出来ないことばかりの魔法の国

Ring_chatot

 学校から家に帰る途中の女子高生である赤城 杏(あかぎ あん)は、空間に穴が開いたとしか表現のしようがない現象に見舞われて、見知らぬ家の中へと転がり込んだ。そこには黒い山羊がいて、『ンメェェェェェ!?』と驚きの声を上げる。ただ、黒い山羊と言ってもそれは顔だけで、体は人間と似た、しかしところどころ骨格に人間にはない特徴がある動物で、服も着ている。  人間というよりは獣人、ネズミの国のテーマパークにでもいそうな見た目をしていた。黒山羊は周囲を見回してから誰もいないことを確認し、やや考えた後に話を切り出す。 「えっと、こんにちは」  言葉が通じているわけではなかった。ただ、喋っている内容を聞いていると、まるで字幕が頭の中に出るように意味が分かる。 「僕の名前はゼオラ……君の名前は?」 「赤城 杏。えっと、ここは、どこ? なんで私はこんなところにいるの?」 「えっとね、ここは……フィオルっていう国でね……良い王様が国を統治しているから、平和だし、他の国も全然攻めてこない、とってもいい国だよ……あ、僕はぬいぐるみ職人をやっているます。ここはその自宅兼工房兼販売所……です」  真っ黒な体毛に埋もれた体。美しく螺旋を描いて巻いた角、横に割れた瞳、そして口を開ければすべての歯が臼歯。黒山羊人間とでもいうべき見た目の男、ゼオラは笑ってごまかしながらそんな説明をする。 「そういうのが聞きたいんじゃなくてね……どうして私はこんなところにいるのかってことよ! 私、いつものように学校から帰ろうとしたらここにいたんですけれど!?」  そんな態度に怒り心頭なのは、ちょっとばかし空想が好きだが、それ以外はいたって普通の高校生、赤城 杏。普通の高校生なので、こんな状況にワクワクするよりも恐怖感を覚えてしまう。 「あー……それはね……僕が、そういう風に願ったから、なんだけれど……」  ゼオラは気まずそうな表情を浮かべてため息をつく。 「本当は、そういうことはできないはずだったんだけれどね、なぜか出来ちゃったんだ。なんでだろ……」 「こっちが聞きたいよ!」 「えっと……どう説明したものか。僕ね、ヒトが大好きなんだ」 「ヒト?」 「わからない? えっと、ほら、ここに雑誌がある……」  そう言ってゼオラから渡されたものは、なんと表現するべきか。そう、これは小さなころに見た妖怪や幽霊をテーマにした作品に出てくる人面犬というやつだ。昭和のころにそういう都市伝説が流行ったらしいが、それだ。と、言うよりは、顔どころか体まで人間の肌をしていることを考えると、プードルやヒツジのように刈られたのでなければ四足歩行に適応した人間と考えるのが正しいのかもしれない。こういっては何だが気持ち悪い。  地球にも猫や犬の写真集は存在するが、どうにもこの雑誌は人面犬専門誌とでもいうべき内容のようだ。しかし、たまに映り込む飼い主の画像も、これまた驚きだ。犬の顔をした人間とか猫の顔をした人間も歩いているし、かと思えば普通に犬と人面犬を一緒にリードに繋いで『仲良し』と評しながら散歩している光景が写真に写っている。  猫や兎と仲良くしている犬の写真などは気分がほっこりするものだが、それと似たような感覚なのだろうか。

 しかし、雑誌を見てると犬の顔をした人間が犬を連れているようなこともあるようだ。某ネズミの国の看板キャラは、友達に犬の獣人がいるのに、自分は犬を飼っているが、似たような感覚なのだろうか? しかし、どれだけ雑誌をめくっても、人の顔をした人間という種族が全くいない。 「あの、僕の好きな雑誌そんなに気に入った?」 「そういうわけじゃない!」  犬人間だって山羊人間だって猫人間だって、ウサギ人間だっている。しかし人の顔をした人間(個人的にはかなり違和感のある言い回しだが)がいない。 「ねぇ、私のように、この生物の顔をした二足歩行の生物って、いないのかしら?」 「それが……いないんだよね。いたらいいなぁなんて思いながら、毎日そういうぬいぐるみを作っていたんだけれど……」  なるほど、確かに地球でもユニコーンとかドラゴンのように架空の生物を生み出し、それを絵画や彫刻、ぬいぐるみなどにして愛でる文化はある。そして、空想のキャラクターであるそれに本気で夢中になって、部屋中がそのキャラクターで埋め尽くされるような人がいるから、人の顔をした人間が好きという気持ちはなんとなくわかる。  現に、ゼオラが杏を見つめる顔は、どこか心配そうな顔をしながらも、あざといポーズをとる子犬や子猫を見るような、見ているだけで心が洗われるとか癒されるとか、そういうことを考えているような視線だ。  もしかしたら撫でたい、抱きしめたい、写真を撮りたい、そんなことを思いながらこっちを見ているのかもしれない。 「でも、どうしよっか……君の言う言葉が本当なら、君は魔法が存在しない別の世界から来てしまったってことなんだよね……会話も通じないから、外国の人と話す魔法を使わないと意思疎通もできないし……」 「へー……魔法を使ってるから言葉が通じるんだ……で、その魔法とやらで何とか元の世界に戻れないの!?」 「それが、やってみたけれどダメなんだ……申し訳ないんだけれど……」 「やってみたの? もう、すでに!?」 「うん……」  早く帰りたいと願う杏に対して、ゼオラはひどく落ち込んだ様子であった。 「それじゃ、どうしろっていうのよ! 私はこの世界で何をしろっていうの?」 「……このまま君が外に出ても、大騒ぎになると思うから、家の中にいてもらうしか……」 「そりゃそうよね……怖くて外になんておちおち出られやしないし……そんな……あーもう、人生めちゃくちゃよ……どうしろっていうのよ?」  杏は大きなため息をつきながらうなだれる。わけのわからない世界で何をどうすればいいのか全く分からなかった。 「ま、まぁまぁ……とりあえず、僕は君のことを大事にするから……と、とりあえず撫でてもいいかな? それとも、抱きしめよっか?」 「それはあんたがやりたいだけでしょ!?」  やっぱりこいつ、迷子の子犬を保護した気分でいるらしい。地球人に例えるならば、わざわざ二足歩行の子犬を愛するということだと考えると、このゼオラはかなりの特殊性癖の持ち主なのかもしれない。 「ごめん……僕、可愛いものが大好きで、つい……」 「褒めてもダメなものはだめだからね!?」  自分が可愛いといわれるのは嬉しくないわけではないけれど、見ず知らずの男に着やすく触られるのはごめん被る杏であった。 「はい……と、とりあえず、お茶でも入れるからゆっくりしてよ……」 「うん……わかった……」

