「ねぇ、トウリ」  窓から空を見つめながら黒い耳をぴくぴくさせて、ヌートは僕の名前を呼んだ。 「ムサシ山に、行きたいなぁ」  澄み切った青空の広がる、いい天気だ。ハイキングに適しているだろう。 「でも、今日は仕事が……」  僕の言葉は、キッと睨むヌートの目に遮られた。 「僕が行きたいって言ったら、なにがあっても行く。約束でしょ?」  黒い毛に覆われて、鋭い瞳を放つネコらしい、ヌートの顔。表情こそ違えど、僕と瓜二つだった。 「……あぁ、忘れてないよ」  僕は鞄を下ろして、スマートフォンを取り出す。 「今日は休みます」  ヌートが山に行きたいと言ったら、行く。ヌートとは、そういう約束を交わしているんだ。

  「んー、バスって退屈!」  山の中腹まで続くバスから下りると、ヌートは背筋をぐいっと伸ばした。 「やっぱり山の空気って、なんかいいな」  大きく息を吐いて言うと、ヌートは僕の顔をじっと見て「例えがおじさんくさいね」と返した。 「確かに、その通りかもしれない」  苦い顔で笑うと、ヌートはにかっと笑った。 「ムサシ山なのに、ずいぶんと静かだね」  バスも乗っていたのは僕らだけだった。時期が時期ならハイキングを楽しむ大勢の家族が見られるが、今は閑散としている。 「シーズンオフだからな、仕方ないさ」 「何さ、シーズンって。登りたい時に登ればいいのに」 「そういうわけには、いかないんだよ。大人になると」  ふぅんと、ヌートは興味なさげだった。僕らは山を登っていく。

  「あぁ、ねえねえ!」  ヌートは足を止めた。 「さかさ坂だよ!」  目の前に続くのは、U字にうねるような山道だ。見た目は下り坂から上り坂にのように見えるが、実際は目の錯覚で、上り坂から下り坂になっているんだ。  だから、さかさ坂なんて、誰かが言った。 「確か名付けたのは、ユノだったな」  ユノ……ウサギの種族で、絵を描くのが好きな、小学生からの友達だ。  中学生までずっと一緒だったけど、高校で離れ離れになった。あいつの家でよく遊んでたけど、漫画家になるのが夢とか言ってたな。 「あいつは昔から、ヒトに変なあだ名をつけてたっけな」 「トウリのあだ名は、もやべぇ!」 「なんでそんなあだ名、つけられたんだっけな」

  「これも! なつかしい!」  さかさ坂を渡ってから、二十分くらいは歩いたかな。ヌートはまた足を止めた。  ここは、分かれ道だ。左に行けば別の登山道の下りを進み、右へ行けば山頂へ進む。  ヌートが指さしたのは、その真ん中にある岩だ。平べったくて、子どもくらいなら、腰掛けるのにちょうどいい高さだ。 「なんだっけ、これ」 「ケンタだよ、ケンタ!」  ケンタ、その名前を聞いて思い出した。  リスの種族で、体は小さいのにスポーツが好きでサッカーや運動会のリレーでいつも活躍してたやつだ。 「確か山登りなんて楽勝って突っ走って、ここで息を切らしてぶっ倒れてたな」 「みんな、ケンタ、心配してたね」 「あぁ、明るくていいやつだったしな」  ヌートはその岩に仰向けで寝転がった。木々が生い茂る空から、点々と光が漏れていた。 「つめたくて、気持ちいいよ、トウリ」 「よかったね」 「トウリもやろ!」 「いや、僕は……」 「やろ!」 「…………」  十分くらい、僕らは仰向けに寝転がった。岩はひんやりと気持ちよくて、さらさらと擦れる葉の音が眠気を呼んだ。  ヌートの「早く行こ!」という大声がなかったら、ずっと寝ていたかもしれない。

  「見晴らしのいいとこ!」  山頂まで、あと少しくらいか。ここまで来ると、道のりも険しく岩々をすり抜けるように進んでいくようになっていた。  そこから少し道を外れると、土のむき出しな広場がある。山頂ほどではないけど、山の斜面を一望できる場所だ。 「トウリ、覚えてる?」 「なんだっけ」  この場所は確かに覚えてる。でも何をしたっけか、ここで。 「ユイちゃんお腹空いて、ここで弁当食べたでしょ!」 「……あぁ」  小学校の登山で、一緒の班のユイちゃん。ここでもう弁当食べようって、シートを広げてみんなで食べたんだった。  くるっとカールした毛が特徴のイヌの種族で、高校までずっと一緒だったんだよな。でも中学から、話す機会もなくなった。 「トウリ、ユイのこと気になる?」 「……どうかな」  あの頃の僕は、ユイのことが好きだったと思う。でももう昔のことだ。昔の気持ちなんて、覚えちゃいない。 「でもトウリ、ユイのこと考えたら、いつもモヤモヤしてたよ!」  ヌートは大きく目を開いて、僕の顔を見た。瞳が線のように細くなって、僕の顔が鏡のように映りこんでいた。 「早く、山頂へ行こうか」  そろそろ足腰に限界が来そうだ。早く登り切って、休んでしまおう。 「そうだ、行こう!」

 午後三時を過ぎると、日が傾いていくのもよく分かる。そんな頃に、僕らはようやくムサシ山の山頂についた。 「なつかしき、ムサシの山頂!」  そのてっぺんの見晴らし台へ来ると、ヌートは柵を乗り上げる勢いで駆け寄った。 「懐かしいな……こんな景色だったか」  ムサシ山はそんなに高い山じゃない。麓までの景色もいいけど、極めつけは連なる山々をどこまでも見通せる景色だろう。 「トウリ、あれやろ!」 「あれって?」 「ヤッホーってやつ!」 「いいね」  僕は、ヌートと同じように柵に身を乗り出すようにして、大きく息を吸った。  ヤッホー!  正直、何も返ってこなかった。そういうものだろう。やまびこは声が跳ね返るための壁がなきゃ、中々返ってこないんだから。  小学生の頃はそれを知らずに、ユノくんとケンタくんとユイちゃんで、何度もヤッホーって言ってたな。 「満足したか?」  僕はヌートの方に目をやった。ヌートはいなかった。  見晴らし台の、辺りを見渡す。誰もいない。まるで最初から、僕しかいなかったように、しんとした静けさに包まれていた。 「……そうか」  僕らネコの種族は、命をいくつも持っていると言われている。実際そうなのか分からないが、思い出をある一人の子どもとして、僕らの認識の中に、残すことができるんだ。  ヌートは僕の思い出が作り出した、子どもだった。それがここに来て、満足して消えたんだろう。 「あいつ、どうしてるかな」  僕はスマートフォンを取り出す。山頂でも電波は届くのは驚きだった。  やっぱり、会社からの電話がいくつもある。僕はそれを無視して、電話帳を開いた。  電話帳には、あの頃の友達の名前はない。機種を変更して、昔の友達の記録は、もう要らないと思って消してしまったんだ。 「確か、あいつの番号は」  記憶の中に、ユノの家の電話番号だけは、覚えていた。記憶を頼りに、番号を一つ一つ押していく。