「ただいま」  乾いた声が空洞に寂しくこだまする。誰もいないのにもかかわらず、いまだにクセで帰ってくると挨拶をしてしまう。  きみが巣を出ていってから、三年が経とうとしているのに。がらんと静まりかえった洞窟の中で、奥に飾っている白い宝物をいつものように見つめる。きみが生まれたときから、だいじにとっておいてある。たまごの殻だ。  最初にこのたまごを目にしたときから、殻には深いヒビが入っていた。中の子は生まれてこられないかもしれない。そう思っていた。だから、数十日後、きみが孵った日には涙した。割れ目をやぶってくちばしがのぞいたときは、ほんとうに嬉しかった。  まだ目も見えないひよこのきみは、ぴいぴいと元気よく鳴いていた。ふわふわで雲のようなうぶ毛につつまれ、歩けるようになってからはわたしの後ろをよたよたと一生懸命追いかけていた。はじめての子育ては不安ばかりだったけれど、きみが元気に育ってくれるよう、努力したつもりだ。たまごにキズがあったためか、翼に灰色の羽が生えそろってもあまり大きくはならなかった。飛ぶことには苦労しそうだと心配になった。けれど、それでも明るく素直に育ってくれたことを、わたしは誇りに思っている。  初めてお母さんと呼んでくれた日のことは忘れない。きみはいつでもわたしの後をついてきた。狩りをするときは巣の中で留守番をしてもらっていたけれど、うまく飛べないきみを背中に乗せて出かけるのが日課になっていた。  きみが生まれてから二年ほど経っても、そんな生活が変わらず続いていた。サバンナの水辺を散歩していたある日のこと。水面に映った自分の姿と、わたしの姿を見比べて、きみは尋ねた。 「ぼくは、いつになったらお母さんみたいに大きくなれるのかなあ」  わたしは、まだまだ先だよと微笑んで答えた。 「ぼくは、いつになったらお母さんみたいにかっこいいウロコが生えるのかなあ」  わたしは、もう少ししたらねと笑顔をつくって答えた。 「ぼくは、いつになったらお母さんみたいに立派なとぐろが巻けるようになるのかなあ」  わたしは、笑えなかった。  そんな日は、待っても訪れはしない。

