■ 1 □ ――今でも少し、想うときがある。   あの時。あの瞬間。別のことが起こったら、未来はどうなったのか。   幻想的で、現実感のない願いだけど、だからこそ空想してしまう。その『続き』を。閉じてしまった、扉の先を。 ――あの頃に、戻りたい。     ■ 7 □  小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から漏れる細い白糸で目が覚めた。とはいっても、もう朝という時間でもない。時計の針は既に十時半を回っているし、毎朝ひきりなしにエンジン音が地を這う地上の道路は既に落ち着きを取り戻している。  重い頭で考える。今日、何をしようとしていたのか。今から昼ご飯を作って、その後課題を終わらせて、その後アイツと――アイツは、もう――  ……キキーッ!  ――耳の奥で、幻の急ブレーキ音が響いた。途端に、風景がフラッシュバックする。伸ばす手と、舞う雨傘。耳を引き裂く摩擦音。一拍遅れて、重いモノが鈍く落ちる音。鉄の匂い。冷光が照らす原色。墨のように意識を侵す雨粒。病室で誓った決意と、――もう存在しない、大切な■■。 「……っハァッ! ッハぁっ……ッ!」  途端に、呼吸が荒ぶる。牙の隙間から、涎が落ちる。落ち着こうとしても、目の焦点が合わない。ふとした瞬間に底無しの深海に引きずり込まれていってしまいそうで、それがいやで、必死に海中から出ようともがく。  ……水を飲もう。俺は重たい体を起こし、台所へと向かった。

 初夏ということもあり、半袖姿でいる者はまだ少ない。とはいえケモノは暖かい毛皮に覆われているから、じきに道をゆく全ての者たちが薄着になっていくのだろう、と思う。恐らく、俺以外は。  今の俺は、ダボダボの黒いパーカーに黒いジーパン、黒いマスクに黒いサングラス、ついでに黒い手袋で全身を覆っている。長めの耳と尻尾は、それぞれフードとズボンの中にしまっている。つまり、オーバーサイズの全身黒づくめ。おまけに猫背で(俺はイヌ科のケモノなのに)歩いているものだから、第三者から見れば不審者そのものだろう。いつ通報されてもおかしくない。スーパーへ向かう途中、地元の高校生から奇異と好奇の目で見られたが特に気にしない。親子連れから「ママーあれなにー?」「見ちゃダメッ!」と爪を指されもしたが、別にいい。五日前からこの服装なのだから、もう視線には慣れた。  ――と、 「ママー、これなーにー?」  さっきの親子連れの子供が、道路脇に立てかけられていたモノを見て呟いていた。……俺は、歩くスピードを早めた。 「ああ、コレはね……春ぐらいにね、ここで交通事故があったの。あそこのお子さん、卒業前だったのにねぇ……この花はね、亡くなった方を弔ってあげるための花なのよ」  とむらいー? と、子供が首を傾げて聞く。……意味を考えたくない。ほんの少し前まで気にも留めていなかったその花が、今ではぐっと身近な存在に感じる。直接的な関係はないのに、その意味を考えてしまうと、どうしても記憶がフラッシュバックする。……アイツは、俺をかばって―― 「……あ、鶏肉買い忘れた」  咄嗟に駆け出したからか、普段はやらないようなミスを犯す。何度目かのため息をつきながら、帰路に着いた。

 カップ麺をすすり、暗い部屋の中でただ呆然とする。何も考えたくない。このまま横になって、ずっと寝ていられたらどれだけ楽だろう。……怠惰的でいい。今の俺には、悠々と日々を生きる資格なんてない。  割り箸とカップを捨て、寝室に移動する。と、暗い紺色のカーテンに、少し埃がついていたのが気になった。それもそのはずで、一週間ほど前からカーテンは閉じたままだからだ。気力が地に堕ちていても、こういった衛生面はどうも気になってしまうらしい。  俺はとりあえず、埃だけでも拭こうと思って、少し重くなったカーテンを開け、 「ん……?」  窓がキランと光る。いや、今は昼なんだから、太陽光が入ってきて当然……待った、すこし光りすぎじゃ―― 「あっ、……わぁああああ!?」 「へ……? ……うぉわぁあああ!?」  どしゃああんという、派手な衝撃音が室内を震わせる。部屋の掃除もしていなかったせいで、少し煙が舞った。  いつつ、と頭をさすり、体を起こそうとする――が、体の上に何かが乗っかっているようで、上半身を起こせない。埃が入らないようにそっと目を開けてみると、そこには―― 「……えーっと、大丈夫、ですか?」 「……それはこっちの台詞だ」  しゅっと伸びた三角耳に、軽く突き出たマズル。柔らかそうな肉球がついた小さな手と、ふわふわ揺れる大きな尻尾。  ぶかぶかの着物を着た白い狼の少年が、そこにいた。

