背中合わせの恋人たちへ

神木書房

一  湿った熱気の中で、強い獣のにおいが渦巻いていた。毎年永遠のように続く真夏日のど真ん中で、私と義弥(よしや)は上野動物園に来ていた。ただのデートである。駅で待ち合わせをして、動物園を散策し、そのあとは居酒屋で酒を飲んで帰る。そういうプランだった。  私は動物園が苦手だった。囲われ管理され愛玩され研究される動物たちを眺める時、私はいつもなんとも言えない気持ちになった。そしてそれを意にも介さず無邪気に名前を呼び――彼らには名前なんて本当はないのに――安全な自然を楽しむ客たちにも私はうまく言葉にできない居心地の悪さを覚えたものだった。死と隣り合わせで野山を駆けるのか、柵の内側で管理されて天寿を全うするのか、そのどちらが彼らにとって幸せなのか私には想像ができない。ただ、彼らには選択肢がなかった。そのことが私にひっかかっていた。  当時そこにはシンリンオオカミの「あがた」と「こずえ」の番(つが)いがいて、園はちょっとした狼特集のようなものが組まれていた。義弥は少しだけはしゃいでおり入口に設置されたパンダの鑑賞もそこそこに、虎だの鷲だのを流し見して、狼の飼育されている区画に向かった。  この暑すぎる環境では他の人間はおらず、園内は私たちだけだった。その気になれば手をつなぐこともできそうだった。もちろん、そんなことはしない。ただ立っているだけでじっとりと汗ばむため、触れることははばかられたし、もとより一回りも下の恋人である。触れる選択肢はなかった。 「本宮さん」  狼のブースに着くと、義弥が私を呼んだ。やや高い柔らかい声だった。 「うん?」 「あの二人はもうここに慣れたみたいですね。暑そうですけど」  柵に腕をかけて前のめりの姿勢で義弥は狼を眺めている。眉にかかるやや長い前髪が、汗ばんだ額に何本か張り付いている。暑さのためか肌がいつもより赤くなっていた。  あの二人というのは狼の番いのようだった。多分、「二匹」と表現すべきところを意図して「二人」と言ったのだろう。大きいほうの狼と小さいほうの狼がいて、木陰で休んでいるのが見えた。小さいほうは地面に身体を置いて新井息をしていたが、大きいほうは四本の足で立ってどこか遠くを見ていた。  どちらが雄でどちらが雌なのか私にはわからない。それに新しい環境に慣れたのかどうかも私にはわからなかった。しかし義弥が言うと確かに二体は新しい環境に慣れて、暑さに辟易しながらもリラックスしているように見えた。  私は動物園についての違和感について義弥に尋ねてみた。彼は、少し奇妙な顔をした。 「人間には権利があって、選択があるっていうのも思い込みなんじゃないですか。僕たちだって見えない柵に囲われていて、ただ気づいていないだけかも」 「それってどういうことだい?」 「あなたが、他人の立場になってものを考えられる優しい男ってことですよ」  それきり義弥はしばらく黙っていた。彼の横顔を見ると、瞳が漠然とした揺らめきをたたえているように見えた。狼の黒とも茶ともつかない毛皮の一本一本や、呼吸で膨らんだりしぼんだりする腹の波や、さらされた赤い舌の微妙な色合いを焼き付けるように義弥はひどく真剣に狼を眺めていた。スマートフォンで写真を撮ることもしない。まるでとらえたい像はここにはなくて、彼らの姿を通してこことは違うどこかの何かを見ようとしているようだった。  この時の私は彼の瞳の揺らめきや、狼を通して見ようとしていた物事が何なのかを分かっていなかった。この時の私たちは互いのことを何一つ理解せず、それぞれがその場にいたに等しかった。ただ同じ場所で立ち止まっていただけだった。「弱く孤独な狼たち」。私が出会った、ある〈狼〉が私たちのことをそう言ったのを今でも覚えている。  私が視線を戻すと、大きいほうの狼と視線がかち合った。琥珀色の瞳が私を越えてビルや山を通して平野を無限に抜けていくような気がした。その研ぎ澄まされた気高さは、〈狼〉の言うように弱く孤独な私の中に見出すことはできなかった。

