プロローグ  リノ/四月

 彼と初めて出会ったのは、入学式の日。  教室の後ろで、こちらに顔を見せずに、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。 「この学校では、鳥人は僕だけなんだな」  それが私が初めて聞いた、彼の声だった。  今思えば、その時の彼の声色は、さみしさの中に、微かな安堵の気持ちがあった気もする。だけど、いたたまれなくなった私は、あの、と言って、思わず彼の肩に手を置いた。  彼がドキッとしたのが、肉球を通して伝わった。手を引っ込める前に、彼はこちらを振り向く。顔の周り、硬い羽毛に私の曲がった爪が当たった。 「あっ、ごめんなさい。痛くなかったかな」 「いや、大丈夫」  彼は何事もなかったかのように返答した。それでも、申し訳なかった。こんな時、自分の爪が引っ込められないのがもどかしい。  私はその時彼の顔を初めて見た。灰色の顔に、黒っぽい目。出っ張っている上くちばしの付け根は黄色なのね。大人しそうな子だけど、その反面、目もくちばしも、結構鋭い。凛々しい、という言葉が頭に浮かんだわ。おそらく猛禽類を祖に持っているのね。 「あなたも、ここで一緒に勉強するのね。どこから来たの?」  さっき謝ってから、少し時間がかかったのかもしれない。そして、彼も少し時間を置いてから、返事をした。 「南の国、ピリジンから。ひょっとしたら、ツバメ鳥人や、オオルリ鳥人がいるかもと思っていたんだけど……そうではないみたい」 「ああ、だからここの学校に来たのね」  パパから聞いたことがある。ツバメやオオルリは、春先に南から私達の住む国・サポニンへやってきて、秋になると南へ立つ。きっと彼もそうなのね。  この学校は、春先から秋までしか開校されない、とパパから聞いた。だから、彼のライフスタイルにぴったりなのだと思う。  ちょっと彼に興味を持った。もっと彼のことを知りたいと思った。 「私、この辺のことよく知っているから、安くておいしい店とか、穴場の観光スポットとか、何でもきいて。私、リノっていうの。あなたの名前は?」  つい早口になってしまう。彼はしばらく戸惑っていたけれど、ゆっくりと自分の名前を教えてくれた。  ふうん、レンっていうんだ。  よろしくね、レン。