 二文で説明しよう。急に白狼の少年が現れた。今、俺と向かい合って事情聴取中。 「……えーと、そういうわけで僕は、神様に命じられて、ここに来た神使みたいなやつです。なんか黒助さんのお助けをしないといけないらしくて、正直僕はめんどくさいなー、サボってハンバーガー屋行きたいなー、って思ってるんですが、やんないと帰れないらしいので渋々やります」 「いやどういうわけだ。初対面なのにいきなり情報の洪水を浴びせるな。神ってなんだ。あと後半本音がダダ漏れだ。せめて隠せ。もしくはオブラートに包め」 「あ、やっぱり非現実的でしたよね……神様じゃなくて、悪魔に命じられて、の方がよかったかも……」 「気にするのそこなのか……」  ちなみに、黒助とは俺の名前である。平凡な名前である。 「つまり早い話、お前は俺のお手伝いをしに来たってことだな」 「はい、そうです! 期間限定ですが!」 「よし、なるほど理解した。すまないがそういうのは間に合ってる。帰れ」  俺は、有無を言わせずこの少年を玄関の外に放り投げた。鍵のロックよし。チェーンは……一応かけておこう。  ドンドンドン! ガチャガチャガチャ 『ひどいですよぉ! 入れてくださいー!』  ドアを叩く音、必死にドアを開けようとして鍵に阻まれる音、少年のむせび泣く声による酷い三重奏が耳に入ってくる。いや当然の帰結だろう。出会っていきなり神だとか言うやつとか、新手の宗教の勧誘かと思う。ここは、大人しく退散してもらうのが吉だ。 『いいんですかー、黒助さん! このままだと大変なことになりますよー!』 「ほう、どう大変なことになるんだ? 言ってみろ」  フッ、大体こういうのは将来不幸が訪れるとか、そういうものだろう。しかし甘い。そんなものでは、この扉は開かれない―― 『――貴方の部屋にあった「地理の教科書」と「世界史の参考書」の中身について、パワポで纏めたあとマンションの全ポストに突っ込んでおきます!』 「よし今すぐ話をしよう今すぐにだ」  脊髄反射で玄関の扉を開く。俺の青春のバイブルを大公開なんて、そんなことされたら確実に俺は明日から引きこもりになる。俺は外にいた愉快犯を急いで部屋の中へ連れ戻した。 「…………」  改めて、目の前にいる白狼の少年を見る。……少し、既視感があった。さっき、ほんの一瞬だったが彼の手を握った。柔らかな毛皮と、同じく柔らかな肉球。以前にも、似たような感触を手にしたことがある。それに、この子の声質……もしかして、この子はアイツなんじゃ―― 「……? どうしたんですか急に見つめて。ははーん、さてはアレですか? 俗に言う『一目惚れ』ってやつですか?」  前言撤回、コイツは絶対アイツじゃない。アイツはこんなキザっぽいこと絶対言わない。そもそもアイツの毛皮は白色じゃなくて灰色だし。 「いいや、ただの人(ケモノ)違いだ。忘れてくれ……で、お助けとかお手伝いとかって、一体どういうものなんだ?」 「言葉通りの意味です! 僕が、黒助さんのお手伝いをします!」 「…………」  ……本当に、邪気はないのか? ドヤ顔だけど嘘言ってる目には見えないし……一つ聞いてみるか。 「お手伝いっていうのは、具体的にはどれぐらいの範囲までなんだ?」  俺がそう聞くと、質問されて嬉しいのか、少年は目を輝かせやや大きめの尻尾を振りながら食い気味に答えた。 「えっと、身の回りのお世話とか進路相談とかは朝飯前ですよ! ちょっと無理すれば黒助さんの願いを叶えることだって――」 「そっか、ならゴミ出し頼む。先週出してなかったから溜まってるんだ。」  少年の笑顔が、固まった。誰かが石化の術をかけたのだろうか。 「えと、最初の頼みが、それですか……? マジで言ってます……?」 「マジだ。じゃあ後は頼んだ、代金は後で出しておくから」  ……明らかに肩を落としながら、とぼとぼと少年は部屋を出て行った。 「…………」  はぁ、と息を吐く。呼吸をするのを忘れていたのだろうか、本当はそんなことないはずなのに、酷く久しぶりに空気を吸った気がした。  ……俺は一体、何をやっているんだろう。     ■ 8 □ 「で、いつまで居座る気だ?」 「ですから、黒助さんをお手伝いするまでです」  翌日。こうもずっと部屋の中に知らん奴がいると、中々うっとうしくなる。そのくせ盗みとかはしないもんだから、えらく気味が悪い。そろそろ法の力に頼るべきか。 「あーもう、俺今から夕飯の準備するから、それまでには家出ておけ。うちにめぼしいものは何もないぞ?」 「う……でも譲れません! 僕は、黒助さんのお手伝いをするまで――」  くぅぅうううう、と、場に似合わぬ可愛いらしい音が響き渡った。……大体察しは付く。 「お前、もしかして昨日から何も食べてない?」  こくん、と少年はうなずいた。はーっ、とため息をつく。……ったく、またスーパーに寄らないとじゃないか。完全に二度手間だ。     ■ 16 □ 「……つまり、独立宣言以降この国は明確な近代国家として……」  教授が小さな声で解説しているのを、後ろの方の席で静かに板書しながら見守る。いつもと変わらない景色。変わっているのは、俺の周りだけで。 「…………」  なんでコイツまで真面目にノートとってるんだよ。ていうかノートと筆記用具どこから持ってきた。ほら、周囲からも「なにあの子、子供……?」「弟さんかしら……でも可愛い……」とか怪しまれてるぞ。いいのかそれで。  そっと身を乗り出し、ノートを盗み見る。一体どんなことを書いてるんだ―― 『黒助さんのごはんは、ミネラルが足りない』 「…………」  次の日から、朝食に乳製品を付けるようにした。     ■ 24 □ 「あー……しくった」  夏の天気は変わりやすいもの。見事に夕立に遭遇してしまった。 「頭はフードで守れる……パンはこっちで……よし、行こう」  スーパーで買った食品の配置を変えつつ、意を決して雨の中を駆けようとする。――と、 「黒助さーん! 迎えに来ましたー!」 「……なんでここにいるんだ、お前」  いっちょまえに合羽を着ながら、アイツがやってきた。手に持っているのは、俺の傘。 「洗濯物を折りたたんでたら、妙に空が暗くなってるじゃないですか。で、傘が玄関にあったんで、『これを届ければ恩を売れるのでは』と考えた次第です!」 「なるほど、持ってきてくれたのはありがとう。だがそろそろ本音は隠せ」  頭を撫でる……ことはできないから、代わりに顎の下を撫でてやった。……ちょっと可愛く感じた。     ■ 33 □ 『わやーー!?』  大学から帰って玄関を開けた瞬間、なんか、台所の方から悲鳴が聞こえてきた。 「……察しはつくが、俺が手伝おうか?」 『い、いえ大丈夫で――のわーー!?』  案の定、キッチンではエプロンを着たアイツが黒塊を錬成していた。 「……あぁもう、こんなに焦がしやがって……仕方ねえ、俺が教えてやるよ」 「え、でも今日は僕が夕飯を」 「いいから。ほら、ぼさっとしてるとまた爆発するぞ」 「え、あっ、待ってくださいーー!」  結局、その日出来たのは小さなオムライスだけだった。ほぼ全ての工程で俺が手伝ってたからアイツが作ったとは言えないかもしれないが……なんだか、いつもよりほんの少し、美味しく感じた。     ■ 42 □ 「黒助さん、遊園地に行きませんか!」 「行かない。そこらへんのカップルにチケットでも渡しとけ」  朝起きて開口一番、アイツがそんなことを言ってきた。いや、身長差的に、俺絶対コイツの保護者に見られるだろ。もしこの状態で大学の同級生に会ったらどうする? 「へー、黒助くん子供の面倒見いいんだー、案外似合ってるよ(笑)」とか言われた日には、羞恥心でタービン回せるくらい発熱するだろ。 「えぇー、絶対楽しいですよー! ほら、今日はこんなに晴れてるんですから、さ、行きましょう!」 「待て、まてまて、強引に連れてこうとするな、ていうかお前意外と力強いな!?」  くそ、コイツこんな短期間に俺の扱い方を完全に熟知しやがった……!  俺は「せめて朝飯だけは食べさせてくれ」と頼み込むと、急いで冷蔵庫内にあったパンを貪り食った。