 ともあれ、お茶が出てくるのを待つ間、ここがどんな世界であるのかを確認する。この世界は魔法が当たり前のように存在する世界のようで、棚から茶葉を取り出すときは魔法でふわふわと浮かせて取り出していた。そんな状況では化学も発展しないんじゃないかと思いきや、ガスコンロは存在する。ガスコンロは存在するが、ガスに点火するのは魔法を用いるようであった。火をつけるのにマッチもライターも必要ないおかげか、ワンタッチで火花が散って点火するような方向には進化しなかったらしい。  そして、少し家の中を見回してみると、テレビも写真も当たり前のようにゼオラの家にあった。ゼオラのように魔法で翻訳してくれるわけではないので何を言っているのか全く分からないが、とりあえずいろんなドラマやバラエティの番組もあるし、ニュースもあるようだ。 「ねぇ、魔法って……どんなことが出来るの? 空を飛んだりとかはできるの?」  意味の分からない音の羅列を繰り返すテレビ番組を眺めつつ、お茶がドリップするのを眺めながらそわそわしているゼオラに話しかける。 「あ、え、出来るよ。空を飛ぶくらいなら僕も出来るけれど、料理を作ったりとか、家具とかを作ったりするのは僕は苦手かなぁ」 「ふーん……じゃあ、空を飛べるなら、それでレースとかもあったりするのかな? ちょっと見てみたいかも」  地球でも、箒で空を飛べるならそういうレースがあるだろうし、競馬みたいでさぞや面白いだろう。 「あ、いや……」  聞けば、ゼオラはちょっと顔を曇らせる。 「魔法をね、仕事以外に使うのは、あんまりよくないことなんだ。魔法は、神から世界に送りたもうた天賦であるとされているから、必要なこと以外に使うのはその、『行儀が悪い』ってね……」 「つまりそれってあなたのことじゃない? 仕事以外のことで魔法を使って私をこんなところに連れてきて……」 「ぐっ……」  ゼオラは杏の言葉に図星をつかれて、口が止まる。 「本当は、そんなことはできないはずだったんだよ……その、この世界、魔法で大体のことはできるけれど、いくつかできないことがあってね……人を生き返すこと、遠く離れた場所まで一瞬で移動すること、別の世界から物を呼び寄せること、生き物を作ること、人の心を操ること……って感じで。そういうことが出来ないとされてるんだ」 「へぇ、出来ないことされている……?」 「うん、なのに、なぜか出来ちゃったんだ。ごめん……さっきは、君の気持ちも考えずに撫でたいとか変なこと言って」  ゼオラもいろいろ混乱しているのだろう、お茶を入れている間に冷静になったのか、彼は深く頭を下げる。 「……まったくだわ。ところで、魔法って人を殺すことはできるのかしら?」 「出来るよ。こうやって物を飛ばして物理的に殺すこともできるけれど……」  ゼオラは部屋の隅に目をやると、植木鉢をふわりと浮かばせる。どれくらいの勢いを出せるのかは不明だが、なるほど頑張れば人を殺せそうだ。 「でも、もっと直接的に念じればこう……」  ゼオラは言いながら、部屋の隅っこにいた蜘蛛をにらみつけ、消す。 「こんな感じで。消えろって思えば消えるよ。でも、僕たちみたいに魔法を使える人を殺す場合は、僕たちが『消したい』って念じても、相手は無意識のうちに『消えたくない』って思っているから……並大抵の思いでは打ち消されちゃうんだよね。だから、複数の人から『消したい』って思われていないと基本的には消えることはないかなぁ? まぁ、相当恨みを買ってたり評判の悪い人でもなければ……ってところだね」 「念じるだけで死ぬなんて……怖いね」  ぞくっと背筋に冷たいものが走ったような感覚がして、杏は顔が引きつった。 「大丈夫だよ、めったにそれで行方不明になる人なんていないから……さて、どうしようか。お腹空いてない?」 「空いていないけれど……あなた、普段は何を食べているの? 見た感じ、草食というか、肉は食べないんじゃ……」 「そう、だね」  杏の問いかけにゼオラは気まずげだ。 「買ってくるよ。とりあえず、ヒトと同じものを食べる感じでいいのかな?」  ヒトとは、あの人面犬のことだろうか。どんなものを食べているのかわからないが、どんなものを出されるのか怖くて仕方がない。 「とりあえず、雑食性の人達のものを買ってきてほしいかな……」  杏は無難な物を買ってきてくれよと、心の中で願うのであった。

