1.賢狼 「それじゃあお父さん、行ってきます!」  赤ずきんは今日もおつかい。お父さんが用意してくれたバスケットを持って。目指すおばあちゃんの家は不思議な森の中。そこでいろいろな病気に効く薬を作っている。だから、中身はすべて材料。  トレードマークの赤ずきんを被りなおし、手を振るお父さんに背を向けて、森の奥へ。自分以外は滅多に近寄らない。お父さんが言うには、私やおばあちゃんだけは特別だからとのことだった。  普段使いするのは彼女くらいのものだが、森の奥に住む老婆の評判を聞いて立ち入るものもまたいる。踏み均された芝草を今日もこうして踏んづけていく。

 曰く、魔女、と。

 多少の人の通行はあるのものの基本的には整備はされていない。  鼻唄を鳴らしながら足取り軽く。年端もゆかぬ少女とはいえ慣れとは素晴らしいものだ。日が当たらないぬかるみも、高齢に耐えかねた倒木も、ものともせずに進んでいく。  鬱蒼とした森に住んでいるのは何も魔女だけではない。悪魔もいるし鬼もいる。赤ずきんが立ち止まるとしたらそれくらい。なんて。 「きゃっ!」  しかし滅多に人が近寄らないと言うだけで、たまには他の人間に逢うこともある。  引っ張られる腕、崩れるからだ、掴まれる首。声を上げても誰も助けには来ない。  はじめは森の妖精の悪戯かと思った。次に、小人。にしては感覚が広範囲に感じられ、拘束している肉は分厚かった。  必然、おとぎ話の住民たちにそう軽々と遭遇するわけもなく、赤ずきんを捕まえたのは屈強な男。卑怯とは言うまいね、彼”ら”も必死なのだ。 「お前、魔女の孫だな?」  門外不出の秘伝の調合を知りたがる人間は多い。そうでなくともおばあちゃんを悪魔と契約している、とか倫理的に問題のある材料を使っているとか疑う者たちはもっと多い。  だからたまにこういうこともある。赤ずきんにはもう慣れたことだった。  せめて手を引くのが白馬に乗ったかっこいい王子様ならよかったのに、目の前にいるのは明らかに悪者のオジサンたち。 「脅しのタネにするだけだ。大人しくしてもらうぞ」 「我々もガキのお使いで来てるわけではないのでね」  赤ずきんは解放され、ぺたりと両膝をつく。軽くオジサンたちを見回すと、あきれ顔で天を仰いだ。  そして、聞こえる。  そう、ここは不思議な森。不思議な森には不思議な森たる所以がある。  これから起こる惨劇を予見して、「あ」と一つ声を上げた。

 何故そうも狙われるネタの揃っている小娘を―ご丁寧に目出す赤い頭巾をかぶせて―たった一人で森をゆかせるのか。

 何かが空を切る音、地面を蹴る音、怒気を孕んだ咆哮が男たちを縛る。 ―狼!

   それが何かを認識し、人間がめいめい獲物を取り出した時には既に遅し。飛び掛かったきた黒い弾丸が赤ずきんを掴む。……掴む? 狼に手や腕はないが。しまった。奪われた。  短剣を抜いた人間の、目的の少女が狼に奪われた。すぐに他の男も剣を抜く。斧を持つものもある。切れ味はそれほどでもないようだが、狼を打ち斃すくらいならできないこともない。  狼と対峙して逃げ出すという選択肢がないほど、彼らもまた赤ずきんに賭けていたのである。赤ずきんを逃がすだけならまだしも、このままでは狼に食われてしまう。そうなったら魔女を脅迫するも何もないのだ。 「囲んで逃がすな」 「命に代えても」  狼は大きかった。ゆうに少女を背に乗せて林野を駆け巡ることができようくらい。飛び掛かられたら力負けは必至。それがあれほどの俊敏さを持つのだからたまらない。せめてこちらが罠を構えて待ち受ける立場ならいくらでも料理できただろうが、これは遭遇戦である。  狼の剛健な後肢が踏み込まれる。軌道が分かれば疾かろうと捕まえられる。そうすれば一人が食われている間に残りで袋叩きにすればいい。  犀利な歯間からのぞかせる涎から、ほんのり血の匂いが香るほど人間たちは緊張していた。猪か、鹿か、狼がこの森の頂点にいることには変わりない。 「おい嬢ちゃん! 狼に食われたくはないだろ、暴れろ!」  返事はない。ショックか何かで気を失っているらしい。