二 「ボルト足りていますか? 七本あるみたいです」 「うん、問題なしだね」 「じゃ、やりましょうか」  私たちは以前から考えていた同棲を実現するため、中野の二人暮らし向けのアパートへ引っ越しをし、その初日である今日、私たちは協力しながら本棚やらベッドやらデスクやらを汗をかきかき組み立てていた。義弥は丁寧にボルトやピンの数を作業前に数え、組み立てるときも失くさないように小分けの袋からひとつずつ取り出して作業をした。私は彼のそういったところに、改めて好感を持った。  ベッドを置き、マットレスにシーツをかぶせた敷布団を乗せ、用意しておいた軽い掛け布団を広げる。完成した寝室の入り口に二人で並んで見渡すと、寝室はまっさらな部屋よりもずっと私たちの部屋というような表情をした。 「ダブルべッドだとめちゃくちゃやる気ある人たちみたいじゃありません?」 「でも君好きだろ」  義弥を見ると、唇の片方を引き上げた微笑みに失敗したような気まずそうな顔をしていた。この青年はちょっとしたときに憎まれ口をたたく癖があった。私がキスをすると、一瞬触れあったときに身体を離された。しなやかな関節がぬるりと私の腕を抜けた。 「まだ半分じゃないですか。茶の間作るんでしょう。そんでビールを飲んでご飯にしましょう」  義弥はリビングを作るのにもよく動いた。最後には私はもう疲れてしまって、家具を支えたりなどを補助的な立ち位置に回った。カーペットを敷き、テーブルと椅子を配置し、テレビをつなげた。空っぽな新居はこのときから私たちの部屋になった。  とはいえ、まだこまごまとしたものが残っている。茶の間に積まれた段ボール箱を壁際に寄せようとすると、義弥がそれを隅にずらした。 「すみません、それ後で僕が片付けておくので、開けないでくださいね」  私はうなずいて、別の場所を片付けた。そうしている間にガスの開栓が行われ、ライフラインが確保されたので義弥が料理をした。 「簡単なものだけですよ。冷蔵庫だって今ビールしかないですし」  そういって、義弥はパスタを茹でて簡単なコンソメスープを作った。それでも私が食べてきたものよりも手の込んだものだった。私は自炊などほとんどしていなかったのだ。レトルトのソースをパスタにかけ、私たちはビールで乾杯した。 「初めての晩餐だな」 「晩餐っていうにはちょっと質素すぎましたかね」 「十分だよ」 「明日はいいものを食べましょう」  義弥はとてもうまそうにビールを飲んだ。私たちが出会ったときから、義弥は多く酒を飲む男だった。しかし、酒の飲み方は全く変わった。  出会ったときの義弥はひどい飲み方をしていた。ゲイバーで酔っている義弥は血色がよく健康そうに見えたし、陽気で話しやすく、あっという間に友人を作ってどこか――多分ホテルだった――に消えていった。適量の酔いである限りは、素の性格というには完璧すぎる酔い方をしていた。酒を飲む彼の周りは常に違う男がいた。  しかし、彼が単独で飲んでいるのを見かけて二人で飲んだことがあるが、誰かといるときとは全く違う飲み方をしていた。「酒はいい。酒は何も言わない。静かでいい」。彼は彼にとっての静寂を求めていたのだと思われた。そして実際、獲物を――つまり他の男性を――狙っていないときの飲み方は本当にひどいものだった。酒の許容量を把握し、それを越えるために飲み、吐く。吐いたらまた飲む。悪酔いをするために飲んでいるような節さえあった。 「吐くときには、がつんって衝撃がある。たまらない。あれは誰にもできないんだ。頭の中をかき回されて、胃が中から突き上げて、食道がうねって、入れたものがすごい勢いで出ていく。冗談抜きで世界がぐちゃぐちゃになる。苦しくても泣いても誰も助けられない。みじめで悲しくて、それがたまんなく気持ちよくてしょうがないんだ。自分が何者かわかるから」  なぜそんな飲み方をするのか、便座を抱きかかえるような姿勢の彼の背中をさすりながら聞くと、そういう旨のことを義弥は言った。言っていることの数割も理解できなかったが、それでも私は覚えている。 「酔ってるふりをして無理に騒ぐのも疲れないか?」 「でも必要なことなんだ」  ただの酒量を把握できない男なら私は交流を絶っていたが、意図して限界以上に飲んでいたり、かと思いきや、あまりに完璧な飲み方をしたり、モンタージュ的に不整合な彼のパーソナリティに、むしろ私は惹かれた。私がこの背中をさすらなかったら、この男はきっと一人で吐いていたのだろうと思ったのだ。そして路上で眠ったり、帰りの駅でホームから線路に落ちたりして一人で死ぬかもしれなかった。  死。  ほかの多くの人間がそうであるように、私は四十を越える今まで、人生の分岐点のようなところで多くの選択を行ってきた。それは私の意志で決まるものもあれば、選択は形式的なものでただ流されるだけのものもあった。