 1  レン/五月

 この国にも、一年のうち、半年間だけ開校している学校があるんだな。僕はそう思いながら、正門をくぐった。  教室についてその理由が分かった。リス獣人にヤマネ獣人にコウモリ獣人。ここに通っている学生は、皆冬ごもりをする動物から進化した獣人ばかりだ。秋から冬ごもりの準備をする彼らの生活様式に合わせたのだろう。  僕に話しかけてくれたのは、リノという名の女生徒だった。クラスで一番背が高く、大柄で、柔らかな黒毛に覆われている。それに付け加えて、獣人の中では珍しく、かかとを地面につけて立っている。何よりも目に止まるのが、湖面に映る三日月のような形をした胸の模様。リノの種族名は、僕達のそれの由来にもなっていた。  あれから一ヶ月。リノが話しかけてくれたおかげで、僕はクラスメートにも打ち解けられた。中でも、外国語の宿題が出た時は大盛況だった。初めはリノ個人に教えていたんだけど、彼女が僕に助けてもらったことをクラス中に広めてから、こうなった。 「おかげで、助かっちゃった」  テストが終わった後、リノは大きく伸びをしながら嬉しそうに言った。 「ね、今日お礼がしたいんだけど。放課後、時間ある?」  突然言われたので、正直どぎまぎした。 一瞬、親の顔が頭に浮かんだが、その日は時間が空いているし、クラスの皆と一緒に行くと思っていたから、承諾することにした。 だから僕とリノだけだったのには面食らった。同年代の女子と二人きりになるのは初めてだったからだ。 「レンとprivateで遊ぶの、初めてなんだ。わくわくするぅ」  覚えたての外国語を活用しながら、リノは僕の背中をポンポン、と叩いた。 「そんな悲しそうな顔、レンに似合わないわよ。ほら、笑って笑って」  ……僕、そんなに悲しげな顔、していたのかな。そう思いながら、僕はリノに引っ張られていった。 引かれていった先は、この町で一番大きなショッピングモールだった。婦獣人服店や、“能ある鷹は爪もキレイ”という売り文句が目立つクローサロン……僕とは縁のなさそうな店を横目に、リノはズンズン進んでいく。やがて、僕達は開けた場所に出た。 フードコートだ。まさか、ここで夕食を摂るのか、と思っていたが、リノが向かった先はスウィーツを売っている店だった。 「ここのハチミツをたっぷりかけたパンケーキは格別なの。レンも食べてみて!」  リノは返事を聞く前にパンケーキを二人分注文していた。 僕はパンケーキなんて、今まで一度も口にしたことがない。でも、せっかく誘ってくれたリノをがっかりさせたくない。僕もリノの後に続いて、パンケーキ代を支払った。  リノは椅子にバフッ、と腰かけると、幾重にも重なったパンケーキにバターを塗り、一口サイズに切り分けて、思いきりほおばる。 「んーっ、クヌギの香りがサイッコー。ハチミツの甘さがまた格別!」  リノは次々とパンケーキを胃袋に入れ、満面の笑みでその味をレビューしている。 僕がナイフとフォークに悪戦苦闘していると、ほら、という声とともに、くちばしの中にパンケーキが入り込んだ。リノがフォークで押し込んだんだ。 「どう? おいしいでしょ」  口の周りがベトベトになった顔を近づけながら、リノがきく。 「うん。実はパンケーキは初めてだけど、リノはいい店を知っているんだね」  正直に言うと、クヌギのパンケーキは僕の口には合わなかった。けど、リノがおいしそうに食べているのを見ると、それだけで充足感でいっぱいになる。 「そう? よかった」  リノはにっこりほほえんだ。口の周りが汚れていることが気にならなくなるくらいの、くったくのない笑顔だった。 ショッピングモールから出ると、既に辺りは薄暗くなっていた。この国の表現で言うと“逢魔ヶ刻”ってところか。若干生ぬるい風が、僕の頬をなでる。 「ねえ、リノ」  僕は思わずそう呼びかけていた。 「……いい経験ができたよ。ありがとう」  その時のリノは、予想と違う表情だった。意外というか、どこか不安というか…… 「また、さみしそうな顔をしているのね」  えっ、と声には出なかったが、とまどいを隠せなかった。またも無意識のうちに、複雑な気持ちが表に出てしまっていたんだ。 「い、いや、そんなことないよ。リノがいたから、生活に楽しさが増えてきたんだし」 「ほんとに?」 「うん、本当!」  断言すると、リノの顔に笑みが戻った。 「じゃあ、約束。また、二人っきりで、遊びましょ」  僕は大きくうなずいた。 僕の姿が見えなくなるまで、リノは両手を振り続けていた。 自宅に戻ると、母と父方の祖母が居間にいた。母は今日も論文とにらめっこ。祖母はソファでくつろいで、テレビ番組を見ている。 「あら、レン。おかえり」 先に気付いたのは祖母だった。母もタブレットから僕へと視線を移す。 「今帰ったの。今日は遅かったのね」 「放課後、友達と遊んでいたんだ」  友達、という語を聞いて、母の目が明るく見開かれた。 「まあ、この地でも友達ができたの。サシバ鳥人? それともツバメ鳥人?」 「鳥人じゃないよ。ツキノワグマ獣人」  獣人、という語を聞いて、母の目が論文を読んでいるときのそれに戻った。 「あまり鳥人以外に深入りしてはならない、って言ったはずよ」 「わかってるよ。けどさ……」 「カトリさん。そんな言わないの。せっかくお友達ができたんだから。それに、そんなこと言うのは、ヘイトスピーチって言うのよ」  横から祖母がフォローする。 「そういうことじゃないの、お義母さん。悲しむのはレンの方なのよ。大移動の日が少しずつ近づいているからね。だからお義母さんも決心なさらないと。今年の秋には、一緒に南の方まで来てもらいますからね」 「いやですよ。私は先祖代々、このサポニン国の土地で育ってきたんですからね」  母と祖母が口論を始めた。テレビでは、ニュース番組が報道されている。 「本日、サポニン時間午後五時、ピリジン共和国の首都バニリンから有人宇宙船XX-5の打ち上げが成功したとの報告があり……」 キャスターがそこまで伝えたところで、僕はテレビから目をそらし、居間から二階の自室へ飛んだ。 既に真っ暗な窓の外をぼんやりとながめながら、さっき母に言ったことをつぶやく。 ……わかってるよ。けどさ……