 さて。  狼がここで人間たちをむかえうったのには理由がある。人間に踏みしめられたけもの道の周りにどんな使えるものがあるかくらいは把握してしまう。  曰く、この賢狼は限りなく人間に近く賢い。何の根拠があってか知らないが、森の近くの住人は皆そう言う。この男たちがそこまで聞き込みをしたかは定かではない。

 どすん。はて、何の音だか。男どもには確かにどこかで似た音を聞いたことはあるはずだ。  馬が後ろ足で厩舎の壁をけ飛ばすとか。狂ったイノシシが民家にツッコむとか。  とにかく、それなりのエネルギーがそこにある物体にぶつけられた時に出る音で。  でかい狼が近くの大木を揺らしたのだ。 「こざかしい」  一人が、飛び掛かろうとした。ものの、すぐに足が止まる。手も腕も、思考さえも、その瞬間は止まった。  ぼとぼとぼと 「へび!!!!」  たとえ無毒の蛇でも、人間は愚かだから蛇が降ってきただけで動けなくなる。ロボはそう考えていた。悲鳴を上げるものが数人、固まっているのが数人。  朝のうちにここらで寄り添っている蛇どもを見つけておいた甲斐があった。数は多いものの毒は確かなかったはず。噛まれれば痛いだけだ。 「この」  それでも一人がロボを止めようと体を張るが、そんなものは飛び越えられる障碍でしかない。ロボに顔面を踏まれて、その上蛇にも噛まれる哀れな襲撃者は地に伏した。  ロボは駆ける。背中の女を落とさぬよう、自分だけが知る道を。

 だめだ、見失った  くそー!

   ――遠くから悔しがる声が聞こえる。  危機をすり抜けた一匹は再び目的地へと足を向けた。ぐるる、と狼が呻る。  狼の足が止まる。そして、もう一度ぐるる、と。威嚇ではない。むしろその逆の―親愛と友情をまじえた、背中の荷物に対してのそれ。 「もう、ロボ!」  恐ろしい巨体の狼に促され、目を開けて背中から降りる少女は、明らかにこの狼との関係が特殊なことを明示していた。  狼は、長らくこの森に棲むたった一匹の狼で、そして、赤ずきんの保護者でもあった。町の住民たちにもそこそこ知られた存在で、おそれ敬われている、長老やおばああちゃんがいうには何十年も前から変わらず森を守り続けているらしい。この話をするときのおばあちゃんは、なぜか得意げだったのを赤ずきんは覚えている。  狼の背から降りて軽く抜け毛を払い、頼まれたお使いは無事であることを確認する。ロボと少女が呼ぶからには狼はロボなのだろう、一緒にバスケットの匂いを嗅いで中身の漏れがないかを確認した。  終えると、少女が狼に抱き着いた。先ほどの抜け毛を気にする様子やひどい獣臭を気にすることもなく。スカートの中まで泥だらけだから関係ない。 「きゃっ、あはは!」  ロボの親愛表現の舌を受けて、首から上を毛並みに逆らうように撫であげていく。  ロボもロボで少女の愛撫を受け入れていく。首から上へ、そして逆に胴体へ。  しばしの休息。そして害した男どもの諦観の声が聞こえる。こりゃあ無理だ、帰ろうと。  ロボと赤ずきんが抱きあったまま安心の笑みを漏らし、そして離れた。  まあ、しかし、ロボとこうすることは初めてではない。  人間と獣にしては仲が良すぎるとか、いかに特別な狼だからと言ってベタベタしすぎだとか思われるところはいろいろあるだろうが、彼女と一匹にとってはこれがごく当たり前のことだった。地面は枝やら葉やら石ころやらでごつごつしているが、それでも一段落ついた後に寝転がるのは気持ちがいい。ロボが寄り添う。胸のあたりに頭を乗せると、赤ずきんも拒まずに枕のように抱えた。  つかの間の休息。そして平和。  どれだけ狼と抱き合っただろうか、少女はお使いを思い出した。森の奥に一人で住む老婆に必要なものを送り届けるということを。  木々の間から覗く太陽はいつものお使いよりもかなり西へと走り去ってしまった。きっとおばあちゃんも心配している。お父さんはもっと心配しているが、同時に信頼もしているだろう。 「ロボ、もう行かなきゃ」  赤ずきんはここが森のどのあたりか知る由もなかったが、ロボと一緒ならおばあちゃんの家まで送って行ってもらえるはず。

