間の悪い刑事

大潮十六夜

 寒暖差の激しかった残暑が過ぎ去り、冷たい空気は乾いて、抜けるような青い空には箒で掃いたような絹雲が漂っていた。街路樹のイチョウ並木は黄色く色づき、歩道に落ちて踏み潰された銀杏が不快臭を放つそんな毎年変わらない秋の深まりを感じさせる日のことだった。いつもは閑静な都内の住宅街の一角に佇む2階建ての一軒家の前には黄色い規制線が張り巡らされ道路を封鎖していた。休日だということもあり、狼、猫、兎と様々な種族の獣人の野次馬とそれを遮る警察官とで辺りは騒然となっていた。そんな野次馬の群れを掻き分けて現れたのは、やや痩せ気味でくたびれたジャケットを羽織ったドーベルマン然とした初老の刑事だった。彼は規制線で警備をしていた他の刑事に警察手帳を見せると敬礼をされて中へと通された。 「荒巻(あらまき)警部、お疲れ様です」 「はいはい、ご苦労さん。和泉君は来てる?」 「はい。ご案内します」 「あぁ、いいよ。居るんなら向こうから尻尾降って寄って来るから」  細身の神経質そうな見た目と独特の砕けた喋り方はともすれば横柄にも感じられるが、荒巻警部の場合は少し違った。フランクで不思議と親しみ易い雰囲気を醸している。  敷地と道路の境界はブロック塀で区切られている。塀の一部にはポストが埋め込まれていてここには今朝の新聞がまだ刺さったままだ。玄関の扉は道路よりも1mくらい高いところにあり、入り口の門を押し開けて10段程度の階段を登ったところにある。左右は家の外壁と柵で囲われて狭い庭のようになっている。こんなところまで手入れが行き届き、刈り揃えられた芝生が生え揃っている。幅は70cm前後、子供か大人でも痩せていればここを通り抜けて裏手のベランダに出られるかもしれないが、左側の通路にはスポーツバイクが置いてあるから無理だろう。部屋の中に通じる窓もあるから、専用の道具があればこじ開けて入ることも、また窓を割って押し入ることも出来そうだ。荒巻警部はそんなことを考えながらドアノブに手を掛け、まずは現場となった室内に踏み入れた。 「ご苦労さん。現場検証は、ってちょっと凄いね。水浸し。何があったの?」  扉を開けるやいなや滴り落ちてきた水に思わずたたらを踏んだ。 「荒巻警部、お疲れ様です。ビニールです。上から履いてそのままお上がり下さい」 「あぁ、ありがとう」  玄関で現場検証中だった刑事に渡されたビニール袋に靴ごと突っ込み口を緩く締めた。ひとまずこれで濡れる心配は無くなったわけだ。つと室内に目を向ければ懐っこく尻尾を左右に振って彼の部下である和泉(いずみ) 隆(たかし)刑事が、片手に靴下を突っ込んだ靴を爪に引っ掛け、素足にビニール袋を巻いて駆け寄って来た。普通この様子を見れば、この床一面に広がる液体が『ただの水』なのかそれとも『肌に触れると危険な薬品』なのかくらいは分かりそうなものだが、こと和泉に関してはそういう理知的な行動は取らないためあまり当てにはならない。 「荒巻さん。遅いですよ」 「えぇ、遅くないよ。呼ばれてすぐ来たんだもん」 「『だもん』じゃないですよ。ちょっと仏さん見てやって下さいよ。なんか凄いんですから」  和泉は荒巻警部と同い年であったが、未だ巡査部長止まりのうだつの上がらない壮年であった。歳の割に落ち着きが無く、荒巻と遺体の置いてあるリビングを忙しなく交互に見やっては小刻みに往復して水飛沫を跳ね上げている。荒巻はそんな彼の様子にはお構いなしで、壁から天井、階段、洗面所に至るまでつぶさに観察していた。 「ねぇ、仏さん一人暮らしって聞いたけどずいぶん広くないこの家」 「なんでも去年離婚したばっかりなんですって。それより来てくださいよ」  一人でリビングに駆けていく和泉を尻目に荒巻は隣のキッチンに足を踏み入れた。中では鑑識官の一人が指紋の採取を試みている最中であった。壁にも飛沫が飛んでいるためそのまま薬品を塗布することはできない。指紋が滲まないように慎重に乾かしながらの作業に神経をすり減らしているようだ。  余計な飛沫を上げないよう慎重に奥へ進みながら天井、棚、冷蔵庫、食器棚、食洗器そして開けたカウンター越しにリビングを眺めた。ベランダのドアからは朝日が差し込みまだリビングに安置された遺体を照らしている。ドアから見える庭は手入れの行き届いた芝生が青々と芝生の茂っていた。 「凄いね。これシステムキッチンってやつ?お洒落」 「そっちじゃありません。こっち、リビングです」  大慌てで後を追ってきた泉が荒巻の腕を掴んで引っ張る。鑑識官も何かを答えようとした素振りを見せていたが和泉の言葉に口を噤んだ。荒巻もさすがに鬱陶しそうに腕を振り払い睨みを利かす。 「なによ、せっかちだね君は。ここからでもリビングは見れるでしょ」  そして、改めて鑑識官に向き直った。 「ねぇ?これガスコンロなの?」 「はい、そのようです」 「こんなに近代的なのに?IHじゃなくて?点けても良い?」 「えぇどうぞ」  和泉はもどかしそう地団太を踏んでいた。 「ちょっと、荒巻さんてばっ...!!」  荒巻が点火スイッチを押すと、薄っすら青白い炎が爆ぜるように舞い上がりそして一瞬で消えてしまった。