 そして、一人部屋に取り残される杏。お茶を出してもらう時よりも時間があるので、杏は家の中をくまなく調べてみる。ゼオラはぬいぐるみを作るのが仕事だと言っていたが、確かにぬいぐるみがたくさん作られている。  その中でもヒトの顔をした人間のぬいぐるみがかなり多い。やはり、この世界では犬や猫のような感覚であの人面犬を愛でるのだろう。そして、それを擬人化(?)したキャラクターが今の私のような地球人になるわけだ。それにしても、窓からこっそりと覗いてみる限り、この世界に住む人々は本当に、ゲームやアニメ、漫画に出てくるような獣人だ。そして人の顔をした人間だけが存在しない世界だ、何が何やらわからない。こんな世界で、自分は一体何をどうやって生きていけばいいのか、杏は不安で仕方がない。  何かを探ろうにも本は読めないし、家具の使い方もわからない。結局、一人取り残されると何もできないため、はじめこそゼオラがいなくなったことでほっとしていた杏だったが、今は逆に不安で仕方なくなっていた。 「ただいま」  ゼオラの声が聞こえると、無意識のうちに安堵の息をつく。 「えっと、ゼオラ、早かったね……」 「家の近くにお店があるからね……お口に合えばいいんだけれど」  そう言って、ゼオラから差し出されたものは、野菜とパンのようなものと、虫などが盛られたお弁当であった。 「む、虫!? 虫は苦手……」 「え、そうなの!? そっか、確かに殻とかあるのが苦手だって人も多いし……」  確かに、エビの殻とかは苦手だが、そういう問題ではない。しかし、エビは大丈夫なのに何故虫はだめなのかと聞かれると、うまい答えは思いつかないが。エビと似たようなものだと考えて、この食用ゴキブリのような見た目の虫を食べるしかないのだろうか。 「一応、ヒト用のドライフードも買ってきたけれど……」  ゼオラがドッグフードやキャットフードなどを思わせる乾燥した固形餌を差し出した。食べてみると、美味しくはないが悪くもない。栄養的なものはわからないが、とりあえず、虫に慣れるか、それともこっちの退屈な味の食事になれるか、どちらかの必要がありそうだ。 「あ、そうだ……お風呂。体洗ってあげよっか?」 「一人で出来るって! 私をペット扱いしないでよ!」  しかし、やはりこのゼオラという黒山羊はやはり、特殊性癖のようだ。もしも、ネズミの国のマスコットのような奴が目の目に現れたとして、積極的に風呂に誘うなど普通はしないだろう。私は、常に体を狙われているようだけれど、無理やり手を出してこないのは唯一の朗報なのかもしれない。  しかしながら、性格云々を度外視して考えれば、ゼオラは悪くない顔をしている。横割れの瞳孔が愛嬌があるし、真っ黒ではあるが光沢のあるふさふさの体毛は思わず撫でてみたくなるような質感をしている。ついでに言えばよいシャンプーでも使っているのか、とてもいい香りだ、  杏も動物は好きだし、動物を撫でてみたいと思うようなことはあるが、ゼオラに対してもそんな感情を抱いてしまう。ゼオラも、そういう感情が杏よりも少し強いだけなのかもしれない。けれど、この世界ではどうかはわからないが、日本では少なくとも出会ったその日に体を撫でられるというのは多少なりともストレスになるため、そういう目で見られていると思うと、杏はやっぱり警戒してしまう。あっちがいやらしい目で見ていなければ、こんな状況でなければ。もう少し、あの黒くて柔らかそうな体毛に埋もれてみるのも悪くなさそうな気がする杏であった。

 ◇

 結局、杏は嫌な見た目を堪えて虫を食べることにした。味も安全性も悪いものではなく、味もエビやカニのようで美味しいのだけれど、あの虫が口の中で砕かれていると思うと、途端に味がしなくなるような感覚にとらわれる。いつかはこの見た目にも慣れるのかもしれないが、しばらくは虫の見た目を思い出しながらの食事になるのかもしれない。  ゼオラは日中、ずっとぬいぐるみを作る仕事をしており、時折客が来たときにその応対をする程度。しかし、そのぬいぐるみを作る仕事というのも、針仕事ではあるのだが、布も針もふわふわと浮いており、ミシンなどを使う様子もない。まるでポルターガイストのようだ。しかし、針と糸と布は自動で動いているわけではなく、ゼオラの目は真剣そのものの職人である。  二本しか手がない人間と違って、魔法を使えば腕が十本以上あるようなもので、作業はしやすそうだが、どれほどの集中力が必要なのか見当も付かない。在宅仕事なので、彼がずっと一緒にいてくれるのはいいけれど、それでも心細いことには変わりなかった。  そもそも、草食の彼が雑食に対応した弁当を買ってくるなんてやっていて、周囲の人にバレたりしないのだろうか? 不安と退屈で杏は押しつぶされそうな日々を過ごしていた。