「わぁー! 色んな乗り物がありますねー! あ、あれ面白そう!」 「…………」  いつものようにフードで顔を隠しつつ、目の前ではしゃいでいるお子様を見る。子供か。……子供だったわ。 「耳と尻尾を扇風機みたいに高速回転させるのはいいが、そんなんで一日持つのか? 適度に休憩しろよ」 「え、一日パークを周ってくれるんですか? てっきり僕は半日ぐらいかと」 「……え? あ……」  しまった、墓穴を掘った。俺もここ何日かのうちに、すっかりコイツにペースをかき乱されたらしい。……仕方ない、身から出た錆だ。とことん付き合ってやるとしよう。 「それじゃあ、アトラクション制覇しちゃいましょうか! いっくぞー!」 「お、おう……多分、最低でも三日はかかるぞ、それ……」

「黒助さんって、伴侶っているんですか?」  いきなりの質問に、飲んでいた水が肺でつまりかける。 「……コーヒーカップに乗って開口一番それって、今度は一体なんなんだ?」 「僕が昔読んだ本に、殿方が姫君をぐるぐる回すっていう遊びが載ってまして。で、さっき受付の方が『真ん中の皿を回すとカップも回る』って説明されてまして。つまり、これがそうなんじゃないかと!」 「違う。何かが根本的に違う。少なくともお前がかつて読んだそれと今お前が手をかけているそれは絶対同一のものじゃない」 「んーよく分からないのでとりあえず回してみますね。回転数は多ければ多いほど良いはずなので、遠慮無くぶん回しちゃいましょう!」 「おい待て、話をっ、話を聞けぇぇえええええ――ぁ」

「わー、今度はいっぱい人が並んでますねー」 「人気だからな。平日でも混むだろ」  ジェットコースターを目の前にして、少しおののく。超高速で悲鳴が通過していく所を見てもこれだけ列が長いとは、みんな中々のチャレンジャーである。 「……黒助さん、ここは勝負しません? どちらが平静を保っていられるか」 「……おういいとも。俺、ジェットコースターは昔から強いんだ」  アイツが悪い顔をしながら、ニマリとこちらを見る。負けじと俺も、目を細め対抗する。フッ、ここは年長者の威厳を見せる時だ……ってあれ、何か一つ大切なことを忘れてるような――あ。 「へ……? 身長制限……?」  アイツが、受付の係員の所で止められる。……あぁ、なるほど。俺も幼い頃一度、止められたことがあったんだっけ……。 「ごめんね、150cm以下の子は、まだ乗れないの……」 「…………」 「…………」  ……結局、俺だけが乗ることになった。終始真顔だった。

