それを拾ったのは、厳寒期を越えて一か月後の調査でのことだった。 深く冷たい海中で生命反応を示す赤い光が灯った瞬間、私の全神経が強張った。ただそれでも、私は淡々と己の使命を果たすのみだった。 その反応に潜水艇を寄せたところ、なかなか生命体らしき物象を見つけ出すのに難儀した。目測を誤っているはずはないと思った。水深千五百メートルのそこに眠るのは海洋生物に限られたわけではないと心得ていた。植物、脊索動物はもとより、節足動物、原生生物、あるいはモネラに属するものでさえ、発見できれば貴重なサンプルである。願わくは目当てのものであって欲しいと思いつつ、わずかな動きも逃すまいとして目を見張った。が、それらしい痕跡ひとつも見当たらない。 センサーの誤作動を疑いかけたそのとき、岩礁の裂け目の一部が僅かだが不自然な欠け方をしているのに気付いた。縦に数センチの細長い穴は、何かを引っかけられるような形状に見えた。 見たまま導かれるままにそこへ潜水艇のアームを引っかけて、丁寧に手前側に引き寄せる。動いた。しかしすぐになにかに突っかかってこれ以上引き出せなくなった。私は縦穴周辺の岸壁をもう一度注意深く観察した。 やはりそうだ、さっき見つけた穴とちょうど対となる位置に同様の穴が空いている。およそ二メートルといったところか。人為的に何かに蓋をしているのは明らかだった。引き出した箇所を一旦押し戻し、今度は両方の穴にアームを引っかけ、左右均等の力加減でより丁寧に引いていく。 動いた。さっきよりも大きく蓋が抜けていく。アームが持って行かれないようゆっくり、慎重に力をかける。分厚い蓋が外れた向こうに、私は確かにそれを見て取った。 みっちり詰め込まれた塊の中心で、青白い光が静かに閉じるのを。 生命反応は間違いなくその塊を指し示していた。恐る恐る穴の中をライトで照らすと、塊の数カ所は筋のように照り返し、またある箇所では繊維質の何かが光をやわらかくぼかしていた。 奇妙に思って拡大モニターを高精細の表示に切り替えた瞬間、のけぞった。 あれは……甲殻類の脚部……そしてあれは……偶蹄目のヒヅメ……。 まさに肉塊だった。ぱっと見ただけで数十種類の生物の特徴が確認できた。あれらが全てこの生命反応に付随しているというのだろうか? なんにしても、サルベージしてみなければ分からない。反応を包囲している組織をどうにか損傷なく取り出せないか思案したが、ためしに手元のアームだけで軽く引っ張ってみたところ意外なほど簡単に穴を抜けていった。 私は見逃さなかった。その瞬間、岩壁に接している組織が若干の収縮を起こしたのを。 どうやら私はこいつを丸ごと引き上げた方が良いらしかった。観念して、海中での物資運搬用に一番容積のあるポッドを装着しに拠点へ帰投、再びポイントへ潜り対象を回収、問題なく地上への引き揚げに成功した。そんなはずはないのだが、連れて行ってくれとせがまれて、連れて帰っていくような気分だった。
[お疲れさまでした。拾得物の解析はいかがなさいますか] 「悪いけど少し時間を置いてからにするよ。モノは一番の検査室に、そうだな、ひとまず安置しておいてくれ。可能ならポッドに収納したままで簡易な解析までは済ませておいて欲しい」 [承知致しました。トニー殿はこの後メンテナンスでよろしいですか] 「ああ。ひとりで大丈夫だが、いつもより時間をとるよ。思考を整理したい」 [かしこまりました] ではよろしくと、管理ロボットに伝えて壁面の端末を切る。 今日は疲れた。そんな気がする。相当な時間、あの肉塊のために稼働した。それなりにエネルギーを消費したが、その分の見返りは大きいものだと信じたい。 メンテナンス用のドックに腰掛け、首すじの端子を接続部に当てる。椅子形のドックが平坦に持ち上がり、ボディの検査が開始され、私の精神はサーバー側に移される。思考が、みどり色の海の中で渦を巻いてゆく。 調査探索用のアンドロイドとして私が覚醒したのはもう七百二十七年も前のことだ。その間何度も調査を繰り返し、引き揚げ、検査をし、対象区域でそれ以上の成果の見込みがなければ拠点を移し、また調査をし……。 今回の厳冬期のように数十年規模で調査を休止せざるを得ないときも何度かあったが、それでも七百余年という時間をひたすら調査発掘研究に費やしたことを、私は私自身で今日という日をもってねぎらうべきだ、そう感じていた。 私が覚醒したとき、己の精神に刻まれていた使命はひとつ。
