朝から出ていた雲が鈍色に翳り始めた。遠くに雷鳴が聞こえたかと思えば、大粒の雨の体を濡らし始める。  「オスです。かわいがってください」と下手な字で書かれたこの段ボールもマジックのインクが滲み文字が崩れ始める。  中短の私の体毛が雨をどんどん吸い始め体が重くなる。  追い打ちをかけるように真上にある木の枝から落ちた雨粒が私の瞼になかなかのスピードで当たった。暴れたいほどに不快になるが今は我慢だ。  “今日は間違いなく拾われる”  こう見えても私はプロだ。曜日・天候・時間など様々なファクターから導かれる統計で拾われる確率というものは往々にして変わってくる事を知っている。  例えば曜日に関して言えば、1週間のうちに最も拾ってもらえる可能性が高い土曜日でその確率は41.2%。天候に関して言えば雨の日に拾われる率がなんと77.6%。決して看過できない数値であることは言うまでもないだろう。  捨て犬界隈では拾われるか否かは完全な運という定説があり、それを妄信的に信じる犬も多い。  愚かだ。あまりに浅はかな考え。自らの研究の浅さを棚に上げて”運”などという非科学的な産物に縋ろうとは同じ犬として恥ずかしい。  1時間ほどの時間が経った頃。私の目に赤い長靴が映る。  見上げるとビニール傘を差し、黄色い花柄のワンピースを着た少女が私の前にしゃがみ込む。  年端もいかない少女。おそらく10歳前後であろうか。  片手に持ったビニール袋からは牛乳と玉子とお菓子の袋が見える。お菓子は彼女への褒美といったところか。  おそらく父母と労働契約も結んでもらえぬまま双方の同意もなく安価な現物支給による報酬のみで市場に出向かされ購買を行わされているのだろう。  どうやら人間界では“おつかい”などという可愛い呼び名で誤魔化されていると文献で読んだことがある。  「君、1人?うちに来る?」  傘の柄を首と肩に挟み両腕で私を抱えようとする少女。すかさず私はそれを避けるように後ろにのけ反り、同時に威嚇するように唸り声を上げる。  驚いた顔をする少女。だがまだだ。牙を剥き出し、大きな声で吠える。少女が小さな悲鳴をあげる。だがここで手を抜いてはいけない。私が出せる最大限の声で吠える。吠える。吠える。  少女は尻餅をついた。小さな水たまりにワンピースが濡れるがもはやそれを気にする様子もない。  みるみる顔が歪み、そして大きな声で泣き始めた。拍子で落とした傘とビニール袋を乱暴に拾い、大きな泣き声をあげながら私の元を走り去っていった。  勘違いしないで頂きたいのだが、私はあの少女が嫌いなわけではない。だが彼女に拾われては駄目なのだ。なぜなら彼女は「一般家庭」であるから。  そう。私は「上流家庭」に拾われたいのだ。5段階評価で言えば4か5。それ以下はどう振れようと認めることは出来ない。  ちなみに先ほどの彼女を一般家庭の子だと判断した理由は大きく2つある。  1つは傘だ。これは分かりやすいかもしれないが上流家庭はビニール傘などというチープな代物は使わない。日用品1つを取ってしても常に上品なものを幼少時から持たせているものだ。  もう1つはビニール袋。あれは確かこの近くにある激安が売りのスーパーのものだ。 一度近くまで見に行ったことがあるがギラギラと光るネオンと法被を着た店員が拡声器で安さを謳うあの光景はお世辞にも上品なものとは思えなかった。  恥ずかしながら私は雑種だ。ペットショップの“血統書付き”などという上流階級の家に飼われることが保証されているような犬ではない。  だがそれが何だ。雑種だから一般家庭で我慢しなければいけないなどというルールがどこにある。  もちろんそれは茨の道。決して簡単ではないだろう。  ある雑種界の同期は中流家庭に身を固め、平々凡々な余生を過ごし、また別の者は誰にも拾われず、野良犬としてゴミ捨て場の生ゴミを漁っているらしい。  