その中でも死は激流のように私を押し流し、脈絡のない場所に連れて行ってしまう。またそんな目にあうことは避けたかった。  義弥は特定の好みというものを持っていなかった。あるときは同年代のさっぱりとしたやせた青年といたり、ジムで丹念に鍛えているような壮年の男といたり、還暦を過ぎていそうな太った男といることもあった。年齢も顔立ちも頭髪の量も、性格が内向的か外交的かも、それどころかポジションも彼にとっては勘定の外のようだった。彼にとっては明確な判断基準があるようだったが、誰にも分からなかった。しかしあるとき、私と一度交流のあった男と義弥が一緒にいるのを見かけたことがあって、私は聞いてみることにした。 「あいさつで『こんにちは』をきちんと書く人が好きなの? つなぎの『は』で『わ』を使わずに」  義弥は、これまでにないほどにっこりと笑った。その静かな笑みは一瞬だけで、すぐに大きな爆笑が用意された。私は髪ももう薄いし、ジム通いもやめたので体は中年太りを始めている。でも私は義弥の中において何かが認められたようだった。この先を私は一人で生きていくのだと思ってきたし、別にそのことについての感慨もなかった。しかし、私は一人でいるよりも義弥といる方が楽しかった。それから義弥とより親しくなったのだった。  パスタとコンソメスープの食事が終わり、私が先にシャワーを浴びた。義弥は長い時間シャワーを浴びていた。ローライズのボクサーだけの姿で寝室にやってきた義弥は、ベッドに腰かけた私の隣に座った。  電気は暗くしていない。義弥は絶対に電気を消して眠ろうとしなかった。義弥は眠りが浅く、警戒のたえない獣のように義弥はどのような物音でも起き、再び寝ることは困難を極めていた。 「今日は盛りだくさんだった」 「引っ越しもして部屋も作って忙しかったですね」  私は彼の身体を倒した。一瞬だけ、義弥の身体が恐ろしく硬くなったが、すぐに物事はうまく運んだ。そして彼はこれまでにないほど早く深く高いところに到達した。私はその時の声ほど悲しい響きの声を聞いたことがなかった。ベッドに倒れこむようにして脱力した義弥の身体は、空っぽな印象があった。  そして目覚めたとき、義弥は〈狼〉になっていたのだった。

三  その男はしゃべらなかった。シャワーを浴びて戻った私に、義弥は真面目な顔をしてメモを見せた。 「こんばんは。私は狼と申します。義弥ではありません。普段はこういうことはないのですが、義弥が奥に行ってしまって出てこなくなったので、私がこの身体を動かしています」  と、メモを用いた筆談でこう言った。  狼。  別に義弥の見た目に何か変わりがあるわけではなかった。細めの首や、しっかり出た鎖骨、運動をしてもなかなか割れない腹筋、どれも変わった部分はなかった。  私は当然というか、ふざけているのかと思った。ちょっと飲みすぎて遊んでいるとか、屈折した照れ隠しのようなものだと思った。あまりにも展開が唐突すぎるのだ。酒の飲みかただとか、他の振る舞いから義弥が何か精神に複雑な多面性を抱えていることは分かっていたが、二重人格とか解離性同一性障害とかそういう話は一切なかったのだ。  でも義弥はそんなくだらないことをする男ではないし、字の形も整った楷書で義弥のものとはかけ離れていたし、ペンを握る手は左手だった。立ち居振る舞いも、確かにいつもの義弥と比べて自信があって、若者というよりも私と同い年の男のような気配があった。しばらくやり取りをして、私は結局〈狼〉とやらの言葉を飲み込むことにした。 「ちょっと整理させてくれ。本当に、ごまかしとか遊びとかでなく、正真正銘、義弥の中にいる別の人格ってこと?」  うなずき。 「分かりやすい証明を持たないので、信じてくださいということも馬鹿馬鹿しいというのは重々承知しております。でも本当にそうなのです」 「それで、オリジナル……そう言っていいのかわからないけど、もとの義弥は心の奥に閉じこもって出てこないということ?」 「ええ、そのとおりです」 「そして君は〈狼〉っていうけど、つまり何ってことなんだい?」  〈狼〉と名乗る義弥の別人格は「説明は難しい」と書いて、長くメモを書いた。 「義弥の保護者、背中合わせのもう一人、義弥からこぼれおちたもの、発話の補遺」 「補遺?」 「追加されるもの。書き加えられるもの。私は注釈のようなものなのです」 「そんな言い方じゃわからない。