「こんにちは」と、普通の声色で挨拶したのは僕で、  「こんにちは」と唸るように返してきたのは隣に住んでる人。  唸るっていうのは、別に彼が悩んでいるとか困っているとか怒っているとか、きっとそう言うことではないんだろう。彼が隣に引っ越してきてからもう3ヶ月が経つけど、ようやく僕は、彼がいつも不機嫌だからそんな声を出しているんじゃないって分かってきた。  すまないね。鈍感で。  つい昨日のこと、実家から送られてきた松阪牛(A5ランク)が学生身分では持て余す量と質だったものだから、お隣さんに渡しに行ったんだけども。相変わらず怒ってるようなドスの効いた感じの声で「……どうも」何て言うから、あぁお肉はお嫌いでしたかなんて内心怯えてたわけで。それにしても、屋外とはいえやけに風が吹くなと思って風上を見れば、お隣さんの大きくてフサフサしたねずみ色の尻尾がひたすらに振れて、そこら辺に毛玉をまき散らしていたんだから驚いたね。  あの……、って声をかける前に向こうが僕の視線の先に気付いたみたいで、「あ、ありがとうございます!」って勢いよく引っ込んでしまった。ものすごく低い声だった。素早く閉まる扉の隙間から見えた彼の顔は、頬だけでなく長い耳の先まで真っ赤に染まっていた。  やれやれ、相当怒らせてしまったなぁなんて思いつつ部屋に戻ったわけだが。数日後に大学の同じ学科の友達の家に遊びに行ったときに、可愛いダックスフントが尻尾を引きちぎれるくらいにぶん回して友達のところに駆け寄っているのを見て、もしやあの時のお隣さんの反応は嬉しくてのものだったのでは、と思った次第だ。そういえば獣人は人間との発声方法が違うということを今更のように思い出したのが、その時。  まぁそんなこんなで、今でも少しは怖いけれど、お隣さんのことはそこまで気にしすぎなくなった。今日までは。  夜中にチャイムが鳴って、その甲高い音に僕は目を覚ました。少し苛つく。ドアを開けると、お隣さんがぐでぐでになってドアの開いた隙間から入ってきた。近づいて分かる、酒の匂い。 「たらいまぁ~♪」 ……ろれつが回っていない。 「あるぇ? なんれミチルくんがいるのぉ? あっ、さては夜這いだなぁ? いいぞぉ? お兄さん、いい加減ミチルくんと仲良くしたいと思ってた所だったんだぜぇ♪」 訳が分からないままに僕は抱き枕にされていた。この状況も、口走っていらっしゃったいたことも理解できなかった。とにかくモフモフした腕から抜け出そうともがいてみたけど全然動かない。多分お隣さんの腕は万力か何かだな。深夜で、眠気が強かったこともあって、見事に寝落ちをかましてしまった。  気を失うように眠って、次に目を覚ましたのは身体を揺さぶられた時だった。目を開ければ、気分悪そうに、そして申し訳なさそうに僕の顔をのぞき込んでくる彼の顔が。 「あの、会社で強引に飲み会参加させられて酒をですね、その、飲むと止まらなくてですね、しかも酒癖が悪いみたいで、あの」 ひたすらに言い訳をしている。最初から怒る気なんてないけれど、そんな風に怯えた子犬みたいな顔されると怒るなんてことはあり得ないな。ひたすらに可愛いという感想しか出てこない。これも何かの機会、折角だからお互い、気兼ねなく仲良くしましょうね的なことを難の考え無しに口走ったのは僕だった。 「仲良く……うっ…頭が……、まぁ、そうだね、お隣同士、仲良くしようね!」 彼は一瞬、何か思い出したくないことを思い出しそうになったみたいな反応をした後、とびきりの笑顔でこちらを見てそう言った。こりゃ、女の子じゃなかったとしても惚れちゃうかもしれないな。犬としてのかわいさと強面な印象から出てくるその爽やかさはこちらも見習いたい所だった。……再現不可能だろうな、自分には。

 それからは案外良い関係を築いてったと思う。話してみれば、好きなアニメも好きな食べ物も、好きな服装とかも似ていたことが分かった。そして価値観が全く違うことも。当然と言えば当然。数十年前に獣人と人間の共存関係が制度として確立して、精神世界においても共依存的な関係を容認するようになったとはいえ、やっぱり種族が違えば、育った環境も文化も違ってくる。人種の違いは文化的な差異だとしても、獣人との違いはもはやラディカルに異なる。でも、違っていることが楽しい。「ここが違う」「でもここは一緒だ」なんて話をするのが楽しい。たまにお茶をしては、お互いの言いたいことをそこで言いたい放題言うのが、お隣の狼さんとのコミュニケーションになった。(ちなみに、話してから彼が犬ではなく狼だと知った。申し訳ない限りだ)