床ほどでは無いにしろ濡れてはいたが、火が点かないほどとも思えなかった。ガスが正常に出ていることは臭いで分かる。 「火付かないね、これ。調べておいて」 「はっ」  鑑識官に手短に指示を飛ばすと、カウンターに肘を突き前のめりになってリビングに目を向けた。 「それで?」 「毛並みから衣服まで真っ白。ね?なんだか不気味でしょ?わざわざ死装束着て自殺したみたいで」  大袈裟に身体を震わせる和泉を睨むと、さすがにバツの悪そうな表情を浮かべた。 「そんな怖い顔しなくたっていいじゃないですか」  懐から手帳を取り出し、付箋のページを開いてつらつらと読み上げる。 「えっと、被害者は大島(おおしま) 勇作(ゆうさく)、35歳独身男性。種族は犬獣人。毛並みの色は勤め先はここから自転車で20分の商社で、金銭関係のトラブルは今のところ見つかっていません」 「死亡推定時刻は?」 「昨晩の10時から12時の間です」 「その時間で不審な人物は?」 「不審車両などの情報はまだ見つかっていません」 「第一発見者は?」 「現在署で取り調べ中です」 「どういう関係の人なの?」 「なんでも、同じ習い事をしてるご友人だとか」 「じゃあ、先そっち行ってみようか」  荒巻は入って来た時と同様、慎重にキッチンを抜けて行った。リビングをちらと横目で見ると、目の合った作業中の刑事達にも指示を飛ばすことを忘れない。 「あ、死因特定できたら教えてね」 「はい」

 第一発見者の小笠原(おがさわら) 匠(たくみ)が取り調べから解放されたのは午後1時を回ったころだった。取り調べは午前10時くらいから始まったと記憶しているから実に3時間もの拘束であった。署から出ると、秋の乾いた空気が兎獣人特有の長い耳をたなびかせる。ずんぐりした肥満気味の体型にスポーツウェアを着ていた小笠原にとって暖房の効いた取調室はサウナのようであった。外の冷たい風に当たることが出来てほんの少しだけ気分が落ち着いた気がした。真っ黒い毛並みが太陽の熱を吸収して仄かに温まる。あんなことさえ起きなければ実に心地の良い陽気だ。手首から先は毛が白いため手がかじかむ前にポケットに突っ込んだ。腹の毛も白いのだが今は服を着ているから関係ないだろう。 「おーい、小笠原君」  袈裟懸けの黒いショルダーバッグから財布を取り出し、昼飯はどこで食おうか。などと考え考えながらぼんやりと俯いた視線を持ち上げると、初老の犬獣人が懐っこく尻尾と手を振って駆け寄って来た。後ろにはやや痩せ気味のドーベルマン然とした人物がマイペースに着いて来ている。手前の人物は小笠原も知っていた。通報した時に真っ先に現場で事情聴取をしたのは彼だ。確か和泉とかいう名前の刑事だった気がする。とすると後ろの人物はその上司といったところだろうか。 「事情聴取は終わった?」 「えぇ、たった今。そちらの方は?」  改めて相対すると犬獣人の二人は兎獣人という小柄な種族の小笠原に比べて頭一つ分大きい。片方に視線をくれると、痩せ気味の刑事は恭しく頭を下げた。 「どうも、荒巻(あらまき) 純一郎(じゅんいちろう)と申します。この事件を担当させて頂くことになりました」 「担当?ということは警部さん?」 「お詳しいですね。仰る通りです」 「いや、これは。どうぞよろしくお願いします」  小笠原も恐縮して頭を下げた。手を差し出すと、体格とは不釣り合いな強い力で握り返された。とても殺人事件を担当するとは思えない物腰柔らかな警部であるが、やはりいざという時は頼りになる存在なのだろう。 「はは、あまり畏まらないで下さい。肩書だけですよ。いやはやしかし、丁度あなたからお話を伺おうと思っていたのに、終わったばかりとは少し間が悪かったですね」 「時間のことでしたら全然構いませんよ。でも容疑者でもないのにあの部屋にいるのは、なんていうかね。こう、心にくるものがあるよね」 「心中お察し致します。それではお昼時ですし、喫茶店でどうでしょう。個室のある良い店を知ってるんです」 「えぇ、まぁ、私は構いませんけど、刑事さんはいいんですか?こういうのはなんでも守秘義務があるとか聞きますけど」  もちろんそれだけではない。小笠原も社会人だ。こういう話を周りに聞かれたくないという警戒心は多分に持ち合わせている。 「あなたやはり非常にお詳しい。その手のご職業で?」 「まさか。そんな風に見えます?ミステリー小説が好きな普通の会社員ですよ」  ぽっこりと突き出した腹を揺らしてお道化て見せると、ショルダーバッグから会社の名刺を取り出した。荒巻は手渡された名刺を一瞥すると2度3度頷き胸ポケットに仕舞い、自身の名刺を小笠原に手渡した。 「製薬会社のお務めですか。非常に準備がよろしいんですね。お堅いお仕事のおかげでしょうかね」 「準備なんていうもんじゃありませんよ。通勤の時もこのカバンでしてね。いつも入ってるんです」 「場所は船橋、でしたか。といいますと」 「千葉ですね」  小笠原も荒巻の名刺を一瞥した。荒巻警部の所属は捜査一課とある。事故や自殺ではなく殺人としてこの事件は扱われているということだ。