リオンには彼のことがはっきり見えていた。この事実は以降の物語において決して揺らぐことのない確定した真実である。読者の皆々様方においてはくれぐれも、最後までこのことを心に留め置いたままでいて頂きたい。  リオンにとっての彼は現実である。幼少の頃からそれは変わらない。彼はいつでもリオンの味方だった。いつから彼がリオンの側にいて、どのようにしてリオンの元へやってきたのか、その問いに答えを出すのは現在のいかなる科学をもってしても不可能なことではあるがしかし、彼はリオンに寄り添い続けた。それは事実である。彼が何の目的を持ってリオンに接近したかという視点で切り込めなくもないとお考えの方もいるだろうが、しかしそれもまた無為である。彼の思惑は決して外部が知りうることはない。全てはリオンの中にある。リオンだけが獣の彼のまことを知り、リオンは生涯それを胸に秘め続ける。それはこの物語が終わった後でもやはりまた、揺るぐことはないのだろう。

 リオンが保育園の同級生たちに、周りの園児よりも背丈が頭一つ飛び抜けているのをからかわれたとき、彼は次のように語ってリオンを慰めた。 「大丈夫だよリオン、ぼくの方がきみよりもよっぽど背が大きいし横にもずっと大きいのに、誰も僕のことをからかったりしないだろ。きみも、知らんぷりしちゃえば良いのさ。あいつらも、じきに飽きるだろ」  彼の言葉に、幼いリオンは不満を滲ませた。それは単に彼がリオン以外の目に見えていないからだと、リオンは分かっていた。その理屈で言えば、僕がからかわれないようにするには君と同じように、僕も誰の目にも見えないように消えなければいけないじゃないか。リオンはそんな風にこざかしく拗ねて彼を困らせた。 「しょうがないなあ。じゃあ、こうしたらどうだい。見てて」  彼はいじめっ子たちの方へと歩いて行った。三人組のいじめっ子たちには彼のことは一切見えていなかった。地面をなぞっただけのどろけいの檻の前で、追い駆け回る園児をダラダラと眺めながらくっちゃべっていた。 「おい、あれ見ろよ」 「ん? あ、ほんとだ」 「リオンがこっち見てやがる。うえっ」「おえっ」「げーっ」  三人はおのおのに首を抱えて嘔吐く振りをした。 「なあ、あいつがどろけいしたいって言ったらどうする」 「は? 気持ち悪っ」 「のろまなあいつが入ったってつまんねえよ。ギャハハハ」「ギャハハハ」「ギャハハハ」  三人はおのおのに笑い声の擬音を読み上げ合った。まるで猿まねのように唱え上げながら、リオンの方を向いて飛び跳ね、からかい、笑い合った。ギャハハハ、ギャハハハ、ギャハハハー。ギャハハハ、ギャハハハ、ギャハハハー。  遠くから彼らの方を眺めていたリオンにはいじめっ子たちの話した子細は分からなかったが、自分の方を見て自分のことを嘲っていることだけは理解できた。だが今のリオンにとってそのようなことはどうでも良かった。跳ね狂って笑っているいじめっ子たちを自分の目から覆い隠すように、大柄の獣の彼が二本の足でむんずと立ち塞がり、三人を睨み付けていたからだった。  リオンはほんの少しだけ胸騒ぎがした。彼が何かしでかしたらどうしよう。リオンと彼の関係性はまさしく一方が一方を認識している以外の何でもなく、他の誰にも見えない彼の擁護をする筋合いなどリオンには一切ないのだが、幼いリオンにはその筋合いというものが理解出来ていなかった。とはいえリオンの心にはその胸騒ぎに上回る形でまた、ある種の期待のようなものが立ち上がっていた。  その期待は間もなく叶えられた。 「うるさい奴らめ。こうしてやる」  大きな彼は騒ぎ立てる三人の前で膝立ちになり、大きな毛むくじゃらの腕を広げるやいなやまとめて彼らを抱きかかえ上げた。 「ぐええっ」  三人は突然のことに驚きのたうった。彼らの身体は見えない力によってある一点へとぎゅうぎゅうに押しつけられ、全く身動きが取れなくなった。