 しかし、この家に来て三日経つ頃には、彼女もこのままではいけないと奮起する。とりあえず、魔法だ。魔法で何ができるかはわからないけれど、とりあえず、魔法さえできれば何か変わるだろう。しかし、チチンプイプイとかアブラカダブラと叫んだところで魔法が使えるわけではない。そもそも、ゼオラ自身魔法を使う時は終始無言だ。ぬいぐるみを作るときと虫を殺すときくらいしか魔法を使うところを見てはいないものの、呪文を口にすればいいというものではないのは確かだ。 「ねぇ、魔法って私でも使えるの?」 「うーん、たぶん使えるかと……この世界はね、なんだか昔は魔法が使えなかったはずなんだけれど、いつのころか誰もが魔法が使えるようになったんだって」 「ふーん? その、使えるようになったころとかってさぞや混乱が起こったでしょうね」 「それがわからないんだ。魔法が使えるようになった当時のことは歴史が何も残っていなくってね。本当に、いきなりなぜか使えるようになったとしか言われていないんだ。歴史の授業でも、それより前のことは一切習わないし……当時の年よりも覚えていないとかどうとか」 「気になるけれど、まぁ、ないんじゃ仕方ないよね。で、どうやって魔法を使えばいいの?」 「それは、その……例えば、火をつけたい場合は、熱や光を頭の中で具体的に想像して……揺らめく炎の色、温かな熱、そして淡い光……」  ゼオラが胸の前に両手を構え、ゆっくり息をつきながら目を細める。すると、彼の視線の先、右手と左手の隙間に炎が灯る。 「おお……」 「まぁ、こんな感じにやるわけなんだけれど、練習すれば一日もすればできると思うよ」 「で、でもこれって……なんか消費したりとかしないの? 魔力を消費するとか」 「ないよ。しいて言えば、魔力は消費するけれど、空気中にいくらでもあるから、数百人で集まって大規模な魔法でも使わない限りは魔力が切れることはないかなぁ……自分の中にある何かを使うっていう意味なら、考えているとお腹が減るっていうか、ちょっと頭が疲れるくらいかな?」 「ふーむ……ますます私が使えるのかどうか不安になってきたんだけれど」 「大丈夫。魔法は、いつの日か突然、物を考えるだけで色んなことが出来るようになったんだっていうから、やってみれば何とかなるよ」 「そうなんだ。じゃあ、ちょっと使ってみたいから黙ってて……集中する」 「はーい……えっと、肩でも揉もうか?」  ゼオラがそう提案した時、表情が崩れないように必死だったことを杏は、見逃さない。 「さりげなくスキンシップとろうとしないでね!? 顔がいやらしい!」  どうしても自分を撫でたいゼオラの態度を突っぱね、杏は目の前に集中する。ゼオラが言ったように、自分の掌の中に熱や光が発生する状況をイメージをしてみたが、そう簡単にはできないようだ。 「ねぇ、ゼオラ。蝋燭ってある?」 「あるけれど?」 「火をつけて! それを使って練習してみる!」  やはり実物があったほうがイメージがしやすいからと、杏はゼオラに蝋燭を用意してもらう。それにより、温かさや光の色、炎の揺らめきなどをきちんと感じたうえでイメージする。火が灯った蝋燭と、その横に火のついていない蝋燭。イメージによって炎を出し、蝋燭に火をつけられたら成功だ……が、一本目の蝋燭が燃え尽きる前に光を出し、温かみを出すことを成功した。まだ蝋燭に火をつけることまで成功するほどイメージできたわけではないが、それもいずれはできるはずだ。  そして、一度休憩してからまたやってみたところ、蝋燭に火をつけることまでは成功した。これでマッチやライターが要らなくなるだろう。でも、自分はこんなところで満足しているわけにはいかない。自分の元の世界に帰りたいし、それに外に出て気分転換の一つでもしたい。  そのためには、もっと別の魔法を覚えることは必要不可欠だった。

 ◇

 そして、杏は魔法の練習を続け、氷を作る、物を浮かばせる、空中に浮遊する、といったことが出来るようになった。虫を食べるのにも慣れた。不衛生な虫ならまだしも、この虫はきちんと養殖された虫だそうで、何を言ってるかわからなかったが虫養殖のドキュメンタリー番組もやっていて、ゼオラが安全性をきちんと紹介してくれたので気にしないことにした。やっぱり見た目は好きになれないけれど、気にしても仕方がないと割り切るしかなかった。  このころには、人恋しさも相まって、ゼオラのスキンシップの要求も受け入れるようになった。しかしながら、ここの世界の住民には胸を触ってはいけないという暗黙の了解がないのかどうか、平気な顔をして胸を触ってきたときには思わず後ろから抱きしめてきた彼の顎に裏拳をかましてしまった。 「ちょっと、胸触らないでよ!?」 「え、怪我でもしてたの!? ごめん、痛かった!?」  もしかしたら悪意はないのかもしれない。この言動が嘘でなければ、だが。 「いや、私が住んでいた世界では胸を触るのは性的なサインなの! こっちではどうだか知らないけれど、交尾まで一歩手前って感じよ! 求愛行動の一種よ!」  この説明であっているのだろうか不安だが、まるっきり間違いというわけではないはずだと、杏は自分に言い聞かせる。 「え、それはまずい! 僕はそんなことまではまだ考えてないって!」 「まだって何!? 考えたいの!?」  この的外れの会話で、もしかしたらいやらしい思いはなかったのかもしれないと思い、今回のことは許してあげるべきだろうと、杏は考えていたが、ゼオラはやっぱりそこから先を考えていたようで、杏としては複雑だ。と、言うよりはこいつは自分を元に戻す気がないのではないかと勘繰ってしまう。  しかし、改めて彼の抱擁を受けてみると、柔らかく、しなやかな体毛に包まれるととても気持ちいい。生き物が持っている確かな熱と、体内の筋肉や骨、心臓の感触が心地よい。どれだけ上質な毛布に裸でくるまってもでもこうはなるまい、よく手入れをされた、生の毛皮だからこそ得られる究極の感触に包まれる。それに、使っているシャンプーのおかげか香りもいい。人間とは大きく違う口の匂いも、きちんと歯磨きをしているから気にならない。異性に興味をもって数年たった女子高生の杏は心の準備をしていたつもりだが、実際に仄かな下心を持った男性の抱擁を受け、その熱を感じるという行為は思ったよりもずっと刺激的であった。口には出さなかったが、終わった後もかなりドキドキしている。  この時の感触は、彼女にとって一生忘れがたい感触となるのであった。