「お前、お化けとか平気なの?」 「んー意外と平気かと。職業柄こういったものは見てますから、今更驚くことは――ひぃぎゃっぁああああ!?」  滝を落とすようなズゴオオオンという爆音と共に、首の無い巨体の熊が襲いかかってくる。おー、よく出来てるなこれ。ワイヤーも見えないし、どうやって動かしてるんだこの熊? 「うぅ……黒助さんだけなんともないのはズルいのです……」 「俺はさっきの絶叫系とか、ホラー系は昔から大丈夫なんだよ。だからこうして、連れが恐怖してるところを一方的に観察できる」  背中をポカポカ叩かれながら道なりに進んでいく。――と、 「『恐怖の館』……? ね、ねえもう帰りません……?」 「よし行くぞ」  嫌がるアイツを強引に引っ張りながら歩を進める。さてさて、俺を恐怖させるものは出てくるのか――と、目の前に急におどろおどろしく発光する文字群が現れた。えっと、なになに―― 『 部屋のエアコン  ちゃんと切った? 』 「ゾッとしたわ! なるほど、確かにこれは恐怖の館だ!」  脂汗の止まらない俺とは対照的に、コイツはきょとんと首を傾げている。……切ったよな? 俺ちゃんと切ったよな……?

「結局、全部は無理でした……」 「最後が観覧車っていうのは、ベタっちゃベタだけどな」  観覧車に乗りながら、沈む夕日を一緒に見る。高いところに来てはしゃいでいるのを見ると、やっぱりコイツは子供だな、と思う。でも、そんなコイツの姿もいいな、と思ってしまう。 「? 僕の顔に何かついてます?」 「いやなにも。ただお前さんの毛並みが綺麗だなって思ってただけだ」 「え? あ……う、嬉しいのですが、そういうプロポーズめいたものは、自分にはまだ早いというか……」 「いやプロポーズじゃねえし――だっ!?」  抗議しようとして、天井に勢いよく頭をぶつけてしまった。地味に痛え……――と、 「――ふふっ、あははっ。あははっ」  少年が、白い毛並みを震わせながら笑っていた。……なんだよ、考えてたこと、全部忘れちまったじゃねえか。 「……ふふっ」  そんな自分が可笑しく感じて、自分も、少し口元が緩んだ。

「黒助さーん、僕、これにしてきましたー!」  気づけばもう閉園時間。アイツが土産物屋で買ってきたのは、白狼のちっちゃいキーホルダーだった。 「忘れ物ないか? ないならよし、帰るか」  ふたり並んで、帰路に着く。誰かと一緒に遊んだの、一体いつぶりだったんだろう。 「……あり、がとう。久しぶりに、腹の底から楽しめた気がした」  気づけば、いつの間にか自分の口から言葉が出ていた。白狼の少年は少し驚いた表情をした後、ふわっと笑いながら答えた。 「はい、自分もとても楽しかったです!」  夏には珍しい、爽やかな風が通り抜けた。……何か引っかかる気がする、こう、魚の骨が喉につっかえてる感じの―― 「……あ」  そういえば一つ、大切なことを忘れていた。あまりにもドタバタしていて、聞く機会を失っていた。 「――お前、名前は何て言うんだ?」 「名前、ですか?」 「ああ。いつまでも『お前』呼びは、流石に不便だろ」  そこで少年は一瞬嬉しそうな顔をして、しかしすぐに困ったような表情を浮かべた。 「……僕に、名前はありません。神使自体、雨とか雷とか、自然現象みたいなものですから、これといった名前はないのです」 「んーそうか、でも名前が無いのは不便だよな……、あ、そうだ」  一つ、いいことを思いついた。そうだな、なら―― 「『シロ』」 「……はい?」 「だから、名前だよ。白い狼のケモノだから、シロ。それがお前の名前だ。俺が今名付けてやったんだ、光栄に思え」 「……偶に、黒助さんのセンスを強く疑いたくなる時があるのです」 「な、なんだ不服か!? 俺はそれなりにいい名前だと思ったんだが……」 「――ふふっ、でも気に入りました。シロ、ですね。……はい、この名前を大切にします」  白狼の少年は――シロはそう言うと、少し頬を染めながら、満面の笑みをこちらに返してくれた。鮮やかな夕焼けに照らされたその姿は、有名な画家が描いた一枚の名画のようだった。 「お、おう、気にいってくれたならそれでいいけど……」  その光景が少し神々しくて、見ているこちら側が少し圧倒される。そのようにうろたえる自分が恥ずかしく思えて、マスクの下で頬を紅く染めた。 「ところで、黒助さん。ずっと聞きたかったことがあるのですが!」  俺の手を取りながら、シロが聞いてくる。す、少し積極的すぎじゃないか? 自分にはそういう趣味はなくても、そんな風に一生懸命尻尾振りながらキラキラした目で見つめられたら……こう、少し胸の鼓動が高鳴るというか――いけない、冷静冷静。 「どうしたんだ? あ、さては晩飯の献立か? いいだろう、今日はシロの好きなものなんでも――」