   辛うじて正規の道に戻れたのは、ロボが少女でも歩けるような道を探して誘導してくれたからである。正規の道と言ってもややマシなけものみち程度のものでしかないが。  遠くに人影が見える。一人と一匹は警戒を強めた。先ほどのこともあったから。  ところが人影が近づくにつれて警戒は緩まっていく。それと反比例するように、ふたりは緊張を高めた。  森を歩くには向かないぞろっと長く、くろいローブ。年齢のわりに健脚で腰の曲がりもほとんど認められない。視力は落ちているのかどうか知らないが、向こうはようやくこちらを認識したらしい。 「赤ずきん……!」  おばあちゃん、否、魔女だった。

2.森の魔女  おばあちゃんにバスケットを抱えない方の手を引かれ、森の道の中でも安全なところを歩かされる。  狼は居所が悪くて老婆と入れ替わりに消えてしまった。それがなおのことおばあちゃんを腹立たせたというのは、賢狼という割には、わざとか本気か気づかないことにしたらしい。まさか実の孫に手を上げるわけがなかろうということだろう。  そして森を抜ける―というよりは、森の中に隠れるように建ててあるおばあちゃんの工房に辿り着いたのは、それからしばらくしてからだった。ここまでちゃんとしたお客さんどころかならず者の一人にすら、さらには魔女の使役するらしい宅配カラスや黒猫といったそれらしい動物たちにも会わなかった。  赤ずきんはおばあちゃんにバスケットを渡すと、腹の下で手を結んで直立不動となる。  他人行儀と言われるかもしれないが、それだけこの”魔女”の住処は危険で不思議なのだ。  下手に動けば配合中の謎薬に塗れたり貴重な材料を台無しにしかねない。 「うん……男の匂いだ。あと狼」  赤ずきんの背筋がピンと伸びる。お使い完遂のねぎらいではなく、我が身についてだった。薬品を所定の場所に置きつつの会話だった。 「そうです、変な人たちに襲われで」  魔女は薬をさわらせない。赤ずきんは手を結んで直立不動のまま視線を移した。ぐらぐら煮える釜から紫色の煙が立ち上り、いぶされている何かが悲鳴を上げているような音を出している。  と思えば、瓶の中に入った人の顔をしたような虫が目覚めてギャーギャー泣き出した。魔女が蓋を全力で叩くと、虫はひっくり返って大人しくなった。口の細い漏斗の先からピンク色の雫が垂れているが、上に乗せられている肉のようなものは何だろう。後はよくわからない石やら斧やらナイフやら。 「で、狼の匂いがこびりついてるのは?」  男に襲われたのはもういいのだろうか、それとも魔女には何ともないこともわかるのだろうか。薬品を全て片付け、息子から届いた薬品以外の食糧まで仕分けが終わると、もう一度射すくめるような目で赤ずきんを問いただした。 「ロボの背中に乗せてもらったので」 「……そうかい。ゆっくりしていきな」  魔女は最後までおばあちゃんにはならなかった。少しの間観察するのか、あるいは匂いを感じていたのかもしれない。もしかすると常人には感知できない魔力とか。とにかく、空白の時間を置いて、赤ずきんを座るように促した。おばあちゃんはいつはもっと優しい。