小笠原が名刺を仕舞うのを待ってから、荒巻は顔色を伺うように軽く腰を屈めた。 「あまり立ち入ったことは伺いませんので」 「えぇどうぞ」  署の裏手の駐車場にはトヨタのクラウンが4,5台並んでいた。覆面パトカーとしてよく見るタイプだ。和泉が運転席に、荒巻は助手席に乗ったので小笠原は後部座席に座る。警察車両に乗るというのは少し不思議な気分であった。犯人扱いされているような圧迫感があるし、外のヒトからもそういう目で見られているような気持になる。考えすぎな気がしないでもないが、車に詳しいヒトなら覆面とそれ以外とは一目で分かるというしやはりどこか奇妙な感覚だ。 「あまりお気になさらずに。気付かれないからこれで取り締まれるわけですから」  こちらの考えを見通しているかのように、荒巻は後部座席からひょっこり顔を覗かせて愛想の良い笑みを浮かべた。  通りは程よく流れ、20分もかからずに池袋駅の西部口まで辿り着いたが、休日ということもあり、さすがに地下パーキングエリアは駐車待ちの車で列を成していた。荒巻は目の前の歩道の信号が青に変わった頃を見計らって運転席の部下に耳打ちをした。 「じゃあ和泉君、私たちは先に喫茶店に入ってるから停めたら来てね」 「え?行っちゃうんですか」 「バカ。お客さんを待たせられないでしょうが」 「いえ、お気になさらずに。時間はありますから」  しかし荒巻は後方を確認するとするりと助手席から出てしまい、後部座席のドアも開けて手招きをする。信号は点滅を始めていた。小笠原も慌てて飛び出て小走りに歩道へと駆けていく。歩道から見た運転席の和泉刑事の横顔はどうにも哀愁に満ちているようで少し気の毒でもある。 「彼も無能ではないんですがね。どうも頼りなくて出世できないんですよ」 「はは、いや、まあ、取り調べられる側としては落ち着きますよ」  次の青信号で向かい側に渡り、レンガ造りを模した2階建ての喫茶店へと入店した。1階は窓際にカウンターが5席、2人掛けのテーブル席が4つと奥まったところに4人掛けのテーブル席が2つのこじんまりした作りだ。とても個室と呼べるような作りではない。荒巻刑事を一瞥すると 「実は部下から聞いただけなものでしたから」 と苦笑いを浮かべた。 トレーにブレンドのSを2つと小笠原が昼食に頼んだサンドウィッチの番号札を並べて4人掛けのテーブル席に座る。小笠原が入り口に近い側、荒巻が店の奥通路側だ。無作法というよりは、店員が来たのをいち早く察して会話を止めるためだろう。おそらく和泉刑事が戻れば小笠原の隣に座らせるはずだ。もちろん何かあったとき逃がさないためである。 「先ほどはさぞや驚かれたでしょう」 「最初は水道管が破裂でもしたのだろうと楽観的でした。まさかあんなことになっているなんて」  小笠原は俯いて頭を抱えた。コーヒーが白い湯気を上げて良い香りを漂わせていたがとても啜る気にはなれなかった。 「質問が取り調べと重複していたら申し訳ありません。今朝はなぜ大島さんのお宅へ?」 「今朝に限ったことではありませんが、駅の近くに大島さんの家があるんです。無視していくこともないと思って誘ってるんですよ。体調が悪ければそのまま先生に欠席の旨伝えられますしね」 「そうでした。なんでも同じ習い事されているとか」 「代々木公園で八卦掌という、そうですね。中国拳法、太極拳みたいなのを」 「ずいぶんお若いのに」 「はは、大島さんだって30後半ですし、私だってもう今年で30ですよ。それに、太極拳とは言いましたが、おじいちゃんおばあちゃんがやるようなのんびりした動きでもないので」 「少林寺拳法みたいなものでしょうか」 「あぁ、そうね。そうです。そっちのが近いかもしれませんね」  小笠原の耳がぴくりと小刻みに動いて会話を適当に中断させた。荒巻警部もそれとなく視線を外し小笠原の背後に移した。ウェイトレスが注文のサンドウィッチを置いてまた静かに帰って行く。入れ替わりで和泉刑事が戻って来た。 「どうぞ、お召し上がりください」 「いただきます」  空っぽの胃袋に温かいコーヒーとサンドウィッチの塩っ気の強いハムとチーズが落ちるのを感じる。思いの外身体に染み入るようだった。 「ん。美味しい」  ふと視線を上げれば目の前では和泉刑事が荒巻刑事を奥に詰めさせて無理矢理座ろうとしてちょっとした口論になっているところだ。 「なんで君がこっち座っちゃうの」 「え?なんで?ダメでした?」  小声ではあるが小笠原の耳は誤魔化せない。 「別に僕は逃げませんよ」 「このおバカ」  荒巻が和泉の頭を軽く小突く。馴染みの光景。そんな様子だった。 「それで、その習い事の...」 「八卦掌」 「そうです。それは毎週土曜日に?」 「えぇ、そうです。代々木公園で午前の10時から12時。午後は1時から3時までまた違うのを教えてるそうです」 「あなたはどちらも?」 「いえ、私は午前だけ。でも、大島さんは午後も参加されてたそうですよ」  短く端的な質問を繰り出す荒巻警部。小笠原のことを真っ直ぐに見つめ、時折相槌を打つように頷いた。和泉は横でつぶさにメモを取っていた。