「――どうして、毛皮を隠してるんですか?」 「――――」

 夕日の光が、消えた。  視界の隅で、世界が音を立てて崩れていく。おかしいな、こんなに目眩がするなんて。昨日なんて、8時間も寝たから寝不足になるはずなんてないのに――昨日。その前は、もっと過去には、何があった。……アイツが死んだ後、何を見た? 「あっ、えっと、出会ったときから一貫してる黒ずくめな姿も素敵だと思うんですけど、僕、部屋で黒助さんの写真をたまたま見つけて」  ――意識が飛びそうになる。光景が、フラッシュバックし始める。視界は逆流し、目の前の住宅街は遠ざかり、縮小し、消える。代わりに、置き去りにしたかった過去に、現在の自分が追いつく。そう、あれは―― 「――あの写真に写っていた黒助さん、すごくかっこいいなぁって! 特にあの■■■な毛並みがとにかくかっこいいなあって僕は思ったんですが――」  シロが興奮した様子で何かを言っているが、何を言っているかまでは聞き取れない。何か、俺にとって大切な所が、ノイズになって聞き取れなかった気がする。 「……あ、れ、く、黒助さん? どうされたんですか!? どこかお怪我でも」 「――っ、触るな!!」 「わっ……!」  反射的に、シロを突き飛ばしてしまう。しかし――神の悪戯だろうか。もしこれがシロの言うところの神の仕業なら、俺は一生神を恨んでいたかもしれない――シロの手が、俺が被っていたフードを偶々はじき……そのまま俺が隠していたものを、いとも容易く、さらけ出してしまった。 「いったた……はっ! く、黒助さん!? どうしたんです――か、いきな、り」  ……一陣の風が吹き、俺の毛の一部が空に舞った。夕日は既に落ち、星のない空の下に、真(まこと)の色を示し出す。 「……え……なんで……□□□な毛並みに、なってるんですか……?」  ずっと、気づきたくなかった。認めたくなかった。アイツが死んでしまったことは、薄々、認めてはいた。でも、あのときを境に失ってしまったものは、どうしても、認めたくなかった。認識のテクスチャを、上書きしたくなかった。アイツだけが肯定してくれた、大切なものだけは。……それでも、いつかは夢も覚めてしまうらしい。どんなに心地いい夢でも、どんなに悪い夢でも。いっそのこと、あのときの出来事自体が悪夢であってほしかった、と思ってしまう。  俺は、腹の中にため込んでいた一つの事実を、小さく濃縮して、ふっ、と吐き出した。

「……やっぱ、お前にもそう見えてるんだな……真っ黒(・・・)じゃなくて、真っ白(・・・)に――」

 ――白。真っ白。全てが漂白されてしまったように真っ白な毛が(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、暗い空へと吸い込まれていった。     ■ * ■ 「……あーもう、いつまでも泣いてんじゃねえ! お前の灰色の毛並みが台無しじゃねえか!」  ある雪の日のことだった。今よりもずっと小さかった頃、俺は、アイツと出会った。  最初、アイツは泣き虫だった。なんでそんなに泣いてるのかはわからなかったが、俺はアイツが泣いてるのがいやだった。本当はあやす気なんかないが、どうも気に障る。俺は、いつの頃からかアイツと一緒にいるようになった。  そうして、いくらか時間が経ったあと、泣き虫だったアイツが言ったんだ。 「きみの真っ黒な毛皮、すごくかっこいいね!」  初めて見る表情だった。向日葵のような笑みだった。その日アイツは――雪哉は、俺に大切なモノをくれたんだ。

 逃げる。逃げる。何から――あの瞬間から。目の間の現実から  いくら逃げようとも、その現実はいつまでも追いかけてくる。……逃げられない? その事実を認識するまで、もう十分な時間が過ぎてしまった。……逃げられないのなら、戻りたい。現実との鬼ごっこを始める前に。あの出来事が、起きる前に。  ――雪哉が生きてた頃に、俺が黒い毛並みだった頃に、戻りたい――     ■ 49 □  あの日から一週間、シロは俺の前に姿を現さなかった。……俺の方が、シロを避けてたのかもしれない。  行く便りもなく、雨の降る街に繰り出した。傘は持たない。傘に写る灰色の影を見ると、どうしても親友の毛並みを思い出すからだ。  車に、水をかけられる。いっそのこと、濡れて毛皮に纏わり付いた俺の黒い服が、そのまま俺の毛皮を上書きすればいいのに、と思う。  そうして歩いている内に、橋に辿り着いた。雪哉が死んだ橋だ。……そしてそこに、白狼の少年はたたずんでいた。 「……俺は、元々黒い毛並みだった」  誰に言うでもなくぽつりと、雨が落ちるように言葉を落とす。 「元々口数が少ないのもあって、周囲には気味悪がられてた。そのうち自分ですら自分が嫌いになったとき、雪哉と出会った」  シロは、何も言わない。 「アイツは最初、泣き虫だった。そんなアイツが見てられなくて、一緒に遊んでやって……しばらくたって、アイツが言ったんだ。『君のその黒い毛並み、かっこいいね』って。……嬉しかった。今まで誰もそんなこと言ってくれなかったから、凄く嬉しかったんだ。……その日から、俺は自分の黒い毛並みが好きになった」  でもアイツは……一ヶ月前、交通事故で死んだ。俺の目の前で。俺をかばって。 「辛かった。信じられなかった。……でも、せめてアイツの分まで生きようと思った。病室のベッドで起きた後、そう誓った。その後、医者を呼ぼうとして、たまたま鏡を見て……知らない自分が、そこにいた。最初は、別の誰かだと思った。でも、時が止まった鏡を見て悟った。誰かじゃない。俺だ(俺じゃない)。親友が好きだと言ってくれた俺じゃない。俺が好きになった俺でもない。そこにいたのは、白い毛皮になっていた、誰か(俺)で――」  その後、強烈な吐き気が襲ってきた。幸い、医者が来たから大事にはならなかったが、そのまま気絶してしまった。薄れゆく意識の中で、こう思った。――あの頃に、戻りたい、と。 「……シロ、最初に会った時『願いを叶える』って言ってたよな……みっともないことは分かってる。こんなの、あまりにも自分勝手すぎるって。……でも、頼む……お願いだから、頼む、頼ませてくれ」  シロの体を揺さぶりながら、みっともなく、すがる。雨(しずく)で視界がぼやける。 「……雪哉が、生きてた頃に、俺が、俺だった頃に、もどしてくれ……なぁ、頼む、よ、なぁっ……!?」  お願いだ、お願いします、おねがいだから。ら、だか、だから、ぁっ、あいつを――  その声は、もはや獣の慟哭に近い。息が荒くなる。嗚咽と共に、こころが漏れる。……でも、それでも、それでも俺は――

