「はぁ……」  深いため息をついた少女が、森の奥に響く。野生のイノシシやら猿が出るからと、子供は一人で立ち入ってはいけないと言われている森の奥。蚊も虫も多くて、歩けば草や葉っぱに肌を引っかかれるため、好んで立ち入る人なんて誰一人いなかった。そんな場所にどうして子供が立ち入っているのかといえば、彼女は同年代の子供達から煙たがられているから、遊び相手がいないからである。と、いうのも、やれ幽霊が見えるだの、嫌な雰囲気がするだの、彼女はそんなことを事あるごとに言うものだから。同じ女子からは怖がられ気味わるがられるし、男子からは馬鹿にされる。  学校には居場所がなくて、遊べる友達はいない。彼女が住んでいる場所は田舎なもので、友達と遊ぶことが出来なければ遊ぶ場所なんて全くない。だから、彼女が出来ることなんて探検くらいなものなのだけれど、その探検も安全なところは大抵行きつくしてしまった。だから、集落から離れた場所にある、ほとんど人が踏み入ることのない場所へ探検するしかやることがないのである。  しかしながらせっかく探検に訪れた場所は、あまりにも背の高い草に覆われすぎて先が全く見えない。彼女の第六感は、この先にある何かの気配を捉えているのだが、森の中を分け入っても分け入っても獣道だけ。目指す先にある謎の気配にたどり着くまでの道があるかどうかも定かではない。大人の身長よりも高い草が生い茂っているうえ、蚊がひっきりなしに来て、ダメ押しで薄く鋭い草が足の皮膚を容赦なく切りつけていくわで、痛痒さに涙目になりそうだ。こういうところは、例え暑くても長袖長ズボンが基本。そんなことに思い至るにも、彼女はまだ幼い年齢であった。  もう帰りたいとすら考え始めたころ、彼女の前に突然開けた空間が顔を出した。そこは泉……というよりは、沼のほとりに小さな社(やしろ)が建てられている空間であった。地面には隙間なく砂利が敷き詰められているおかげか、草はあまり生えておらず、背の低い草がぽつぽつと顔を覗かせているくらい。ここもあまり手入れをされているわけではないので、蔦草が勢力を伸ばそうと侵入してきてはいるものの、足をとられるほどではなかった。ようやく歩きやすくなった広い道にほっと胸をなでおろしながら、彼女は何かの気配がする社のほうへと歩いていく。  悪い気配ではない。いい気配ともいえないが、少なくともむやみやたらと危害を加えるような存在でないことは経験上なんとなくわかる。 「なんだこのガキは? 危ねえじゃねえか、一人でこんなところに」  ワクワクしながら社へ向かっていると、その方向から独り言のような声が聞こえて、彼女はぱっと顔を明るくした。 「いた!」 「なんだぁ? カブトムシでもいたか!? ったく、ガキはこれだから危なっかしくて仕方ねぇ……虫取るためにこんな場所まで来るなっつーの」  声の主はまだ独り言を言っている。自分が気付かれていることに気づいていないのだ、無理もない。 「カラスさん、こんにちは!」  彼女の視線の先にはカラスがいた。カラスとはいっても少し小さく、ハトほどの大きさしかない。全身が真っ黒、足も目も翼も真っ黒。しかし、ふさふさの羽毛触り心地も悪くなさそうだ。 「……え? すまんが、俺のこと、見えてるのか?」 「見えてるよ!」  そう言って駆け寄ってくる子供に、カラスと呼ばれた声の主は酷くうろたえた。間違いなくこちらを見ながら、まっすぐに向かってくる子供。科学が発展して、人類が見えないモノへの敬意を忘れてからというもの、こんなに見えざる者がはっきり見える子供は絶滅危惧種のようなものだ。 「でも、こんなにはっきり見えるのは初めてかな……みんな煙みたいな感じにしか見えないのに、カラスさんははっきり見えるよ」 「むぅ……」  最近は長い間独り言しか喋ってこなかったカラスは言葉に詰まってしまう。久しぶりに会話ができる相手と出会えたのだ、何か気の利いた言葉の一つでもかけたいところだが、突然すぎて何を語ればいいのか何も思い浮かばない。 「あれー、もしかして緊張してるのかな? でも喋られるみたいだし……えっとね、私は宮下 アカネ。カラスさんのお名前は?」 「うぅむ……俺はカラスじゃない。ヤタガラスだ。ほら、足が三本あるだろ?」 「え!? 本当だ! すごい、どうなってるのこれ?」  アカネはさっと手を伸ばす。当然触れないのだが、あまりに不躾なその動きに思わずヤタガラスは飛びのき、そのまま社の上まで退避する。社の高さは大人の男性の背丈ほど。まだ小さなアカネには手伸ばしても届かない高さだ。 「何しやがるこのガキ……気安く触るんじゃねえよ!?」 「あー、ごめん。触られるの、嫌だった?」 「嫌も何もねぇ! お前の母さんは触らぬ神に祟りなしって言葉も教えてくれてねえのか! 