ただ、ロボが絡むと途端に怖い顔になる。狼に騙されないでほしい、という親切心なのかもしれないが、といってロボとおばあちゃんの関係が悪いわkでもない。  ロボは赤ずきんとそのおばあちゃんに一番なついているのだ。3番目と上ふたりでは大きな差がある。それは村の誰もが知っていた。  さて、魔女が消えていった先は確か厨房だったはず。お茶でも淹れてくれているのだろうか。と同時に、ひとまず緊張のとけた赤ずきんの腹が存在を主張した。そういえば何も食べていなかった。  試作場と繋がっているテーブルには、怪しげな材料こそ置いていないもののよく知る香草類や乾燥食品が転がっている。清潔感は感じられないが、不思議と不潔には思えなかった。  代わりに、もっと小さいころ一度だけ覗いた試作場では、ねずみが床に磔にされてされていたのを覚えている。そっちを見る気にはなれない。 「ご苦労さん」  魔女の険しかった顔はようやくほぐれてきた。ここに来て初めてかけられたねぎらいの言葉とともに出されたのは、茶色いお湯と、堅い黒パンに干したベリーが添えられている。豆と……トカゲとか、カエルとか、そんなものを連想させる色の、プルンとした肉の入っているスープ。赤ずきんは孫娘だから、こう、おばあちゃんちで何度か食事をしたことはあるが、何となく慣れない。 「赤ずきん、今日は泊ってきな」 「でも」 「泊りなさい」  だっておばあちゃん、また魔女の顔してるもの。とはとても言えず、仕方なくベリーをつまみ、パンをちぎる。燃料や給湯は魔女の魔法で何とかしているのだろう。聞いても教えてくれない。魔女は部外者にあまり生活を触られたくないのだ。ほとんど自由のない空間で、決められたベッドで、魔女と二人きり。  気が乗らないのも無理はない。酸っぱいベリーと味のないパンが謎肉スープを進ませる。おばあちゃんも同じメニューを、対面に座って食べ始める―前に、赤ずきんに声を掛けた。 「星が教えてくれるのさ。今晩、赤ずきん。あんたの身に――うん、そうだね、特殊なことが起こると。それに、今から帰ったら森の中で日がくれちまう。だから、今日は帰さない。孫娘にそんな危険なことはさせないよ」  ここにきてようやくおばあちゃんの顔に戻った魔女に、赤ずきんはついに陥落した。口に含んだ茶色いお湯は、甘く、そしてちくちく刺激味がした。

 赤ずきんは深夜、身体の不快感に目を覚ました。  頭はとても重い。できるならばずっと寝ていたい。しかしそれを許さない違和感がある。 「血の繋がった処女の初潮血……バカ息子のせいで半世紀近く待つ羽目になっちまった」  遠くで声が聞こえる。違和感の正体は下腹部の……そう、まだ少女だったはずの所に何かがあるような、それも何か出てくるのを無理やり切り開かれて採取されているような……。  それだけではない。寝ている感覚がベッドの感触じゃない。被服が何もないような、直に固い床か何かのようなものの上に乗せられていて……そして手首足首が拘束されているようだ。動けない。 「次は人間の生き胆、だね」 「おばあ……ちゃ……?」  意を決して目を開けると、作業着姿のおばあちゃんがそこにはいた。