「既にこの世から去った方を、取り戻すことはできません」

 ――表情の分からない顔で、シロが答えた。途端に、雨音が耳に入る。道を歩く人(ケモノ)達の話し声も、店の中から流れてくる特売の情報も、全てクリアに聞こえる。雨が降るときに香るあの独特な匂いも、ベーカリーで売ってる焼きたてパンのお日様のような匂いも、はっきり鼻が認識する。信号機の発光する青色も、4Kテレビのように鮮明に見える。今なら、落ちる雨粒一つ一つでさえ見切れるかもしれない。

 なのに。なのにどうして。  俺とシロのいる空間だけ、時間が止まっているんだ。

   周囲では通行人が傘を差しながら行き交っている。車はライトを点け、時折ハイビームで電柱を強く照らしながら、過ぎ去っていく。 「………………なんで」 「雪哉さんの魂はすでにこの世になく、帰るべき肉体ももうありません。だから、出来ないんです」 「………………魂と、肉体って」 「生物は魂と肉体によって構成されています。片方でも欠けると、じきに死にます」 「…………魂を他の肉体に移し替えることは出来ないのか」 「出来ません。無理に行えば、拒絶反応を起こします」 「……雪哉を、取り戻すことはできないのか」 「はい」 「本当に……、……できないのか」 「…………はい」  けものは、啼き続ける。目の前の全てがどうでもよくて、どうでもよくなくて。沸騰する思いを爆発させたくて、歯を食いしばりながら内に留めて。それでもと、枯れ木を絞るような声で、もう一度叶わぬ願いにすがろうとして。  そうして、ようやく気づいた。  掴んでいた体が、いつの間にか幻となっていたことに。  身体が、宙に飛び出していることに。  視界の端から、強い冷光が高速で迫っていることに。  ……罰、なのかな。なあんだ、あまりにも自業自得じゃないか。逃げて、勝手にすがって、最期がアイツと同じって。なんて、情けない。 ――冷光が迫ってくる。  …………あぁ、でも。 ――目を閉じる。瞼裏の明るみには、すぐに墨が落とされるのだろう。  …………アイツと同じ所に行けるんなら、こんな最期でも、いいのかもな。 ――墨の雲が世界を覆い尽くす中を、か細い遠吠えが奔っていった。   そして。   暗闇に沈む積乱雲を、黄昏の空が吹き飛ばした。

「…………ぅ……ここ、は……?」  目を開ける。痛みはない。傷もない。もうすでに、自分は死んでしまったのか。――なんてことは、今はどうでもいい。俺は、目の前の景色に感覚の全てを奪われていた。

 地平線の彼方まで続く、甘く鋭く咲き誇る雪の花(スノードロップ)。黄昏色のグラデーションをかける、雨上がりの午後の空。彼方に茜さす、霞に輝くこがねの夕日。

 そしてその先の花弁舞う丘に、白狼はいた。叫ぶより早く、駆け出していた。 「……ここは、この世とあの世の狭間にある『境界』……黒助さんは今、ここに迷い込みました」  シロは背を向けたまま、淡々と答えた。 「……車に轢かれて、死んじまったってことか?」 「そうならないよう、僕が少し未来への軌道を曲げました。今は気を失っていますが、じきに現実で目が覚めるはずです」 「……なんでだよ」  思わず、声が漏れる。足下の花が、震える。 「俺があのまま死ねば、雪哉と会えたかもしれない。現世にもうアイツがいないのなら、そうするしかないじゃないか……! なんで俺を生き残らせたんだよ……!?」  けものの慟哭が、黄昏の空に響き渡る。対して白狼の少年は、こたえた。 「生きていて、ほしい。黒助さんにはまだ、生きていてほしいんです」 「……なんでそんなこと言えるんだよ。俺はもう、生きてても、なにも……!」  言葉がそこで途切れる。……かわりに、あたたかな風が、ほのかに花の絨毯を撫でた。