全く、躾のなってない奴だ」 「うぅ、ごめんなさい……その、はっきり見える妖怪さんがとっても珍しくって……」 「俺は妖怪じゃねえ、一応神の一種だ!」  アカネはヤタガラスに怒られてしゅんとして小さくなる。謝っているアカネではあるが、結局何が悪かったのかは分かっていない。ヤタガラスも、アカネがきちんと理解して謝っているわけではないことを理解していて、とりあえず気軽に触ってこないようになってくれればいいや、とため息をついた。 「そもそも、こんなとこに一人でやってきて、お前本当に危ないぞ? こんなところで死なれたら迷惑なんだから、とっとと家に帰れ」 「はぁい……」  まだお話しをしていたかったアカネだけれど、どうやら相手は機嫌が悪い。今は話しかけないほうがいいだろう、と彼女も理解し、その日はおとなしく帰ることにする。意外にも聞き分けのいい彼女を見て、ヤタガラスは安心したのか彼女の帰宅を見守る事にした。意気消沈してとぼとぼと帰る足取りは重かったが、しかしきっちりと家のほうへと向かっているので問題はないだろう。アカネが集落が見えるところまで行きついたあたりでヤタガラスは見守るのをやめて、自分の住処である社へと帰っていった。

 おとなしく帰っていった、彼女だが、一週間後にはまた来てしまった。 「なんで来たお前!?」 「えっと、色々調べてきたの! すごいね、ヤタガラスって、神様の使いで、ずっと昔の天皇を道案内した事もあるとかって!」 「お前質問に答えてないだろ!」  全く、子供というのはこれだから困るとヤタガラスは声を上げる。子供は自分の話したいことばかりで、支離滅裂。もちろんアカネと同じ年齢でも聡明な子供もいるのだろうが、どうやら彼女はそうじゃないようで、相手に合わせて話すということが難しいようだ。それは、彼女が学校で仲間外れにされて、話をする経験が少ないということにも起因しているのであろうが。 「えーと、質問って何?」 「聞いていないのかお前……なんでここに来たのかってことだ。全く、お参りに来たんじゃなければ構うのも面倒なんだ。ほら、帰った帰った!」 「えー、じゃあお参りすれば帰らなくていいの!?」 「あー……お前、お参りの意味わかってるのか?」 「わかんない!」  どうにも、このアカネという少女はヤタガラスと話をしたくて仕方がないようだ。ヤタガラスとしては構うのも面倒だが、これはいくら追い払っても帰ってはくれないだろう。ヤタガラスにはもはや、祟りを与える力すら残っていないので、強引に追い払うこともできない。 「……まぁ、なんだ。俺達のような、普通の人には見えない存在は、誰かに感謝されたり、尊敬されたり、怖がられたり、そういう風な気持ちを向けてもらうと、体が元気になるんだ。だから、お前が俺のことを尊敬してくれたり、ありがとうって思ってくれるなら……まぁ、元気になるから、構ってやらんでもないと、そういうことだ」 「わかった! ありがとう! 私、見えない人とたくさんお話してみたかったんだよね」 「そ、そうか……俺はそれでいいが、お前、いずれ変なのに取り憑かれて死ぬぞ……? 俺達みたいに見えない存在に話しかけてばっかりいると、そういう奴を狙う悪い妖怪やらお化けやらが狙ってくるんだからな?」  無邪気なのはいいことだが、強い好奇心は時に大きなトラブルを産むことにもなりかねない。このアカネという少女はいつかそうなりそうな危なっかしい感じで、ヤタガラスは呆れてしまう。 「じゃあ、もう私は来ないほうがいいの?」 「うーん……そりゃ、お前。俺だってお前みたいな子供に死なれたら目覚めが悪いからな? だから、お祈りに来てくれるのは嬉しいが……やっぱり、見えないモノに関わるのは良くない。今の俺じゃお前に悪霊が憑いていても、追い払うことはできないからな?」 「そっか。あ、でも、ヤタガラスさん、元気がないんだよね? 元気が出たらそのお祓い? ってできるんでしょ? よくわからないけれど、悪い妖怪を退治できるんでしょ?」 「そりゃまあ元気になれば……あぁもう、好きにしろ。どうせ俺ではお前を止められん」  やると決めた子供を止めるのは、物理的な力でもないと無理だと悟ったヤタガラスは、アカネを止めるのをあきらめる。怒鳴るのは苦手だし、怒鳴ったところでこいつは来そうな気がする。 「だが、もっと人里に近いところにも社とかあるだろう? なぜわざわざこんなところに来る?」 「だって目立つような神社は皆の遊び場だし、他のところも誰かしらよく来るから……それで、わたしを見ると皆が馬鹿にするから、こういう誰も来ないところがいいんだもん。ここならだれにも邪魔されないし!」 「なるほど……そりゃ、今みたいに俺と話してたら同級生も気味悪がるだろうし、仕方ないだろうな」  ヤタガラスは納得し、この少女に自分しか話し相手がいないのも仕方ないと納得する。