懐っこい顔は消え失せ、代わりに鋭く光る眼光で筆記の合間に顔を上げて小笠原に視線をくれる。場所が変わろうと取り調べの圧迫感は変わらなかった。 「午後だけ参加の方とかもいらっしゃるんでしょうね?」 「えぇ、そうらしいですね。なにぶん僕は参加したことが無いので知らないのですが」 「いえいえ、十分です。午前で気になる方はいらっしゃいましたか」 「つまり、そういうことをしそうな人、ということですか?」  荒巻刑事がゆっくり頷くのを見て、小笠原は大きなため息を吐いた。 「すみません。私にはちょっと。身内というのは疑いたくないという色眼鏡も掛かっちゃいますので」 「お察しします。他に何か気になることを聞いたことはありませんでしたでしょうか?些細なことでも構いませんので」 「すみません。最近の大島さんとの話といえば、ダイエットと筋トレと柔軟の話ばかりでしたから。いえ、大島さんだけではありませんね。特に今の時期は誰とでもそんなもんです」  二人の刑事の雰囲気が一瞬にして張り詰めたのを感じた。荒巻の方は分からないが、少なくとも和泉の方は間違いないだろう。 「今の時期というのは?」 「表演と言いまして、型の出来不出来を評価してもらう競技に向けて調整中だったんです」  メモに書き留める音が強くなった。和泉刑事に力が入っているのがよく分かる。ペンの動きが止まるのを待ってから小笠原は再び口を開いた。 「大島さんはうちの会でも一番の古株で技の完成度も高く、みんなから一目置かれる存在でした。教えるのも上手で、私もしょっちゅう教わっていたんですよ。免許皆伝に最も近いと噂されていましたし、先生も支部を作って欲しいって言ってましたから一番期待してたんじゃないでしょうか」  ゆっくり目を瞑り悼むように大きく息を吐いた荒巻刑事の態度は変わらず柔和だった。 「惜しい人を亡くしました。先生にもお話を伺うことは出来ますでしょうか」 「それは先生に聞いて貰わないと。SNSでもいいですし、ホームページには連絡先も載っています」  小笠原がタブレット端末を叩いてSNSのアプリケーションから師父のアカウントと、さらに別のウィンドウでブラウザを開きホームページを表示させた画面を提示した。 「参考にさせて頂きます」  アカウント名とサイト名は和泉刑事ではなく荒巻刑事が手帳に書き残した。手帳を静かに閉じるその仕草で取り調べの終わりを悟った和泉が急いで飲みかけのコーヒーを飲み干し席を立つ。荒巻も席を立って恭しく頭を下げた。 「では、私共はこれで。また何か分かりましたらご連絡差し上げます」 「えぇ、お待ちしております」  出口に向かって一歩踏み出したかと思うと突然荒巻がくるりと踵を返して向き直った。 「あぁ、すみません。最後におひとつ」 急に姿勢を正した小笠原の手からコーヒーが零れ落ち、テーブルに黒いシミが広がった。 「はい。なんでしょう?」 「ずいぶん、お強いですね」 「え?」  小笠原はペーパーでテーブルを拭きながら答えた。 「いえね。ご友人が亡くなったのを目の当たりにして食欲のある人というのも珍しかったものですから」 「あぁ、そういうことですか。僕と大島さんはまだ出会って半年程です。そんなに思入れが無い所為でしょう」 「失礼致しました」  荒巻警部は恭しくお辞儀をすると踵を返して出て行った。小笠原の毛並みを嫌な汗が濡らした。

 荒巻警部が練習会に姿を現したのは翌週の土曜日のことだった。丁度型稽古が終わり、水分補給をして筋トレと柔軟に移ろうというタイミングだったため、小笠原だけが特別に練習を抜けて捜査に協力することになった。和泉刑事の自家用車に乗って連れてこられたのは大島の家だった。代々木公園から大島の家までは歩いて行ける距離である。むしろ人通りが多く、信号も多いから歩いた方が早いだろうが、それを許さないのは刑事達の何かのルールだろう。大島の家の前にはまだ黄色い規制線が張られていて、見張りの刑事が一人仁王立ちで立ち塞がっていた。荒巻刑事が警察手帳を見せると規制線を持ち上げて通してくれる。小笠原にとってはどこか現実離れした感覚だ。 「練習中にすみませんでした」 「いえ、そんな。こんな事態ですから」  荒巻刑事が先導して部屋の奥に入る。玄関から2階に上がる階段を通り過ぎ手洗いや風呂場、キッチンに通じる廊下を通り抜け、事件現場のリビングへ。どこの部屋もすっかり拭き上げられていて壁紙の低い位置に所々染みが残っていることを除けば元通りである。 「ずいぶんきれいに片付けられてしまったんですね」 「えぇ、そうなんです。捜査のために」  家具の配置は大きくは変わっていないようだが、食器や絨毯、キッチンマットなんかも大きく数を減らしている。なんだか少し寂しい印象になってしまった様子に小さな溜息が漏れた。 「ところでよくご存じですね」 「え?」 「きれいに片付けられてしまった、と仰いましたので。まるで中を知っているようじゃありませんか。以前お聞きした話ですと、朝、稽古にお誘いしているだけとのことでしたからてっきり私、玄関で済ますものだと思っておりまして、家の中の様子は知らないものだとばかり」  スポーツウェアの中でまた嫌な汗が伝った。