目が覚めて目に入ったのは、今にも落ちてきそうなほどに大きな満月だった。  恐ろしい夢を見ていた気がする。だけど、その夢はまるで指の間をすり抜ける水のように消えてしまい、私は露ほども思い出すことはできない。夢の感覚だけが残響のように私の中を満たしている。月の光が、目元を濡らす滴と、寒くもないのに震える身体を照らし出す。  目をこすりながら辺りを見回す。見慣れない壁。いつもと違う毛布の手触り。自分が引っ越したのだと思い出すのに時間がかかった。お気に入りの本の詰まった本棚も、よそ行きの服の入ったワードローブも、ここにはない。私は全てを捨てる覚悟のもとに、ここに来たのだった。  耳を澄ましても聞き慣れた人々の雑踏は聞こえない。遠くからさざ波の音だけが聞こえて、それがいっそう静けさを際立てる。昨夜の式の騒々しさが嘘みたいな、ソーダ水のグラスの底に落とされたような静寂。沈んだ澱のような空気。  自分の選択が正しかったのか、だなんて何度問い返しても答えは出ない。この感情を後悔と呼ぶのか、不安と呼ぶのか、それすらも分からない。だけど、何もない海原を、たった一隻の舟に乗って漂っているような感覚が、すべての命が終わってしまい、自分だけ取り残されてしまったような冷たさが、私を取り囲む。私は薄い毛布に包まりながら震えることしかできない。  目を瞑ると、また夢の中に落とされそうで。目を開いても、何もないただ静かなだけの夜があって。私はどこへ行けばよかったのだろう。私は何になればよかったのだろう。揺らぐばかりの舟の上で、私はただ月を見ている。  拠りどころを失くした私を、ふわりと暖かな匂いが包み込む。それはあなたの毛皮の匂いで、今までの私には分からなかった匂い。嗅いでいるだけで、そばにいるだけで、私の胸を暖かく満たしていく匂い。あなたは何も言わないのに、あなたの思いは匂いを通じて流れ込む。  大丈夫、と言うあなたの太い腕に引き寄せられて、私の身体はあなたの胸元に着地する。あなたのごわごわした毛皮と、私の生えたての毛皮が触れあって、まだ慣れない感覚の尻尾が絡み合う。何もかもがむずがゆくて、はずかしくて。そして、愛おしいと感じる。  この不思議な感覚も、きっといつかあたりまえになっていくのだろう。捨ててきた過去も懐かしいとすら思えなくなる時が、きっといつか来るのだろう。その道程を共に進む脚が、この櫂を共に握るその手が、この人のものでよかったと、心の底から思う。  あなたと共に生きていく。あなたと同じになっていく。  あなたの匂いに潜りながら。あなたの温もりに包まれながら。  きっとこの先、ずっとこの人から離れることはないだろう。そんな確かな予感を胸にしながら、私は緩やかに眠りに落ちた。

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 君をここに連れてきて、本当に良かったのだろうか。式が終わってからも、ずっと考えていた。  共に生きると決めたから、と語る君の首筋からは、いつだって不安の匂いがした。それは強がりだと気付きながらも、僕はその気持ちに甘えていた。  式の最中、君の素肌が毛皮に覆われていくその前に、君の骨が歪められていくその前に、無理にでも君を連れだして、元の街へ帰らせるべきだったのかもしれない。だけどもそんなことを言い出す勇気も持てなくて、僕はただ、塗り替えられていく君の姿を見守ることしかできなかった。  おかしな話と君は笑うかもしれないけれど、そんな僕が前を向けたのは、月に照らされる君を見たからだ。淡い光に包まれる銀色の毛皮は美しくて、寝息を立てるその横顔はすぐにでも消えてしまいそうで。この瞬間がいつかなくなってしまうのか、と思うと、苦しくて、吠えたくて、たまらなかった。  この思いを愛と呼べるかなんて、わからない。消えてしまうのが怖いから、だなんて理由で君を求めるのが間違いじゃないだなんて、言い切ることはできない。  だけど、君があてもなく海原を漂っているなら。帰る場所がなくて立ち尽くしているなら。  僕が君の家になろう。君がいつだって「ただいま」と言えるような、そんな場所になろう。  だから今は、余計な言葉はなにもいらない。大丈夫、とだけ囁いて、君の背中に腕を回して、君の耳に優しく口づけをする。  僕たちはまだ、ただっ広い海の上を漕ぎだしたばかりだ。海はまだ、穏やかに凪いでいる。静かに揺れる小さな舟の上、僕は静かに輝く満月を見上げた。