翼を広げてやれやれと首を振る仕草は、人間の仕草を大袈裟にまねたようなものだった。 「そういえば、ヤタガラスさんはここで一人なの?」 「まあな……一応、この社の手入れをしてくれる者もいるが、月に一度か二度来るくらいでな。だもんで、今は調子が悪い。体が重くて仕方がない……本当はお前と話すのもしんどいくらいなんだ」 「一人ぼっちなんだ。それじゃ、私と同じだね」  アカネはそう言って笑顔になる。 「同じなものか。一人ぼっちになる経緯も全く違うだろうに……まあいい。お参りに来る奴がいないもんで、今はすっかり俺の力も弱くなっちまった……第二次世界大戦の頃にこの社は作られたんだが、その頃は子供たちが疎開して毎日のようにお参りをしてきてくれたから何とかなったが……」 「疎開って何?」 「そこから説明か……」  まだ小学校低学年のアカネには、戦争の話はまだ難しいらしい。とりあえず、危険な空爆から子供たちを守るために、田舎の僻地へと避難させたのが疎開というものだと教えると、どこまで理解したのか大変だったねと頷いていた。 「まぁ、俺も戦争を見たわけじゃないんだ。なんせ、戦争なんてのはこの山の向こうの話だったからなぁ。毎日、神頼みに来る人達の言葉を聞いて、有利な戦況と政府に嘘を伝えられていたのを知ってるくらいだ」 「ふーん……そう言えばここ、何もないもんね。テレビも電話も。だから、お参りに来た人から話を聞くしかないんだね」 「そうそう。だから俺も今日本に何が起きているか、全く分からないんだ……だが、テレビは知ってるぞ! 今はカラーのものが出たんだってな?」 「なにそれ、いつの話? 私が生まれた頃からカラーテレビがあったのに」 「……世間ではもう、カラーテレビってそんな認識なのか」 「ヤタガラスさん、世間知らずなんだね! じゃあ、私がお祈りだけじゃなくて、最近の日本の様子とか教えてあげる」 「構わん構わん。どうせ知ったところで、俺はそれを見ることも触れることもできないんだ」  ヤタガラスはそう言ってアカネの提案を断る……のだが、彼女はそんなこと気にしちゃいないのだ。

 それからというもの、彼女は会うたびに世間のお話をする。最初こそ、いつかいなくなるだろうから期待はしないと思っていたヤタガラスだが、寒くても暑くても、雨の日でもお参りに来るものだから、彼女のお祈りの気持ちを食べたおかげで日に日に調子が良くなっていく。どうせぬか喜びになるだけだと考えていたヤタガラスは、意外にも長続きしたその関係に困惑しつつも悪くないと思い始めていた。だからなのだろう、彼なりにお節介も焼くようになっていくのだ。 「なぁ、アカネ。今日は崖際に住んでいる奴には全員避難するように言っておけ」 「……どうして?」 「お前が毎日来ているおかげで、俺の力もほんの僅かだけ戻ってきたんだ。お前天気予報を見ているんだろ? ほら、台風が近づいているって流れているはずだが……で、台風が来るのはもちろんだけれど……ちょっと、地震も来るかもしれない。地震と台風が同時に来たらまずい」 「えー、すごいじゃん! 予言できるようになったの?」 「正確じゃないぞ? 地震が台風と同時に来るか、前に来るか後に来るかもわからないんだ……うーん、だが、万が一ということもあるだろう?」 「そっか。まぁ、確かに悪いことって重なるからね……でも、信じてくれるかな?」 「そこまではわからない。俺にそんな予言の力があるわけじゃないからな。わかるのは、地震が近いうちに起こることと、台風が来ることだ。重ならないといいがな」  自信なさげにヤタガラスがいう。 「そっか……ねぇ、ところでさ。ヤタガラスって、本当はすごい神様だよね? 確か、奈良県に大きな神社があるとか。その、言いたくなかったらいいんだけれど、どうしてこんなところにいるの?」 「うーん……俺は、挿し木みたいなもんだから」 「挿し木?」  ヤタガラスの思わぬ言葉にアカネは首をかしげる。 「あぁ。木の枝なんかを切り取って、それを地面に差すことで新しい木になるっていう木の増やし方でな。ほら、桜に、ソメイヨシノなんてのがあるだろ? あの桜はそうやって挿し木でしか増やせないんだ。俺はつまり、この社が建てられた後にだな。本家本元の八咫烏が体の一部を、挿し木のようにここに残していって生まれたんだ。最低限の知識や記憶と能力を残してな」 「じゃあ、本物より弱いってこと?」 「気にしていることをずけずけというな……」  アカネの直球な物言いに、ヤタガラスは大きくため息をつく。 「本家本物の八咫烏より弱いのは確かでも、きちんと崇め讃えてもらえれば、理論上は本家本元よりも強くなることだってできるし、独立した存在になれる。