「よし、覚えたぞ」  杏がこの抱擁を受けたのは、何も人肌恋しさからだけではない。この毛皮の感触を覚えるためだ。頭を撫でられたり背中を撫でられたり、ゼオラの抱擁、スキンシップは本当に遠慮がないが、それは逆に都合がよかった。彼の感触、匂いを覚えるのにはもってこいだ。興奮冷めらぬまま、杏は覚えた感触を再現するべく魔法の練習に取り掛かるのであった。  それから、毎日のように遠慮のないのスキンシップを行った結果、彼女は変身する魔法を使うことが出来るようになった。鏡の前で何度も練習し、自分に体毛を生やしたり、顔の形状を人間のような平べったい形ではなく、マズルをとがらせ、歯を臼歯にし、目を顔の前ではなく、横側に付けるようにする。当然、角もつけた。鏡を見ながら何度も確認して、これなら山羊人間の女に見えるだろうと思えるクオリティを追求した。ただ、体毛の色だけは彼とは真逆の純白にした。  そのほうが見分けがついていいかな、と。 「ねぇ、ゼオラ。これどうかな?」 「え?」  返信した杏を見たゼオラは言葉を失っていた。 「なにそれ、魔法なの? そんな変装、魔法で出来るの? 嘘でしょ、ありえない……」  まるで地雷を踏んだようだ。本気で困惑した様子のゼオラを見ていると、自分のやっていることがまるで悪いことのようだ。 「変装? って、レベルじゃないよね? なにこれ、真っ白い体毛が皮膚に直接生えてる……角の質感も本物みたいだし、目の位置も、口の形も……匂いだって、僕と同じ。でも、匂いだけは……男の匂いだけれど大丈夫かな?」 「そこ、冷静に言う!?」  杏は自分の匂いを嗅いでみる。だが、当然ながらよくわからない。こればっかりはほかの山羊の女性の匂いを嗅ぐしかないのだろう。 「ごめん、確かに匂いは大きな問題じゃないよね……でも、この変装ってどうやったの? 僕たち、こんな風に変装出来るだなんて聞いたことがないよ……骨格からして別の生物だよね……」 「え、その、私、何かやっちゃってた?」  どこかのイキりチート小説みたいなセリフを、まさか実際に言うことになるだなんて、杏はこれまで思ってもみなかった。 「今まで僕は、生物の形を変えることは……『できない』って言われてたんだ。魔法の教科書にもそう載ってる、授業でも習った。なんで、君はできるの?」 「え、いや、そんなことを言われても……」  杏は大きな衝撃を受けた。出来ない、というのはなんなのか。今まで誰かがためして、誰もできなかったということなのだろうか? 「で、でも、出来ちゃったことは仕方ないよね……うん、僕としてはいつもの姿のほうがいいけれど、今の君はすごく美人で可愛いと思うよ。でも、匂いはどうにかしないと、性別が誤解されちゃうかも……」 「いや、女性の山羊の匂い嗅いだことないし……さすがに本とテレビだけじゃわからないから……あ、でもこの姿でなら外にも出れるでしょ? ゼオラの親戚の女の子だってことにしてさ、私に町を案内してよ……変なこと喋るとボロが出そうだから、無口な女の子って感じに紹介してね」 「う、うん……どういうことなんだろ……よく考えれば僕だって……」  気分転換に話を逸らそうと思った杏だが、ゼオラはまだ何事か考えこんでいる。それにしても、この世界は何かおかしい気がする。それが何か、はわからないのだけれど。