2  リノ/六月

町の電器屋さんが目印のバス停の前に、既にレンは立っていた。 「ごめーん、待った?」  言い終わった後、膝に手を突きゼイゼイと息を吐く。途中で、小走りで来たから。 この季節、気温が上がって、ちょっと走っただけでもしんどい。 「いいや。僕も今来たところだから。それにバスはまだ到着していないし」  レンは涼しい顔をしたまま、バス停の時刻表を見ている。 私はリュックからペットボトルを取り出して、中の水をごくごくと音を立てて飲む。 電器屋さんの店頭には大型テレビが置いてあり、週末のワイドショーを放送していた。 「あっ、これ先月に続いて打ち上げに成功した、ロケットのニュースだよね」  と言いながら、私はレンに向き直る。 「正確には、有人宇宙船XX-6だね。ピリジンから打ち上げられた」 「ピリジンと言えば、レンがいた国だよね」 「そうだよ。それにね」  テレビのモニターにレンの顔がうっすらと浮かぶ。レンが振り返ったんだ。 「僕の父は、有人宇宙船の開発者なんだ。僕達の国では、昔から宇宙へ進出する研究にお金を結構投資しているしね」 「レンのパパも!? 私のパパもね、国の開発者なのよ! ……宇宙船の開発はしていないから、月とかには行けないんだけどね」  レンの顔が一瞬曇った気がした。何か引っかかったのかな。 「その、今飛ばしている宇宙船は、月に行くためじゃないんだ。光の速度に近づけるほど高性能で、月よりも、もっと遠くに……」  そこまで言った時、レンは、ハッとくちばしをふさぎ、黙ってしまった。 「どうしたの、レン? 急に黙っちゃって」 「いや、ちょっとね……あっ、バスが来たみたいだから、乗ろう」 「えっ、う、うん」  ききたかったことがあったけれど、目的地に着いてからにしよう。私はまだ水が中に残っているペットボトルをリュックへしまい、レンに続いて、バスへ乗り込んだ。 バスは昔の車のようなエンジンの音を出しながら、ゆっくりと道路を進んでいく。既に国内で走行している車は電気自動車に移行しているけど、騒音が少ないと事故が起こりやすいという意見から、市営バスではあえてガソリンエンジンの音を出して運行している。 バスが向かった先は、私の住んでいる町から一番近い山のふもとだった。今日はレンとここに行く約束をしていたんだ。 「飛んで行かないの」  隣を歩くレンに、軽く冗談を飛ばす。 「リノと同じペースで登りたいから」  そう言ってレンは自分の足で歩き続けた。 登山道に積もる落ち葉を、しゃりしゃりと踏みしめる音だけが聞こえる。 道が二手に分かれる場所まで辿り着いた。一つはまっすぐ登っていく道。もう一つは左へと曲がっていく道。私は迷わず左の方を選んだ。 「あれっ、ちょっと。頂上へはまっすぐ登っていくんじゃないの」  レンがあわてたように止める。 「いいの、こっちで。ついてきて」  レンを軽く引っ張りながら、私は目的地へと歩いて行った。 到達したのは、開けた山の斜面。ここにはひときわ高い大樹がそびえ立っている。レンはくちばしをぽかんと開けたまま、樹を見つめている。 「ここを登るのよ」  言いながら、手足の爪を樹の幹にかけ、ひょいひょいと登った。 樹の真ん中あたりまで登ったところで、後ろからバサッと音がして、私の額に一枚、羽が落ちた。レンが先に上へ飛んだのね。 「わあ……思ったよりも見晴らしがいいな。僕達の町や学校まで見える」  樹の枝に止まったレンが、平野の方を見下ろす。その表情に、少し心地よさが見える。 「レンにこの景色を見せたくって。実は、頂上よりもながめがいいのよ」  私は樹の二股にまたがり、一息つく。 「小さいころ、パパとママと一緒に、よくこの山に登ったの。その頃から、この樹があってね。あの頃から、ずっと変わっていないの。この樹も、あの景色も」  ちらりとレンを見る。日の光を浴びた彼の顔は、なお美々しく見える。同じ大きさの鳥人よりも大きな足が、よりいっそう際立つ。 「この先も、私達が大人になっても、ずっとずっと、同じ景色が見られるといいわね」  そう言った時だった。また一瞬、レンの顔に悲しげな表情が浮かんだの。 「……そうだね」  彼はいくぶん間を空けてから、返した。 それからレンは、下山するときも無言のまま。次に彼が口を開いたのは、帰りのバスを待っているときだった。 「僕さ。秋になったら、ピリジンへ帰らなきゃならない」 「あっ……」  思わず、ハッとした。レンはハチクマ鳥人だ。祖先のハチクマが、季節によって住む場所を変えていたことを思い出したから。 「そうだったよね。パパが言っていたわ」 「君の親御さん……ものしりなんだね」  レンはしばらく目をそらしてうつむいてから、決意をしたように私を見た。 「あのさ、もしよかったらさ……僕といっしょに、南へ行かない?」  えっ、とさえ、言えなかった。頭の中に、いろんな感情が沸き上がってきたからだ。 レンのこと、レンが言ったことの意味、その問いに対する答え…… 突如、突風が吹き、街路樹の青葉を何枚かもぎ取っていった。同時に、私の中で膨らんでいたものが、次々にさらわれていった。 風がやみ、静けさが戻ったあと、私はゆっくりと返事をした。 「そ、それはうれしいんだけど……私、行けないの。パパがもう少ししたら、とうみんの準備を手伝えって」  言い終えると、辺りはまた静まった。 「……そ、そうだよね。リノは、冬眠しなきゃいけないよね……何考えていたんだ、僕」  沈黙を破ったのはレンだった。レンは一言ひとこと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「でもさっ! 来年になったら、また会えるじゃん! それまで我慢しようよっ。そうすれば、レンとの再会が、もっともっと楽しくなるからさっ!」  私はつとめて明るく言ったつもりだった。だけど、レンはまた、悲しそうな顔。気まずくなった私はペットボトルを取り出し、飲み残しの水を一気に胃袋に入れる。 「……レン」  水を飲み干した私は、そうつぶやくのが精一杯だった。ほどなくして、私の耳に大きなエンジンの音が聞こえた。 「……バスが来たみたいだ」  それだけ言うと、レンはささっとバスへと乗り込んだ。私も黙って後に続く。 レンはそれから一言も離さず、ただ窓の外をぼうっと見ているだけだった。バスから降りた後も、じゃあこれで、と言ったきり、振り返らずに去っていった。 バスが発車する。エンジン音が遠くなる。 バス停の前で一人残された私の足元で、樹から離されて行き場を失った青葉が、はらはらと渦を描きながら舞っていた。