例えば……群馬県と長野県の境にも俺と同じ八咫烏が祀られているんだが、ここと違ってちゃんとした神社でな……ちゃんと参拝客も来るんだ。だから、俺よりは立派な姿をしているらしい。  対して俺は、祀られている場所がこんな山奥の田舎町だ……観光客の多い場所ならともかく、こんな場所じゃあな……。昔は忘れたころに本家本元のヤタガラスが俺の元に来てくれて、俺に体験したことを教えてくれたり、逆に俺が見聞きしたものを回収していってくれたんだけれど……どうやら、こんなみすぼらしい姿になってしまった俺には、本家本元も興味がなくなっているらしい。全く、本家本元は俺の親の癖に薄情者だ」  ヤタガラスは愚痴を言いながら自嘲気味に笑う。 「確かに、ウチの町って誰も訪れる人なんていないしね……あ……ひゃぁ!?」  会話の途中で、地面が徐々に揺れたかと思うと、激しく震動しだす。震度4くらいといったところだろうか、もしも台風で地面が緩んだ時にこの地震が来ていたら、崖崩れや土砂崩れのトドメの一押しになっていたかもしれない。しかし、室内ならば恐怖を覚えたかもしれないが、野外なので大して音が鳴ることもない。アカネは落ち着いた様子で揺れが収まるのを待ち、そして…… 「地震、来ちゃったね」  そう言って笑う。 「これなら台風が来ても大丈夫かもなぁ……まぁ、何事も無いならいいんだ」  二人は気の抜けた様子で笑いあうのであった。台風も通過したのだが、その日は土砂崩れが起こることもなく、大きな損壊はなく過ぎていった。

「本当に行っちまうのか?」 「ごめんね……」  数年後、アカネは街を出ることに決めていた。アカネはヤタガラスと知り合ってからというもの、ますます一人の殻に閉じこもった結果、友達は一人もおらず、そのうえヤタガラスの予言のおかげでさらに気味悪がられた。あれから、ヤタガラスの予言は何度か当たった。だけれど、アカネの予言を信じなかった人が事故にあって死んだりした。彼女の言葉を信じて避難していればそういう目に合わなかったというのに、あろうことか予言された者は『お前がもっと強く警告していれば死ななかったのに!』と、彼女を非難する始末。  そして、悪いことにヤタガラスの予言は当たらない時も多い。空振りが多く、避難が徒労に終わることもあるという中途半端さがまた厄介であった。  この町は狭い。当時、インターネットどころかテレビゲームすらほとんどなく、周囲の人はほとんどが顔見知り。そんな町で一人だけ仲間外れのような状況では、暮らしづらかったのだ。

 そうして、田舎を逃げるように都会に上京した彼女だが、田舎では仕事に役立つ資格を取ることも出来なかったために水商売に入ることになった。当時の彼女はまだ18歳だったが、そのころは色々と緩かったこともあって水商売に付いて酒を飲んでは男たちの相手をした。最初こそ客を取るのに苦労したアカネだったが、仕事に慣れてくると、田舎出身の女の子という強みを生かし、『何も知らない田舎娘』を装うことで『都会のことを教えたい男』に対して根強い人気を獲得していた。バブル景気の強い追い風もあって、大金を稼いだ彼女だったが、さしたる趣味もないため、せっせと貯金しては、時折故郷に帰ってヤタガラスと話をするのであった。 「80万円!? お前、一日でそんなに金を儲けたのか……でも、そんなに金を稼いで何かに使うとかしないのか? もっとかわいい服でも買えばいいじゃないか。見た目がここを出ていった時とそんなに変わってないぞ!?」 「可愛い服とか派手な化粧品はもっているけれど、この街で着たとしても浮いちゃうよ……東京では着てる。でね、私、余ったお金でここの土地を買おうと思ってるの」 「は?」 「東京ではね、株と土地は買っておけば必ず値段が上がるって、みんな買ってるんだよ。まぁ、こんな田舎じゃ買っても値上がりはしないかもしれないんだけれど、役所の人に聞いたら……ここの土地、誰のものでもないんだってさ。だったら、誰かに買われる前にここの土地を買って、私が社を守ろうかな、なんて考えてるの。どうかな、ヤタガラス?」 「そりゃ、この社を守ってくれるならありがたいが……」 「じゃあ、決まりだね」 「だが……仕事は辛くないのか? そんなに稼げる仕事ってことは……なんかこう、体に無理がかかるんじゃ? お前、酒とたばこ臭いし……俺のために無理し過ぎるなよ?」 「大丈夫。お酒は飲み始めたら大好きになっちゃったし、たばこももう慣れちゃったし。あー、でも、夜のお仕事だからちょっと健康に悪いかもしれないからさ……将来も安泰なくらいに沢山お金稼いだらさ。そしたらこの街に戻ってくるのもいいかなって思ってるの。お父さんもお母さんも、私が水商売してるのがあんまり気に入らないみたいで、早いところ結婚しろって言ってきてさ、お見合いの話も持ってきてるんだよね……強引に結婚相手を極められる前に、稼げるだけ稼いでさ」 「こっちに帰ってきたら、また以前のようにお参りしてくれるのか?」 「うん、それがいいかなって思ってる」 「楽しみにしてるぞ。だが、健康にいい暮らしじゃなさそうだし、……体壊すんじゃないぞ?」 「うん、心配してくれてありがとう」  ヤタガラスに期待されて、アカネはやってやるぞと気合を入れる。土地はすぐに手続きをして購入した。誰も気にしないような辺境の土地を私有地にし、社を守るだなんて奇異な眼で見られたが、いつものことなのでアカネは気にしなかった。