 きみはトリで、わたしはヘビなのだから。

 今から五年前のことになる。獲物を探して草原を這っていたところ、草むらの上にたまごが転がっているのを見つけた。すぐそばのアカシアの木の上に巣があった。あそこから落ちてしまったのだろう。殻にはヒビが入っていたけれど、奇跡的に割れずに済んだらしい。親鳥は不在のようだった。  ああ、かわいそうに。このたまごの運命を悲嘆した。このままでは、たまごはダメになってしまうか、誰かに食べられてしまうだろう。そう、腹を空かせたわたしのようなニシキヘビに。  しかし、その当時のわたしは違った。かろうじて命をつないだそのたまごを――きみを、連れて帰ることに決めたのだ。なぜなら、わたしは子どもがほしかったから。子を授かることができない身体だということが、わかったばかりだった。愚かにも、白いたまごは天からの賜物だと信じて疑わなかったのだ。  いつかは真実を伝えなければならない日が来る。わかっていたけれど、きみのまぶしい笑顔を見るたびに、その現実から目を背けていた。頭の片隅に埋め込まれたジレンマの種は、芽を出し根を張らせていくばかりだった。  しかし、二本足で歩こうとせず、ばたばたと地べたを這って進もうと練習するようになったきみを見て考えた。この暗闇の巣で、ヘビまがいの生涯を遂げることが、果たしてきみの幸せになるだろうか。きみのことを想うならば、わたしのそばで生き続けるのは間違っているのではないだろうか。葛藤に押しつぶされそうになりながら過ごしていた矢先、問いを投げかけてきたのはきみの方だった。 「お母さんは、ぼくの本当のお母さんだよね?」  全身の鱗が剥がれ落ちてしまいそうなほどに、背筋が凍った。どうしてそう思うのかと肝を潰しながら聞き返すと、きみは得意げに答えた。 「お母さんが狩りに出かけている間に、アオサギっていう生き物が飛んできたんだ。いつもぼくたちのことを見ていたらしいんだけど、とっても失礼なやつなんだ。食べられる前に早く逃げた方がいいだなんて言うんだよ。だから、余計なお世話だって追い返してやったんだ!」  いつの間に覚えたのか、くちばしを大きく開けてヘビのように威嚇のまねをしてみせるきみを見て、なお胸に痛みが走った。自身の長い胴体で、胸を締めつけているようだった。 「お母さんが、ぼくのことを食べたりするはずないのにね!」  無邪気に笑うその様子に、耐えられなくなってしまった。疑うということを知らずに育ってしまったきみに対して、狡猾に嘘を吐き続けることができるほど、わたしは強くなかったのだ。 「お母さん?」  首を傾けるきみを前に、すべての真実を伝えた。  わたしはヘビで、きみはトリという生き物だということ。  トリは大きくなってもヘビにはならないということ。  ヘビは獲物としてトリを食べることがあるということ。  きみにはトリのお母さんがいたはずだということ。 「うそだよ!」  最初はぽかんとして聞いていたきみは、わっと顔を歪めて否定した。どうしてそんな酷いことを言うのかと、今までみたことないほどに怒って泣きついてきた。  わたしはそんなきみに対して、牙を剥いて見せつけた。 「……っ!」  そのとき、きみがはじめて翼を広げ、宙を舞ったのをよく覚えている。こわばった幼い表情に胸をえぐられながらも、心のどこか奥深くでほっとしているわたしがいた。  きみがちゃんと、トリに戻れるとわかったから。  涙を流しながら羽ばたき暗い洞窟から飛び出していったきみは、ついに帰ってくることはなかった。

 そして現在。結局、きみにとっての幸せがなんだったのかわからないままだ。  今、きみは幸せに暮らしているのだろうか。たまごのまま、生まれない方がよかったのか。そもそも本物の親鳥がすぐに戻ってきて、まっとうなトリとして育てられていた可能性もあったかもしれない。想像を巡らせてみても空回りするばかり。けれど、わたしの身勝手な行いが、きみの生を狂わせてしまったことだけは確かだろう。  抜け殻になったわたしは、きみのたまごの殻から離れられないでいる。いちばんの心残りは、真実を伝えたあの日、ひとつだけ最大の真実を伝えられなかったことだ。きみを愛しているという、まちがいのない真実を。たまごをなでるように眺めながら、そう声を漏らしていた。 「ぼくも、大好きだったよ」  たまごに向かって声をかけたところで、返事が聞こえた。ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。救いようのなさに、あきれてしまう。だって、その声は悠然としていて大人びているけれど、どこか懐かしいような響きさえして―― 「お母さん」  もう一度、声が聞こえる。ハッとして、からだを持ち上げた。 「ただいま」  振り返ると、きみがいた。 「帰ってきたよ」  透き通った大きな瞳に、長く伸びたまつ毛。その周りは鮮やかなオレンジ色で塗られていて美しい。すらりとした白と黒の体の先端には、黒い冠羽が風を切るようになびいている。  ふわふわな羽毛にくるまれていたときの姿とはまるで異なっていたけれど、すぐにきみだとわかった。  どうして帰ってきたのか、元気で暮らしていたのか、様々な問いが浮かぶのに、うまく言葉にできない。全身で抱きしめてしまいたい気持ちに駆られたけれど、落ち着いてきみの言葉を待った。 「外の世界に出て、いろいろなことを知った。お母さんに教えてもらったことも、自分の目で確かめて、答えがわかったよ」  すっかり立派になったその姿は、まちがいなくきみだった。 「ぼくは……ヘビクイワシだったのさ」