つまり君は義弥の保護者的な人格ってことなのか?」 「そのような認識で構いません。親というよりは、眠れない夜に読んだ詩とか、支えになる小説とか、そういったものが近いですが」  あまりに説明が抽象的すぎる。私は追求しようとしたが、やめた。不可解なものを無理やり理解しようとしたところで同じところをぐるぐる周るだけだ。先ほど私は彼の言葉を飲み込むことにしたけれど、それには理由があった。義弥はそういう、精神的な問題を抱えるに至るようなトラウマ体験を持っているらしい振る舞いを見せていたからだ。 「でもなんで今そんなことになってるんだ?」  〈狼〉は首を振った。 「分かりません。義弥は混乱しています。うまくコミュニケーションをとることができません」 「混乱って……何かできることはないのか?」  私はかつて、義弥がひどく混乱した状況に陥っているのを目の当たりにしたことがある。今もまた同じ状態にあるのならのんきなことは言っていられなかった。  沈黙が空いた。しかし、〈狼〉が書いたのは「申し訳ありません」の一言だけだった。埒が明かない。私はたずねた。 「カウンセリングは? それか精神科に行ったことはあるかい」 「ありません。ここまで強固に変われないことはなかったのです」 「なるほど。じゃあとりあえず精神科には行かなきゃならないと思う。適切な治療をすべきだ」 「いいえ。もう少しだけ待ってください。義弥の混乱が収まればいいはずです。時間が必要なのです」 「でも義弥の仕事はどうする? 筆談でどうにかならないだろう」  ペンが走る。〈狼〉の字は走り書きのような速度で書かれているのに、字は美しく整って乱れることはなかった。 「義弥が行っていた生活には何ら問題はありません。記憶についても義弥と共有しています。経理の仕事も問題なく操作できます。確定申告だってできますよ」 「筆談については?」 「会話は可能です」  〈狼〉が初めて口を開いた。義弥と同じ声をしている。しかし、他人の喉を借りてしゃべっているような違和感があった。それは微妙な差であり、職場の人間ならば気付くことはないだろう。しかし、〈狼〉は発話の直前に一瞬だけ、喉が痛いのに無理してしゃべるときのような苦い顔をした。私は義弥の声から感じる違和感や、〈狼〉の痛そうな顔に何か言うことができなくなった。  私の沈黙を〈狼〉はどう受け取ったのか、再度筆記で言った。 「このようなことになってしまって本当に申し訳ないと思います。できるだけ迷惑をかけないようにいたしますので、もう少しだけお待ちください。私は別室におりますので、本宮様はお休みください」  そう言って〈狼〉は部屋を出ていった。  私はそのまま少しの間眠ろうとしていたが、やがてベッドを出て、リビングのドアを開けた。  リビングの椅子に腰かけ、〈狼〉はボーヴォワールの『第二の性』を読んでいた。彼は目を上げて私を見た。私は息をのんだ。その瞳や、首の傾きや、足の組み方や、前髪の揺れ方があまりにいつもの義弥のものだったからだ。そしてどこか儚く、私は態度を和らげずにはいられなかった。 「……ベッドがあるんだから使いなさい。君のものでもあるんだから」  〈狼〉がペンを取ったが、私は続けた。 「君は義弥じゃないとしても、君の身体は義弥のものなのだし、君はいわば彼の大事な詩なんだろう。だったら無下にできない」

四  義弥はどのような店に行っても何でも喜んだ。酒と肉さえあればなんでもいいような男だった。アルミの粗末な皿に乗ってつまみが出される場末の酒場でも、ドレスコードのあるホテルのレストランでも同じくらい喜んだ。  しかし義弥は一度だけ、酒を飲むのをやめたことがあった。彼の抱える混乱について思うとき、そのエピソードは不吉な影のように張り付いていた。  その店は新宿にあった。料理も酒もそこそこの安い居酒屋だったが、とても雰囲気が悪かった。隣の席で男女のカップルが別れ話をしていたのだ。次第にねばついた気配を増していく隣席に義弥は「うげえ」という顔をして、舌を出した。今あるやつ食べたら出ましょう。あっちもやりづらいかもしれませんし。そう彼は私に耳打ちした。  酒を飲んでいるときも義弥は隣の男女を気にしていた。男二人の私たちがどう見られているかとか、男女カップルについて思うところがあるという感じではなかった。何かに怯えていた。  その怯えはすぐに明らかになった。  