 その世界は、今から自分を”食べよう”としているような印象を受けた。

 右手にナイフ。肉を切るためのよく磨かれた綺麗なもの。そして、火。ハサミが何本かあぶられて鈍く赤く輝いている。  わずかに首を動かして、見えたのはそのあたり。何故か残されている代名詞の赤ずきんも視界を奪っている。下腹部の違和感の正体はもう知りたくなかった。だいたいわかった気もする。 「おお可愛い可愛い赤ずきん。起きてしまったのだね。せっかくよく眠れるように調合したというのに」  茶色いお湯のことを言っているようだった。  おばあちゃんはナイフと置いて、赤ずきんをそっと撫でた。邪悪な魔女の顔そのものだった。夢なら覚めてほしい。 「初潮血はもう採った。獣化の秘薬に必要でね。これはもう調合した。次は若返りの薬だ。せっかく狼になったって、よぼよぼのババアじゃ仕方ないだろ? ようやくロボと添えられるんだ。でも若返るには人間の生き胆がいる。悪いね赤ずきん、取るよ」 「何で……?」  寝起きの頭が働かないせいで変な光景を見てしまっていると思いたかった。しかし着衣を頭巾ひとつを例外にすべてはぎとられたせいで、肌寒さが頭を覚醒させる。魔女が一つため息をついた。 「何を言ってるんだい。あたしゃ魔女だよ。子供だって孫だって、全部私の好きなように使うのさ! 余計に生まれてきた息子も孫娘をこさえて、これで少しは役に立ったというもんだい」  なんで、と言うべきなのだろうか、それとも、やはり、というべきなのだろうか。この人はもうおばあちゃんではない。  そして、この本性をお父さんが知っていたとしたら、その人ももうお父さんとは呼べない。  風前の灯火の赤ずきんは、絶望と恐怖に、ついに涙の一滴もこぼせなかった。

3.そして魔女は死ぬ

「ロボ! 貴様!」  魔女の恋した狼は、魔女の一途な想いを跳ね飛ばした。  事態を認識するのには時間を要した。全裸に剥かれて手術台の上に拘束されている彼女からは見るようもないが、胎に突き立てられようとした赤く滾ったナイフは処女の柔肌を切り開くことはなく。  嵐でも襲来したようなバリバリバリという大きな音を立てて木窓をぶち破って何かが入ってきた。そして、魔女が叫んだ。  ロボ、と。

