウの願いを聞いたいなり様は、「というわけで、お前も子供に戻るのじゃ」と言った。  毎日、神社に来るユウを見ていた。普段は無表情だったユウが思い詰めた顔をして。胸が痛まなかったと言えば嘘になるけれど、それでも戻らなかった私が、今更どんな顔をして会えばいいというのか。 「ユウの願いは叶えなきゃいけないんですか」 「お前が決めることじゃ。やよ励めよ」  そんな簡単なやり取りで、秘密基地に放り出されてしまったけれど。  背後で玉砂利を踏む音が聞こえた。 「やっぱりここか」 「探しに来てくれたんだね」  またも。何度でも。 「サキに言わなきゃいけないことがある」  ついに来たか、と思った。それなら私も打ち明けなければいけない。 「何から話せばいいか。自分と、自分達、つまりはあの二人もだが、本当は子供じゃなくて、いなり様に願い事をしたら秘密基地に、」  あまりにぶつ切りで、しどろもどろで、言葉少なで、それがユウらしくて、ついに私は吹き出した。 「ごめんね、全部知ってるんだ。ユウが『サキを連れ戻したい』って願ってくれたから、私はここにいるんだよ」  ねえ、みんな。私は戻ってもいいのかな。

【七、ケンの嘘】  ユウは体の大きさに似合わない俊足だった。もう走れません、と泣き言を漏らすタビの背中を押しながら、なんとか見失わずに神社にたどり着いた。  サキは全員が揃うと「みんなに話さなきゃいけないことがある」と、神隠し事件の全容を語った。今更驚きも無かった。この三日間で、現実として受け入れられる幅が大きく広がった。成長であればいいけれど、少し違う気もする。 「タビにも本当の願いがあるんじゃない?」  促すと、タビは「はい」と頷いた。秘密基地を見に行こうと誘ってきたときよりも、力強い目をしていた。 「みんなと友達に戻りたいんです。大人になっても」  あまりに単純な願いで拍子抜けしたけれど、タビらしいとも思った。気を遣いすぎるきらいがあるのだ。自分を縛らずにもっと自由であればいいのに。 「それにはサキも入っているのか」  ユウが口を挟む。質問ではない、確認だ。 「もちろん。サキさんも一緒に戻りましょう」 「ケン、お前はどうだ」  当然。全員で戻って友達になれるのなら。でも実際はサキの問題がある。空白の十五年を抱えて家族もいない場所へ戻れと、身勝手なことを言っていいのか。  いなり様の力で【サキがいたことにする】のは可能だろう。巫女バイトを終えた後、失踪を無かったことにできると、いなり様は言ったのだから。でも、その後の十五年を自ら選び続けたサキに居場所を与えてくれるわけではない。対価が支払われない限りは。  本当に、サキを連れ戻すのは正解なのか?  姉ならどうするか、と顔を思い浮かべる。 『ケンは本当に願いが叶ったの? 子供に戻ったのは体だけって感じがするけど』  そうか、これか。  後先を憂(うれ)えるなんて子供じゃない。自分の正義でいい。自分に嘘をつかないのが子供の誠実さだ。遠慮なんて要らない。愚直でいい。乱暴に言えばわがままでいい。それが子供の特権じゃないか。自分を縛らずにもっと自由でいい、なんて人に言えたもんじゃない。  俺がどうしたいかを言えばいいんだ。一番望んでいることを。やんちゃをしよう。後のことは大人の俺達に任せよう。子供の尻拭いをするのが大人の役目なんだから。今だけ、俺は俺に嘘をつくのをやめよう。  逡巡(しゅんじゅん)する間、ユウはじっと俺を見ていた。歯を食いしばったように。 「俺も。サキに戻って来てほしい。サキには思うところがあるかもしれないけど。みんなで戻りたい。また友達に戻りたい」  ユウがずんずんと歩み寄って来て、俺の肩に腕を回した。ぎょっとした。ユウから肩を組んでくるなんて初めてだった。 「ケンが戻ってきたな」 「何、どういうこと」 「こっちの話だ」  瞬間、紙芝居を引き抜いたみたいに周囲の景色がまるごとごっそり変わった。  砂利を敷いてトラロープで区切っただけの有料駐車場。小さな祠。  と、いなり様人形。 「願いは叶ったな。では解散じゃ。供物はいつでも待っておるぞ」

【八、これから】  待ち合わせ場所は祠の前だった。タビの提案により花火大会に行くことになったのだ。あっちでは見られなかったから、と。  せっかくだから駐車場を使わせてもらった。管理人宅で料金を払うついでに、祠の土地は誰の所有地なのか尋ねた。神社の移転先に、無関係な一市民の私有地が指定されるはずがない。管理人の老人曰く「神隠し事件があった神社だから、子供がいつでも戻ってこられるように、うちの土地に祠を建ててもいいと申し出た」のだそうだ。となると、管理人のおかげでサキは戻ってこられたとも言える。感謝しなければならない。 「一時間」ではなく「一回」で百円という全く利益を得る気の無い謎の提示額に、三台分の料金を手渡した。  まずやって来たのはタビだった。車から降りたタビはコンビニの袋を持っていた。中身はもちろん、あれだろう。続いてユウも到着して、助手席からサキが降りてきた。  大人に戻ってきたとき、サキも二十五歳の姿だった。子供のときから整った顔立ちではあったけれど、まさかここまで美人に仕上がるとは。とはいえ、もう先約がいる。相手は無論、運転席の羆族の男だ。当時はそれらしい素振りも無く、仄めかされたことも無く、気配も全く無かったけれど(姉の嗅覚は察知していたかもしれない)、サキへの想いは十五年を越えて実を結んだようだ。鳴かぬ蛍が身を焦がす、というやつかもしれない。  羆族とヒト族のペア。当時だったら白い目で見られたかもしれないが、今なら多少の好奇の目はあっても二人で乗り越えていけるだろう。犬族の姉と、長いこと辛抱強く付き合い続けたヒト族の新郎のように。姉の押しが強かっただけかもしれないけれど。  タビが祠に油揚げを供え、みんなで手を合わせる。「行こうか、」と夕暮れの道を行く。  これからも、やよ励めよ。  けたたましい蝉の声に混じり、あの声が凛と響いた気がした。