どろけいの檻の枠の隅っこで座り込んでいた子らには、いじめっ子たちが急に押しくらまんじゅうをし始めたように見えた。いじめっ子たちの足下が地面から浮いているようにも見えたが、彼らと関わり合いになるのは御免こうむるので一切手助けしようなどとは思わなかった。 「お、おい」 「み、見てねえで」 「たす、助けてぇ……」  彼らは檻の中の子らに呼びかけたが、手出しは一切されなかった。 「普段から悪いことばかりしているからだ。ざまあみろ。もうリオンのことをいじめるのはやめてくれよ」  大きな彼はそう言うなり、立ち上がって彼らをもう一尺ほど宙へ掲げてからぱっ、と腕を解いた。三人はドサドサと地面に転げ落ちると、慌てふためいてどこそこへと駆け去って行ってしまった。  リオンは目を丸くした。彼が自分以外の誰かに干渉できること自体も単純に驚きだったが。同時に彼の幼心には今まで感じたことのないモヤモヤとしたものが残っていた。彼はリオンに顔を向けて笑った。ひらひら手を振っている。手を振り返したリオンはより一層、悶々、悶々とするばかりだった。  リオンのお迎えはいつも遅かった。リオンの両親がリオンへと向ける愛情は確かなものだったが、法務に携わる彼らの職務はいかんせん重責の伴うものであり、リオンを産んだからとて放り出せぬような事案を、彼を授かって六年経った今でもいくつか積み残したままであった。とにもかくにもリオンの育児を宵の内まで他人の手に委ねざるを得なかった。お迎えは母親が来ることもあれば父親が来ることもあったが、どちらにせよまずはリオンをぎゅっと抱きしめることを、決して欠かすことはしなかった。さて、この日の――つまりいじめっ子を退治した件のあったその夜のお迎えだが、彼の母親はいつものようにリオンを抱き寄せた。リオンもまたいつものように母親を抱きしめ返した。だが、そこにおいてリオンは先の悶々の正体に気付き、辺りをキョロキョロとし出すのだった。  リオンの様子に気付いた母親は問いかけたが、リオンは何も答えなかった。大きな彼が保育園の門の外で手招きのしぐさをしているのを、リオンはみとめた。街灯に照らされている彼の笑顔が、リオンには優しく見えた。ゆえに、苦悶した。  僕は、あの子とぎゅっとしたい。  リオンの憧れはその夜中、すぐさまに叶えられた。リオン自身も、きっとそうなるだろう、そうなるはずだという気がひしひしとして、ベッドの中で気が気でなかった。数ヶ月前に一人で寝付けるようになってから、初めての眠れない夜だった。リオンは自分のベッドルームがとても広い場所に感じた。この部屋をもらったはじめの頃、ここにはスポーティでクールな装飾があてがわれていた。母親が選んだものだったが、リオンにはお気に召さなかったようで、悩んだ母親が伴侶に相談しつつ最後に決まったのが、今あるこのファンシーな部屋の模様だった。カーテンと壁紙は温かみのあるオレンジとレッドで彩られ、木目の家具、はと時計、大きめのコルクボードにリオンの作った工作を目一杯貼り付け、そしてそこら中に、たくさんのマスコットがあった。リオンは今の自分の部屋が大好きだった。そのはずなのに、リオンは、今この部屋の中で一番ちっぽけなのは僕だ、などということを考えてしまうのだった。この部屋には自分の好きなものがたくさんあるけれど、一番大事なものが足りていない。一番大事なのは、彼だ。彼に居て欲しい。もちろん、彼はいつの日からリオンの側にいつでも居るようになっていたが、リオンのほうから彼のことを切望したのはこれが初めてのことだった。  リオンの背中が、急に温かくなった。 「あ!」  リオンは背中から伸びる両腕にすぐさましがみついた。 「リオン、きみはぼくに居てほしいんだね」 「だって、だって僕は君にぎゅってしてもらったことがないんだもの。