「誰がこれまで若返らせ続けてやったと思ってんだい! やっと……これで私も獣になって、一緒になれるはずだったのに!」  老婆が叫ぶ。獣化の秘薬を机に置き、ロボをはっきりと”敵”として認知した瞬間だった。  老婆は老いてこそいるが魔女だ。狼にはない、なんなら人間も知らない異能をいくらでも持っている。  赤ずきんは老婆の叫びで何が起こったのかを知る。  ロボが私を……?  一目見ようとするが、ぴったりと手足を拘束され頭から上を辛うじて動かせるくらい。首から上もよく上がらない。視界の端で狼と老婆を認めて、親愛なる狼の名前を一つ叫んだ。  狼はそれにこたえて吠える。  魔女に勇敢に突っ込んでいく狼の姿を追えないが、その健闘ぶりは音でわかる。  薬品棚が倒れる音。試薬瓶や皿が割れる音。生きたまま保管されていた虫や変な生物が奇声を上げて逃げ出す音。 「飼い犬に手を噛まれるとは! いや、恋人に裏切られたよ、ロボ!」  老婆は魔女で、怪しい薬や変な力を見せることはあるがこと肉弾戦となるとただの老婆であった。強かに打ち付けられたものの、すぐにいくつかの葉っぱや丸薬と握り立ち上がる。 「魔女を舐めるんじゃないよ!」  手術用に焚いていた火をひっくり返して火の手が上がり始めていた。  葉っぱは自分が齧るもの。興奮作用があって痛みと恐怖を飛ばすことができる。丸薬はおそらく、狼に投げつけて視覚や嗅覚を奪うものか? ロボは見たことがない。  これまで使われる必要がなかったから。  投げられた丸薬は刺激と微粉を鼻目に与えるものだった。違和感を感じた時点で、目を閉じて残る空気を全部吐く。そうしたら姿勢を低くして、下から突進だ。  手ごたえは感じたが、それは再度魔女を転ばせただけ。狭い室内でできることは少ないのだ。そして、次の手。いや、足か?  老いた彼女のどこにこんな力があるのかと、半分尻をついた状態で棍棒を振りかぶる。身体能力なら狼の方が上。  手首をかみ砕くこともできたが、情け深いロボはそれをせず、棍棒を奥歯で挟んで振り回した。  ちょうど飼い慣らされた犬がおもちゃ代わりに投げられた棒切れを咥えて大喜びするように。  そして魔女も同じふりまわされる。ロボは大きい。だから狼でもさらに力は強い。そのうちに魔女は手を放し、吹き飛び、そしてよろよろと立ち上がるのが精いっぱいとなった。  火薬に近いものも置いていたのだろう。火の回りが早い。末端の毛をチリチリ焦がしながら飛び回るロボ。  せめて体は傷つけず。できることなら気絶程度で済ませたいという思惑はあったものの、それは結局うまくいかなかった。 「ロボォ~~~~~ッ!!!!!!」  魔女はもう正気でなかった。  今なら煮えたぎる釜の中にも水を求めて飛び込むだろう。  魔女の法衣とでも呼ぶべき長い衣装の裾に火が付いた。もう回っている。煙と熱さで苦しかろう。 「お、ああああ!」  怒りと薬で苦痛を軽減しているとはいえ、肉体の損壊は見た目通り進行しているのだ。  ロボは立ち尽くしていた。こんな魔女でも、自分を愛して本気でつがいになろうとした雌だ。例え一方的な恋慕でも。  彼女の言うまま、人間の生き胆から作ったという若返り薬を何度も飲まされたし、性的な悪戯もされた。おかげで仲間たちがすべて去ってもまだここに未練がましく居座ることになったのは、人間には誰にも伝わらない。  少なからず、魔女を好意的に見ていたところは、確かにある。  そのうちに肉の焦げる匂いが漂い、断末魔―それは人間のものか他の生物のものか―のようなものが聞こえた。  さよならだ。  ロボは魔女の真名を知っていたが、見るに耐えかねず後ろを向いた。  後ろを向けば赤ずきん。全裸にされてもトレードマークの赤ずきんは外されない赤ずきん。今、狼が助けようとしている少女。  少女は待っていた。自分ではどうにもできないので、このまま祖母とともに炎に巻かれるのを。狼が駆け寄る。もとよりこの子を助けるために突っ込んできたのだ。  ―だめだ、枷を外せない。狼の牙がカチンとむなしく金属の拘束具を鳴らす。 「ロボ、ダメよ。火が付いてるもの、あなただけでも」  そうこうしているうちに、赤ずきんが促す。  そうはいかない。ロボもロボとしてこの少女を助けるつもりだったのだ。単純な狼の思考よりは深く、年月を経て少しは頭が動くようになったロボは、魔女との決着をどこかで臨んでいる半面、人間のような情というものも学んでしまった。目の前の生きた少女を見捨てることは到底できない。魔女は見捨てて都合がいいと思われるかもしれないが、どこまでいっても獣のロボにはそれが精いっぱいだった。

 諦めかけたその時、賢狼の目に入ったのは、魔女が残した薬のうち、唯一効果を知っているものだった。

4.賢狼、人を喰らう

   その日、村で唯一の魔女の工房は炎に包まれた。  煙を見て村の衆が駆け付けたころにはすでに手遅れで、母と娘を呑まれた父親は茫然と立ち尽くしていた。  折よく降り始めた雨によって火自体は消し止められたものの、それまで調合されていた薬や配合表は軒並み灰燼と化していた。間違いなく一番の原因は工房で試作していた火薬やまじないに使う油、その類のものだと言われている。