 ◇

「あら、ゼオラ。その真っ白い子は何かしら? あんたの隣に立つとよく目立つねぇ」  街ですれ違うゼオラの知り合いには、みんな同じようなことを言われる。自分もあえて真っ白な毛皮にしたとはいえ、お似合いと言われると少し照れる。お似合いも何も、親戚という設定なのに、そんなことを言われるということは、周囲には恋人に見えているのだろう。  こんな右も左もわからないところではぐれてしまったら不安なために、常に手を握っていることもそう誤解される原因なのだろう。しかしながら、周囲の人たちを見ていると、魔法というものを仕事以外に使うのは良くないことというのは本当のようだ。  魔法の世界だというのに、それを感じないくらい普通の世界。テレビも写真もスマートフォンをあるし、お店に行けばレジもあるし、車が走っているし、信号もある。しかし、みんながみんな箒に乗って空を飛んでいるようなこともない。横に広い家の作りからして日本のようには見えないが、それでも現在日本からここに引っ越したとしても、魔法が使えないとしてもあまり生活に困ることはなさそうな印象を受ける。言語がわからないとか、常識がわからないことを除けば、だが。  ゼオラの家にあったテレビでは世界中の様子がうかがい知れたが、文明の発展具合の差はあれど、教育に関してはどこに行っても同じように行われているようだ。その点に関しては、貧困で学校にまともに行くこともできない子供がいる地球よりはよっぽどいい世界である。  すれ違う人もいい人たちばかりで、みんな杏のことをかわいらしいと言ってくれるし、困ったことがあれば何でも言ってくれと言ってくれた。いろいろバレると面倒になりそうという事情さえなければ、人見知りのふりなどせずに気軽に話したくなるような人たちばかり。ゼオラと同じ山羊系の男性は、杏のことをナンパしようとしたのも、自分の変身が上手くいった証明のようで嬉しかった。  ほとんどしゃべらず、笑顔を向けたりお辞儀をしたり、それだけの応対でやり過ごした杏は、家に帰りつくと変身を解いた。体毛がふさふさに生えている状況がなんだか少し気持ち悪くて、息が詰まる感覚であったからだ。これもずっと変身していれば慣れるのかもしれないが、今は元の、人間らしい体のほうが心地いい。 「ありがとう、ゼオラ。いい気分転換になったよ」 「ちょっと、冷や冷やしたけれどね……それと、ハイ、お弁当」 「うん、ありがとう」  久しぶりに外に出られて、杏はいい気分転換になった。ゼオラも外に出たことで変装の魔法がとんでもない事態であったことを忘れてくれたようであった。まだ、元の世界に帰るための計画はほとんど進んでいないが、これから色んな魔法が出来るようになれば、いずれ元の世界に帰る方法も分かるだろうと、杏は前向きに考えた。

 ◇

 数日後。

 魔法で出来ないことの一つに、『生き物を作ること』というのがあるらしい。だが、ある日杏はそれが出来てしまった。 「うそ、なにこれ……」  たまたまテレビを見ていた時に映ったとても美しい蝶。それは白と桃色の桜を思わせるカラーリングで、アゲハチョウのように複雑な模様だった。桜を思わせる見た目の蝶が、繁殖のために一斉に集まる光景がテレビに流れていたのだ。その様子はまさに桜吹雪のようだが、いつまでも落ちることなく空を舞いながらつがいを探すさまは、目を奪われるほどに美しい。  杏はテレビ越しにその光景を見ながら『あぁ、あんな生物がいてくれたらなぁ……』なんて考えて、考えて、考えていたら、出来てしまった。本当に出来ないのかどうかためしたかっただけなのだが、出来てしまった。  怖くて、魔法で『消し』てしまった杏だが、彼女は一度落ち着いてこの状況を整理する。なぜ、こんなことが出来てしまったのか? 出来ないはずではなかったのか? そうやっていろいろ考えると、杏はある一つの過程にたどり着く。ただ、このまま一人だけで考えても、独りよがりの考えになってしまうかもしれない。同じく出来るはずのないことが出来てしまった者がもう一人いるのだ、そいつにも一緒に考えてもらったほうがいいだろう。 「ゼオラ……ちょっと、話いいかな?」  ゼオラの店の営業時間が終わり、街の外も暗くなってきたころ、杏はソファに座ってくつろいでいるゼオラに声をかけた。 「ん、どうしたの杏?」 「いや、ちょっとね、私新しい魔法が出来るようになったの……あのね、驚かないで聞いてほしいの。口を閉じて……」 「え? まぁ、いいけれど……」  心の準備をしてもらったところで、杏は先ほど成功してしまった魔法の説明を始める。 「その、ね。私は……ちょっとした軽い気持ちで、テレビを見ているときに……かわいい動物がいたから、それを手元に生み出せないかなって思ったんだ……まぁ、生き物を新しく生み出すことはできないって、この前ゼオラは言っていたじゃない?」 「それがどうしたの?」 「出来ちゃったの……」 「はい? いや、どういうこと?」  まるで意味が分からないといった様子のゼオラをよそに、杏は彼の目の前で桜色の蝶を作り出して見せる。 「ありえない……」  彼女の掌の上に桜色の蝶が現れるのを見て、驚き言葉を失っていたゼオラだったが、少ししてからこの事態の意味を考え出す。杏も、一応ゼオラにこのことを話す前に仮説は立てていた。なぜ、自分たちはできるはずのないことをできたのか?  仮説を立てるとするのならば、まず一つは自分が天才であるという可能性だ。コロンブスの卵じゃないが、出来ないと思われていたことが工夫すれば出来るなんてことはそう珍しいことじゃない。自分やゼオラがコロンブス並みに天才だった、という説だ。しかし、これはあまり現実的な考えではない。  そしてもう一つの説は、出来ないことにしたほうが都合がいい何者かが、『出来ない』という風に言っていた、教えていたということだ。そして、杏の見解としてはこの説が有力だった。なぜなら、魔法で出来ないことの一つに、『人の心を操ること』というのがある。逆に、それは嘘であり本当は『人の心を操ることが出来る』と仮定した場合、『出来ないといわれたことはできないと思い込むようになる』という風に人の心を操れば、世間的にはそれはできないことになるだろう。  では、『出来ないこととされているもの』が『出来る』とすると何が問題なのか? 『遠くまで一瞬で行くことはできない』というのがあるがこれが出来るようになれば非常に便利だが、その反面、どこにでも侵入出来るようになるかもしれない。銀行にでも行けば泥棒し放題だ。  『人を生き返すことはできない』。これはまぁ、語るまでもない。死者が街を歩いたら悪夢である。そして何よりも大事なこととして、『人の心を操ることはできない』これが出来るとすれば……世界中の人間を奴隷にすることだってできるかもしれない。自分の好きな女を、自分にメロメロにするとか、人を騙して詐欺をするのも楽々だ。  そんな風に、杏とゼオラは『出来ないとされていることが出来るとしたら?』と、いうシチュエーションを何通りも考えるが、たいていろくでもないことが思い浮かぶ。『別の世界から物を取り出すことが出来ない』、というのも、外の世界から来た者が、この世界の常識を壊すのが都合が悪いのだろう。ちょうど、今の自分がこの世界の常識を壊しつつあるように。  今の杏は、この世界の知られてはならない秘密を知りかけているため、魔法が何でもできることを隠したい者にとってはさぞや都合が悪いだろう。そう思うと、自分が今とても危険な状況にあるような気がした。なんせ、この世界は授業で『やってはいけないこと』を『出来ないこと』として教え、教科書にもそうやって載せているのだ。杏はやってはいけないこと、出来てはいけないことをやってしまったのである。 「と、言うわけで……『出来ないこと』ってのがこの世界でわざわざ授業とかで教えられているのは、『出来ないこと』を『出来ないこと』にしておかなければ、社会の秩序が崩壊するからだと思うの。ちょっと、残念な感じはするけれど、必要な措置だと思う……犯罪し放題、っていうのは、ちょっと不安だしね」  杏は魔法を今以上に巧みに使って、犯罪を行う様子を想像する。伝説の怪盗も真っ青な逃亡が可能だろう。 「離れた場所に一瞬で移動出来たら泥棒し放題、ヒトの心を操れたら魔法が強い人が奴隷の国を作れちゃう、生き物を自由につくることが出来たら生態系とかめちゃくちゃになっちゃう……うーん、杏の言う通り、そうなったら結構っていうかかなりやばいよね」 「まさに無秩序というか混沌というか。想像するのも恐ろしいくらいの状況になる気がする。もしかしたら、ちょっと気を抜いている隙に、魔法をかけられて操り人形にされるかもしれない。そんなの怖すぎるじゃない?」  例えば、杏がこの世界に来た時に、ゼオラがその気になっていれば魔法で彼女を従順にすることもできたわけだ。 「それを防ぐためには仕方ないことだと思うけれど……もしかして、魔法の授業で『出来ない』って習ったのは。そう思い込ませるためだったのかな?」 「私はそう思う。逆に、そんな授業を受けていない私は普通に出来ちゃったわけだし? もしかしたら、この世界の歴史が魔法を使えるようになった時期より以前にさかのぼれないのも、何か関係があるんじゃないかな。魔法で歴史を消されて、本当に誰も知らないか、もしくは一部の人達だけが知っていて、一般市民が知っているのはそれ以降の歴史だけとか。後者の場合、隠されている歴史の中では、誰もが好き勝手に魔法を使ってひどいことになって、世界が滅びかけたとかそんな歴史でもあるのかもしれない……」 「その歴史を学ばせて、みんなに節度を持って魔法を使うように呼び掛けても……ダメか。悪い人は頼んでも無視するだろうし」 「悪い人が決まりを守らないのはどこの世界でも一緒ってわけね。それを守るためなら、人の心を操るのもやむなし……か。少し世知辛いけれど、必要悪ってやつなのかもね……」  杏は力ない笑みを浮かべて納得する。犯罪になるから規制しようというのは、難しいことだ。『瞬間移動の魔法は使っちゃダメ!』とか『魔法で生き物を生み出しちゃダメ!』とか、言ってきくようなら問題ないが、悪人がそれを聞いてくれる保証もないわけで。だから、マインドコントロールをしてでも、『出来ないこと』にしたほうが管理は楽なのだろう。