3  レン/七月

「ただいま」  テレビを見ている祖母に一言だけ告げ、自室へ飛ぶ。母は外出中みたいだ。 今日で七月も終わり。この時期、夏休みを設けている学校が結構あるみたいだが、今通っている所は、今日も変わらず授業がある。きっと、冬中学校がないからだろうな。 止まり木で爪を研ぎながら、僕はリノのことばかり考えていた。 あれからも、リノは変わらず、勉強のことについて相談に来ている。リノは僕のことを普通の友達として、接しているんだろうな。 でも、僕の中では、すでにリノを友達以上の存在として意識していた。 “この先も、私達が大人になっても、ずっとずっと、同じ景色が見られるといいわね” リノが僕にかけてくれた言葉を思い出す度に、胸が熱くなる。 わかっている。それが叶わない望みであることを。それでも、リノにそんなことは言えなかった。僕の中でリノは、それほどの存在になっていたんだ。だけど…… リノは冬眠の準備があると言っていた。何も知らないまま、祖先の習性を続けてきたんだろうな。そして、何も知らないまま…… と、階下から玄関のベルが鳴った。ドアの開く音が聞こえる。 「レーン。あなたのお友達のリノさんよー」  祖母の呼ぶ声がする。僕は複雑な気持ちで部屋を出て、リノの元へと向かった。 「ごめんねーっ。私、間違えてレンのノートまで持って帰っちゃったーっ」  能天気な雰囲気で、僕にノートを手渡す。 「まあ、わざわざおいでになってありがとうね。さ、どうぞあがって。お茶でもどう?」 「本当ですか? ありがとうございます!」  リノは全く遠慮せず、玄関のマットで十分に足の汚れを拭かないまま、バフバフと上がりこむ。床の上に、五本指の足跡が残った。 ……そんな細かい所を気にしない性格も、好きなんだけどね。 「わあーっ、すっごーい。吹き抜けになっているなんて、おっしゃれーっ。あっ、わかった。レンは飛んで、二階へ行くんだねーっ」  リノは家のあちこちを見ながら、はしゃいでいる。一方で、祖母はトクトクとカップにお茶を注ぎ、リノに差し出した。 「これはバナバ茶と言ってね。息子が……レンのお父さんがね、南の国ピリジンから送ってくれたものなのよ」 「あっ、テレビで見ました! “女王も手の届かぬ神木”っていう名もありますよね!」 「ホッホッホ、それは大げさなんだけどね」  リノは楽しそうに祖母と会話しながら、おいしそうにお茶を飲み干す。テレビでは、ピリジンで、早いペースで有人宇宙船を打ち上げを続けているニュースを報道していたが、祖母がスイッチを切ってしまった。 「そうだ、レン。せっかくだから、リノさんにあなたのお部屋を案内してあげたら?」  祖母がテレビのリモコンをテーブルの上に置いた後、ひょいと顔を僕に向けて言った。 僕は翼をはためかせて二階へと上がり、リノへ手招きをする。 「リノさんはこちらからどうぞ」  祖母が指し示した先にある螺旋階段を、リノはリズムよく駆け上がっていった。 「ここがレンの部屋なのね。これっていわゆる、止まり木? 爪を研いだ跡もあるのね。私んちの爪とぎとは、全然違うわ」  リノは僕の部屋ではしゃぎまわる。まるで初めておもちゃを与えられた子供のように。 そんなリノに、ぼくはふときいてみた。 「ねえ、リノ。その、冬眠の支度は、いつから始まるの?」  途端、リノの動きがぴたっ、と止まった。 「えっとね、もうそろそろだと思う。まだパパから詳しい話は聞いていないんだけどね」  意外にも、リノは言いづらそうに話している。先月、僕の誘いを断ったのもあってだろうか。もしかしたら、あれから何事もなくふるまっていたのも、気を落とさないようにしてほしいと思っていたからかもしれない。 「だからね、今のうちに、レンとこうやって一緒にいたいな、って思ってね」  その言葉が、蜂の針でもビクともしない羽を貫通し、僕の心をチクリと突き刺す。彼女の無邪気な願望が、いずれ訪れる日を思い起こさせ、僕の中に悲しみを注ぎ込むんだ。 「レンも、そう思ってる?」  僕は返答できなかった。一階から、口調の強い声が、僕の部屋まで届いたからだ。 「もしかして……レンのママ?」  リノが少し動揺しながら言う。当たりだ。母が買い物から帰ってきたんだ。 僕は無言で部屋を出ると、目の前にある一階の居間が見える吹き抜けの柵に軽く寄りかかり、階下の母と祖母の話に耳を傾けた。 「ですから、お義母さんの分まで“枠”を取っているのですよ。貴重な“枠”を」 「そんなの、私にはいりませんよ。私は生まれ育ったこの土地から離れる気はありませんからね。他の方にお譲りしたら」 「何を仰るのですか! お義母さんの為を思って……」 「あのさ」  僕は、進展しない二人の会話を遮った。 「その大移動の“枠”、いらないんだったら僕にくれないかな。一人、連れていきたい子がいるんだ」  突然、階上から声がしたので、母は驚きながら、盗み聞きしていた僕の方を見た。祖母は落ち着き払って、静かにお茶をすする。 「なっ……何を言っているの、レン! 自分が言っていることをわかっているの!?」 「わかってる」  自分でも驚くほど、冷徹な声だった。 「レン! あなたは、あなたのおばあさんを説得する為にこの国へ来たんでしょう! おばあさんのことが大事じゃないの!?」 「大事じゃないわけない。だけど、本人の意思を曲げて説得するくらいなら、新しくできた、大切な子に、その“枠”をあげたい」 「大切な子、って……前に話していた、ツキノワグマの子……?」 「そう。僕はもう、彼女のことを、ずっとそばにいて欲しいとまで思っている。一緒に大移動についてきて欲しいとまで思っているんだ。彼女を、リノを」 「えっ……」  女性の声がした。母でもない、祖母でもない。もっと若い、僕と同年代の声。 その声は、後ろから聞こえていた。リノだった。僕に視線を向けたまま、まごついた時のような顔をしている。さっきの僕の主張を聞いていたんだ。 「レン……今、言ったのって……」  驚きと戸惑いが混ざり合う声。 ぞわり、と音がしたような気がした。全身の羽がもがれ、ぶつぶつが浮かび上がった皮が露わになるような感覚。僕はしばらく動けず、一言も話せなかった。 硬直を解いたのは、母のうんざりした声。 「はあ……だから鳥人以外とは深くかかわっちゃだめ、って言ったのに」 「カトリさん、ヘイトスピーチですよ」  以前にも聞いた問答が繰り返される。 「あっ、あの……そのことなんですけど」  いつの間にかリノが横に来ていた。その目は母を見ている。母もキッと鋭い目つきでリノを一瞥した。 「あなたには関係のない話です」 「はい、その、私はいいです。これで帰ります。おじゃましました」  リノはそう言うと、ドタドタと階段を駆け下りた。祖母が何か言おうとしたが、無視して玄関へ向かう。 「待ってくれよ、リノ!」  僕は二階から飛び立ち、大急ぎで玄関前に着地する。リノはもう外に出た後だった。 「リノ!」  思わず大声をあげる。  リノは二軒先にある家の前で止まり、僕の方へと振り返る。 「だいじょうぶ。私のことは心配しないで」  いつもと変わらない笑顔、ではなかった。その表情から、本当の気持ちを必死で抑えて取り繕っていることがうかがえる。 そして、それ以上リノは何も言わず、僕に背を向け、暗くなった夜道を走りだした。 「リノ!」  今度は、リノは振り返らなかった。リノの体はだんだん闇へと消えていった。 飛んで追いつこうか。そう思った時、後ろから右翼をガッ、とつかまれる。 「ほら、追いかけない。あなたの父さんが電話、代わりなさいって」  そのまま母は僕を引きずって家へ戻し、固定電話の受話器を渡した。 父はもうすぐこっちへ来ることを伝えていたが、僕はそれよりもリノを引き留められなかったことを後悔した。