嫌な想像が脳裏を掠める。いや、前回言葉足らずだったのが原因だ。きちんと説明すれば誤解は解けるはずだと自分に言い聞かせ、強張った身体を解きほぐすようにゆっくり息を吐く。 「ご存じかとは思いますが、僕は家が遠くてね」 「えぇ、千葉でしたね」 「そうです。残業とかありますと、翌朝起きるのが少々辛いものですから大島さんの家に泊めてもらうことがあったんですよ」 本当のことだ。聞き込みでもなんでもすればすぐに分かることである。 「あの日も僕が泊っていたらこんなことにはならなかったでしょうに」  感極まって思わず目を閉じ天井を仰いだ。未だにこの家の主がいなくなったことに実感が持てなかった。 「それで今日はどのような御用で?」  小笠原はやっとの思いで気持ちを落ち着け刑事を見やった。 「あぁ、これはうっかりしていました。そうなんです。新事実が判明しまして」  後ろで和泉刑事が警察手帳を開いた音がした。ここからが本題だ。 「大島さん、死因は窒息死でした」 「となると、絞殺、ですか」 「いいえ、そうではありません。肺に水が溜まっていました。おそらくこれが原因だそうです」 「そうですか。じゃあ事故、いや、それだけじゃ説明がつかないこともありますね」  不意に出た言葉を飲み込んで事件の日の朝を思い浮かべてみた。あの日は床一面が水浸しであった。誤飲ではああはなるまい。 「えぇ、そうなんです。しかし、今のところ新しく分かったことと言えば死因くらいのものでして。今日はそれだけお伝えに参りました」 「それなら、公園でもよかったじゃないですか」 「そうかもしれません」  荒巻警部はマズルの下あごに人差し指を当てて、リビングをうろつき回り始めた。ちょうど、被害者の遺体があった辺りをぐるぐると。俯いて、何か探し物でもするかのように。そして、ふと立ち止まると眉間に深い皺を刻んだ顔を小笠原に向けた。 「いえ、やはりそうでもないかもしれません。小笠原さん、あなた、この家についてお詳しいですね?」 「えぇ、頻繁に泊めてもらってましたから多少は。でもそこまで詳しいわけではありません」 「では、睡眠薬の場所は?」 「あぁ、それくらいなら知ってますよ。あれはしまってなんかいませんでした。毎晩飲むからと言ってテーブルに置きっぱなしでしたから。それが何か?」 「大島さんの胃袋からはその睡眠薬が検出されたんです」 「なる、ほど?」  小笠原は、荒巻刑事の言葉をどうにも掴みあぐねていた。そもそもなぜこちらが刑事の言いたいことを想像しなければならんのだ、とだんだん腹が立ってくる。それもまた狙いなのかもしれないが気分が悪い。これならドラマでありがちな怒鳴ってばかりいる刑事のがまだマシに思えるくらいだ。弁護士を呼べばいいのだから。好意で協力している以上それもしにくいのがなお腹が立つ。しばらく荒巻の反応を待ってみたが彼は考え込む素振りをしたまま微動だにしない。 睡眠薬と肺に溜まった水。刑事が動き出すまで、暇つぶしがてら小笠原も頭を回してみる。久しぶりに脳に閃光が走ったように閃いた。学生以来ではなかろうか。思えば考えるという行為は社会人になってからめっきりしなくなった。 「つまり、普通睡眠薬を服用して、しかも今まさに眠りに落ちそうな時になって水を飲もうなんてしない。普通はベッドで横になってるはずだ。だからこれは、食事中か何かに、隙を見て、そうトイレにでも立った時に盛られて眠ってから水を飲まされて窒息したんだ、と言いたいわけですね」  事件の推理をさせられるならともかく、刑事の言いたいことを当てさせるというのはどこか胸にモヤモヤするものを残した。意図が分からないことと試されているようで気分が悪い。だが荒巻は深く頷いていた。 「よくご存じで」 「どういう意味でしょうか」  怒りが頂点に達するのを自分でも理解出来た。頭と体が熱くなり、吐き気を催す。それは今にも怒声となって吐き出してしまいそうだった。 「私は胃袋から検出された、とだけ申しました。確かに食べ物も検出されましたが、小笠原さん、よくあなたが食事中に盛られた、とお分かりになりましたね」  広々とした部屋にダイニングテーブルを叩きつける音が響き渡った。叩きつけた拳が熱を持ち、ジンジンと痛みが広がる。それでも冷静に喋ることなどできやしなかった。感情の赴くまま、言葉は全て怒声となって口から飛び出してしまう。 「僕は物の例えをしただけだ。もし殺す気でいたのならいつ飲むか分からないタイミングを狙うより、隙を見て食事に混ぜたほうが手っ取り早い。それに睡眠薬はテーブルに置きっ放しだったんです。僕じゃなくたって、この家に来たことのあるヒトなら誰だってできます」 「お気に障ったのなら謝ります。申し訳ございません」  不満をぶち撒け、少しは気分が落ち着いたような気がした。冷静に頭を下げる荒巻を見ていると自分の熱がさらに下がっていくのを感じる。それでも、今日はもう何も喋る気が起きそうもない気がした」 「いや、僕もムキになりすぎましたよ。すみません。それで、今日はそれだけですか?」 「はい。あとは、あの水の正体が分かればきっと犯人にもぐっと近づけると思うのですが」 「そうですか。じゃあ、分かったらまた教えて下さい」  そう言って、つかつかと廊下へ足を進めた。和泉刑事が脇に退きすんなりと通してくれる。彼らの主張は全て言い切ったということだ。なんのことはない。容疑者として取り調べを受けただけだったのだ。そう思うとまた腹が立ってきた。 「お気をつけて」  小笠原は返事をせずに足早に大島の家を後にした。