この星の、人類再興の旗印となれ。
覚醒直後、私はすぐさま周辺の状況を調査した。私はどうやら広さ五平方キロメートルほどの小さな島にいるらしかった。紀元後一千年代の温帯の環境に近く、少々狭いが人類の復興においては悪くない環境だろう。と、高をくくったものだった。 この島唯一の人工施設――陸上において唯一の、と言うほうが正しいかも知れない――である研究所で、私は驚くべきことを知った。この島の実体は船舶の機能を有した推進体であり、各地に点在する生命反応の確保、収容、保護を容易に行えるよう設計されているのだった。 それを知ったとき、私はそれとなく人類の、いや、あまねく生命の現状を察した。 覚醒して初めての航海を思い返す。広がる海に対し、私に搭載されたセンサーはこの島に根付く生命だけを赤色で示す。都合良く設定されたフィルターをオンにした途端、広がるのは真っ暗な絶望の海原であった。 この星の生命は滅んだのだ。その推測を裏付けるかのように、ようやくたどり着いた大陸には不毛の大地と廃墟が続くばかりだった。受け入れがたい事実に堪らず海へ飛び込むと、私はセンサーを全開にして乱暴にあちこちを探り回った。 ない。どこにも、生命が、ない……と思った矢先、ごくごくわずかな、単細胞レベルの反応が一瞬だけ観測できた。そのまま探索を続けると同様の反応が一キロ先、数キロ先と断続的に拾えた。 つまり、完全にこの星の生命が途絶えたわけではない。むしろ生命再誕の過渡期にあると言えた。幸か不幸か、大いなる海、大地、大気は死んでいなかったのだ。 滅亡があってからどれほどの歳月を経ていたのか、それを知る術は私の中にも研究所のデータベースにもなかった。分かったのは現状の環境がこの星の歴史で言う先カンブリア時代という時期に相当すること、そして、先カンブリア時代からカンブリア紀の生命爆発まで幾億年もの時間を要したという先人類の推測であった。推測とはいえ、私の心を折るには十分すぎるほどだった。 それから数十年、私は何もしないでいた。 私から故意・および無意味に何かを破壊できるようにはなっていなかったため、私の神経中枢に刻まれた使命に抗うには「何もしない」という手段をとるほかなかった。 だが人間の与えた使命に機械がそう易々と反抗できるわけもない。焦燥感は日に日に募る。会ったこともないホモサピエンスの笑顔と歓声をみる夢。アンドロイド一機を生きながらえさせるには余りあるエネルギー循環装置。私と私の生きる環境を整えた科学者は並々ならぬ情熱と執念をここに注いでいたのだろう。 結果、私は重い腰を上げ、人類復活を目指して粛々と活動を進めることにした。 あわよくば、その第一号に大いなる恨み言を吐くために。何億年かかるか分からない労働から気を逸らすためには、皮肉めいた動機が必要だったのだ。すっかり形骸化した願望がこの度をもって叶うのか、それはまだ分からない。
*
「……なんだこれは」 メンテナンスを終えて第一検査室へ入った私は首を傾げた。対象の検査準備が整っているのはいつものことだが、問題はその内容だった。 [申し訳ありません。当研究所に組込みの設備では、対象への接続可能な端子が存在しませんでした。急きょの対応ではありますが、アーカイブ棟から利用可能と思われる機材を調達し、修繕の上、準備させていただきました。接続の許可をいただければ、いつでも試験可能です] 「待て、待て」 管理ロボットがまくし立てるのを慌てて制した。私のようなアンドロイドと違って情緒のかけらもないから困ったものである。 「アーカイブ棟に電源の入る機材が存在していたのは百歩譲るとしよう。君がそれを修理できて、使用可能な状態でここに置いてあるのもまだ分かる。だが」 私は検査台に鎮座された二メートル角の未開封のポッドを前に、疑問を呈した。 