「だって――だって、僕と一緒に居たとき、黒助さん、本当に楽しそうだったんですから――」 「――――」

 目を、見開く。無辜のけものにとどいたのは、ふわっとした無垢のこえ。瞬間、日々が、視界にあふれ出す。  ……最初は、ゴミを押しつけた。次の日は夕飯を作ってやったのに、まずい、と散々言われた。その後は、ベッドを奪い合ったり、掃除をしたり、毛繕いしてやったり、勉強を教えたり、ハンバーガーを食べさせてやったり……確か、花火をやったりもした。  ――大学までついてきた日。傘を持ってきてくれた日。一緒に料理を作った日。遊園地に行った日。……シロに、名前をあげた日。  全てが、その全てが、昨日のことのようで―― 「……そんなの、嘘だ。俺はそうは思っていないはずだ。どこか後ろめたさを感じて、一歩引いていた。アイツに申し訳ない気がして、ずっと――」 「――嘘じゃないです、本当のことです。神使は嘘も見抜けるんですよ? 貴方の胸に芽生えた感情は、ちゃんと本物です」  それと、とシロは付け足した。 「貴方は、本当は優しい方です。痛みを知ってるから、他者を気遣える。親友のことを、こんなにも想うことができる。ただ、ほんのちょっと不器用なだけなんです。  ……もういない方のことを想うのは、とても大切なことです。でも、あなたの道はそれだけじゃないんです。あなたはあなたの道を歩いていい。……あなたに必要だったのは、自分を許す気持ちです。前を向いていいと、足を踏み出していいと、そっと背中を押すふわふわの尻尾。  自分たちには、手が二つあります。片方で友を想い、片方で自分を想う。二つは両立出来るんです。……だから、その二つの気持ちを大切に、あなたのやさしい毛皮と肉球で、包み込んであげてください」  何かがこぼれそうになって、必死に食い止める。わかってる。俺に必要なモノも。そこから目を背けてたってことも。全部わかってる。こんなの、くだらない意地だ。でも、認める勇気がなかった。俺を支えてくれていたモノは、あの日、消えてしまったのだから。アイツも、アイツが肯定してくれた黒い毛皮も。 「でも……俺は失った。俺の黒い毛皮は、アイツが認めてくれた、一番の親友が『かっこいい』って褒めてくれた、命に代えても失いたくないほど大切なものだったんだ。俺が俺でいられる、俺自身を肯定する、俺自身が肯定できる、そんなものだったんだ……! なのに、それを失ったら俺は…………恐い、恐いんだ。アイツが認めてくれたものが消えると、俺が俺でなくなる気がして、アイツが認めてくれた俺が消える気がして、そのうちアイツが認めてくれたっていう記憶も、アイツの存在自体も、永遠に失われる気がして――」  それが、恐くてたまらかったんだ。  壁が迫ってきて、それに押しつぶされる気がして。必死に手を伸ばしても、俺の手にあったものは永遠に取り戻せなくて。 「だから、願いたかったんだ。あの頃に戻りたいって。アイツともっと笑いたいって。真っ黒な毛皮を持ったあの頃の俺を肯定してくれた、俺の目の前を照らしてくれた、アイツと一緒にいたいって」  ……でも、それは無理なんだ。自分自身でももうとっくに分かってる。アイツはもういない。あの頃はもう取り戻せない。真っ黒だった俺の毛皮は、もう戻らない。 「確かに……その願いを叶えることは出来ません。……でも、想いが、気持ちまでもが、永遠に失われるわけじゃないんです。……僕が黒助さんに出会う直前の話って、しましたっけ」 「……確か、最初に出会った日、神様に俺を手伝うように言われたとかなんとか……」 「はい、確かに僕は、神様に黒助さんを手伝うよう言われました。現世的に言えば、神様が会社の部長で、僕が営業に向かう平社員、みたいな感じですね」 「……よく分からない例えだけど、本当は神様に言われたことじゃないのか?」 「いえ、違いません。ただ……自分が現世に向かう途中、境界(ここ)で、とある魂に出会ったんです。なんでも、記憶を渡したい(・・・・・・・)とか」 「……へ? そんなの無理みたいなこと言ってなかったか? 拒絶反応がどうたらとか、そんな感じの」 「はい、通常であれば、異なる者同士の記憶の共有は出来ません。ですが、魂の根元が同じ場合――ごく僅かながら、受け渡しが可能です」  目を丸くし、驚愕する。 「まあ、そんな魂の根元が一緒の方なんてまずいませんし、受け渡せたとしても殆どの情報は破損しますが……その方と、僕は、いわば同位体同士でした。ボロボロになってまで、自らにとって一番大切な記憶を、渡してくれたんです」  風が、暖かな風が、周囲を囲み出す。シロは、とても尊いものを抱えるようにしながら、ゆっくり歩き出した。 「その方は、自らの真っ白な毛が好きでした。綺麗で、美しくて、かっこよくて。そのときの彼にとっての一番は、間違いなく彼のその真っ白な毛皮でした。しかし、それはすぐに消えてしまいます。  彼の種族は、夏と冬で毛が入れ替わります。夏は白い毛皮ですが、冬は別の色の毛皮です。冬を別の色の毛皮で過ごした彼に、待ちに待った夏の季節がやってきました。でも、いくらたっても夏毛に生えかわらない。あの白い毛皮にならない。そのまま季節が流れ、結局、彼はずっと冬毛のままでした。  そんな自分が嫌で、ひとり泣いていた頃、同い年ぐらいの子供がその方に近づいてきました。悪態をつきながらも、その子供はその方に言ったのです。『灰色の毛並みが台無しじゃねえか』、と」  ――――。