女が立ち上がり、男の頬を思いっきり張った。ひどい破裂音がした。グラスが落ちて割れた。酒がこぼれた。女は茫然とした男をにらむと、そのまま店を飛び出した。  店の空気が固まったように静かになり、すぐに店員がやってきて騒がしさが再び店を覆った。  視線を戻すと義弥の酒がこぼれていた。グラスを握った手が大きく震えている。机に飛び散った液体を義弥は信じられなさそうな様子で眺めていたが、私がこぼれた酒をナプキンで拭くのを見ると、彼ははっとしたように笑った。こちらの胸が痛くなるような傷ついた笑みだった。 「す、すみません、び、びっくりしちゃって」 「うん。それ飲んだらもう出ちゃおうか」  義弥はグラスから手を離そうとしたが、白く関節が浮き出るほど強く握られた拳は緩まない。震えも止まる様子がない。 「だ、だめです。止まんない、なんか、なんか、なんか、全然、なんか……」  声が滑るように上ずっている。義弥は深く混乱していた。まずい、と直感的に思った。私は彼のグラスを握る濡れた手に自分の手を重ね、ゆっくり息をするように言った。私たちは一緒に息をした。吸う、吐く、吸う、吐く、吸う、吐く。義弥の身体が再びリズムを取り戻していくのが分かった。ゆっくりと彼の指をグラスから外してやると、義弥が真っ青な顔で言った。 「……み、みっともないところを」  私はできるだけ柔らかく見えるように首を振って、テーブルの脇にある紙ナプキンを数枚まとめて取り出して渡した。真っ青な顔で受け取った彼は、手や机の濡れた場所を拭いた。  混乱している、と〈狼〉は言ったが、私はこのエピソードを重ねずにいられなかった。人格の向こうがどんなところなのか私は知らないが、義弥があの混乱の中にいるのなら、すぐに連れ出さなくてはならない。  でも結局次の日の夜になっても義弥は戻らなかった。私は再度精神科への受診を提案したが、彼は拒んだ。 「これは私と義弥が導いた結果なのです。誰にも触らせられない領域の話なのです」 「でも現に義弥の生活に影響が出ている。この先君がずっと義弥の代わりをやっていくわけにもいかないだろう」 「他の人の手が入ればよくない結果になります。私たちの話はとてもプライベートな話なのです。誰にも触らせたくない。義弥から了承が取れないのなら、知らない相手のカウンセリングなんか受けられません」 「当の義弥と話せないならそのためのカウンセリングだって必要だろう。保護者の君だってできないなら、外部の力が必要じゃないかい?」  〈狼〉は焦れたように「いいでしょう」と書いた。  筆記が続く。 「しかし、義弥と私の話に関わるのは、よく知らない医者などではなくあなたです。そしてあなたが加わるのにも条件があります」 「……条件?」 「精神科医を呼ばないこと。私がこれから話すことを義弥に話さないこと。私のお願いを聞いてくれること。それができないなら、あなたも関わらせられない」 「……私もきみも無理なら、精神科に行くべきだ。それが義弥のためだ」 「いいえ。あなたなら、カウンセリングよりもずっと、私たちの深いところに触れることができる。義弥はあなたに心を開いている。あなたの力があれば義弥はまた戻ってくることができます」  〈狼〉はそれを書いたメモを置いて、義弥が開けないように言った段ボールを開けた。その中から、まず茶の毛皮で作られた手袋が取り出された。〈狼〉は自分の手にはめる。私は何か言おうとしたがやめた。なにか荘厳な儀式じみていて、言葉を挟ませられなかったのだ。続けて義弥は奇妙なぬいぐるみのようなものを取り出す。それはこげ茶色の狼の頭部だった。ちょうど人がすっぽりかぶれるくらいの大きさの狼の頭を、〈狼〉は自分の頭にかぶせた。顔がすべて覆われ、左右に揺らして位置を調整した。  頭が狼の奇妙な青年がこの部屋に立っているのは、めまいがしそうなくらい異質だったが、何かしっくりくるものがあった。不明だった部分が照らされたような感覚があった。 「それはなんだい?」 「私です」  椅子に座り直した〈狼〉は発話した。低くふくらみのある声をしていた。義弥のままでいるときには他人の喉から出ているようだった声が、狼の頭を介することで〈狼〉と義弥の喉が一致していることがわかった。彼が話すと、どんな仕掛けになっているのか、作り物の顎も言葉に合わせて開閉した。 「先ほどの条件、誓っていただけますか」  私はうなずく。  〈狼〉は椅子に座り直し、語り始めた。 