私はそのような者たちになりたくなかった。だから勉強を重ねた。寝食を惜しんで研究に明け暮れた。無理が集り気を失ったこともあった。だがやるしかないのだ。雑種なのだから。純血に生まれなかったことを嘆いても意味がない。  才能?コネ?知ったことか。そんなことを憂いてる暇があるなら研究文献の1ページでも頭に叩き込んでみたらどうだ。  そんな思いに心を馳せていたせいか、別の女の子が立っていることに気付かなかった。  目に入ったのは黒のショートブーツ。しっかりと撥水加工がされておりコンクリートから反射した雨粒もまるでバリアのように弾き返している。  さらに目を上げると服装が見えた。黒のスカートに白のサマーニット。決して派手ではなく、かと言ってフォーマルほど硬くない風貌は印象としては悪くない。  そして最後に顔が見えた。くるりと丸い瞳。すらりと通った鼻筋。唇はまるで採れたての果実のようにぷるりと潤っていた。  瞳はやや緑がかっているのが分かった。少しばかり外国の血が流れているのだろう。  うっすらとチークが塗られ、薄ピンクのリップが塗られている。  年齢としては先ほどの女の子とそこまで差はないだろうが一目で受ける印象はまるで違っていた。  見た目における教育を受けている家庭はかなり教育水準が高いといえるだろう。  それ以上に私が気になったのは彼女が持っている手提げ鞄だ。表面には「翔雲塾」とプリントがされている。  翔雲塾といえばここらではかなりレベルが高いと言われている学習塾だ。  将来を担う有望な少年少女たちが一堂に集う場所と言ってもいいだろう。  私の頭の中で驚異的なスピードで計算が行われる。目に見える情報から彼女の普段の生活、家庭環境を推察し、服装・靴などからここから自宅までの凡その距離を計算する。その場所が一等地か否かを脳内データベースから検索していく。  急げ。計算が遅れると私に興味を失い、この場を去ってしまうかもしれない。  しかし焦ってはならない。判断ミスは許されないのだ。  100%とは言うまい。だがせめて自分が納得できる回答までたどり着いてくれ・・・!  私の頭の中で幾多もの数字が飛び交う。先人が積み重ねてきてくれたナレッジを指でなぞり必要な情報だけを選出していく。  あぁ、頭が割れそうだ。ここまで限られた時間で計算をしたことがこれまであっただろうか。それほどまでに今の私は興奮していた。  「捨て犬・・・かな?」  首をかしげて私を見る少女。それと同時に私の脳内も解を出した。  私は段ボールの縁に前足を掛け、後ろ足二本で立ち上がったような姿勢をとった。短い尻尾をパタパタと振り、少女の顔から決して目を切らず見つめ返し、くぅんと甘えた声を出した。  この子で決まりだ。必ず拾われてみせる。そう私は結論を出した。  私の頭にアドレナリンが駆け巡る。しかし興奮して取り乱してはならない。ここは落ち着いて私が長年の経験の元に編み出した「必勝!拾われマニュアル」を思い出し行動に移る。  まずは目だ。目は口ほどに物をいうという諺があるのはご存じだろう。  人間が考え出したゴタクにしてはよく出来ておりなかなか的を射ている。  私は目の輝きには自信がある。まるで光を通した宝石のように目を潤わせじっと相手の目を見る。   ずっとだ。決してこちらから目を切ってはならない。可愛さに耐えかね、向こうから目を逸らして来たら第一段階はクリアだ。まずは好印象与えることには成功したといえる。  「こんな雨の中かわいそうに。おいで」  少女が私を抱こうと手を伸ばしてくる。しかし決して私は自ら少女の手に抱かれようとはしない。ここが捨てられプロとアマの決定的な違いだ。  素人はここで自ら相手の腕にダイブし元気な自分をアピールしようとする。だがそれでは駄目だ。ここは哀愁を漂わせ奥底に宿る母性を刺激してやるのだ。  そして少女は震える私の体をそっと抱きかかえ、ずぶ濡れになったこの体を気にも留めず胸の辺りで体が落ちぬよう支えた。  彼女の胸から伝わる体温を私の頬が感じ取る。雨で冷え切った体に十分くらい沁みるのだ。  気づけば雨も上がり雲の切れ間から差す光が私と少女を照らす。  傍から見たそれは聖母マリアの絵画のような構図に見えるに違いなかった。