それからしばらく、リノは学校へ来なかった。電話も通じず、家ももぬけの殻だった。

4  リノ/八月

「お前に見せたい、いや、見せなければならないものがある」  パパがそう言ったのは、レンの家に行った翌朝。まだ日の出前なのに、とは言えないくらい、深刻な顔つきだった。 ママと一緒に、パパが運転する車に乗って行った先は、レンと一緒にパンケーキを食べに行った、開店前のショッピングモールだった。普段とは違い、従業員専用の駐車場に一時停車した後、パパは通用口から中に入る。 やがて、ガラガラとシャッターの開く音が響き、パパが戻ってくる。パパは運転席へ座ると、徐行しながらシャッターが開いた先へと車を進めた。 だだっ広い急な坂とカーブを車は静かに走る。どれだけ進んだのかもわからない。相当地下深くまで降りているみたい。ママと私は心配そうに、お互いの顔を見合わせた。 また、シャッターが見えた。近くには駐車場があり、下り坂はさらに続いている。だけどパパが車を駐車場に停め、私達に降りるよう言った。私もママも、言われるままに車を出る。パパはまた、シャッターを開けた。 「えっ」 「そんな……」  私もママも、絶句する。 シャッターの先には、いくつもの巨大なカプセル状の機器が、所狭しと並んでいた。ドライアイスをお湯に入れた時のような白い煙に包まれていて中が見えにくかったけれど、目を凝らしてみると、そのカプセルは何層にもなっていた。 「しばらく手伝ってもらいたくてね、協力してくれる役人達とここで過ごすことになる。まずはこれらの装置がちゃんと作動するか、テストする。その後、ここへ来た獣人達を誘導できるよう、シミュレーションするんだ」