 小笠原 匠は少なからずささくれ立っていた。あの刑事の件ではない。明日に控えた表演のことである。塾生の中でも随一の腕の大島 勇作が亡くなったとあれば、次に注目が集まるのは小笠原だった。それがかえって小笠原にプレッシャーとしてのしかかる。浴室でシャワーを浴びていると嫌でも鏡に映る肥満体型の自分。ぽっこりと突き出した腹にはそのプレッシャーが詰まっていて、それが自分の身体を重たくしているのではないかとさえ錯覚する。元々はダイエットのために始めた習い事だった。いつから一番になりたいだなんて欲望が生まれたのだろうか。10kg くらい痩せて調子に乗り始めてからだったろうか。それとももっと前から?答えに辿り着くより早く、毛皮に馴染ませたリンスが流れ、毛先が整い艶が出る頃合いでシャワーを止めた。同時にインターホンが鳴った。こういう間の悪い来訪者を小笠原は一人しか知らない。 「ごめんください」  毛皮の水を切るのも早々に下半身にバスタオルだけ巻いて玄関から顔を覗かせるとやはり待ち構えていたのは荒巻警部だった。 「どうしたんです?こんな夜更けに」  荒巻はヌッと玄関にマズルを突っ込んだ。普通は足を引っ掛けるものだろうに変わったヒトだ。勢いよくドアを閉められたら大怪我では済まないかもしれないというのに。 「この前お伝えしましたお水の正体が分かりまして、そのご報告に」 「今日でなくてもよかろうに」  と、言いながらも部屋に通す。ここで拒絶することは無駄な疑いを持たれると知っているからだ。 「なるべく早くお知りになりたいのではないかと思いまして」 「今日はお一人?あ、よろしければ掛けて」 「どうもすみません」 「麦茶しかありませんけどいいですか」 「お気を遣わせてしまい申し訳ありません」  独り者として少し贅沢な2DKのアパート。そのダイニングキッチンに置いてある食事用のちゃぶ台になみなみと注いだ麦茶を差し出した。 「失礼ですが、お風呂上りかなにかで?」 「えぇ、明日は表演ですから少し早めに休もうかと思っていたんですよ」 「これはまたタイミングが悪かったようで申し訳ありません」 「まだ、柔軟くらいはするつもりでしたからお気になさらないで下さい。それで?」  襖一枚隔てた隣の寝室として使っている和室でパンツを履きながら話を促した。 「そうでした。あの水なんですが、どうやら正体が分かったそうなんです」  長い耳がぴくりと小刻みに震えた。誤魔化すように耳の水気を拭き取り、次いで頭、上半身と拭きながらゆったりとしたフリースのズボンを履いてダイニングキッチンに戻ってきた。 「私、現場検証の時、いろんな物を触る癖がありましてね。鑑識官にはよく怒られてるんです」  コップをもう一つ出して自分用に麦茶を注いだ。近頃厚みの増してきた冬毛をフリースのウエストから溢れ出させ荒巻の対面に座る。 「今回はですね。コンロの火を点けようとしてしまいましてね。なにぶん、あんなお洒落なキッチンなのにIHではなくガスコンロというのが珍しかったものですから」 「大島さんは料理もよくされていました。火力はやはり火の方が便利だとよく仰っていましたよ」 「あぁ、それで。ですが、私が触った時は火は点きませんでした」 「あれだけびしょ濡れだったんです。きっと湿っていたんでしょう」 「確かに湿っていました。ですが、あれくらいですとあのコンロも、他のメーカーのでも試したのですが点くんですよ」  短い沈黙が流れた。 「ふーん。じゃあ、壊れてたんだ」 「いいえ。署で点検したらちゃんと点きました」  また沈黙が流れた。もしかするとこの刑事の独特の間なのかもしれない。思い返せば 先日大島の家で事情聴取をされた時もこんな具合だった気がする。今日はそんな挑発に乗る気はない。荒巻が口を開くまでじっと待った。 「もちろんご存じかとは思いますが、火は燃えるのに酸素が必要ですね?」 「えぇ」 「ですが、多すぎると不安定になって消えてしまうそうですね」 「えぇ。小学生か中学生くらいで習いますよね。ガスバーナーの実験で」  荒巻は得心した様子で頷いた。 「荒巻さん。一体何が言いたいんですか」 「あの水はですね。朝は水でした。ですが、事件発生当初、あれは水ではなかったんです」  荒巻はくたびれたダッフルコートの懐から500mlのプラスチック製の試薬瓶を取り出すと、小笠原にゆっくり見せつけてから静かにちゃぶ台に置いた。 「オキシドールです。ご存じですね?」  どこの薬局でも売っている消毒薬だ。小笠原はそれを一瞥すると、また荒巻に視線を戻した。 「一晩経って酸素が抜けて家中に充満してたんです」 「そうですか。