 抱きかかえられたまま歩くこと凡そ10分。少女の暮らす家に到着する。  私は驚愕した。白を基調とした2階建ての家。  2階部分にはバルコニーと両開きの窓が見える。それはさながらロミオとジュリエットの有名なワンシーンを彷彿とさせた。  少女は左腕に私の前足をまるでフックに掛けるように支え、右手で木製の大きな門扉を開けた。小さくキィと軋むような音を出す。  門扉を抜けると庭が見えた。花壇にはサルビアの花が植えられており、先ほどの雨粒の反射できらきらと光っている。  外開きのドアを開けると広々とした玄関。白のタイルを基調とした三和土には靴が二足。  一つはウイングチップの付いた革靴。砂埃ひとつ付いておらず丁寧に手入れされているのが一目でわかる。  もう一つはエナメルのハイヒール。まるで深紅のバラのような煌々とした赤が眩しい。  「ただいまママ」  「おかえりなさい。ユリちゃん」  母親と思しき人物が左の扉から現れる。  グレーのロングスカートに茶のブラウス姿。絹糸のようなサラサラとしたロングヘアが美しい。  女性にしては脚がすらりと長い。顔には薄く化粧がされておりいつ客人が来ても問題ないその振る舞いは一般家庭には意識してもなかなか真似できないであろう。  「あら、そのワンちゃんは?」  「塾の帰り道にいたの。段ボールに入れられてたから捨て犬みたい。ねぇママ、うちで面倒みてあげてもいい?」  んー、と少し首を傾げる母親。  「でもねユリちゃん、生き物を飼うということはその子の命を…」  「良いじゃないかママ」  同じく左側の扉から別の人物が現れる。  スラックスにセーター姿の男性。おそらく父親だろう。  ブロンズブラウンのショートヘアにラウンド型の眼鏡。その奥の瞳は青く、サファイアの宝石を連想させた。  背がかなり高く母親と並んでも頭1つ分くらいは出ている。私からだとさすがに見上げないと顔が確認できないほどだ。  「ユリももういい歳なんだ。生き物の命の大切さを学ぶいい機会じゃないのかな」  そう言いながら紳士は人差し指の腹で私の喉をさわさわと撫でる。少し太い指だが悪くない。  悦に浸りながらも冷静さを忘れてはならない。  これはまたと見ぬ僥倖。飼ってもらうにあたって最も高い壁がこの家族の同意なのだ。            雨に打たれている最中の哀愁は無いため、振る舞いのみで純真無垢な子犬を演じなくてはならないのだ。  しかしなんと寛容な一家なのであろう。私が想定していたこの壁もどうやら杞憂だったようだ。  「・・・そうね。分かったわ。でもユリちゃん、ちゃんと面倒見るのよ。いいわね。」  「わぁい!パパママありがとう!」  少し不安げだった母親も父親の意見に賛同してくれたようだった。  私の心は小躍りした。ようやく念願が叶ったのだ。  無意識に揺れる尻尾。嬉しそうな家族に呼応するかのように私は小さくワンと鳴いた。