どうして今までしてくれなかったの」 「きみがそうしてくれって思ったことが、今までなかったもの」 「じゃあ、これからはそうしてくれる」 「いいともさ」  リオンの背中から訪れる感触が強くなった。やわらかく、ふわふわとしていた。リオンが振り向いて温もりに顔を埋めると、あっという間にリオンは寝こけてしまった。  リオンの寝付きが悪かったのはこの日だけで、翌日からは今までと同じようにぐっすりと眠ることが出来た。以前と比べて違うのは、寝顔が笑っているように綻ぶことで、リオンの両親はその寝顔を眺めてはいつも安堵した。  リオンはそれから健やかに育った。運動はあまり得意ではなかったが、本好きの、落ち着いた雰囲気の子になった。本は昔から母親が与えていた。リオンの部屋の内装が決まったとき、母親は我が子の情操教育をどのようにしたものかと気を揉んだのだが、父親がそれならばいっそのことと、大量の物語の本を買ってきたのだった。想像力を伸ばしてやるべきだ、と言って。しかし父親は物語のことを全く知らないから、ジャンルも対象年齢もぐちゃぐちゃだった。母親は苦笑して、伴侶が用意した本の山からリオンの年齢に合うものを逐一選定して、少しずつリオンにプレゼントしたのだった。リオンはいつも喜んでそれを読んでいた。十二才になる頃にはもう両親が与えた本はすっかり読み尽くして、なお自ら次の読み物を漁っていくようないっぱしの読書家になっていた。 「ねえリオン、やっぱりあのお話の最後でヒロインが主人公に振り向いてくれないのは納得いかないことだと思うのよ。リオン、あなたはどう思うかしら」  本好き仲間の女の子がリオンに訊ねてきた。移動時間のあいだに一問だけ解けていない計算の課題を考えておきたかったリオンには、少々煩わしかった。 「さあ、どうだろ。主人公の名前が良くなかったんじゃないかな。『レイフ』だなんて」 「まあリオンったら、そんな風に片付けてしまうの。いくらあなたの意見でもそれには同意できないわ。確かに変わった名前だけど、私も最初はちょっと、びっくりしたけど。素敵な青年だったじゃない。レイフ。レイフ。いい名だわ。それに小説の登場人物の名前なんて作者のさじ加減一つじゃない。名前のせいだなんて嘘よ。まったく」 「うるさい女の子だなあ、少なくともあんたじゃあ振り向いてもらえないだろうね」  この失礼な物言いはもちろんリオンではなく、けだものの彼の言い草である。だからこの女の子にも聞こえていないのだが、それでもリオンは視線だけで彼をたしなめた。 「リオン? ねえリオンてば、時々変なあいづちをするわよね」 「えっ、あっ。そ、そうかな」 「まあいいわ。ねえ、今日のランチも一緒にどうかしら」 「あー、ごめん。今日は、ちょっと先生に呼ばれて用事があるから」嘘だった。 「そうなの。残念。あ、移動しましょ、もう次の時間だわ」  リオンは女の子とともに部屋を出て行った。彼は付いて行かなかった。リオンが振り返ると、彼はひらひらと手を振っていた。  昼休み、リオンはポンプ室のはしごを登った屋根上でサンドイッチを食べていた。彼も一緒だった。そんなへんぴなところで食事をとる理由はもちろん、彼と会話しているところを誰にも見られたくなかったからだった。もそもそとベーコンレタスサンドを咀嚼するリオンを、彼は頬杖をついて寝そべりながら見ていた。 「なんて目で見てるのさ、ああ、ええっと」 「あいつはリオンのことが好きなんだろうな、きっと」 「な、なに言ってんだよお前……いや、うーんと」  リオンの様子がおかしいので、彼はリオンの側に這い寄り隣に座った。 「どうしたんだ。歯切れが悪いな。まさか両思いってわけじゃないよね」 「いやそれは……うん。多分、ない。気が合うとは思うけど、えっと……恋人になるとかとは違うと思う」 「だよな。友達として大事に出来る自信はあるかい」 「自信なんて言われたら困るよ。いつか彼女から、そう、告白なんてされでもしたら、そこから先どうなっちゃうかなんて僕には全然分からない」  リオンはそういってから囓りかけのサンドイッチを一気に口に放り込んだ。