 それが、数週間前。 「明日は学校へ行きなさい。おそらく、全校集会で生徒全員に説明されるだろう」  パパからそう言われたのが、昨日のこと。 私は久しぶりに自宅で夜を明かし、朝の日差しを浴びながら居間へと足を運んだ。 私もパパもママも、話すことなく朝食を摂る。そのせいか、ニュースキャスターのアナウンスが、いつもより大きく聞こえる。 「……本日午前九時より、内閣総理大臣の緊急記者会見が開催され、当局でも中継でお伝えいたします……」  そこまで聞いたところで、行ってくる、とパパが立ち上がり、惣菜のパックをゴミ袋に入れた。私も朝食を摂り終え、家を出る。 朝の早い時間から、すでに蒸し暑い。去年も一昨年もずっとそうだった。それがこの先も変わらず続いていく。そう思っていた。 レンのことが頭に浮かぶ。ずっとそばにいて欲しいと言ったレン。当時は頭がいっぱいで、すぐ帰ってしまったけど、今思うと…… 学校に着くと、あちこちでそわそわ、話し声が聞こえてきた。みんなもうすうす、感づいているのかな。 レンは自分の席で本を読んでいた。ゆっくりと近付き、声をかける。 「久しぶり」  本から目を離したレンの顔は、驚きとともに、ほっとしたような表情が見られた。 「会いたかったよ、リノ。心配してたんだ」  レンは本を閉じ、教室の一番後ろの窓側まで移動した。私も後に続く。 雲一つない快晴の空を、レンはぼんやりと見上げている。そんな彼にだけ聞こえるように、私は静かにつぶやいた。 「レン。私ね、いろんなことをパパから聞いたの。知らなかったこと、信じられなかったこと、そしてこの一ヶ月間、私がやるべきこと。それでね。私、勘違いをしていたんだ」  レンは視線を外へ向けたままだ。私もレンの横に立ち、同じ方を見る。 「レン達、ハチクマ“鳥人”は、ハチクマと違って、渡りの習性はないんだね」  レンは黙ったままだった。 「よく考えたら、レンのおばあちゃんがずっとサポニンにいたままだし、レンのパパがピリジンにいたままなのに、何で気が付かなかったんだろう、私ったら」  そう言ってクスクスと笑ったつもりだったが、出てきたのは乾いた声だけで、すぐにやんでしまった。 「僕もね、勘違いをしていたことがあった」  レンがこっちを向きながら言った。 「リノが“とうみん”のことを言った時、てっきり熊の冬ごもりのことだと思っていたんだ。だけど、父が教えてくれたよ。リノが言っていた“とうみん”というのは、冬ごもりという意味の“冬眠”じゃないってことを」  ……私が答える前に、キンコンカンコーンとチャイムが鳴り、校内放送が聞こえた。 「おはようございます。全校生徒は、廊下に整列して、体育館へ集まってください。繰り返します……」  教室がざわつく。リス獣人が、ヤマネ獣人が、コウモリ獣人が、次々廊下へ飛び出す。 私もレンも、うん、と同時にうなずくと、ゆっくりと教室を出た。 これから全校集会で、そして緊急記者会見で発表されると考えられる、地下でのパパの話を思い出しながら。

「これって……海外の映画で見たことある」  そうつぶやいた私に、パパは黙ってうなずいた。おそらく、私が予想している装置と効能は同じだろう。 「この階層のカプセルには、我々大型獣人が入る。下の階層になるほど、中型、小型用になっている。天変地異がこの星を襲うことは予想されていたから、国中にある公民館や、ショッピングモールなど民間の大型施設の地下に、この設備を用意していたんだ」 「天変地異?」  その問いに、パパは顔を背け、苦しそうに答えた。 「……この星に、隕石が衝突する」  全身の毛が逆立った。ママの握る手がギュッと硬くなった。 「隕石が……衝突?」 「ああ、計算上、そう予測されている」 「いったい……いつ?」 「今年最後の日、世界標準時午後三時。つまり我が国では、ちょうど年が変わる時だな。もう半年をきっている」  ママの吐く息が震え、私の全身をギュッと抱きしめた。私の耳に、ママの心臓が激しく脈打つ音が聞こえる。パパはずれた眼鏡を元に戻し、続けた。 「幸い、予想落下地点は、我が国よりはるか遠い場所とされている。だが、衝突により巻き上げられる塵が太陽光を妨げ、地球の気候は激しく変動するだろう。そうなれば地表面では、我々は到底生きてはいけまい」  パパは感情を押し殺すかのように、淡々と恐ろしい未来予想を語る。 「我々がまた獣人らしい生活を送ることが出来る環境に回復するまで、有人宇宙船で惑星外へ避難するのが、一番安全な対策だ。隕石を避けられるうえに、スピードを光の速さにまで近づけることで時間の遅れが生じ、宇宙船内で過ごした時間よりもはるかに長い時がこの惑星で経過するからな。しかし、宇宙船には定員がある。だから、宇宙船を開発している国や、予想落下地点付近の国の国民や、その家族が優先されるんだ」  それを聞いて、レンの家でのことがフラッシュバックした。それだけでない。宇宙船打ち上げのニュースや、登山に行った時のレンの話も、点と点が線でつながった。 「で、宇宙船の開発もしておらず、予想落下地点から遠く離れている国では、地表でまた暮らせるようにこの中に入り、時を過ごす。この方法に期待するしかないんだ」  パパはカプセルとカプセルのすきまをぬって、こっちへ近づいてくる。 「いずれ首相からも発表があるだろう。必ずこの計画は成功させなければならないんだ。冷凍睡眠、いわゆる“凍眠”計画をな」