 その痛ましい事件からしばらくのち。村人は魔女が住んでいた森に近づくことはなくなった。唯一生き残った父親は森の管理を任された。たまに狩猟や採集目的で人の足は入る。  一日が経ち、一週間が経ち、一ヵ月が経ち。そのうちに、正確にどれだけ前に起きたことかわからなくなり、魔女の家がどんなだったか分らなくなり、赤ずきんや魔女の顔も曖昧になる。事件を忘れたわけではないが、日常は既に戻ってきていた。  と、思っていた。事態が怪しくなり始めたのはつい最近一か月のこと。 「では森唯一の狼とやら……ロボを討伐すればよい、ということで?」 「そういう認識でお願いします」  狼が人間の生活に危害を加えるようになった。初めに、村人の世話する家畜が消えた。森に入った一団が食い散らかされたイノシシを見て、さらに消えた家畜のものと思われる骨を持ち帰った。別の用事で採集に向かった者は狼そのものに追い回されたという。森に入る前に絶えぬ遠吠えで威嚇されたものもいる。ロボに限ってそんなことはないと訴えていた長老は亡くなった。 「様変わりをしたとは言え、ある種の信仰のようなものを集めてきた狼です。我々の手での決着は忍びない」 「分かっていますよ。だから私のような部外者を呼んだのでしょう。狩り次第退村しますよ」  噂だけなら辺境の小さな村にまで届いているのは、やれ牛食い大蛇の首を刎ねただの、生贄をとる邪神を討ち取っただの、百万匹の子分を操るおばけねすみを焼き殺しただの、神殺しの化け物殺しと呼ばれる―ただしそれが実話かつ目の前にいる彼が本物だった場合―当代一の狩人。自分も神の血を引いているだの化け物とのあいのこを自称しているだのの噂もあるが、それらは自分の口からは出さなかった。 「本当にたった一人で?」 「ええ、私の言うとおりにさえしてもらえれば」  人間の、ましてや畜生の仲間もおらず、完全にたった一人で狩ると宣言するのも、一方で信頼を増し、もう一方で疑念を増していた。

5.そして 「罠はちゃんと設置してくれましたね」 「ええ、まあ。最も、彼が罠にかかるとも思えませんが」  補助動物も連れずに本気で乗り込もうという彼は、数本の刃物と一丁の猟銃しか持っていなかった。  住民は完全に怯んでおり、罠の設置に協力したのは依頼主である父親だけだった。毒餌は完全に気休め程度、警戒丸出しの狼の唸り声が聞こえたのは空耳ではなかったはず。 「期待していませんよ。では」  善後策として、次に心当たりのある狩人の紹介状も渡しておいた。食料、医薬品は最低限、火薬少々水筒一つ。  3日経って、帰って来なければその紹介状を持って走るように伝えておいた。 

 そんじょそこらの猟師とは作りが違う。目も耳も鼻も、人並み外れて、それこそケモノ並みにきく。という自負がある。  2日かけて例の狼の姿を記憶し、行動範囲と身体能力を記録した。  72時間。それが自分の最低限の睡眠休養補給で最高のパフォーマンスを続けられる時間だ。  もう数時間もない。罠は別の動物が掛かっていた。  薄れた足跡と狼の匂いに苦しみつつも、ロボが好んで動き回っているエリアから嫌がっているところへと追い詰めた。  話に聞いた焼けた魔女の家と、その周辺が奴の弱点らしかった。発砲は数回したが精度と飛距離に信頼がないのでもとより当たっちゃいない。朝露で火薬を濡らさないようにするのも一苦労だ。  疲労で目はさすがにかすんできた。空腹は気にならないが、集中を切らしたらロボに食われてしまう。何度かイノシシやキツネやヘビをけしかけられ、そのたびに切り抜けてきた。  がさがさ、わざと自分の居場所を主張するように移動する。焼け跡は既に下草が復活していて、かわらけやガラスといった人工物を覆おうとしている。  近くにいる。  長らく戦い続けて鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が伝えてくれる。適度な極限状態で気配を正確に捉えることがこれまでの常勝神話を支えてきたのだ。  目を閉じ、耳を澄まし、鼻を使う。  どこかにいるという気配をより確実なものに。ロボは存在感を消すのも上手かったが、佳境に来て敵意を隠し切れなくなることが多くなっていた。  なんとなく捉えた。銃口の蓋を開け、薬と弾を詰める。雷管よし。撃鉄よし。  まだ遠い。近づいていることを悟られぬよう、もう少し近づく必要がある。自然と同化して、少しずつ。  疲れ目を見開く。視界に捉えた。毛皮のようなものを被っているが、十分に狙える距離だ。

――手ごたえあった!狼と言えど、鉛玉が命中すればもうそれまで通りとはいかない。

 と、同時に違和感。  手ごたえが軽い。鉛玉は完全に貫いた。あの巨躯では体内のどこかで止まるはず。

  ――違う!こいつじゃない!