 少女はまず私を抱きかかえたまま風呂場へ運んだ。綺麗に磨かれた大きな浴槽がある。   あれは確か“ジャグジー”とかいう名前だっただろうか。  どうやら人間はあの装置から水勢よく噴出される湯をさながら修行僧のごとく自らの四体に打ちつけることで快楽を得ているらしい。犬の私には無縁の代物とは言え、なかなか理解が難しい。  少女は私がそんなことを考えているなどとはつゆ知らず、シャワーを自らの左手に当てて温度をみてくれている。  うん、と納得しシャワーヘッドを私に向ける。  少し温めの湯が頭にかかり私は目を閉じた。それから背中、臀部と湯が掛けられる。雨で冷え切った体によく染みた。  シャワーが止まり目を開けると少女はシャンプーボトルを2度ポンプさせシャンプーを手に取る。  アロマの香りが漂うが犬の私にはやや強い。頭と背中の毛を梳くようにわしゃわしゃと洗われる。尻尾の扱いが少し雑だが・・・まぁいいだろう。  泡が目の近くに垂れてきたので私はまた目を閉じた。  脇の間に手を入れられ、ひょいと持ち上げられたのが分かる。  腹の辺りも毛を掻き分けられ洗われた。私はこの辺りが弱い。くすぐったいが身を捩る気力も失うほどの快感に私は身を委ねた。  全身泡だらけになった私はまたタイルの上に下ろされシャワーを浴びせられる。抜けた毛と少し濁った水が排水溝に流れていくのが見えた。  「ママー、バスタオル取ってー」と少女は風呂場の扉を開け母親に告げた。  その時、私の中に一つの欲望が生まれた。  やりたい。この余分な水分を取りたい。つまりはブルブルブルブルしたい。だがここで少女の服を濡らし株を下げるわけにはいかない。私はタオルが来るまで本能的に来るこの欲望に耐えた  大きなバスタオルで全身を包まれ揉まれるように拭かれる。柔軟剤の匂いが仄かに香った。  そして彼女はドライヤーを手に取った。親指でスイッチを弱めの温風に切り替え私の毛並みに当てる。私の毛の水分が蒸発していきだんだんと軽くなるのが分かる。  「どう?気持ちいい?」  あぁ、手練れとまでは言わないが悪くない。  「うん!綺麗になったね。ロドリゲス」  ・・・ん?  「さぁ私の部屋で遊ぼうね!」  ちょっと待ってほしい。少女は今何と言った。  ロドリゲス?まさかとは思うがそれは私の名ではあるまいな。  否。そんなことあるはずがない。年端もいかない少女が付ける名前にしてはあまりにもアバンギャルドすぎる。  「ね?いい名前でしょ!ロドリゲス!」  私の名だった!  どうしたらそうなる。どういう教育を受ければそのようなネーミングセンスが生まれるのだ。  私が収集した情報によれば昨今のトレンドとして人間は“チョコ”や“モカ”などシンプル且つ体の色などから連想される名前を付けるというデータがあるらしい。  つまり私のような栗色の毛をしていた場合、“マロン”などの名前を付けるのが主流なのだ。  それがどう間違えばそんな往年のプロレスラーのような名前になるのだ。  いや待て。私が知らないだけでこのように高尚な家庭に育った少女はこういったセンスを持っているものなのかもしれない。私は自身の脳内ライブラリに新しく情報が増えた・・・ことにして自身を納得させた。

 風呂場から出た私はキッチンへ連れていかれた。台所では母親が夕食であろうサラダの準備をしている。  「あら、綺麗にしてもらって良かったわね」  そう言って母親は私の頭を軽く撫でた。  「喉が渇いたでしょう。ちょっと待っててね」  母親は台所横の大きな冷蔵庫を開けドアポケットから牛乳を取り出した。食器棚から取り出した平たい皿に牛乳を注いて私の前に置いた。  私は尻尾を振り歓喜の表情を作る。しかし私はこの牛乳に口をつける気は無い。  なぜなら人間が飲む牛乳は犬にとってあまり良くはないのだ。  牛乳に含まれるラクトースという成分は犬の体内では分解しきれず、下痢等の体調不良を起こす可能性がある事を知っていた。  だがせっかく出したにも関わらずまったく口を付けないのはあまり心象が良くない。人間というものは不思議なもので、自分が出した食べ物を動物に食べてもらえると大変うれしいらしい。