喉に詰まらせないようゆっくり噛んでいると、背中に温かい感触があった。 「きみがきみの気持ちに正直でいることは、きっと大事なことだ。きみのためには」  大きな彼がそんなことをつぶやくので、リオンは意を決した。サンドイッチを飲み込みお茶で流して、それから一息ついて、言った。 「ねえ。僕は君のことが好きだよ。好きだから、ちゃんとしなきゃいけないと思うことがあるんだ」  リオンにそう言われた彼は背中に置く手を頭に伸ばして、そのままなで続けた。 「僕、君の名前を知らない」  頭をなでる手が、止まった。 「リオン。きみはぼくの名前を呼びたいんだね」 「でも君には名前が無いだろう。そうなんだろう」  リオンの口調は逸っていた。自分には君のことが分かっているのだと言いたげに。  毛むくじゃらの彼は、ゆっくりと落ち着かせるような声で、リオンにこう言った。 「きみがぼくの名前を呼ぼうとしたことが、今まで一度もなかったもの」  リオンの眉根が寄った。リオンは、どうしてこんなにも申し訳ない気持ちになってしまうのだろうと、心を痛めた。 「リオン、ついさっきも言ったばかりだろ。きみはきみの気持ちに正直でいるべきだ。ぼくはそんなきみに、いつだって寄り添ってあげられるんだから」 「それは、これから先もずっとそうなのかい。ずっとずっと、君は僕の側にいてくれるのかい」  彼はリオンの問いに、何も答えない。  その代わり、リオンをぎゅ、と抱きしめた。 「大丈夫さ。きみは強い子だ。強くてかしこい、ぼくのリオン。さあ、お願いだ。ぼくに名前を付けておくれよ」  リオンは彼の肩に顔を埋めたままで、答える。 「ラルフ」  それは、リオンが彼にずっと考えていた呼び名だった。どうして今まで呼べずにいたのか、リオンはその理由を子供心によく理解していた。  ひとつは、恥じらいだった。これはリオンにも簡単に理解できた。初めて相手の名前を呼ぶことは多かれ少なかれ勇気が要るもので、そしてその儀を乗り越えていくことで大人になっていく気がリオンにはしていた。それは良いとして、もうひとつだった。  もうひとつは、喪失だったのだ。  どうして名前を付けることが喪失になるのだろう? リオンは混乱したものだった。ラルフ。ラルフ。ラルフ。ずっと考えていた彼の名を、まだ直接彼にそう呼べなかった頃からベッドの中でずっと唱え続けていたその名前を、いざ名付けることで、どうしてぽっかりと心に穴が空いてしまいそうな恐れを抱くのだろう。  まだ若い彼に、その答えは出せなかった。それでも勇気を出したラルフを、いま、彼は懸命に讃えるのだった。 「ありがとう。リオン。そう、ラルフだ。良い名前だよ。とても誇らしい」 「ラルフ、ラルフ。……ラルフ!」 「ああ、リオン。かしこいリオン。ぼくは感じるよ。きみの中だけにいたラルフが、しっかりと、ぼくになっていくのを、感じるのさ。だからどうか、自信を持ってくれ」  彼はリオンをしっかり抱きかかえると、リオンも彼を離すまいとして、腕にかける力を強くした。リオンが彼と別れたくないとはっきり思ったのは、これが初めてのことだった。  リオンは午後の授業のことも忘れてラルフとずっと抱き合っていた。さっきまで感じていた不安も吹き飛んで、何度も、何度も名前を呼んだ。この日の思い出を、リオンは生涯忘れることはない。そう、この日の彼らに敬意を払って、ここから先は彼のことを指すときに、『ラルフ』とするのが良いだろう。 「似たような名前を、そういえば聞いた気がするな。『レイフ』だったか」  ラルフがリオンにそう訊いたのは、名前をもらってずっと後のことだった。リオンは山積みの書類と大量の法律書の間から顔を覗かせて、ラルフに答えた。 「ああ、あの児童文学のシリーズか。