 そんな彼女に転機が訪れたのは、バブル経済とスキーブームの高まりにより、生まれ故郷付近にあるスキー場だけでは客が捌ききれなくなった時だ。スキー場は規模を広げるべく、彼女の故郷まで温泉街とスキー場が拡大され、別荘も次々建てられる計画が進行しているという知らせであった。地元の経済は豊かになるだろうと町は沸いており、アカネもそのころにはさらに大金を貯金していたのだが、さらに大金を得るチャンスが来たのだ。  なんと、彼女が所有する土地が、なんでもホテルを立てる候補地になるということで、彼女の実家には大きな会社のお偉いさんが押し掛けてきたのである。買ったときに200万円だった土地を、『10倍以上の大金をつぎ込んででもこの土地を買いたい』とのことだ。対応した両親によれば、話をしに来たお偉いさんは、高圧的な態度だったとのことで、断れば強引な手段も辞さない雰囲気を感じたそうだ。そんな状況なので両親だけに任せるわけにもいかず、アカネは急遽予定のない里帰りをするのであった。  東京では地上げ屋なんてものが活躍しているらしい。そんなものテレビでしか見たことはないが、もしも家にそんなのが来たら怖いなんてもんじゃない。 「どうすんだよ? 俺の社、このままじゃ取り壊されるぞ!?」  里帰りしたアカネは、まずヤタガラスと相談を始める。 「ま、まぁまぁ慌てないで……そのために私も土地を買っておいたんだから。それでさ、東京にはね、デパートの屋上に社があるところがあったの……そこの神様、割と喜んでたね」 「え? へ? ……ほう」  アカネの発言にヤタガラスは疑問符を浮かべる。デパートというものがどんなものかよくわからず、しかしそのために話の腰を折るのもなんなので、疑問はおいておいて続けさせる。 「なんでも、立派なデパートの屋上に社が建てられたおかげで、参拝客も多くなるし、眺めも良くなったって、そこの神様は言ってた。で、ヤタガラスもどうかな? 屋上か、もしくは一階のロビーに社を建て直してもらえれば……むしろ今より住み心地もいいんじゃない? スキー場ってさ、カップルで来たりとか、恋人を探すために来る人も多いんだって。ヤタガラスの加護があるとかって言っておけば、占いとか神頼みとか、そういうのが好きな女性客が参拝してくれるかも」 「うーむ……まぁ、そこにある石像さえきちんと保管してくれるならそれでいいが……それを壊されると俺はまずいことになる」  そう言ってヤタガラスは、自分の姿を模した石像を翼で指し示す。 「わかった。じゃあ、石像を一旦近くに保管して、社をホテルのどこかしらに再建させる。その条件でいいなら、ホテルの業者に安値で譲る……そうでないなら譲らないって条件で交渉してみる」 「ついでに、『八咫烏が祭られているから恋の願いが叶う』とか言って集客効果も見込めるって言っておけ」 「うん、言っておく!」  そして、話はうまくいった。アカネは200万円で買った土地が1000万円に化けた。そうして建てられたホテルには、一階ロビーにあるお土産屋の隣に社が建てられた。  その案内板にはこう書かれている……『この社は、第二次世界大戦当時に、戦勝祈願の一環として建てられたもので、当時は疎開した子供や地元住民が毎日のようにお参りし、地元住民愛された場所でした』、と。  案内板のうち、第二次世界大戦中に戦勝祈願として建てられた事は本当だが、現地住民に愛されていたということはちょっと微妙なところである。本当は、戦争が終わってからは見向きもされなくなったから、ヤタガラスがあれほどみすぼらしくなっているのだ。  しかしながら、ホテルの中に社が立ったことで、大きく状況は変わった。室内なので雪が降ることもないし嵐も来ない。そして、この町は温泉も湧くためスキーシーズンでなくとも年中客が来る。カップルや、恋に恋する男女が恋愛祈願のために沢山訪れ、天皇陛下を導いたということから商売繁盛への祈願等に訪れる起業家もきた。そのおかげでヤタガラスはたくさんのお祈りを受け取り、第二次世界大戦のころよりも力が強く、元気を取り戻していた。  力を取り戻すに従い、彼の体は巨大化していた。翼を広げればカモメやトンビほどの大きさはあるだろうか、羽ばたくよりも滑空で飛ぶのが得意そうな立派な巨体となっている。