同じ人間に食べてもらえてもそこまで喜ばないのになぜなのだろう  公園の鳩や野良猫に餌付けをする人間の心理がここに垣間見える。  しかし私の体調を考えると飲むことは出来ない。そこで私は考えた。  私はさながら飢えたライオンが久しぶりに獲物にありつけた時のように牛乳を張った皿に顔を突っ込んだ。  口と鼻で牛乳を周囲へ飛ばす。無論、飲んではいない。  傍から見ると非常に行儀が悪く見えるだろうが、人間の目から見ると大喜びした子犬が興奮のあまり可愛らしい粗相をしたように見えるのだ。  この時、口・鼻・目の下辺りまで真っ白になるように汚れるとキューティポイントがアップするのでおすすめだ。  「あらあらよっぽどお腹が空いてたのね」  「もう、ロドリゲスったら食いしん坊さんね」  そして私はまた洗面所へ連れていかれ顔を洗われた。

 しっかりと洗顔を施された後、私は2階の少女の部屋へと連れて行かれた。  何ともファンシーな部屋である。シルキーホワイトの壁紙に薄緑のラグが敷かれている。  木製の本棚の上には茶色とピンクのテディベア2体が肩を寄り添わせるようにして並べられている。  所々に見える縫製から手作りであることが分かる。この子は手芸が得意なのだろう。  隅には勉強机が置かれている。教科書は背の高さ順に丁寧に並べられており几帳面な性格が窺い知れる。 ブーツの形を模したペン立てにはアニメキャラクタの鉛筆と定規、カラフルな油性ペンなどが収められていた。  しかし私がこの部屋で一番気になったのはそれらではない。壁に貼られたポスターである。  真っ赤な覆面、屈強な体つきの男性が両手を挙げて咆哮しているワンシーンが切り取られていた。どうみてもプロレスラーである。  青く澄んだ瞳を見るに外国人レスラーだろうか。  年頃の女の子であれば人気アイドルの写真などを貼っているものだと思っていた私は面食らった。  ふと本棚を見て私はさらに驚愕した。『プロレス名鑑』、『リングに駆ける男たち』、『バッファロー・ザ・ジャイアントのすべて』などプロレス関連の書籍が並べられている。  これはただのファンではない。ガッチガチのマニアだ。少女が私にロドリゲスという名前を付けたことにも合点がいった。  しかし何だろうこの感覚は。いや別にプロレスファンであることに問題があるわけではない。何を好きになろうがそれは人それぞれだ。  だが私がこれまで描いてきた高貴な家庭のイメージが少しずつ歪に形を崩してきた。  私の頭の中にもやもやとした違和感が出始めたがそれを力ずくで抑え込んだ。

 私はまた抱きかかえられリビングへと連れていかれた。少女の腕へのつかまり方も慣れたものだ。  扉を抜けた先で香ばしい薫りと小気味のいい音が私の五感を刺激する。  これは!と思った時には無意識に私の尻尾は揺れていた。  テーブルの上に小さな鉄板とスープ皿、サラダとパンが3つずつ置かれている。そして鉄板の上にはとても分厚いステーキ肉が横たえられていた。  この距離からでも分かる香ばしさ。溢れ出てくる肉汁と良質な脂はまだ熱い鉄板の上で踊っていた。  「わぁい!今日はステーキだぁ!」  「新しい家族の歓迎に今日は奮発したのよ。さぁ冷めないうちに頂きましょう」  少女は私を床に下ろし、洗面所へ手を洗いに行った。父親は既にテーブルについており食前のワインを嗜んでいる。  母親はキッチンから小皿に乗せたステーキ肉を持ってきて私の前に置いた。どれも10cmほどに切り分けてくれている。  「ロドリゲスちゃんも遠慮なく食べてね」  そう言って私の頭を優しく撫でた。  私は皿の上に並んだ肉をまじまじと見る  文献で読んだことはあったが本物はこれほどまでに煌びやかなのか。