中学生くらいまで読んでいたけれど、結局、あまり好きになれなくて離れてしまったな」 「そうなのか? ふうん。親近感があったんだけどな」 「名前が似てるから?」 「名前が似てるから」  リオンは大儀そうに首を振って、先程まで書きかけていた紙に再び筆を走らせた。父親にもらった万年筆が窓から指す夕日を反射して、ラルフの顔をチラチラと照らした。 「それは何を書いてんだ」 「進路目標のレポート。明日提出なんだ」 「ぎりぎりじゃねえか。悩んでんのか?」 「ラルフ。君には僕の悩みは筒抜けだと思っていたんだけれど、そいつはわざと訊いているのかな」 「はは。ばれたな」  ラルフはそう言って笑った。リオンも、苦笑いしながらもまた筆を止めて、ラルフの右側にもたれかかった。 「両親の背中を追って同じ道へ行こうとしてるって自覚はしているよ。そしてそれは強制されたわけじゃない。僕が自ら望んでそうしたんだ。それに関しては、僕は決して自分の気持ちを偽っていることはない。ラルフ、君はもちろんそれは分かっているだろ。でもね、ラルフ。僕には、それだけでは収めることの出来ない複雑な気持ちが渦巻いているんだ」 「ああ、リオン、リオン。おまえのその渦巻く気持ちを、おれは説明してやれる。おれには分かっている、おまえの望みや憧れはいくつもの層のように折り重なって形を成していることを。おまえの心には、道を失って立ち止まる人や、誤った道へ引きずられて苦しんでいる人を、救ってやりたいという気持ちがある。そしてそれは法を駆使することによって成すことが出来るはずなのだと、おまえは考えている。おまえは両親が好きだったから。親の成すことがおまえにはまぶしく見えたのだろう。誇らしかったのだろう。だからおまえは、その背中を追うことが最善と考えた。とても、合理的な考えだ。おまえの親たちはいささか複雑な気持ちでそれを受けてお目テイルのも、おまえは察しているようだがな。だが問題はそこじゃない。問題は、おまえ自身の救いと癒しが全く違う次元の場所に立っているということだ」 「そう。僕の救いと癒しは別の場所。それはいつも僕の隣にいる。君だ、ラルフ。もはや僕は、君なしではどうにかなってしまいそうな程に君に支えられている。僕は頭がおかしくなっているのだと思った。でも誰にも言えない。病院の先生かなんかに知れたら、僕の人生は一発で終わりだろうね。でも、この気持ちを誰にも言い出せずに留めているのも、僕にとっては不健康なことだった。だから僕は、思い切って投書したんだ。どこが拾ってくれるか分かったもんじゃないから、片っ端から送ったさ。なあ、君にはばれないようにしていたつもりだったんだけど、どうだったかな」 「ああ、リオン。もちろん、気付かない振りをしていたさ。おれはおまえの中なんだから、遅かれ早かれ分かったことだ。しかしなあリオン。『僕にはけだものの様な何かが見えます。僕は彼なしで生きていかれません』だなんて、そんな投書にまともに取り合ってくれるようなところがあると思っていたのかよ。まあ実際、あのちっぽけな地方新聞が取り上げてくれたんだけれどな。そして、二つか三つかの反響があった」 「それで僕は、君と同じような存在に、心救われる人間が僕の他にいることを知ったんだ。そして、君のような存在が、本来なら現実にはあり得ないということも」 「おまえは歓喜と絶望を同時に味わった。それと同時に、どうしておれは、ラルフは存在しているのかという疑問に至った」 「ラルフはいる。現実にいる。僕にはどうしてもこの真実をねじ曲げることが出来ない。投書に返答をくれて僕のペンフレンドになった二人は、僕の書く君のことを肯定も否定もせずただただ物語として受け取ってくれている。でも違うんだ。そうじゃない。僕は、ラルフは居るんだって言いたいのに。僕はラルフを、他の人にとってのラルフとして他の人に見てもらいたいというのに」 「しかしリオン、リオン、それはおまえだけが見ているラルフだ。