「レンが言っていた“枠”は、宇宙船に乗船できる枠、ということだったのね」  教室の最後部で、レンにつぶやく。レンは答える代わりに、目をキュッと細めた。 全校集会が終わった後、私達は下校の準備をし始めた。今日の学校は午前中まで、ということになったから。予想に反して、隕石が衝突することはぼかされ、これから地域ごとに順次凍眠に入るので、その準備を進めてほしい、と伝えられた。パニックが起こるのを避けるためかしら。 「リノ」  ふいにレンが、私の手をぎゅっと引いた。 「やっぱり、僕と一緒に宇宙へ行こう」  声を潜めているが、本気の口調だ。 「空港が閉鎖されたら、君はピリジンまで行けなくなるから、そうなる前に早く。飛行機代は、僕が出すから」  そう言いながら、レンは教室の外へと私を引っ張る。私はカバンの中身を落とさないよう必死だった。 「で、でも、私は、冷凍睡眠が用意されているから……」 「単なる冬ごもりじゃなくて、対策されていることは分かったよ。だけど、衝突位置が予測から外れる可能性だってあるだろ。それでも君はどこにも逃げられないんだよ。そもそも冷凍睡眠の装置を、誰が解除するんだ?」  何も答えられなかった。ただ、ごくりとつばを飲み込むだけ。そのまま私はレンとともに、学校の正面玄関を抜けた。 「僕は少しでも君が生き延びられる可能性が高い方に賭けたいんだ。そのためなら……」 「……うちの娘を連れ去る気なのかね?」  校門から、眼鏡をかけた熊獣人が歩いてきた。リノとそっくりの、胸に三日月の模様。きっと、リノの親御さんだ。 「あの冷凍睡眠装置よりも、有人宇宙船に乗せたほうが生存率が上がります」 「あの宇宙船は、君達鳥人が独占しているだろうが! だから我が国の獣人は、凍眠装置に賭けなければならないんだ!」 「文句は、宇宙船開発ではなく、そんな信用性の低い装置にお金を出した、この国の政府に言ってください! だから僕達も、この国にいる家族や同胞を、招き入れる手間が増えているんです!!」  二人ともすごい剣幕だ。パパもレンも、ここまで怒っているところ、見たことがない。 「君は、親と子を引き離すつもりなのか」  パパは怒りを必死で抑え、冷静にきいた。 「リノが助かる確率を上げるためなら、何でもします。例え自分の“枠”を譲ってでも」  次の瞬間、レンは私の肩に飛び乗ると、かばんのショルダーパッドを足でつかんだ。 「リノ! 足を握って!」  えっ、という前に、反射的に手がリノの足に伸びた。あっ、という間もなく、私の体は宙へ浮いた。リノが飛び上がったんだ。 待ちなさい、と言うパパの姿が、みるみる小さくなっていく。町そのものが、地図のように縮小されていくように感じる。 レンの行く先は予想がつく。レンの家。地球からの脱出枠を、私に一つ譲るつもりね。 私の予測は当たっていた。レンは慎重に私を着地させると、無言で私の背中を軽く叩いて、家の中へ入るよう促す。 「何を書いているんだ、母さん! 脱出権を譲渡するなんて!」  中から怒鳴り声が聞こえる。 「父が祖母を説得しているんだ」  レンがにこりともせずに答える。 「私はこの土地とともに生き、この土地とともに死ぬと決めているの。隕石が落ちても、それは天命だから」 「母さん、よく聞いてくれ。この土地は終わらない。いつかまた、回復する。そしたらやり直せるんだ。でも母さんが死んだら、何にもならない。頼む、一緒についてきてくれ」  その時、レンのおばあさまの動きが一瞬止まった。少し、考えがぐらついたのかしら。 「でも、レンには……あの子には、一緒に連れていきたい子がいますのよ。とっても良い子だった。その子の為なら、私……」 「いえ、私は乗りません」  自分でもびっくりするくらい、大きな声が出てしまった。 「リノ、何をっ!?」 「何を……言っているのです?」  レンとおばあさまが驚愕した。 「君が……母さんが言っていたリノさんか」  レンのパパもゆっくりとこちらを向く。私は構わず続けた。 「私……誘ってもらったのはうれしいのですが……やっぱり、家族と離れ離れになるのは嫌なんです。想像するだけで、辛いです。そしてそれは、レンのお父さまやお母さまもそうではないでしょうか。言い合っているのを聞いたこともありますが、おばあさまと別れたくないからじゃないですか」 「リノさん……」  レンのおばあさまが、尾羽をふるわす。 「でもっ、リノ……」 「ごめんね、レン。でも、このままの方がいいと思うの。それにね、私、冷凍睡眠装置、信じてみたいの。パパ達の技術だから」  それを聞いて、おばあさまがゆっくりとうなだれる。 「母さん、頼む」 「お義母さん」  レンのパパとママが懸命に頼み込む。 やがて、おばあさまは、はらりと譲渡書をテーブルから落とし、静かに言った。 「……わかりました。ついていきます」 「やったあ!」 「ありがとうございます、お義母さん」  レンのパパの顔は歓喜に包まれ、あの厳しそうだったレンのママは眼に涙を浮かべてお礼を言っている。やっぱり、レンのパパもママも、おばあさまのことが大切だったのね。 と、隣にいたレンが、 「……まだ、サインはしていないな」  とつぶやき、カバンの中をがさごそまさぐった。そしてペンを取り出すと、おばあさまが落とした譲渡書をひったくる。 「レン」  私は即座にレンから譲渡書を取り上げ、爪で引き裂いた。レンの眼から光が消える。 「家族で行けることになってよかったじゃない。ほら、喜ぼう。ばんざあい、って」  そう言った時、玄関からチャイムの音が聞こえた。 「うちのリノが、お宅へお邪魔しているのではないかと思ってね」  パパの声だ。迎えに来たのね。 「この度は、我々に技術提供していただき、ありがとうございます」 「ぎじゅつ、ていきょう?」  信じられない、というような目つきで見るレンに、レンのパパが説明し始めた。 「我々も光速航行するとはいえ、食料やエネルギーの節約は必要だ。だから、人工的に体温を下げ、代謝を抑える装置も取り込んでいる。その技術を提供していただいたんだ」 「冷凍睡眠とまではいかないがね。いわば冬ごもり装置ってやつだ」  パパが補足する。 「ねっ、レン! パパの技術も捨てたものじゃないでしょ! 信じようよ、パパ達が開発した装置を!」 「まあ、我が国では化石の技術だが、あんたら鳥人が必要なら使ってくれたまえ」 「ありがとうございます。必ず迎えに来ますよ。その時は、再会を祝いましょう」  パパはぶっきらぼうな感じだったけど、その声に少し照れが見えた。 「……うっ」  レンは声を詰まらせたが、やがてゆっくりと両翼をあげた。 「…………ばんざあい!」  それからレンは、声を震わせながら、何度もばんざいを繰り返した。私も復唱する。 家の中に、何度も喜びの声が響いた。