「最初は、その言葉もいやだったそうです。なんで僕の嫌いなものを褒めるの。こんなの本当の僕じゃないのに、と。でもその子供は、翌日も、その翌日も泣いていた彼を変わらずあやしてくれました。そのうち、彼らは一緒に遊ぶようになります。そうしている内に、彼は心の中でこう思うようになりました。『ああ、この子は、今の僕を真正面から見てくれているんだ。白の毛皮じゃない、今の僕でも、ちゃんと触れ合ってくれるんだ』――そう考えた瞬間、彼はその子供が褒めてくれた自分の毛皮が――灰色の毛皮が、世界で一番大切なものになったのです。そしてそんな風に自分の毛皮を褒めてくれた彼に、心の底からずっと思っていたことを言いました。『きみの真っ黒な毛皮、すごくかっこいいね!』と。その子供を、真正面から見て。その毛皮だけじゃなくて、その子供の全てが、好きだったんです」

   視界が、かすむ。光を反射する花吹雪が、□□の、夕日を背にした□□の輪郭を、果てしなくぼやかしていく。 「僕は、その方の毛皮が灰色にならなかった――白い毛皮に戻っていた未来、ありえたかもしれない未来の残滓が形をとったもの。雪哉さんの――白野雪哉の、貴方と出会わなかった空想上の存在です」  今までなんとか形を保っていた心の器が、ぽろぽろと、雫をこぼす。嗚咽が、漏れていく。

「だから、っていうのも変な話ですが……大丈夫です。黒助さんならきっと。その白い毛皮を好きになる時がきっと来ます。だって――『僕たち』が真っ黒な毛皮の黒助さんをかっこいいと思うのと同じように、僕も真っ白な毛皮の黒助さんのことをかっこいいと、大好きだと思うんですから――!!」  シロはそこで振り返ると、今初めて見る(昔見たことがある)向日葵のような笑みを、俺に向けた。

「……俺、頑張ってみるよ」  目からこぼれていたものを拭い、シロに向き直る。夕日がどんどん光を増していく。花吹雪がどんどん強くなっていく。もうお別れが近いのだろう。 「前を向いてみる。もしまた下を向いたら、そのときはお前の尻尾で遠慮無くはたいてくれ。だから……見守っててくれ。お前が大好きだと言ってくれた、この俺を」  視界は光に塗りつぶされ、意識が飛ぶ――その刹那、確かに見た。

 手を組み、頬を染めながら笑顔で見送る、白狼の姿を。

 ……視界が、クリアになっていく。気づくと、あの橋の上だった。あれだけ地面を叩きつけていた雨はもう、上がっている。  怪我はどこにもない。尻尾を引っ張る……うん、ちゃんと痛い。生きてる、俺。 「……っと、そうだ、今日はタイムセールがあるんだった……!」  慌ててその場から駆け出そうとする。今の時間を確認しようとポケットの中のスマホを探り――と。 「あ……」  そこには、あの時遊園地で買った、あのキーホルダーが残っていた。 「……うん、俺、頑張るよ」  ――目の前には、とても、とても綺麗な夕焼けが広がっていた。     □ 50  あるいは1 □ ――今でも少し、想うときがある。   あの時。あの瞬間。別のことが起こったら、未来はどうなったのか。   幻想的で、現実感のない願いだけど、だからこそ空想してしまう。その『続き』を。閉じてしまった、扉の先を。 ――でも、もう戻りたいとは思わない。   その時が、どれだけ辛かったとしても。胸を引き裂かれるほど痛かろうとも。   そこでブツ切れになって、永遠にお別れをするわけではないのだ。   この胸に残ったのは、喪失の痛みだけじゃない。   大切な存在から託された、白い想いがある。   そして目の前には、鮮やかな彩りを放つ、広い世界が広がっている。   そこに自らの白い身体を浸したらどうなるのだろうか、と考えるだけで、この上なく胸が躍る。 「――よし、行こう」  スニーカーの紐をしめ、リュックを手に取る。耳と尻尾の毛先を整え、ふわぁ、と牙を見せながら少し欠伸をする。鏡に映る顔は、白い毛が生えた自分の顔は、やや童顔に感じられてなんだかくすぐったかった。 ――黒い日々も、とても楽しかったとも。   大切な存在と語り合って、笑って、日々を過ごした。   この先、黒い日々はない。でも代わりに、白い日々が待っている。そしていつか、自分に言ってやろう。   「戻りたいとは思わなくなるほど、これからの日々は楽しいものだった」って。   後悔する暇も無いほど、光の速さで駆け抜けていった、って。

 手が掛けられ、ドアが開いていく。その様子を、玄関に置かれた白狼のキーホルダーが、ほんわりと見守っていた。