おれが他の人に見てもらえるために、足りないものはいくらだってある」 「今の君にあるものは、声と、毛皮と、ラルフという名前と、ええと、狼の姿と……」 「待て、リオン。おれはいつから狼になった?」 「え、えぇ?」 「それはおまえが勝手にそう思っているだけ、そういう風に見ているだけだ。おまえがラルフを狼だと思うのは、『ラルフ』が古語で狼のことを指しているからと言うだけのことだろう。同じ理屈で『レイフ』も引っかかっているな。いずれにしても、おまえはその言葉の響き、意味に引っ張られておれの方へと投影しているだけに過ぎない。どうだリオン、おまえは何をしなければならないか、もうおまえは分かってるんだろう」  そう言われてリオンは少々戸惑った。ラルフの言うことが分からないわけではない。ただ、それをする機会が今急に訪れたものだから、リオンは心の準備が出来なかった。リオンには拒む理由があった。しかし、それも確証に至っているわけでも無い。リオンは試さなければならなかった。リオンはラルフに顔を少し強く押しつけてから、静かに目を瞑った。彼から身体を離し、心にある彼の姿を想起する。  リオンが今、すべきこと。  君の姿を描くこと。君の色彩を表すこと。君の声を奏でること。君の温もりを写すこと。  ラルフはとても大きな銀色の狼だ。顔立ちも体つきも他の狼と比べていくらか丸い。運動不足と言うよりは、彼には意図的にエネルギーを溜め込んでおく習性があるらしい。だから一般的な人間よりも二回りほど大きな身体をしているが、威圧的ではない。彼は人間が好きで、人間によく触れる。毛の触り心地は滑らかで、指がよく通る。あまり動き回っていない証拠だと、いつも照れ隠しのように笑う。そう、笑い声。彼の笑い声は大きな角笛の音色みたいによく響いて伸びて、誰しもを振り向かせる。でも普段からそうじゃなくて、渋みがあって落ち着く声。そして愛する人にささやくときは、ころころと喉を鳴らして、それで、…… 「他にもあるだろう。おまえが描き出せるものは何も、ラルフの身体的特徴に限ったわけじゃない」  ……彼の生い立ち、性格、夢、好きな人、嫌いな食べ物、…… 「いいよ。そう。その調子。そら、どんどん書こう」  ……ラルフは、気付いたら人間の世界にいた、それまでの記憶は覚えて、いない……でもこの世界で人の優しさに触れる内、彼は人を守るために生きたいと思うようになって、それで。……元の世界に戻るための手がかりを探しつつ、行く先々で人を楽しませたり喜ばせたり助けたりしているそんな、流浪の、……。 「良いじゃないか。素敵で、魅力のある狼だ。それで」 「それで……それで……」  リオンは黙りこくってしまった。ラルフは何も反応を返してこなかった。そのまま時間ばかり過ぎてゆき、あっという間に日は暮れていた。リオンは再びラルフの右肩に顔をうずめて、ずっと何かを考えていた。  ラルフはなぜ僕の元に来たのだろう。  僕にはどうして彼が必要なのだろう。  僕は家庭もお金も人間関係も将来も、何にもこまってなんかいない。  恵まれたほうの人生だと思う。  僕なんかより、もっと救い甲斐のある人間の元に来たら良かったのに。  僕よりももっとラルフを必要としている人は沢山居るよ。  なのに、どうして……。……。  そうだね。そうじゃないよね。  彼は、ただ単に居ただけだ。  僕の大切なラルフとして、ただそこにいただけだ。  だから、そこからは僕が考えなければならない。 「なあラルフ」 「うん」  ラルフの目が、光ったようにリオンには見えた。 「僕のしたかったことは確かにそうなんだけど、そうなんだと思うけれど、これは、……これは違うよ、ラルフはもっと、こう、……ごめん」 「謝らなくていいよ、リオン。ぼくが悪かった。ぼくが、きみに気を逸らせてしまったんだ。ごめんよ。きみがぼくのことを大切に思っていてくれることも、本当によく分かった。