「こいつに接続するだって? その旧式のコンソールを?」 検査台の隣には見慣れない機器一式が一台のワゴンにまとまっていた。中枢の装置にディスプレイやら入力装置やらを別途で有線接続しなければならないらしく、ごちゃごちゃしている。 [その通りです。トニー殿。こちらをご覧下さい] 気の利く管理ロボットが解析画像を飛ばしてきた。共有デスクに置かれたそれを映し出してみる。 驚くべきことに、その肉塊の十数カ所、表面から覆い隠すような位置に転々と、確かにそれらは存在していた。USB端子、と解析画像にそう付記してある。見慣れない形状だが、防水処置とキャップまで施されているあたりがいかにも旧式の規格らしかった。 「調査対象に搭載されているのが凹部。このコンソールに接続すれば、何らかの情報を得られる……そう考えて良いのかね」 [未検証ですので、お答え致しかねます。USB端子は用途としては情報記憶装置が主だったと記録されていますので、推測としては成り立つかと] 「やってみなければ分からない、ね」 それにしてもこれを生命と呼んで良いものか。センサーを通してみると赤い反応は煌々と照っている。解析結果のその他の項目を見ても、有機的構造を持った動物界の何れかであることを否定できない。考えられるのは生命の人工的な生成、あるいは当時存在していた生物への解剖学的な改造、そんなものか。 なんの意図でこんなものを生み出したか知らないが、接続を試みないことには始まらない。 ポッドの外側から外科用のアームを挿入し、さらにコンソールから伸ばしたケーブルを内へと送り込む。一番接触が容易そうな端子を狙って肉塊をこじ開けてゆくが、思うように進入路を形成できない。 「く、きついな。サルベージの時みたいに良い子にしてくれないか」 そう苦言を呈すと、まるで通じたみたいに各組織がゆっくりとうごめき、ケーブルに端子が届くようになった。いよいよもってただものではない。意を決してケーブルを対象に接続する。 コンソール画面に目をやると、軽快な効果音とともに画面右下に何やら表示される。
選択して、大容量記憶装置 に対して行う操作を選んでください。
「……なあ、私はこの装置の操作に関してそれほど詳しくないんだが、マニュアルか何かないのか?」 [申し訳ありません。存在はしていますが圧縮されていたため、別のものに展開を依頼しておりますが、未だ完了の報告を受けていません] 「はあ。ちょっとずつ見られるようにしてくれれば良かったのに」 文句を言っても始まらないので、手探りでコンソールを動かしてみる。ええとEがなんだとか書いてあったから、このあたりを覗いてみたら、ああ、これかな。よし開いた。こういうのは二回叩けば開くと相場が決まっている。 現れた画面にはこんな文字列が並んでいた。 Bin、setup、startup、config.ini、Readme.txt、Startup.exe、……。 一行ごとに実行可能なファイルやディレクトリが記載されている。このあたりのセンスは古来より同等らしい。 なんとなく「Readme.txt」という名のファイルを叩きかけて、念の為に管理ロボットに確認をとる。 「大丈夫だよな」 [我々の規格では拡張子は一般的ではありませんが、.txtファイルはテキストファイルです。有害なコマンド実行等は引き起こされないと考えられます] 「分かっていても、不安にはなるのさ」 ほとんど手探りの中、触れそうな部分から触るしかない。読んでくれと書いてある以上は有用な情報を願い、Readme.txtを開く。 そこにはこう書いてあった。
種の保存のためのあらゆる手を尽くした。 貴方が見てくれで判断しない人間であったことに心から感謝する。 これはあくまで僕の趣味でおこなったことだ。 再生は容易だが、資源は有限なのだから。 だから、これを拾った貴方が自由に判断するといい。 世界にとって本当に必要なものを。