「義弥はある人々と深い交流を持っていました。その人々とはこういったデフォルメされた動物の造形物を作ったり絵を描いたりして交流する人たちです。そこで友達を作るうちに、義弥は自分の家庭について気付きを得ました。他の家の親たちは、どうやら子供を殴ったり蹴ったり食事を与えなかったり、そういったことをしないということに」 「……」 「また、もう一つ義弥の家だけで行われることがありました。それは〈夫婦ごっこ〉です」 「なんだって?」 「〈夫婦ごっこ〉。義弥の母親は義弥を子供として愛した人間でしたが、同じくらい義弥を男として愛していました」 「い、……言わなくていい。義弥が言わないんだろう」 「義弥が愛されているとき、義弥の父親がそれを目撃しました。父親はとても怒りっぽく、とても些細なことで義弥を殴ったり蹴ったりする人でしたが、あの冷たい眼を義弥は一生忘れることはないでしょう。どんな暴力よりもあの眼が一番堪えがたいものでした。そのとき私が生まれたのです。私は義弥を守るために生まれたのです。私は義弥の心と現実の間で触れてもよいものと触れてはいけないものをより分けて、暴力の痛みを軽くしました。義弥が眠れない夜には物語を聞かせました。義弥は私のことを好きになってくれました。私たちは保護者と子どもであり、仲良しの友人でもありました。そして義弥は、同じ趣味の友人のつてをたどって東京に逃れ、ある友人の家に身を寄せました。義弥はその時とても幸せでした。義弥は多くの人と交わりました。彼らはとても優しくて、殴ったりも蹴ったりもせず、ご飯を一緒に食べてくれました。親のものだった体はそのとき義弥のものになりました」  〈狼〉はそこで息を吸って、話を続けることを宣言するように私を見た。私はうなずいて先を促した。 「でもあるとき、住まわせてくれていた友人は義弥に家を出ていくように命じました。友人は父親と同じ眼をしていました。原因は分かりません。ただ疲れたのかもしれないし、ほかの男と遊んでいるのを嫌になったのかもしれません。遊んだ男たちの中に、その友人が恋をしている男がいたのかもしれません。でもとにかく原因なんか分からないまま、義弥は家を失いました。とりあえずすぐ住める安く狭いアパートを契約しました。義弥は何も言わず同じ趣味の友人との交流を断ちました。そうして義弥は何も分からないままもっと深く酒と性にのめりこんでいきました。バーで男に声をかけるのはもう楽しみのためではなく、コミュニケーションのテストになりました。年下とは話せるか? 同年代とは話せるか? 年上とは話せるか? 僕はちゃんと言葉をつかえているか? 僕は何か重大なコミュニケーションのミスをしたんじゃないか? それを洗い出すために出来るだけあらゆるタイプの、一定以上の日本語能力を持った人間を選びました。そういうときにあなたと出会いました。私は親から振るわれる暴力から義弥を遠ざけたり、義弥が持ちきれない重い荷物を分け合って持つことはできましたが、義弥を本当に抱きしめることはできませんでした。義弥は、あなたを好きになりました」  ここまで言えばもうお分かりになるんじゃないかと思います。 「本宮様には、私を殺していただきたいのです」

五  〈狼〉はそこまで言うと私の出方を見るように黙った。 「君を? でも君は義弥の大事なキャラクターというか、大切にされているんだろう」 「しかし私の存在が義弥を混乱させているのです。義弥はあなたを選びたいが、心の構造がもうそういう作りをしていないのです。私と本宮様では、立ち向かう現実の形が全然違ってしまっているのです。私がいるままでは義弥は心を作り変えることができません」  そこで言葉を探すように、数秒沈黙してから彼は続けた。 「私もまた義弥のことが好きなのです。どんな生き方をしても、誰と一緒になっても、そんなことはどうでもよいのです。義弥を殴ったり怒鳴ったりする人がいなくて、義弥が食べられる美味しい食事とお酒が十分あって、義弥が誰にも捻じ曲げられることなく、ただいてくれることだけが大事なのです。私はそのために生まれたのです。私がいようといまいと些細なことで、私がいなくなることでうまく義弥が現実を生きていけるなら、それが一番いいのです」  〈狼〉が私を見た。私の像がプラスチックの模造の瞳に映っている。琥珀色の瞳は私をはっきりと映していて、同時に私を通してどこかずっと遠くを見ていた。そこには狼の気高さがあった。 