私のために少し冷ましてくれてはいるが、しっかりと薫る肉独特の香ばしさ。染み出た肉汁が艶々とコーティングされているようにも見える。  あぁ、今すぐにでも齧り付きたい。感触はどんなものなのだろう。口の中にあふれ出る肉汁の旨味は?  私の中の五感が既に我慢できないほどに求め始めた。だがここは冷静に。私は肉に対するこだわりだけは誰にも負けない自信がある。   私はおすわりの姿勢で背筋をピンと伸ばし皿の上の一片をゆっくりと口に含んだ。  前の歯に軽く触れただけで崩れて無くなってしまうほどに柔らかな身。細い糸を歯で切るようにぷちぷちと繊維が口の中で切れていくのが分かる。  その切れた繊維の一本一本から旨味が口内に広がってくる。わずか1口を私は数分かけて楽しんだ。  肉も勿論だが、味付けの仕方も素晴らしい。少量の塩と胡椒のみ。余計な調味料は一切入れておらず、肉本来の味を楽しめるよう調理されているところを見るとかなり慣れているのが見て分かる。  「わーい!いただきまーす!」  と少女は手を合わせてからフォークとナイフと持つ。左手に持ったナイフで肉を押さえ、ナイフで1口大に切り分け・・・るかと思いきや肉の中央を切りちょうど二等分にした。  怪訝に思っていると少女は切り分けた片方にフォークを突き立てた。  そしてモリで射た魚のように肉を持ち上げ口を大きく開けて食べ始めた。その光景はさながら巨人が小人を食べてしまうおとぎ話の様な光景であった。  私は驚愕した。肉の楽しみ方というものは適した大きさに切り分け、数度にわたり楽しむものではないのか。あのような食し方は肉に対する冒涜ではないのか。私は軽く怒りさえ感じてしまった。  「ユリちゃん、お行儀が悪いわよ」  「えー、でもこうやって食べる方が美味しいんだもん」  母親の言うとおりだ。母親の方を見ると丁寧に一口大に切り分けている。そして一片を口に運ぶ・・・かと思いきや肉の端を1cmほど切り落とした。  「ママ、そこ食べないの?」  「ママね、ダイエット中だから脂身は食べないようにしようと思ってね」  ・・・は?  私は目が点になった。脂身は・・・食べない・・・???  眩暈を起こしそうな衝撃だ。言うなれば旨味部分の約半分を捨てているに近い。  第一、高級な牛肉というものは良質な脂が乗っている。適量の摂取はむしろ体に良いのだ。  なぜ人間の女性は「あぶら」という単語を毛嫌いするのだろうか。  父親は大丈夫だろうかとそちらに目をやる。食器の当たる音も最小限に肉を切りゆっくりと口に運んでいた。ナイフとフォークを皿の上に八の字に置き、ワインを一口嗜む。  さすが大黒柱だ。多少の事は気にも留めず自らの食事を楽しんでいる。私の目にはそれが『最後の晩餐』に描かれたキリストの姿にも見えた。  「ママ、アレがないじゃないか」  ナプキンで口を拭い母親に静かにそう告げる。あら、そうだったわと言い、母親が冷蔵庫へと向かった。  何だ、と思っていると母親は冷蔵庫のドアポケットからマヨネーズを取り出し父親へ渡した。  まさか。  父親は器用に片手で容器の蓋を開けた。  やめてくれ。  星形の口から出てくる黄白色の固形とも液体とも言えぬ物が今まさに肉にかかろうとしていた。  あぁ…  高級牛肉がマヨネーズに染まっていく。しかも尋常な量じゃない。ソフトクリームのように渦を描いた立体物が肉の上に鎮座した。少女と母親は特に気にする素振りもない。おそらくいつもの光景なのだろう。  全く躊躇なく父親はそれを口へと運んだ。もはや肉を食べているのか肉味のマヨネーズを食べているのか分からない。それをうん、と満足気に平らげている姿は一周回って高貴にも見えた。  それから先はあまり覚えていない。極力、食卓に視線を向けず私は私の食事を楽しんでいた。  いやこの時間を早く終わらせたかったのかもしれない。当然、肉の味など感じている余裕さえ無かった。