「……これだけか」 多少落胆したのは否めない。ファイル構成からして何かしらのプログラムが格納されているようだから、簡便な説明くらいは期待していた。とはいえ、気になる点はいくつかある。 「再生は容易、とは」 この肉塊からは多数のサンプルを採取できる、それはもう見るからに明らかだ。しかし生命そのものを再生できる技術など存在していなかったはず。そんなことが可能なのであれば、これほど苦労はしていないのだ。 「表向きに公開されていれば、という話か」 秘密裏にそういう技術が確立されていたのなら、いろいろと合点がいく気がする。私に課された無謀とも言える使命。海底深くに隠された倫理観度外視の命の塊。 私に仕組まれた運命をなお重たく感じ、それでも頭と指を動かす。 「マニュアルの展開にはあとどれほどかかる」 [半日ほどで] 「待っていてもいいが、そいつを学習できたところでこのプログラムのことまでは分からなそうだ」 あまり良い判断とは言えないが、私は気が急いていた。 「.exeは実行ファイル。この.iniというのは何だ? カーソルを合わせると“構成設定”と表示される」 [すみません。登録されておりません。不明です] 「仕方ないな」 私はあれこれとコンソール自体の設定に触れてみる。肉塊に繋がっているEの画面には触れないように。 「お、これなら私でも無線で接続出来るのではないか」 [接続するのですか? リスクがともなうと考えられますが] 「……私と研究所とのリンクも切ってくれ。ここまできて何もせずにはいられないよ」 [かしこまりました] 果たして接続は容易に成された。コンソール側からあれこれ要求してくるが全て放っておく。目的は、Eドライブ。 「丸ごとコピーしよう」 コンソール上で何も起動していないとはいえ、大胆なことをしていると思う。起動さえしなければ大丈夫だ。解析のために拝借しているだけ。そう言い聞かせ、私は肉塊に保存されていたデータを全て取り込んでいく。 ポッドの窓越しに肉塊と目が合った。あのときの青白い光が再び閉じていくのに気付いた。
それから私は第一検査室に閉じこもることになった。無論、セキュリティの関係上やむを得ない措置である。 データ解析の間、幾度となく肉塊に目をやった。あの目がもう一度開くのではないかと気になった。いや、あの光が眼であると限ったわけではないが、しかし、あの生命は確実に私のことを観察していると思っていた。 マニュアルを取得してある程度解析を進めると、このプログラムはあの肉塊が持っている生命としての機能を整える役割があるらしいと分かった。例のconfig.iniファイルはその機能を分かりやすく明示、選択できる役割を持っているようだった。私はためしにconfig.ini内の
Tale=2 TaleDetail=”Vulpes vulpes”
と記述された部分の第一行だけを、
Tale=1
と書き換え、その後Startup.exeを起動した。 よもやそんなことが現実に起こるまい、とどこかで思っていた。 しかし驚くべきことに、肉塊からはみるみると尻尾が生えてきた。まごうことなき、アカギツネの尻尾だった。 私は興奮して再びconfig.iniを書き換えた。
Legs_Rear=1 Legs_RearDetail=”Birgus latro”
の第一行を、
Legs_Rear=0
にして、Startup.exeを起動する。「Birgus latro」はヤシガニの学名だ。私の見立てでは表面に見えているあの甲殻類の脚部がそれに当たると思われる。また別の何かが起こるはずだ。 ところが、「二重起動は禁止されています」と返されてしまった。よく見るとEドライブのウィンドウの裏側に小さな枠が隠れるように表示されており、その枠には、
変更は正しく反映されました。 Remained resources [615%]
と書かれていた。Remained resources、残りの資源というのが気になりながらも、枠を閉じてもう一度Startup.exeを起動する。 「変更は正しく反映されました」と表示されるのは先程と同じだった。が、それに続いて
[!!組織の分離が確認されました!!] 組成部は還元されません。管理に十分気を付けてください。 Remained resources [590%]
