森のなかに響いた銃声が、今回の作戦も失敗したことを告げていた。  湧き上がってくる感情は回数を重ねるごとに鈍くはなってはいるものの、決してなくなるわけじゃない。胃酸がこみ上げてきて喉が焼けそうに痛い。だからといって、ぼくは諦めも、逃げもしない。これが�T普通�Uだなんて、とうてい受け入れられるわけがないのだ。  さて、この物語はまもなく終わりを迎える。そしてまた、最初のページに戻るのだ。

 子供のころ、両親や幼稚園の先生が絵本の読み聞かせをしてくれるたびに、ぼくは世界からひとり取り残された気分だった。いつだったか「どうしてオオカミさんはいつもいじめられるの?」なんてことを聞いたことがある。かえってきたのは「オオカミっていうのは悪くて、怖いヤツなんだよ」そんな言葉だった。  もちろん、大人になった今なら、彼らの言っていたことも理解はできる。子供に道徳や教訓をわかりやすく伝えるために、悪者の象徴として描かれているにすぎない。オオカミが悪者として選ばれた理由には、家畜を脅かす肉食獣であることや、宗教的ないきさつなんかもあるらしい。  宇宙までロケットを飛ばし、スマートフォンでありとあらゆる情報にアクセスできる時代。自然の保護が叫ばれ、テレビでも野生動物を扱う番組が増えてきた。そんな現代では、オオカミが悪者だと本気で信じている者は希有だろう。物語のなかのキャラクタと本物の動物とは全く別物なのだから。  それでも。 「ほらみて、ガオーって食べられちゃうよ!」  動物園ではこんな会話が聞こえてくる。  目くじらを立てる必要なんてどこにある。微笑ましい親子の一幕ではないか。いい大人が割り込んで「それは誤解なんです。オオカミっていうのは実はね……」なんて話しかけたら警備員につまみ出されるのがオチだろう。  己の幼稚な考えを、どうにかこうにか押し込めてきた。動物園でも、書店の絵本コーナーでも、見て見ぬ振りをしてきた。それなのに、忘れようとすればするほどに子供のころの自分が問いかけてくるのだ。「どうして」と。

 そんなある日、この夢を見た。  いや、まだここに居るのだから、見ている、見続けているというのが正確だろうか。夢の中でこれが夢だと自覚する。なんと言ったか、明晰夢というヤツだ。未だに覚める気配はなし。  夢だと断言できる理由は簡単だ。ここはあの物語の舞台がそっくり再現されている。森の中に建つおばあさんの小屋、赤い頭巾を被った少女、それをたぶらかす悪いオオカミ。二足歩行で喋るオオカミなんて現実には存在しない。 「あの。そ、そこのあなた。オオカミさん」  ピクリと跳ねた耳。訝しげな目がぼくを睨む。  予定外の登場人物に眉をひそめる彼をよそに、ぼくはなめ回すようにその身体をあらためる。よかった。白っぽい毛に覆われたお腹には傷ひとつない。 「なんだあ? そういう自分もオオカミじゃねえか」  変なヤツ。そう言ってカラカラと笑うオオカミ。なんとなく気恥ずかしくなって鼻をかく。そう、どういう因果かこの世界ではぼくもオオカミなのだ。いつもならこんなミスはしないのに、昔のことを考えていたせいだろうか。 「はは、それもそうですね」  気を取り直して集中。今回はどのパターンだ。  何百年も語り継がれてきたこの物語には、お決まりの展開もあればそうでない箇所もある。話の大筋としては誰もが知ってのとおりなのだが、オオカミの最後は、腹をハサミで割かれて石を詰められたり、釜ゆでにされたり、さっきみたいに銃で撃たれたりと散々なものだ。そして悪いオオカミがやっつけられるとハッピーエンドが訪れて、また物語が最初から繰り返される。 「あなたのことが好きですっ!」  あんぐりと開けられた口。沈黙。フリーズ。やってしまったか。  これまでいろんなアプローチを試してきた。いっそのこと自分が悪者になればと考えて、この牙をつかって、思い出したくもないとても残酷なこともした。けれども、どうやったって結末は変えられなかった。タイムトラベルものの映画なんかでよくある「運命は変えられない」ってヤツなのか。 「えっ!? い、いやあ、イキナリなに言って……」  我に返ったオオカミが、頭をブンブンと振った。  彼の言うとおり、突拍子もないことは自覚している。ただ、率直な気持ちだった。

 ぼくは、かわいそうなオオカミに同情していた訳じゃない。理不尽で不公平な扱いを正そうと正義に燃えていた訳でもない。理屈も理由もサッパリわからないし、極めて独善的な考えではあるものの、単純にオオカミが好きなのだ。心の中にしまい込んでいた気持ちを一度吐き出すと、身体がふわりと軽くなるのを感じた。 「お腹が空いたら、ぼくがこの鼻で食べ物を探してきます」  長年の一人暮らしで磨いた料理の腕だって存分に振るってやる。 「困ったことがあったら、ぼくがこの耳で相談にのります」  これでも元人間なんだ。それなりに知恵だってあるんだぞ。 「危ない目に遭いそうなときは、ぼくのこの牙で守ります」  腕っぷしはそんなに自信がないけれど、これでもいっぱしのオオカミなんだからな。 「もし、もし、どうしようもなく寂しくなったときには……」  たとえ気休めでも、この体温で孤独を紛らわせることができるのならば。 「だから、ぼくといっしょに」  そこまで言って、オオカミの手をとった。  気持ち悪いと振りほどかれるだろうか。面白い冗談だと一笑に付されるだろうか。  そんな予想に反して、ぐいと引き寄せられてつんのめる。柔らかな毛並みの見た目に反してゴツリとかたい身体。息をするたびに腹の毛が擦れる。右胸にもうひとつの鼓動を感じ、心地よい暑苦しさが充満していく。 「約束、だからな?」

   まだ薄暗い部屋のなかで目を覚ました。  ぼやけた頭で布団から手を出して眺めてみる。非常に残念なことに、人間の身体になっている。  長い夢だったと落胆のため息を吐ききる前に、飛び起きてパソコンの前に座った。たとえ夢だったとしても、あの温もりや言葉は嘘じゃない。真っ黒な肉球もフサフサの毛もないけれど、この指だからこそできることがある。  その日からぼくは、オオカミが幸せになる話を書きはじめた。誰も書かないのならばこの手で書いてやる。所詮は自己満足でしかない行為だ。誰がこんな話を読みたがるというのだ。オオカミは悪いヤツで、そんなオオカミを成敗して円満解決。そんなセオリーが面白さってヤツなのだ。それでもせっかく書いたのだし、色物だと笑われてもいい。もし、もし誰かひとりでも共感してくれたら。冗談半分で、残りは祈るような気持ちで、投稿ボタンをクリックした。  ぼくが今でもこうしてキーボードを叩いているのは、彼との約束はもちろんのことだが、ぼくと同じように幸せなオオカミの物語をつくるひとたちがいるからだ。

 休日に出かけた動物園でのこと。 「オオカミさんこっちにいるよ! あんたずっと見たがってたもんね」  オオカミ舎の前でのありふれた光景。母親に促された子供がおそるおそる踏み出して、オオカミをじっと見つめた。  幸せなオオカミの物語がまた増えそうだ。