 一通り語りつくした二人は、しばらくぼーっとしていたが、この仮説が正しいのであれば、一つ良い事実が見えてくる。 「で、それでなんだけれど、この仮説が正しければさ。私って元の世界に帰れるんじゃないかな? 『別の世界にこの世界のものを送る』っていうのも、無理だってことにされてたんでしょ? 裏を返せば、それも出来るからこそ、出来ないことにされてたんじゃない?」 「あー、なるほど……そうだね、帰れるね。でも、ごめんね。僕のせいで、毎日ずっと家にいて退屈だったでしょ? あはは……今更か。本当に、ごめん」 「んー……まぁ、退屈はしたけれど? でも、一応今までできない体験もできたし? 魔法を使ってみたり、変身してみたり、なかなか刺激的な日々だったし、家の中でもあんまり退屈じゃなかったかも。それに、よく見てみると、あなたの毛並みもなかなか素敵だし? 一緒にいて、悪い気はしなかったよ」  杏は言いながら、ゼオラの頬を両手で包み込み、微笑んだ。 「最初は家に帰りたいってことばっかりで、あんたの顔を見るのも嫌だったけれど。もう見られなくなると思うと、少し寂しいかな」 「僕は寂しいし、本音じゃいなくならないでほしいけれど……でも、そういうわけにもいかないよね」  それ以上の言葉は必要ない。二人は最後の別れを惜しむように互いの肌を求めあった。  ゼオラはお伺いを立てるような慎重な手つきで杏の体に触れ、抱き寄せる。杏は逆らうことなく彼の抱擁を受け入れて、杏はゼオラのふわふわの体毛と良い香りを。ゼオラは若い人間のすべすべのお肌に触れて、その感触を楽しんだ。  お互い密着して、相手の体温と呼吸と鼓動を感じながら、じっと時が過ぎるのを待つ。ずっとこうしていたかったが、これ以上こんなことをしていると、杏は雰囲気に流されてしまいそうだ。そしてゼオラは欲に流されてしまいそうだ。抱き合ったままどれだけの時間がたっていたかわからないが、さっきまでずっと強く波打っていた鼓動も、いつしかこの状況に慣れてしまって落ち着いてしまうくらいの時間はあった。このまま服に手をかけ一線を越えてしまったら、今度こそ別れを告げるのをためらってしまうかもしれないから、こんなところで満足してさっさと別れなければいけないのだ。  外の大時計の鐘が夕暮れ時を伝えると、ゼオラはそれをきっかけに抱擁を終える。 「そろそろさよなら、かな?」  ゼオラの言葉に杏は頷く。 「じゃ、元の世界に帰れるように魔法を使おっか……でも、あなたはこれからどうするの? この世界は嘘だらけってことがわかってしまったけれど。これからどうやって生きるのかな?」 「うーん……僕は、そうだなぁ。いろいろ話あってみたけれど、やっぱり、出来るからと言ってやらないほうがいいことってあるものだと思うんだ。確かに、ヒトの心を操って好きなようにできるのならさ。今ここで、君を操って僕の妻にしちゃうなんてこともできるわけだけれど……。そんなことが出来るならやりたいって気持ちはある。けれど……でも、そういうのは使わずに、今まで通り生きることにするよ。目立つと、消されちゃうかもしれないしね」  なんだか怖いことを言って、ゼオラははかなげに微笑んだ。 「そうよね、私だって元の世界に魔法を持っていけたら、やりたいことは一つや二つじゃないし、何ならここで魔法を使って好き勝手やりたいこともいろいろある。でも、それをやってしまったら、人間としていろいろ終わってる気がする。だから、我慢しなきゃね」 「うん、しなきゃね。あー……辛いなぁ」  言いながらゼオラは顔を背けて涙をぬぐっているようだ。ゼオラにとって人間というのは理想的な造形をした生物だ。その美しさを見ているだけでため息が漏れるほど。だから、事故のようなきっかけで知り合うことになった杏を失うことは正直惜しい。  だからと言って、杏を一生家に飼うだとか、そんなことを考えられるほど彼は悪人にはなれないのであった。そもそも、正体がばれたらひどい目に合うことも考えられるため、小心者という一面もあるのだが。 「とりあえず、考えるべきことは一つ。君を元の世界に帰す、だね」 「うん、『出来ないこと』って明言されているってことは『出来る』ってわけだしね。やれるはず」  ひとしきり必要な会話を終えて、ゼオラと杏はお互いに見つめ合う。言いたいことはいくらでもあったけれど、それらを言っているうちにまた別れたくなくなる気がして、二人は余計な会話を交わすことはしなかった。 「じゃ、やろっか」  二人は無言で頷きあう。無理して微笑んだ顔は、あとで思い返すとひどく滑稽なものだった。