と返ってきたのであわてて肉塊に目を移す。 プログラムの表記通り、ヤシガニの脚部が肉塊本体から剥離されたのが確認できた。 プログラムは正しく、間違いなく、目前の生命を書き換えた。 己の所業と作成者の所業に私は震え上がり、そこからの熟慮に半年を要した。
*
プログラムの解析を始めて一か月ほどでほとんど全ての挙動を掌握することが出来た。もちろん、一度も実機で試してはいない。全て私の内部でシミュレーションを行った結果だけで想定している。そうするのが必然的であり、そうしなければ致命的だったのだ。 あのパーセンテージが100を切れば、例のプログラムからの改造は一切不可能になる。そのタイミングがトリガーとなって、プログラムが自己消滅するように組んであったのだ。 ゆえに一発勝負である。だから次にSetup.exeを起動したとき、あの子の生命の形が永遠に定まるよう、一気に書き換えを行ってしまおうと思った。 当然、人間のかたちをと。 Homo sapiensのかたちにと。 私の精神は、それを強く要請した。 しかし、私の魂はまたも激しく抗った。 なぜそんな気持ちになってしまうのか、答えを見出すために残りの五か月を費やしたと言っていい。 Readmeの詩が私に呼びかけつづけていた。 世界にとって、必要なものは。 そんな大それたことを、肉塊を発見した幸運なひとりに委ねてしまう馬鹿らしさに、人の愚かさと夢の溢れる感触を得た。 私がもし、機械人形ではなかったら。本物の人間であったなら。 迷わず自分と同じ姿の仲間を作り出すのだろうか。 必ずしもそうではないことは、肉塊を生み出した詩人の狂気を見れば容易に分かる。 彼の者は私に選べと言うが、実際のところはこのReadmeの詩人が自分で「人類の別の姿」を見てみたいのだろうし、触れてみたいのだろう。プログラムの記述の端々に、私は確かにそれを感じ取っていた。 ヒトならざる人になることを、望むひとがいるのなら、私はそちらを叶えてみたいと思った。 別に、新たに生まれたそれを人類と呼んでしまえば、使命を反故にしたことにはなるまい。ただのズルだろうか? 元の人類の世界には戻らないかもしれないが、私の胸には取り戻したい人類の姿などない。何もなかったこれまでと、何かがあるかもしれないこれからがあるだけだ。 と、ここまで散々言い訳をして、全くこれは世紀の大失敗だな、とほくそ笑んだ。肩の荷が下りた気分だった。 それからconfig.iniの編集を二十日間かけて完了させた。私にとっては、こよなく享楽的なひとときであった。
*
(……ん) 島の端、今は研究所から八時の方向にある海浜地。 砂地の上で開かれたポッドから声が聞こえた気がしたが、私はちらっとそちらを見やるだけだった。ポッドは生物の組織片でまみれている。助手用ロボットがサンプル採取のためにせわしなくそこらを動き回っている。手が足りないので管理用ロボットだろうが関係なく総動員した。そのうちの一体が私に報告する。 [対象の意識が覚めたようです] 「そう」 私はおもむろに返事をした。特に警戒などはせず、ロボットたちには引き続きサンプルの保存作業を速やかに実行するよう指示した。 私の方へと歩いてくるかな。それとも、どこへともなく行ってしまうかな。 答え合わせを待つような気持ちで、私は少し離れた場所で腰を下ろしていた。 ナミキソウが久しぶりに咲いているのが見える。ささやかに群を成しているが、出航すればまた枯れていってしまうのだろう。 右後ろで砂を踏みしめる音が鳴る。私は静かに前を見ていた。 (あー。聞こえてるのかな) 「一応ね」 (おお) その生命体は驚いたようだった。それから少しの沈黙の後、こう言った。 (ふむ。……意思伝達手段に大気の発振じゃなくて、脳波信号を用いるようにしたんだね。僕ちょっと面食らっちゃったよ) 「なんだ。全然隠す気が無いんじゃないか」 薄笑いでそう言うと、彼は私の前に姿を見せた。 ヒトの骨格に、食肉目の頭部。鯨類の肌と尾ひれ。頭部から尾ひれにかけて伸びた金色のたてがみ。