それで、犯人との関係は?」 「これ、消毒としてだけでなく、なんでも毛皮の脱色にも使えるとか」  荒巻警部の視線は小笠原の目から外れ、一瞬どこかを彷徨ったように見えた。次第にその矛先が鮮明になる。小笠原の手首と足首の先そして腹の毛皮の白い部分を順繰りに見ているのだ。 「私は専門家ではないので詳しいことは分からないんですが、科捜研とかの専門家さんが言うには、黒い毛皮でさえ真っ白になってしまうんだそうで」 「刑事さん、この手足や腹の毛のことを言っているんならお門違いです。生まれた時からの模様です。なんなら今から実家に電話してアルバムを送ってもらいましょうか?」 「いえいえ、それには及びません。オキシドールで脱色された色素は、ちゃあんと戻せるそうですから」  また懐に手を突っ込み、今度は一枚の写真を取り出した。 「現に、大島さんがお亡くなりになった時着ていた服の色が戻りました」  元通りとは言わないまでも、よく見ればそれは確かに夏頃大島がよく着ていた物だった。 「和泉君は死装束のようで不気味だと言っておりましたが、あれは元は濃紺の甚平でした。少々季節外れですが、きっと寒い外から来る知人を迎えるために室温を少し高めにセットしておいたからあれくらいで丁度良かったのでしょう。多分、あの晩いらしたご友人の毛皮の色も復元できるはずです」 「そんなにうまくいきますかね。もしかしたら、洗濯で落ちなかっただけだったり、あるいは別の日に付いたものなのかもしれませんよ。」  警部はゆっくり大きく何度も頷いた。 「そうかもしれません。ですが家中水浸しになるほど大量のオキシドールを購入したヒトです。きっと薬局の防犯カメラにも映っているはずです。オキシドールを買ったヒトと」  強調するようにオキシドールの瓶を持ち上げた。 「甚平に付いた毛皮の主が同じなら」  色の復元された甚平の写真を持ち上げてオキシドールの瓶と抱き合わせると嫌味ったらしいほど緩慢な動作でコートの懐にしまった。 「それはさすがに犯人と言えるでしょう。では、明日の表演楽しみにしていますよ」  言うだけ言ってそそくさと帰える警部を見送った小笠原は大きく安堵した。今日はよく寝られそうだ。

 表演は都内の大きな体育館で行われた。控室は団体ごとに分かれている。小笠原の所属する会からは、今日都合がついたのは小笠原一人だ。机と姿見しかない広々とした無機質な控室で一人、大きく深呼吸をし、壁に背を当てて姿勢を正す。最後の微調整だ。師父とは30分前に打ち合わせを済ませ、あとは言われた通り演じるだけ。観客席から見ていてくれるから終わったらまた指導してくれるだろう。カメラも渡してある。映像を見ながら明日からまた功夫を積む日々だ。そんな日が来ればだが。  姿見に黒い表演服を纏った自分を映す。ぽっこり突き出した腹に、顔の毛並みは黒く服も黒。イマイチ目立たない。やはり大島のように白い毛並みは憧れだ。このみっともない腹も随分マシにはなったがせめてもう少しどうにかできればという後悔は今となっては少し遅すぎる。 「ごめんください」  ノックもなく突然開いた扉からは見慣れた黒とこげ茶のマズルが覗かせていた。こんなタイミングの来訪客は彼しかいない。 「びっくりした。また、あなたですか」 「すみませんね。荒巻さんがどうしてもというものですから」  荒巻警部。今日は和泉刑事も一緒だ。後ろから愛想笑いを浮かべて申し訳なさそうにぺこぺこお辞儀をして入って来た。 「それで?今日は一体なんのお話ですかな」  もはや追い返す暇もなく勝手に椅子に腰掛けていた。 「お時間は、よろしいのですね」  控室の壁掛け時計は12時ちょうどを指していた。小笠原の出番は12時30分からだ。 「あと30分で僕の出番です。20分だけですよ」  10分。柔軟が限界か。本当は演武もう一度おさらいしておきたかったが。 「私、この事件どうしても引っかかっていることが1つだけあったんです」 「なんです」  小笠原も椅子に腰を掛けた。和泉刑事は立ったままドアにもたれかかっている。 「死亡推定時刻は夜の10時から12時の間です。なんで、深夜に犯行に及んだんでしょう」 「さあね。おおかた発見までの時間稼ぎをしたかったんだろう」 「いいえ。違います」  荒巻は昨日と同じダッフルコートからこれも昨日と同じ薬品の瓶を取り出し机に置いた。 「昨日のオキシドールですね」 「そうです。これのせいでDNA解析の時間が大幅にかかってるんです。なにしろ被害者の毛も犯人のも、糸くずに至るまで全部真っ白になっちゃいましたからね。どれがどれだかさっぱり」 「それで?それも犯行時間となにか関係があるんですか?」  荒巻はピンと人差し指を立てて小笠原の周りをゆっくり歩き始めた。 「大ありです。いいですか。これはどう考えても捜査を遅らせるために仕組んだトリックなんです。つまり、発見を遅らせるだとか逃げるための時間稼ぎではなく、犯行後、正体がバレるまでに何かをすることがこの犯人の目的なんです」 「そんな難しいことですかね。