 アカネは東京から故郷に出戻ると、そのホテルの従業員として働くようになった。そして、両親が持ってきたお見合い相手と結婚した。観光業が潤ったおかげもあり、町には大量の雇用が生まれたために様々な人が流入した。そのおかげで、周囲のみんなが顔見知りということもなくなり、彼女が小さいころから見えないモノが見えるとかいう奇異な噂もいつの間にかされなくなっていった。アカネには子供も生まれ、専業主婦となってもホテルにはよくお参りに行った。ヤタガラスは満たされていたが、長くは続かない。  1992年にバブルが崩壊してから、徐々にスキー客の現象が起こっていく。経済的な理由はもちろんだが、テレビゲームが台頭し始めた事も大きいのだろう。様々な娯楽が増え、スキーという趣味はだんだんと廃れていき、駅から近いスキー場以外は客の確保に苦労するようになる。従業員も少しずつ減ってきたころ、アカネは33歳となって、二人いる子供も小学生になっていた。 「お客さん、少ないね」  お参りに来たアカネはホテルの外で苦笑する。ヤタガラスは元気になったおかげか、ご神体である石像から少しばかり離れても大丈夫になった。そのため、奇異な目で見られないためにも人目の少ない場所までアカネとともに移動してから会話をする。 「それでも、誰もお参りが来ない時よりずっと元気なんだがな。それに、好んで新幹線から遠いここに来るようなスキー客は、案外みんな元気だぞ? なんせ他の客が少ないから、雪が踏み固められてなくて滑りやすくて楽しいってな」 「そっか、確かにスキーって時間が経つと、みんなが滑ってベタ雪になっちゃうから……そういう需要がある限りは、大丈夫なのかなぁ」 「お前のほうはどうなんだ?」 「旦那は相変わらず男友達と酒とたばこで麻雀ばっかりだよ。子供のことなんか興味ないみたい。全く、あいつが欲しがったから子供を作ったっていうのに、勝手だよね。まぁ、お金は家に入れてくれるから、我慢してる」 「すまねえなぁ。俺に、人を見る目があれば。子供を放っておくだなんて、俺の親と同じだな」 「確かに、同じだね……私達似た者同士かもね。っていうかさ、恋愛成就、あんまりご利益なかったかもね」 「本当なぁ。良くも悪くもやべぇ奴はわかるんだが、普通やそれ以下のやつはわからねえんだ。どんぐりの背比べになっちまう。まぁ、でも……お前はお金はあるんだろ? なら、大丈夫だろ。そのお金を使って、いい塾にでも行かせて、子供を幸せにしてやれよ」 「うん」  スキーの客が少なくなっても、二人の関係は良好だった。

 だが、日本経済も町の状況も好転しない日々が続いていく。スキーブームはさらに衰退し、それに比例するように町も緩やかに衰退していく。周りのホテルは少しずつ閉鎖され、周囲の店も少しずつシャッターが閉まっていく。アカネが45歳になるころには、子供は成人し、それぞれ別の地へと旅立って行った。子供が高校生になってからは、アカネもホテルに復職しており、ヤタガラスが祀られているホテルは何とか生き残っていたが、4号館まであったホテルは1号館と2号館を残して営業を縮小していた。それでもまだ、存続していたホテルにとどめを刺したのは、新型コロナウイルスだろう。  アカネが52歳になった年は、感染を避けるために旅行する人が敵視され、当然のことながらスキー客も激減。ついに、街はごく一部を残してシャッター街になってしまう。その頃には、アカネの両親は老人ホームに入っていた。アカネのアカネはオーナーに頼み込んで、ホテルの社からご神体の石像を持ち出した。そして、業者に頼んで家の庭に小さな社を経てて、ヤタガラスをかくまうようにそばに置いていた。 「すっかり、みすぼらしくなっちゃったね。これはこれで、可愛いんだけれどさ」 「そのかわいいって言葉は時に人を傷つける凶器になるから気をつけろよ……」  ヤタガラスはアカネが小学生のころ、毎日のようにお参りに行っていたあの頃のサイズへと戻っていた。 「まぁ、なんだ。俺のあの姿も、バブル経済みたいなものだったんだぁ……あの頃の調子の良さがずっと続くだなんて思っていたが、こうなってしまうと……もうお前が死んでしまったら、どうなるかもわからんな。お前がいなくなれば、地元の人間がこの社を手入れしてくれるなんてのも期待できないし。はー……俺も小さい社じゃなく、神社たててもらいてぇ」 「えー……そこまでのお金はないよ。でもそうだね……私はまだ10年以上は生きられると思うけれど、どうしよっか? それまでに何とかしないとね」 「どうにもならねえさ。でもまぁ、いいんじゃないのか? 