 その夜、私は少女の部屋で寝床を用意してもらった。隣のベッドで少女はすぅすぅと寝息を立てている。  私は考えていた。間違っていたのか・・・?  間違いなくこの一家は一流の家庭であることは間違いない。だが、納得いかない事も多い。私は考えを巡り巡らせ結論を出した。  いや、問題ない。  そもそも100点満点の家庭など存在はしないのだ。牛乳が何だ。ネーミングセンスが何だ。最高級の肉の食べ方が何だ。そもそも私はそのような事に異議を投じれる身ではないのだ。  そう思うと心が穏やかになってくる。安心と今日の疲れで眠気が私を誘った。  その時である。階下でカチャカチャという小さな音が聞こえた。私の耳がピクと動く。  玄関の方からだ。玄関のドアを固いもので引っ掻くような音が聞こえる。そしてその音はカチャリという音に変わった。  誰かが玄関のドアを開けたのだ。壁に掛かった時計を見る。夜中の0時30分を過ぎていた。  極力音をたてないように玄関の扉が開かれそして数秒後に閉められる。  玄関のフローリングがコツリと音を立てた。おかしい。なぜ靴のまま家に入った。  私は胸騒ぎを覚えた。ぴょんとジャンプし扉のレバーハンドルに飛びついて扉を開けた。   廊下に出て格子状の柵から階下を慎重に覗くと黒の上下とニット帽を被った人間がいるのが見えた。暗くて顔はよく見えないが体格を見るにおそらく男性だろう。  その人物は足音を立てぬよう慣れた足取りでリビングへと向かっていった。私も足音を立てぬよう気配を殺して階段を降りる。  階段の陰からリビングを覗いた。周囲を見回し、辺りを警戒している。  誰も居ないことを確認した男はポケットからペンライトを取り出し口に咥える。部屋のチェストの引き出しを開けて中を物色し始めた。  ペンライトの光により男の顔が薄らと見えた。黒のサングラスにマスク姿。  それを見て私は確信した。予想はしていたが紛れもなく泥棒である。気付けば私はリビングへ走っていた。  チェストを物色する男の横で私は唸り声を上げた。私の声に気付き、男は私にペンライトを向ける。  ここぞとばかりに私は吠えた。この広い家中に響き渡るほど大きく、喉が涸れてしまうほど強く、私は男を威嚇する。  私のこの小さな体では男にとって脅威にはならないだろう。しかし泥棒が最も恐れているのは大きな音だ。これなら私にも出すことが出来る。  だが男は特に焦る様子もなく冷静であった。私の声に臆する様子も無い。  そして男は尻ポケットから棒状の物を取り出した。それを私の方に向ける。  鉄製のハンマーだった。男はそれを大きく振り上げる。私は警戒し身構えた。  そして男は私に向かってハンマーを振り下ろしてきた。  私は咄嗟に左へ飛び退き攻撃を避けた。振り下ろされたハンマーがフローリングに当たりガツンと鈍い音を立てる。少し窪んだ床板を見てまったく躊躇が感じられないのが分かる。  命の危機を感じた私は軸足として出された右足の太腿に噛みついてやった。  強く牙を食い込ませる。だが男はまるで何も感じていないかのように噛みつかれた足を回し蹴りの要領で大きく振った。  振り飛ばされた私の体は部屋の壁に背中から打ちつけられ、そのまま床にドサリと落ちた。  体が動かない。男は私の前に立ち、再びハンマーを振り上げる。私は覚悟し目を強く閉じた。風を切る音が聞こえ、私の脳天に向けハンマーが振り下ろされた。  ・・・何も痛みを感じなかった。命果てる瞬間とは得てしてこういうものなのだろうか。  いや違う。男はぐっ、という声を出していた。  私は目を開けた。そこには素手で男と対峙している父親の姿があった。  振り下ろされたハンマーを父親が片手でいとも簡単に受け止めていたのだ。  