私はただのダメ押しの一手だと思いますけど」 「移動手段がないんです」  小笠原の背後に回り込み、耳元に囁くように呟いた。一人には広すぎる控室だというのにまるで取調室にいるかのような圧迫感だ。 「あの時間に犯行を犯してターミナルに急いでも最終の飛行機も夜行バスも間に合いません。新幹線はありますが新大阪止まりです。これはどう考えても逃げることを考えていないんですよ」 「なるほど。ヒトが少ないから防犯カメラにもはっきり映ってしまいますしね」  荒巻刑事は何度も頷いた。 「まあ私は犯人がそんな難しいことを考えるとは思えないけど、じゃあここ刑事さんの推理に従ってみましょう。その目的は何だと思ってるんです?目星はついているのでしょう」 「何か、そう、イベントに参加するまで、ではないでしょうか」 「例えば表演のような?」  小笠原はニヤリと笑った。荒巻はそれには答えずにまた部屋をうろつき回り始めた。無言の肯定だ。 「証拠があるのでしょうね」 「これです」  荒巻が指差したのはまた例の試薬瓶だ。 「そんなの薬局で誰でも買えますよ」 「ええそうです。1つだけなら。しかし現場は水浸しになるほど撒かれていました。あんなに大量に買ったヒトはですね、いないんですよ。いくつかの店舗を回ったかもしれませんし、何日かに分けて買ってるかもしれませんから部下に周辺の防犯カメラを調べさせました。それでも同じヒトが買ったという形跡はないんです」  おもむろに胸ポケットから名刺を一枚取り出した。それは小笠原が最初に会った時渡したものだ。 「小笠原さん、あなた製薬会社にお勤めでしたね。業者から大量購入できるんじゃありません?」 「ええ、できるでしょうね。それで?買ったという証拠は?」  荒巻刑事は首を横に振った。当たり前である。小笠原を疑うということは東京から千葉方面の薬局をしらみ潰しに探しているはずだ。そこまで手が回るはずがない。 「それに、持ち運びはどうするんです?会社からでも僕の自宅からでも大島さんの家から遠いですよ。そんなの担いで電車でも乗ったら一発で職質されちゃいますよ。それとも大島さんの家に直接送り届けてもらうとか?さすがの大島さんも嫌がりますし、業者さんだって怪しみますよ」 「おや?それは、ご自身のお車に載せてはいかがです?職場には車で行かれるのでしょう?」 「昨晩来たから分かるでしょう。うちのアパートは駐車場がありません。いや、暗くて分からなかったかな」 「そうですか?ではなぜ車のキーがあったのでしょう」  荒巻はズボンのポケットから車のキーを出して小笠原の目の前にちらつかせた。小笠原がそれを奪い取るより早く引っ込めた。 「これは私の。ですがすみません。昨日私嘘を吐きました。昨晩はオキシドールのお話をしに伺ったのではないのです。家に車のキーが無いか確認したかったのです。有料の駐車場は近くに2か所あるのは確認済みです。そのどちらかに置いてあるのではないでしょうか」 「まったくヒトが悪いな。じゃあ、その車が不審車両としてもちろん報告されてるんでしょうね」 「いいえ」 「なんだ。やっぱり証拠はないんじゃないですか。それとも今日は推理が外れてたことを謝りにでも来てくれたですか」 「不審車両はありません。だからあなたしかいないんです。あなた、頻大島さんのお宅には自家用車で行っていたんじゃありませんか?」  小笠原は目を瞑り静かに溜息を吐いた。あと20分くらいなら稼げると思ったのだが読みが少し甘かったようだ。20分でいい、という犯人らしからぬ余裕が、きっと良い方に転がってくれると信じて笑うこともできた。小笠原は思った。彼がこのタイミングでここに来た時から自分は詰んでいたのだ。 「そうです。お分かりなりますね。常日頃から出入りをされていたら、それは不審車両とは言いません」  弁解をしようと逡巡した。全ては憶測の域を出ない。ただ証拠の提示を求めるだけでもいい。だがあまり意味はないだろう。もはや時間の問題だ。 「薬品を怪しまれずに大量購入でき、大島さん宅の近くに車を停めても怪しまれない。夕飯は一緒に摂るくらいには仲が良く、犯行後は逃げられない理由のあるヒト」  刑事の推理を黙って聞きながら、自分は存外に落ち着いているな、と思った。自分の行為に多少なりとも後悔の念があるからかもしれない。 「どうです?これだけの条件に当てはまるヒトはあまりいないように私は思うのですが」  荒巻刑事が口を閉じると控室は静寂に包まれた。二人の刑事に見つめられ、小笠原は長い耳を弄んだ。 「絶対に怪しまれない条件だと思ったんだがな」 「度が過ぎましたね」 「一度でいいから何かで1番を取ってみたかったんだ。この表演が終わったら自首するつもりだった」 「だからいろいろ語ってくれたのですね」  壁掛け時計は12時20分を指していた。 「僕の出番まであと10分だったのに。あなたは最後の最後まで間の悪い刑事さんだったな」  同伴の和泉の手が小笠原の肩に置かれる。肉厚な体格でも圧迫感を覚える握力だ。 「署までご同行願えますね」  3人が出ると、控室の扉は音もなく閉じられた。

(以上、400字詰め原稿用紙50枚分(ルビを除く))