きみはもっとラルフのこと、ぼくのことを、もっともっと時間をかけて、丁寧に描いていけばいい」  そう静かに語って頭をなでるラルフの腕を、リオンはそっと掴んで、言った。 「ふふ、ラルフ」 「どうしたの」 「……『きみとぼく』じゃなくて、『おまえとおれ』でいいよ」 「……あ……」 「……そのほうがラルフらしい」  リオンは、ラルフを正面から身体いっぱいに抱きしめた。 「ありがとう、リオン。おまえが望むなら、おれはいつでもおまえの望むラルフになるよ。いつでもおまえの味方だから」  ラルフの心には感謝があった。リオンにまたひとつ、大切なものをもらった感謝が。  それは、確かなことである。

 仕事に就いてからのリオンは実に忙しかった。たった一年でリオンは、法の仕事は天秤でも盾でもゲームでもなく、事務員であると悟った。しかしそれで失望することなく、四六時中せっせと働いた。たとえ地味でも人の役に立てるならば本望だと、まこと殊勝な考えを手放さない程度には、リオンは愚直な人間であった。  リオンはラルフのことを忘れない。未だ現実である。それは変わらない。しかし、疲労して帰ってきた夜にそのままベッドへ突っ伏して、その腕にラルフを抱えぬまま眠る夜がずっと多くなった。時々ぼんやり目が覚めて、気が付くとマットレスの縁に首をもたげて笑顔で寝ているラルフを見た。そんなとき、リオンは必ずラルフの頭をなでてやった。  犬を飼うのはこんな感じなのだろうか、と、リオンは何一つ働いていない脳でそういうことを考えた。  ラルフはラルフで、いつしかリオンの居ない間の家の中を自由に歩き回れるようになっていた。これは確かなことである。ラルフの心には不思議な気持ちがあった。おれはいつもリオンの側に居たはずではなかっただろうか、と。そして、どうしてリオンの帰りをここまで待ち遠しく思えるのだろう、と。  その日もリオンは疲れて帰ってきた。リオンはスーツを適当に脱ぎ捨てて早々に晩酌の準備に取りかかろうとした。リオンはもうとっとと酒を飲んでしまいたい気分だったので、冷凍食品の袋とハムとグラスと酒瓶を一度に抱えて調理台まで運ぼうとした。当然と言うべきか、その内のひとつが左腕から滑り抜けた。あろうことか、酒瓶だ。 「危なっ!」  たまたま側に居たラルフはとっさの判断でリオンの左脇に落下しかけた酒瓶を低空までかがみ込んでキャッチした。ラルフは間一髪だと思った。 「はあ、危なっかしいぜリオン……」  彼はその瞬間、己の身に起きたことに驚愕した。  リオンは酒瓶のことなど気にも留めず、真正面で寝転ぶリオンの大きな身体を、文字通り内側からすり抜けてしまったのである。  リオンはお構いなしに調理台で晩酌の準備をしている。 「あれ、酒がない」  そんなことを言うリオンを一瞥もせず、彼は静かにそこへ立ち、その手に持つ酒瓶を調理台へと安置した。 「あれ。ああ、ラルフ。ありがとう」  ラルフは総毛立った。 「ああ、君とお酒を飲めないのは、少し淋しい気がするな。あれ、どうなんだ? ラルフ、そういえば君お酒は……」  振り返るリオンの瞳に映ったのは、膝立ちでうなだれながら、ボロボロボロボロと涙をこぼす、一匹のクマ獣人だった。

「ぼくは、君を見ていないときがあったのか」  リオンはテーブルワインを僅かに口に入れたまま、酔った勢いでぼそぼそとそう言った。 「リオン。へへ。見ていねえどころの話じゃねえよ」  クマ獣人はビールジョッキの中身をぐいっと喉へ流してから、酔った勢いでへらへらとそう言った。リオンは彼が良くない酔い方をしているような気がした。が、そもそも彼に良い酔いも悪い酔いもあったものだろうか、との問いが頭を過って、それからまた、自己嫌悪した。 「リオン。はっ。それはな、おまえがおれに怒って欲しいって思ってっからだ。空想上のおれが本当に酔うことなんてあるのか、って思っちまったんだろう? ご覧の通り、ちゃんと酔ってるさ。