 確かに狼は狼だった。下腹をぶち抜かれたそいつはただ、ロボじゃない。  火薬が残した灰の匂いと飛び散る濃い獣の肉と血の匂いに混じって、羊水の匂いがした。  すぐに振り返った。どこかでずっと監視しているであろうロボがこの隙を逃すとも思えない。後方に銃を投げ捨てた。装填している時間なんかないのだから。  ロボはそこにいた。  捨てられた猟銃を飛び越え、狩人を食い殺そうと飛び掛かる。  怒気と殺気がこれでもかと感じられる。長らく畏怖の対象にされてきた存在だけはあるというもの。  思わず、動けなくなってしまった。  迫り来る口腔がスローモーションになり、歯牙の一本一本まで数えられるほどに。  まずい、と思う間もなく、狩人は逆に、不思議な感覚を覚えていた。

 狼を殺すのは銀の弾丸。  いつどこで聞いたのだったか。学のないマタギには思い出せない。  しかし、自分の師匠や兄弟弟子が聞いた通り銀の弾丸をお守り代わりにしていたのもまた事実。  銀が他の金属に比べて特別優れているところはほとんどない。本当に、儀礼的、あるいは宗教的な拠り所としてのものだ。  狩人は銀の弾丸を持たなかった。自分が獣よりだと自負していたから。

 時間の流れが遅くなるなんてことはあり得ない。  冷静でいられた狩人と、最後にそれを捨てて飛び掛かってきた獣の差。  最後に狩人が頼ったのはお守りだった。ただし、弾丸ではなく、銀の小刀。腰にぶら下げていた装飾とも実用ともとれるそれに、心の片隅に信仰心が残っていたのか、無意識のうちに手が伸びた。  何かがいきなり自分から放たれ、狼の喉を貫いた。  狩人が正気に戻る前に見た最後の光景は、これだった。  そのままの勢いで転がされ、肩の所が千切られる。喰われてなるものかと必死に、徒手で反撃する。  巨体の獣には全く効かないというのは、もう頭のどこでも考えていなった。ただ食われたくない一心で最後の、色々な意味で無駄な抵抗をしていた。

 しばらくして、狼がもう動いていないことに気づいた。  いつの間にか自分が小刀を投げロボを仕留めたのだ。ナイフの経験は、これが初めてだ。

6.終幕 「一つ伺いたいことが」 「……なんでしょう」  牙は重要な狩猟の証拠だ。形と大きさから見てロボのものとみて間違いないものを受け取った。代わりに、報酬の銀貨を渡す。 「これは」 「ロボの他にもう一匹オオカミがいました。そいつが付けていたスカーフ……というよりは頭巾ですね。明らかに人工物だ」  狩人は、これが死闘の後で感度が落ちていたとはいえ、依頼主の微妙な動揺を見落とすことはできなかった。 「その狼は雌で妊娠していた。一匹しか狼はいないと聞いて油断し、標的以外の狼を撃ち殺してしまった。後味の悪いことです」 「それは申し訳ないことをしました」  依頼主の父親は、申し訳なさそうに頭を下げ、渡された赤い布を受け取った。何か隠している、と狩人は思った。  穴をあけはしまいかというほどじっと見つめたのち、突き返して言った 「何か心当たりでも?」  この依頼主も、また何かしまっておきたい秘密があるのだろう。だからロボを私に消させたのだから。 「全くないですな。不思議なこともあるもんです」  態度こそ毅然としていたが、言葉尻はやや震えていた。しかし知らないというからにはそれ以上の追及はできない。狩人は銀貨を受け取ってすぐに村から姿を消した。

400字詰め原稿用紙(41枚)