手足にはワニ目の形質を指定したはずだが、思ったよりも人の骨格と鯨類の肌質に寄っている。それに背が低い。二足直立の状態で百四〇センチほどだろうか。少年期の人間の佇まいだった。私が座ったままでも顔がよく見えた。Carnivoraと大雑把な指定をしたせいか、犬なのか猫なのかはっきりしない顔になってしまった。ブルーの瞳が、とてもよく目立っていた。 (イヴ・リンネ。例のプログラムの作成者だ。この度は、感謝する) 彼はそう名乗り、手を差し出した。印象通りの、若い声だった。 「トニー・アイルス。ただの探索用のアンドロイドだよ」 (アンドロイド!) イヴは目を輝かせ、握手した手をぶんぶんと振り揺らした。 (デザイナーは人間ですらなかったんだね。どおりで思い切ったことをする) 「うれしそうだな」 (そりゃあもう。実に愉快だ。センスのある者に拾われて良かった) イヴは朗らかに喋っているが、その声は私の頭部のマイクロフォンではなく、頸部の疑似神経収斂部に直接電気信号として伝わっていた。まるでハッキングを受けているようだが、まあ仕方あるまい。 イヴは意気揚々と私の隣に腰掛けた。 (聞きたいことはいろいろだけど、第一に、なぜ海洋生物なんだい?) 「それは、まあ、現状で生存可能性の高い区域が海だから、と」 (ほうほう) 「……あの、興奮しているところ悪いんだが、私からも聞きたいことが山ほどあるし、それに説明しなければならないこともたくさんある」 (ああ!) イヴは目をまんまるに広げ、それから立ち上がり、島の外を見た。 (青いな。海も、空も) 彼は腕を前に伸ばし、遠くを見て何かうっとりしているようだった。 (久しぶりだ。こんな気持ちは) 「それは……」私は彼に、そっと聞いた。「どういう、気持ちだろう」 イヴは私に笑いかけた。 (懐かしいんだ。海も大地も空も、生きている。僕のこの命もだ! ……僕の前の人生では、早々に失われてしまったものだった) ブルーの瞳が、喜びと悲しみをたたえていた。 (君もだ、アンドロイド君) 「ええ?」 (君も生きている) 返事に困る。それは、生きているように動き、生きているように考える、そんなアンドロイドの専売特許を至極大げさに褒めちぎるようなものだった。すなわち、私がやっていることは、生きているフリでしかない。 そんな私の心中を知ってか知らずか、彼はこう言う。 (気付いてないのかい? アンドロイド君、私に会ってからずっと顔がにやけているぞ) はっとして頬に手をやる。言われたとおりだった。感情値は喜びに振れている。確かに私は喜んでいた。 私は今頃になって気付いたのだった。イヴ・リンネとの出会いは、誰よりも私にとって大きな贈り物であったことに。 ひょっとしたら、私の魂はずっと孤独から逃れたがっていたのかも知れない。使命のためではなく、私ははじめから私のために生きていたのかも知れない。 「ありがとう」 感謝は自然と口をついて出た。私は初めて、ひとに笑顔を向けた。 イヴはもう一度私に手を差し出した。彼の手を握り、立ち上がる。 「私はもう、ひとりではない」 (そうか) 「ロボットたちには、悪いがね」 (あはは) 彼は明るく笑い、そしてまっすぐにこちらを見つめ、こう言った。 (おめでとう。トニー・アイルス。そして改めて、礼を言う。僕を連れ出してくれて、ありがとう) 空と海と、この島と。命が二つ、ここにある。ナミキソウの群れが揺れている。私たちは静かに、笑い合った。
*
それから私はイヴに、私のこれまでの人生と、この星の現状を一つ一つ語っていった。私の淡々とした語りにイヴは逐一、一喜一憂し、そのことは私をまたうれしくさせた。 語り終えると、私たちは互いに深く息をつき、しゃがんで海を眺めていた。 「どうしてイヴは、自らを実験台にしたのかね」 口を開いたのは私のほうからだった。 (ああ、うん。まあ、単純な話だよ。僕の人生をさ、生命の滅亡と共倒れなんかにしたくなかったんだよ。分かりやすく言えば、ちゃんと生きたかった。それだけ) 静かにそう言うイヴは、前向きな笑顔だった。 (だから、本当は放っておかれたままでもいずれは生命活動を開始できるように、保険をかけてあったんだ) 「えっ」 (ふっふっふ) 彼の笑顔が不適に変わる。 (“捕食”を感知した瞬間に、その捕食者の情報を取り込んでから僕として分化するようにしてたんだ。それでも結構な賭けだけどね。あのあたりが海に飲まれるなんて計算外だったなあ。危うく僕、赤潮になっちゃうところだったよ) 冗談めかして彼は言うが、私は肝が冷えるようだった。 (あはは、まあまあ、ちゃんと対策してあるから、本当にそんなことにはならないよ。あはは。トニーったら、おもしろい顔) 「お前なあ」 私は少しだけ腹を立てた。うれしかった。 「でももし実際にそのパターンだったとしたら、君はデザインされずに、ただの獣として生きていくことにならないか」 (うん。まあ、そのときはそのときさ。それでもいいって思ってたから) 波の寄せる音が、大きく聞こえた。 (それにしても、カンブリア紀かあ。さすがに参ったね) 「……ああ。残念だが、長期的に君が生き延びられる保証はない。現状では……」 私はそう言って、イヴが入っていたポッドのほうを見やる。その方向からちょうど管理ロボットが近づいてきたところだった。 [トニー殿。対象から発生した全サンプルの採取作業が完了しました。保存処理についてはまた逐一報告致します] (えらいねえ。人のためによく働くロボットたちだ。ねえトニー、こんな感じだから、多分なんとかなるんじゃないかな) イヴは明るくそう言った。 「イヴ。本当に遺伝子からの再生なんて可能なのか」 (当たり前さ。そんな技術、霞んじゃうほどもっととんでもないもの、トニー君は目の当たりにしてたんじゃないですかねえ) イヴが自慢気にそう語る。本当にその通りなので、ぐうの音も出なかった。 (ただ、このままでは資源が乏しいのは課題かな。いろいろ集めないと。そうそうトニー、この島動くんでしょ? 早速出航しようよ!) 旅! 旅! 冒険! 冒険! そう言って腕を振り回すイヴは、本当に少年のようだった。 「イヴ。そのことなんだが」 私は彼を諭すように語りかけた。 (どうしたの。トニー) 「ほんの数週間だけだ。私は一人で、海に潜ろうと思う」 (えっ) 彼は不安そうに私を見つめる。そのような感情を人に向けられるのは、初めてだった。不謹慎ながら、うれしかった。 「さっき話したとおり、君のプログラムのコピーは私の保存領域の中にある。これを使って、……私も、イヴと同じようになりたいと思った」 イヴは、黙って私の話を聞いていた。 「しかし、材料が足りなすぎる。タンパク質から、何から何まで。だから、……大切なサンプルをそんなことに使うわけにはいかないから、だから……研究所は一旦君に譲る。ちょうどロボットもいる。この場で全権を君に与えよう。そうしたら私はこの広い海から目一杯生命活動に必要なものをかき集めてきて、それから同じようにデザインをすれば、プログラムを起動すれば、それで」
「バカ!」
……え? いま、彼の口から、はっきりと……。 (なに言ってんのさ、なに考えてんのさトニー) いらだつようにイヴが言う。しかし、私に伝わるそれは電気信号に戻った。気のせいか……? 「……ああそうさ。馬鹿げた考えだろう。機械の体の私が本当の生命になんてなろうはずもない。しかし、私は」 (違う、そういうこと言ってるんじゃない) イヴがまっすぐ私を見て、言った。 (トニーが言ってること全部、全部、君は僕と一緒に行けば良いじゃないか……!) 空が、開けたような心地だった。 そうか。ああ。そうだったんだ。 (君は孤独に慣れすぎだよ、トニー。ここには僕がいる。君の望みを、二人で叶えられる) いま、私の胸にあるこの感情こそが、生命を繋ぐただひとつの宝だったのだ。 膝から崩れ落ちる私を、イヴはやさしく包んでくれた。 「ありがとう……ありがとう……!」 溢れ出す感情を、この両目から押し流してしまいたい。 私は強く、強く、イヴを抱きしめた。 (さっきも言っただろ。当たり前さ。僕にかかればなんてことない。だから)
二人で、あの大海原へ飛び出そう。