俺は分身、誰も祈るものがいなくなって俺が消えたところで本家本元はびくともしねえだろ。ならさ、お前が死ぬまで俺は傍にいるよ。離婚して独り身じゃあ寂しいだろうけれど、俺がいれば大丈夫だろ?」 「そうだね。でも、まだまだ寂しい老後生活と決まったわけじゃないよ? 駅の近くにまだ生き残ってる料理店があってさ。私、そこで働けることになってるんだよね。そこで、新しい恋でも探すかぁ」 「お、マジか!? その意気だ、今度こそいい男を見つけろよ!」  そうして、アカネは遠くからくるお客さん、地元の常連さん、様々な人と話しながら、夫も子供もいない生活の寂しさを埋めていく。家に帰っても一人じゃないのはありがたかった。夜はぬいぐるみのようにご神体を抱え、もはや人生の伴侶ともいえるヤタガラスとの会話を楽しむ。そんな生活が一年続いたある日のこと。

「どうだった?」  ヤタガラスは、アカネの体内から邪気のようなものが漏れているのを感じていた。その原因を探って病院に検査に行ったのが今日のこと。 「肝臓癌だった……まずいね、発見が遅れちゃったね。体中に転移して、もうどうにもできない状態だって」 「余命は?」 「半年だとか言われちゃったよ。気付かないもんだねー……はぁ。あれかな、観光客と一緒に、沢山タバコ吸ってたからなぁ……それとも若い時のお酒のせいかねー? 子供に影響が出なかったのがマジで奇跡だよね、今思うと」  いつも明るい彼女だったが、この時ばかりは元気がない。その割には、どこか余裕のあるような、達観した感じであるが。 「くそ……本当に俺の予知能力は錆びついちまったな……」 「いいよ、別に。私のお祈りが足りなかったんだから……私がもっとお祈りしてれば、ヤタガラスももっと元気だったんでしょ? しかし、アレだね。孫の顔も見れたことだし、もうそろそろ遺産整理をしておかないとね。まだ両親が生きているのに死んじゃうのは、ちょっと親不孝で申し訳ないわ」 「アカネ……強がってるのかお前? 少し元気がなさそうだけれど、あんまり悲しそうじゃないな」 「まあね……そりゃ死ぬのは寂しいけれど、人生でやりたいことは大体やりつくしたから。逆に、ヤタガラスはどうなの? 私が死んだら、消えちゃうんじゃないの?」 「まぁ、消えるだろうな。消えたくないって気持ちが強ければ、生きることもできるだろうが……俺にはそこまで生きようっていう執念もないからな。俺が俺のままでいるためには……誰かからもらったお祈りの気持ちを食べるしかないからまぁ、消えちまうんだろうな」 「そっかぁ……じゃあ、私がいなくなったらヤタガラスも消えちゃうんだね。そういえば、私も死んだら消えちゃうの?」 「多分消えるよ。ただの人間じゃ、死んだ直後は意識がはっきりしているだろうけれど、すぐに意識も曖昧になって自分が何者であるかもわからなくなる。よっぽど強い未練でもあれば別だがな……憎しみとか。まぁ、憎しみで存在を保ってるやつは、怨霊とか悪霊って呼ばれるようになるんだけれど」 「えー……私は憎しみとか未練とかそんなもの無いよ? 割とこの世に思い残すことないもん」  言いながら、アカネは触れられない彼の代わりにご神体を撫でながら、彼に微笑む。 「ねぇ、ヤタガラス……もしよければさ、故郷に行ってみない? いや、故郷なのかどうかはわからないけれどさ、奈良県に、あるんでしょ? 八咫烏を祀る神社。こんな寂れた街と違って、奈良県はほら、観光客も多いし。そこなら本家本元の八咫烏もいるかもしれないし。そしたら、あなたもその本家本元? と一つになれるんじゃないかな? ほら、いつだったか自分は挿し木のようなものだって言っていたけれどさ。植物にはこう、別々の木を一つにまとめる接ぎ木っていうのもあるでしょ? あなたも、本家本元の一部になれば……形は違うけれど生き続けることもできるんじゃない?」 「……まぁ、出来なくもないが。お前は寂しくないのか? もうすぐ死ぬんなら、俺も最後まで付き合うぞ」 「どうかなー……でも、私が死ぬまで寄り添ってもらってたら、あなたが奈良に帰れないし」 「やめとけよ。俺は十分生きた……まぁ、生身が存在しな人生だったが。いや、人でもないか。お前のおかげで俺の人生も潤ったし、俺はお前とともに消えるのなら悪くない 「ううん、その気持ちは嬉しいけれど……あ、そうだ。私が死んだら、子供への遺言にご神体を奈良まで持って行ってもらえるように頼むとかどうかな?」 「あぁ、アリだな。それなら俺もお前も満足いくアイデアかもしれん」 「じゃ、それで! 私の子供はどっちも、クソ旦那はともかく私の頼みなら聞いてくれるはずだし。遺産を渡す条件を奈良旅行にすれば……」 「いいんじゃないのか?」 「じゃあ、そうしようか。でも、アレだよね……本家本元の記憶を貰ったり、自分の記憶を本家本元に与えるって、どんな感じなんだろ?」 「言葉じゃ言い表せないな。なんかもう、知らないはずのことを知った気分になれるんだ。人間には体験できない感覚かもな」 「羨ましー! それがあればテスト楽勝だったじゃん」 「そうかぁ? まぁ、勉強しないでも勉強した風に物事がわかるとしたら、まぁ、勉強嫌いにはいいかもな」 「そうだよ! 学生時代にそれやりたかった!」 「神の力をそんな風に使うな! 全く罰当たりな奴だ」  余命を宣告されてからも二人は仲良く笑いあう。そしてそれは、アカネが命尽きるまで変わることはなかった。