 ゼオラは彼女のことを見つめながら、元の世界に帰れますようにと念じる。杏は胸の前でお祈りするように手を組みながら、目を閉じて元の世界へと帰るよう念じる。集中しているうちに周囲の音は聞こえなくなり、体はふわりと軽くなって宙に浮いたような感覚に包まれる。  やがて、杏は強烈な眠気を感じて意識はなすすべなく沈んでいく。真っ暗な世界の中、意識があるのかないのかもあいまいな状態はまるで心地の良い眠りのよう。

 ◇

「ちょっと、お嬢ちゃん。貴方、大丈夫なの?」  目が覚めたら、学校からの帰り道の途中。通行人に話しかけられて杏は起きた。どうも自分は道路のど真ん中で気を失っていたらしく、近所に住んでいるおばさんが心配そうな顔でのぞき込んでいた。 「ふぇ……? あ、えっと、大丈夫です……えっと、今何日でしたっけ?」 「何日って、今は9月12日よ。あんた大丈夫なの? 頭とか打ってない?」  あの日、自分がゼオラの住む世界に飛ばされた日と同じ日付。家族を心配させたくないからと、二週間ほど時空を超えた計算になるが、自分は見事ほぼ同じ場所、ほぼ同じ時間軸へと到着したらしい。あの世界の魔法は、時間移動までできるようだ。 「いえ、大丈夫です……今日ちょっと、女の子の日で……」  幸い、頭も打っていないようだ。この世界に来るときに意識が飛んでしまったけれど、とりあえず体もどこにも痛いところはない。 「あらあら、大変ね。ごめんね、変なこと聞いちゃって」  若い子には恥ずかしいことを聞いてしまったなと、見知らぬおばさんは少し気まずそうだった。 「その日は、いつも貧血が酷いんですよ。鉄分、取らなきゃいけませんね」  杏は適当な嘘を言って立ち上がると、おばさんに丁寧にお辞儀をして家に帰る。あの時の出来事は夢なのだろうかとも思ったが、自分の制服には明らかに自分のものでない縮れた黒い体毛、そしてあの鼻孔を心地よくくすぐるシャンプーの香りが残っている。  きっと夢じゃあない。そう微笑みながら、彼女は家に帰りつく。 「ただいまー!」  彼女は妙に大きな声で、自分の帰宅を家族にアピールするのであった。

 ◇

 一人きりになったゼオラは、しばらくぼーっとしていたが、来客を告げる音が玄関から響き、気分を変えようとして立ち上がる。 「誰かな? こんな時間に」  ちょっと放っておいてほしかったんだけれどな、という思いもないわけではないが気分転換になるかもしれない。少し気怠い体を引きずるようにして、ゼオラは来客の元へ向かうのであった。

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