5  レン/九月

 短い学園生活が、終わった。 担任の先生は、また皆さんと会えるのを楽しみにしてます、と仰っていたけど、内心辛さと怖さでいっぱいだったのかもしれない。場所によってはすでに、凍眠への移行が終わった地区もある。 既に飛行機は全て動いておらず、僕達は己の翼でピリジンへ飛び立つ。 「レン。出発の準備はいいか」  パパが言う。僕は後ろを振り向いた。彼女の姿は見えない。もう凍眠に入ったのかな。 ……でも、その方が、未練が残らなくていいかもな。そう思った時だった。 「ごめーん、待った?」  聞いたことがある声。その後にゼイゼイと響く荒い息。僕はもう一度後ろを振り向く。 膝に手を突き、顔は僕の方を向いている、大柄なツキノワグマ獣人の女の子。 「……リノ」  僕は思わず駆け出し、リノの大きな胸の中に飛び込んだ。換毛期に入ったリノの毛が、僕を優しく包む。 「どうやら、間に合ったようだな」  後ろから、リノの親御さんが歩いてくる。 「娘思いのいい父親ですね」  僕の父も笑いながら返す。 僕はリノの胸の中で、静かにつぶやいた。 「……最後に、リノと会えてよかった」 「最後って……言わないでよ」  胸毛がワサ、と揺れる。僕は思わずリノの顔を見上げた。リノの口は笑みを浮かべたままだったけど、目元はひくついている。 「だって、レンと、また、ショッピングモールに、行くんだから。あの、パンケーキ……また、二人で……食べるんだから」  一言、一言、言葉を紡ぐたびに、リノの眼から大粒の水滴がこぼれだす。 「うん。約束……したからね。あの山の、樹の上で、ずっと、変わらない、景色を……大人になっても…………見るんだって」  僕も我慢できなかった。リノの胸毛にはじかれた水玉が、行き場を失っている。 「レン。あなたが、一緒に大移動をしたいって位、私を思ってくれて……私、幸せだよ」 「リノ……」  僕はまぶたをぎゅうっと閉じ、涙を外へ追いやり、両翼をリノの両肩に置いた。 「今ここで言っておきたい。好きだ。僕はリノのことが、好きだ」  リノのふっと吐いた息が、僕にかかる。 「リノが私のことを好きって言うなら、私はリノのこと、大好き」  言い終わるとリノは、まぶたを少し閉じ、口を開けて顔を傾けた。僕も傷つけないよう慎重に、くちばしをリノの口につける。 今ほど多幸感に包まれたことはないと思った。このまま時間が止まってしまえばいいのにとも思った。 だけど、僕の肩がポン、と叩かれた感触がし、幸福な時間は終わりを告げた。 「リノさん。またいつかお茶しましょうね」  僕の肩を叩いた祖母が、優しく言う。 「はい。おばあさまも、お元気で」  リノが言い終わったのを合図に、僕達は飛び立つ体勢に入った。 「リノ」  僕はもう一度だけ振り返り、しがらみをなくすように告げた。 「さようなら、リノ!」  言い終わると同時に、僕の足は地面から離れた。眼前には海が広がる。 「レーンッ! さようならーっ!!」  後ろからリノが叫んでいる。 リノはまた泣いているのかな。大きな両手を、懸命に振っているのかな。振り返って見てみたかったけど、未練ができてしまうだろうと思い、やめることにした。 リノの声は段々小さくなり、やがて聞こえなくなった。

エピローグ  リノ/十月

「あっ……今、飛び立ったのね」  ボリュームを落として言ったつもりだったけど、辺りに私の声がこだました。 ここはショッピングモールの地下深く。私も凍眠をする時が来た。でもその前に、レンが乗る有人宇宙船の打ち上げを見たくて、凍眠開始時期を少し延ばしてもらったんだ。さすがにこの深さじゃ私のタブレットは電波が届かないので、パパの特別なモニターを使って中継を見ていたところ。 レンの家族を乗せた宇宙船は、無事空の彼方へと消えていった。 「じゃあ、リノ。準備はいいな。私も皆の分が済んだらすぐに眠るから、心配するな」  パパは国に仕える開発者だから、冷凍睡眠装置を利用するのは最後なんだよね。大変だと思うけど、がんばってね。 ……そんなことを思っているうちに、カプセルのふたが閉じられ、白煙が吹く。 来年、この星がどうなっているか、想像もつかない。予測では、隕石の衝突は年明けの直後だという。それによって変動した気候が回復するまで、どのくらい年月が経つかわからない。一年? 十年? 百年? 千年? 一万年経っても、戻らないかもしれない。  だけど、私はきっといつか、レンと再会できると、信じてる。だから、隕石が衝突した後の長い冬を、地下奥深くにこもって、乗り切ってみせる。  目が覚めた時、最初に見る相手がレンだったらいいな。そう考えたところで、まぶたが重くなってきた。 ……おやすみ、レン。 (了/四百字詰め原稿用紙五十枚)