 数か月後、病院の一室にて、モルヒネを注射されて癌の苦痛を和らげながら、アカネは眠るように死んでいった。病室にはご神体を持ち込まれており、ヤタガラスは彼女と死ぬまで一緒に寄り添っていた。そして、死んでからも。死んで霊体となったアカネは、病室を漂いながら、ご神体の傍に鎮座していたヤタガラスに手を伸ばす。 「うわ、やっと触れた……すごい、羽毛がふさふさ……フクロウカフェでフクロウを触ったことはあるけれど、カラスは初めてだな。へー……温かい」 「俺はカラスじゃなくて、一応は八咫烏なんだけれどな。それにしても、お前は変わらないな。死んで一番にやることが俺に触れることか?」 「ヤタガラスに出会った頃からずっと触りたかったもん。小さいころの夢、死んでからようやく叶えることになるだなんてね……ある意味、認知症になる前に死んでよかったのかも」 「どこまでポジティブなんだお前。死んで喜ぶな」  アカネのあっけらかんとした態度にヤタガラスは苦笑する。 「このまま、時間が経ったら私も、何もかも忘れちゃうのか……」 「まぁ、みんなそんなもんだ。大丈夫、恐怖だって忘れるさ。俺も、ご神体を神社に収めるまでは傍にいる。いや、その前に骨を墓に収めるはずだから、その時にお別れかな? よく考えたら俺は一応神なのに、お前は仏教式の葬儀なんだな」 「ほんとね。宗教戦争が起きちゃうかも」 「起こらねーよ……まぁいい。お別れが来るまでの間は、俺のことを撫でようと抱きしめてようと好きにしろ」 「そうする」  ヤタガラスにそう言われたアカネは、ずっと彼のことを抱きしめていた。40年以上もの間ずっと触ることが出来なかった鬱憤を晴らすかのように、飽きもせず、いつまでも抱きしめていた。遺体を焼かれ骨を墓に収めるまでは片時も離れることなく、彼女は正気を保ったままヤタガラスと別れを告げる。 「それじゃ……今までありがとう」 「こっちこそな、アカネ。今までありがとう」  『さようなら』は『また会おう』という意味を持つ言葉。だから「さようなら」とは言うことなく二人は別れを告げる。アカネは納骨される骨とともに墓地へと移動し、ヤタガラスはご神体とともにアカネの子供の家へと持ち込まれた。それからしばらくの間、ヤタガラスは慣れない家の中で放置されることになる。子供たちは、親が死んだことで遺産のことやら保険のことやら、死亡届のことやら手続きに翻弄されている。それが終わればしばらく休んで迷惑をかけた会社のために休日出勤までしたので、暇な日が出来たのは四十九日のさらに後であった。  その間、お祈りもされないものなので、ヤタガラスは力を失い、スズメほどの大きさとなり、酷くみすぼらしい見た目となっていたが、まだかろうじて生きていた。ヤタガラスはアカネの遺言通りにご神体を連れて行って貰い、新幹線に揺られ、ローカル線に乗り換えて徒歩50分。  八咫烏神社に近づくたびに感じていた本家本元の気配はどんどん色濃くなり、八咫烏神社の鳥居をくぐった瞬間に、弱り切っていた挿し木のヤタガラスはふいに意識がはっきりとした。本家本元の存在感に当てられて、自分の活力が湧いてきたようだ。 「……全く、無責任な本家本元様だ。迎えに来ないから、俺の方から来てやったぞ」  巨大な八咫烏の一部になってしまえば、木っ端のような自分の存在など、本家本元の八咫烏の人格に影響を与えることもなく消えてなくなってしまうだろう。それでも、本家本元の記憶の片隅にアカネの事が残るのならば、それでいい気がした。挿し木のヤタガラスは、上空で優雅に浮かぶ本家本元の八咫烏の元へ、導かれるように飛んでいき、そしてその一部となった。  ご神体を持ってお参りに来たアカネの子供は、不意に感じた強い気配に思わず空を見上げたが、霊感のない普通の人間には何もいない、何も聞こえない空が広がっているのみ。結局、アカネの子供は本家本元の八咫烏と、挿し木に過ぎないヤタガラスとの間に何があったかもわからずお参りを済ませた。母親の遺言であったお参りを済ませると、子供は空っぽになったご神体を家に持ち帰っていく。それは母親の形見として仏壇の横に置かれ、母の遺影とともにいつまでも寄り添うのであった。