「それでも君がいなくなったら義弥は悲しむんだろう。もっと穏便な方法はないのかな?」 「人は大人になると想像上の友人を失うものです。私は成長とともに失われるべきものなのです」  私は首を横に振る。 「でも君は義弥にとっては実在したんだ。イマジナリーフレンドでもなんでも、義弥にとっての現実に君がいたんじゃないか。大人なんて規範的なものでごまかさないでくれよ。そんなもの私たちに関係ない。結婚もしないし子どもも作らない私たちは、全然違う成長をしていかなくちゃならない。大事なのは義弥が笑えるかどうかだけじゃないか。君は死んじゃだめだ」  〈狼〉は驚いた顔をする。作り物でも確かに驚いた顔をしたのがわかる。〈狼〉はテーブルに手をついて身を乗り出した。柔らかな毛皮が唇に触れる。口づけをされたのだ。とても優しい声で〈狼〉は続けた。 「あなたは他人の立場になってものを考えることができる優しい人間です。義弥があなたを好きになるのもよくわかる。弱く孤独な狼たち。私もあなたのことを好きになってしまいそうだ」 「私も君のことをきっと好きになると思うよ」  彼は私の額に、茶色の毛皮で覆われた額をこすりつけた。それは親愛のしるしだった。軟質な弾力と、芯材の硬い感触があった。 「私たちは背中合わせなのです。私の向こうに義弥がいるように、義弥の向こうに私がいる。毛皮がはがれても、ウレタンがばらばらになっても、私は死ぬわけではありません。物事はずっと単純に、あるべきところに戻るだけなのです。そして義弥は今より笑えるようになるのです」  そこまで言って、〈狼〉は体を引いた。彼は毛並みをプラスチックの爪の先で整えて、とても綺麗なお辞儀をした。 「義弥のことを好きになってくれてありがとうございます」 彼は狼の頭を外し、張り付いた前髪を横に流す。微笑み。頭と手袋が差し出された。

六  ……リビングに白いフェイクファーの生地が裏側を向いて広げられていた。その裏地には黒のペンで型紙から転写された輪郭がいくつも配置されていた。義弥はその線に沿って、毛を必要以上に落とさないようカッターの刃先を走らせていた。  床に手をついて作業を進める彼の背後、テーブルの上には動物の頭蓋めいた紙粘土の像があった。この紙粘土で作られた頭骨に合わせて型紙が作られ、ファー生地に展開されているのだ。 「すみません、せっかくの休日に自分の作業で……」 「気にすることはない。私も好きに過ごすから」 「久々に作りたくなっちゃって」  義弥は手を進めていく。白を基調として、装飾的で複雑なパターンの模様がグリーンと群青で追加されているアニメ調の狼のデザインだった。〈狼〉のような実在の動物に忠実な造形ではない。あの夜以降、義弥は造形を再開させていた。  あの夜のことを私は思い出す。 〈狼〉を解体したのは私ではなく義弥だった。狼の頭を外した彼は、 「結局全部言われちゃいましたね」  と言った。それは間違いなく義弥だった。 「変な話をしてすみません」 「いや、こちらこそ聞かれたくないことを聞いてしまった。申し訳ない」 「いつか知る話ですよ。だって一緒に暮らすんですから」  義弥はリビングの床に〈狼〉の頭と手、それから尻尾を置いた。 「僕がやります」 「え?」 「解体は僕がやります。これは僕の身体であり、僕のフィクションであり、僕の眠れない夜の友人だったんです。だから僕が最後までやらなくちゃ」  そう言って、同じ段ボールから義弥はカッターナイフを取り出した。ちちちちち、と密やかな音を立てて刃が押し出される。〈狼〉の額を、彼は指先でそっと撫でた。義弥が何かをつぶやき、頭蓋を床から持ち上げて頭を入れる開口部を上に向けた。毛皮と頭蓋の境があらわになっている。  私が何か言うより早く、義弥はその境目に刃を差し込んだ。私を息をのむ。義弥はまるで自分の身体を傷つけているように眉をゆがめた。しかし手は止まらなかった。刃はするすると動き、毛皮を外していった。毛皮は平面を曲面に合わせるためにパズルのように様々なパーツが縫い合わされていて、裏側には幾何学的な模様のように縫い目が走っていた。義弥はそれぞれの縫い目をほどき、皮膚を一枚ずつのパーツに分けていった。  白いスポンジ材と黒い芯材の肉と骨格があらわになると、義弥は深く息をついた。弔いの儀式を進行する厳格な宗教者のように、義弥はスポンジ材の接着部分にカッターを入れる。