   おや。  今日は満月だ。そういえば、かなり気を許しあう仲になったはずだけど、一つだけ彼が頑なに話してくれない、ごまかしていることがある。それは、一ヶ月に一回の頻度で隣の部屋からうめき声が聞こえてくることだ。一晩中。これは鈍感な僕でも分かる。間違いなく苦しんでいる声だ。大丈夫か毎回心配になる。そんなことが起こる日は決まって月明かりが眩しい日だった気がする。もしかしたら今日もあるかもしれないな。  午前零時を過ぎる頃。隣の部屋からうめき声が聞こえてきた。苦しそうだ。何かを抑えているような声だ。心配だ。そう思って玄関を出て、隣の部屋の前に立った。ドアは……開いている。そっと扉を開けてみる。重い金属の扉は、まるで外の人を閉め出すみたいに開けにくい。部屋の中は暗く、生活音一つもしない。おそるおそる、しかし急ぐ気持ちで中へと足を踏み入れる。雑多としたモノが置かれた室内には……誰も居ない。  と、油断したところに突然影の中から何か飛び出してきて僕にのしかかってきた。倒れ込んで自分を押し倒した奴の方を見る。暗くていまいち見えにくい。ただ、白い歯が月明かりで鋭く光っているのが見える。がばりと開いた口がこちらに向いてる。生暖かい吐息とそれと対照的な鋭利な輝きの歯は、僕が恐怖する分には十分な効果を持った。正直死を覚悟した。  ……死ぬことはなかった。腕の辺りを甘噛みされて、その後はひたすらに肉厚な舌でペロペロされたり、くぅん、なんて鳴き声を漏らしつつ鼻先とか頬をスリスリしてくる。転がった先に丁度照明のスイッチがあったみたいで、なんとか照明を付けてみる。明かりに照らされているのは、ねずみ色の毛皮。大きな尻尾をぶん回して僕にじゃれてくる。それはお隣の狼さんだった。けれど獣人というよりは四つ足で駆け回る狼みたいだけれど。兎に角、突き放すのは良くない気がする。それに、甘えん坊の犬みたいでとても可愛いし。好きにさせてみた。  数時間後には、よだれと噛み跡だらけの人間になっているとも知らずに。

   夜は明けて、朝。  結局一睡も出来なかった……。隣で狼さんはぐっすり眠っている。やれやれ、なんてため息を吐こうとした時、ぼふっとかいうコミカルな音とともに、いつの間にか狼さんは狼獣人に戻っていた。訳が分からない。  彼が起きてから話を聞いてみた。彼は渋々口を開いて話し始めた。すっごく申し訳なさそうだ。僕はと言えば、よだれが乾いてカピカピになっている。少し生臭いかも。 「狼獣人に限らず、ほとんどの獣人は満月になると野生を解放するっていうのが修正としてあるんだ。たいていは野生を解放すると人に迷惑をかけてしまうから、解放しても問題ない施設に行ったり、あるいは森の中に入っていってそこで一晩を過ごしたりする。」 僕は、言ってくれれば、なんてことを言おうとしたが、先に狼さんが口を開く。 「野生の姿になると、特に狼の場合は人間を傷つけたりしやすいから嫌われてしまいがちなんだ。どれだけ獣人の姿の時に仲が良くってもね。かといってこの地域は施設も森も無いし」 それで仕方なく一人部屋で抑えていたらしい。無神経なことを言いそうになった自分が恨めしい。 「今回もまたミチル君に迷惑かけたし、きっと嫌いになったよな。ごめんな。もう俺とは関わらなくて良いから……」  そんなつもりは毛頭ない。全然迷惑じゃない。むしろ、ペットを飼ったことのない僕にとっては新鮮で楽しい経験だったし、甘えてくる狼さんはとても可愛かったし、役得だったから、これから積極的に関わって行きたい……的なことをオブラートにも包まずに伝えてみた。  狼さんは安堵と気恥ずかしさで訳が分からなくなっていた感じだ。多分そのふわふわの頬毛のしたでは顔を真っ赤にしているに違いない。  ただ、まぁ、本人も特に嫌がってはいないので、ひとまずはこの関係を続けることになるだろう。  他の獣人と人間の関係ってどんな感じなんだろうか。きっと上手くいかなくて破綻している人もいるんだろうな。  僕は……多分上手くいくだろう。ここまで気兼ねなく接しているんだし。ただ、月一でよだれまみれになるのだけは覚悟しなくてはならないな。(10枚)