あまりの力に男の手はわなわなと震えているが父親は涼しい顔をしている。  「がぁぁっ!!」  男は父親からハンマーを引き剥がし、今度は父親に向けてを大きく振りかぶった。  危ない!!!  忠犬としてここは主人の安全を身を挺して守らなければならぬ場面。しかし体は全く言うことを聞かなかった。  父親の頭めがけて勢いよくハンマーが振り下ろされる。だが父親はそれを流れるようなバックステップで躱した。  男が大勢を崩した一瞬の隙を突き、父親は男に距離を詰め、腹部めがけ強烈にジャブを叩き込む。  前のめりに怯んだ男の首に父親は両腕をかけホールドした。ふんっ!と息んだ声を出し父親は後ろにのけ反った。  男の体が持ち上げられ、ホールドされた首元を軸としてちょうど半円の弧を描くように宙を舞った。  父親は綺麗なブリッジの体勢になり男を投げ飛ばす。男は成す術もなくリビングの床を破壊するかのような勢いで背中から叩き落された。  フロントネック・チャンスリードロップ!!!  往年のプロレスラーも愛用したとされる大技とその衝撃の光景に私は一瞬痛みを忘れていた。  「パパすごーい!!」  気付くとリビングの外に少女と母親も起きてきていた。リビングの電気が付き、眩しさに私は目を顰めた。  「さすがバッファロー・ザ・ジャイアントの名は伊達じゃないわねパパ」  バッファロー・ザ・ジャイアント…?  少女の部屋でそのような名前を見たような気がする。  「こらこら。パパはもう引退してるんだぞ。その名前で呼ぶのはやめたまえ」  とは言いつつ満更ではなさそうな父親の表情を見る。  彼のサファイアのような青い目を見て思い出した。  そうか・・・あのポスターは・・・。

 私は少女に介抱され2階の部屋で休まされていた。壁に貼られたポスターを見る。  少女は決してプロレスファンというわけではなかった。ただ心の底から父のことを愛しているのだ。なんと美しい家族愛ではなかろうか。  窓の外からパトカーのサイレンが聞こえる。どうやら男は無事連行されていったらしい。  だが私はその音もあまり届かず、頭の中に世界を描いていた  私は高貴な家の飼い犬。小鳥のさえずりを目覚ましに私の1日は始まるのだ。  焼きたてのパンと野イチゴのジャムで朝食をとる一家。何でもない話で笑いあう微笑ましい光景。  今日も元気ね。と優しく喉を撫でられ、自然と私のフサフサの尻尾も揺れるのだ。  そんな時、食卓のドアを蹴破り野盗が一家を襲う。  悲鳴を上げる少女と母親。  怒りの表情を漂わせ、徐に父親が立ち上がる。  喉の奥から咆哮を上げたかと思えばみるみる筋肉が膨張し、身に着けていたシャツを激しく割かれていく。  そして幾多もの野盗をちぎっては投げ、ちぎっては投げ…  違う違う違う!!!  私の描く理想の一家とはこんなワイルドなものじゃないんだ!!  もっと高貴で!!!もっと淑やかで!!!もっと・・・・!!!!

 「ふぅ、一時はどうなるかと思ったわね」  「本当に。でも家族が無事で良かった」  「ねぇパパ、ママ、ロドリゲスが部屋にいないの」  「ええっ!まだ傷も癒えてないのにかい」  「ロドリゲス何処へ行ったの。ロドリゲスーっ!!!」

 朝から雲一つない快晴だった。今日は暑くなりそうだ。  熱を帯びたコンクリートで肉球を火傷しないよう、段ボールを頭で押して塀の陰まで移動した。  少女の部屋から拝借した黒の油性ペンを短い両前足で掴み、キャップを口に咥える。  毛皮と肉球で滑ってなかなか抜けなかったが先ほどようやく抜けた。  私は決して諦めない。理想の家族に飼われ、最期を看取られるその日まで。  ペンを口で咥える。  「オスです。かわいがってください」とまた下手な字で書いた。

(原稿用紙39枚)