肉はあっという間にばらばらになった。血が出ないことがとても奇妙だった。肉の一片ごとに、義弥は一つも取りこぼさないよう腑分けしていった。  そして最後には黒いプラスチックの芯材だけになった。曲面の複雑な上顎と額部分は一続きになっており、下顎は関節を組み合わせてボルトで止められている。これにはカッターは入らない。義弥は刃のしまったカッターをテーブルに置き、家具の組み立てに使用したドライバーセットから細いプラスドライバーを取り出した。ドライバーの先端で顎の関節を止めているボルトを外していく。ごきごきと鈍い音が聞こえてきそうだったが、ぱき、という非現実的な音だけが鳴って、パーツごとに分解された。  最小単位の肉体に分けられた〈狼〉たちの前で義弥は床に腰を下ろし、じっと眺めていた。そこには、私たちだけにわかる暗号のような死が積み上げられていた。私は冷蔵庫からビールを三本取り出して義弥の隣に座った。〈狼〉だった布のむくろの前にビールを置き、義弥の前にもビールを置いた。私はビールを開けて一口だけ飲んだ。 「こういう時に飲むビールが一番うまい」  義弥はそういって、缶を開けた。軽やかな音が鳴る。義弥はぎゅっと目をつぶって一気にビールをあおった。息をつくと、また瞳を〈狼〉に戻した。  私は前の恋人を亡くしたときのことを義弥に話した。 前の恋人はあるとき音信不通になって、私は自然消滅したのだと少し傷つき、しかしよくあることだったから気にしなかった。その数か月後に人づてに自殺したのだと聞いた。私が他人の気持ちになれるという義弥も〈狼〉も言っていたが、私は相手の感覚を全て自分でなぞらないと不安でたまらないからだ。それに疲れて一人で生きることを決めて、その数年後に義弥と出会ったのだった。  でも当時の記憶はどれだけ丁寧に思い返しても、すりガラスを通したように不明瞭になってしまって、義弥の悲しみと同じものかは分からなかった。  私は空になったビールを床に置いたとき、義弥が口を開いた。空調の音にかき消されてしまいそうな小さな声だった。 「本宮さん」 「うん」 「僕たちはずっと独りぼっちなんですよ」 「うん」 「きっとこいつのことも、僕はどんどん忘れていくんだと思う」 「君には新しいことがどんどん増えていくよ」 「本宮さん」 「うん」 「僕はこいつが確かにいて、好きだったことを忘れたくない。でもそれとおんなじところで本宮さんのことが好きなんです。これっておかしいかな」  義弥はそう言って静かに泣いた。瞳からは冷たい涙が流れていた。私は義弥を抱きしめた。義弥も私に手を回した。しかし、私が抱きしめたかったのはその体だけではなかった。私が抱きしめられたかったのはこの体だけではなかった。互いの皮膚に跡が残るほど強く抱きしめても、皮膚にしか触れられなかった。私たちは肉体の確かさゆえに互いに疎外されていた。やがて抱擁を解いた。そしてそれが始まりだった。  これから先、義弥はこれまでとは違う形の現実を生きていくことになる。愛する者を喪った瞬間に、私たちはそれぞれに孤独であることを思い知らされ、世界はこれまでと違う形になってしまう。そしてこれまでと違う論理で動いている世界で孤独に立たねばならない。誰もその孤独から助けることはできない。  私は〈狼〉のことを記しておこうと強く思った。  君の後ろには確かに君ならぬ君がいたことを記そうと思った。そして彼は確かに君を愛していたことを。その瞳の気高さを、爪のきらめきを、低い声の優しい響きを、毛皮の柔らかさを、それらが君を守っていたことを。そしてその〈狼〉は確かに君でもあったことを。  私の背中合わせの恋人たち。  いつか君が〈狼〉のことを忘れてしまっても、きっとこのテキストを読めば記憶を手繰り寄せるヒントにはなるかもしれない。そうなることを切に願う。  義弥はまた造形を再開させて、その人々と交流を再開させた。何も言わずに趣味の人間関係から消えたために友人は何人か減ってしまっていたが、多くはまた義弥を暖かく迎え入れたようだ。彼が笑える場所が多ければ多いほどいいと思う。そして今作っている狼が、あるいはこれから作る想像上の獣たちが彼の孤独のいくばくかを照らす灯となったらどれだけ素敵だろうと思う。  私たちは弱く孤独な狼として小さな群れを作り、そしておそらく私が先にこの群れを抜けることになるだろうと思う。 もちろん、それまでは私も彼の孤独の道連れでいるつもりだけれど。