おまえの思う『良くない酔い方』って奴なのかも知れねえがな。でもよ、おれからおまえに怒るようなことは何もねえ。自然なことなんだ。おまえは離れていくべきなんだ。おれと。おまえは。……」  彼の目は据わっていた。リオンは、彼にどう接したらいいのか分からなくなっていた。 「ハム、いるかい」 「おう」  クマ獣人は腕だけ動かしてハムの一切れを口に放り込んだ。 「ワインも」 「ん」  クマ獣人は差し出されたワイングラスの中身を一気に飲み干した。  それから彼はのそのそとリオンに近寄ったが、リオンは微動だにできなかった。  彼の手のひらがリオンの頬に酔った。リオンはやはり、動けなかった。 「大丈夫さ」  大きな手は、果たしてリオンの右頬に触れた。  その感触は確かにあった。  それは、確かなことである。 「ラルフ!」  リオンにはもう抑えが効かなかった。彼の感触を一片も忘れたくなかった。忘れないための行動を、リオンは惜しむことが出来なかった。  抱き掴んで、撫で回して、身を捩らせ、そして、口づけをして。  これがもう最後になってしまうのだと、リオンには分かっていたのである。そしてそれは当然のようにラルフの心にも伝わった。リオンが己の行動を愚かしく思っていることも。 「……僕がこのあと眠ってしまったら、そのあと、君に読んでほしいものがある。それが僕から君への最後の贈り物だ。……驚いた。本当に驚いた。昨日あれを書き終えたあとはとても心が軽かったのに、君から手を離さなきゃならないことを忘れていたなんて。昔はあんなに求めていたのに、僕は、君が要らなくなってしまったんだろうか」 「リオン。おまえの言っていることは事実の一部分だ。確かにおまえにはおれが居る必要はなくなった。それは、おまえの成長の証なんだ。分かるだろう、リオン。おれがおまえの前に姿を現すたび、おれは……きみの心の汚い部分をこの身で体現した。きみはそれを見て我が身を振り返っただろう。それで良かったんだ。きみにはきちんとそれが出来た。きみがおれを見てその身を律するたびに、きみの心をおれが映し表す必要はなくなっていった。そしてその度にきみは、おれがおれだけで居るためのいろいろなものをくれたんだよ。名前も、姿も、意識も。だからこれらの一つひとつは、きみの成長の証なんだよ。おれがこうしていることは、そして今去って行くことは、きみにとって誇っていいことなんだ」 「でも、でも! それでここに居るラルフがいなくなってしまうなんて僕には耐えられないよ! ラルフはもう……僕にとってかけがえのないひとなんだ……」 「リオン」  ラルフの手のひらがリオンの胸の上にあった。リオンの体はラルフの胴にすっかり包み込まれた。鼓動は、一つだった。 「リオン、おれはきみに、本当に感謝しているんだ。ともすればおれは、数ある物語の一つだった。でもきみは、おれをかけがえのないひとだと言ってくれた。……おれにとってのきみも、かけがえのない人だよ」  リオンはそれを聞いてしばらく下を向いたままうずくまっていた。しかし、リオンは今度は自分から上を向いて、ラルフの顔を見るのだった。 「……ラルフ。君は僕の心に生き続ける。僕の生涯、ずっとだ。でも、……君を僕だけのものにしたくなかった。ただ、それだけだ」 「リオン。ああ。最初からおれには分かっていたよ。君は優しい人だって。リオン、おれはうれしいよ。きみがそんな人であることが。……おいで、リオン。泣かないで。慰めてあげよう」  そうしてラルフとリオンは、最後の最後にとっておきのものを交換した。何かって? それは、取り立てて私から語るようなものでもないことだろう。

 その夜、一枚の紙をラルフは読んだ。たった一枚のコピー用紙に、ぎっしりと文字が詰まっていた。はじめの行には、こう書かれていた。

 〝レイフ・ラルフ〟 優しい熊

 それから、リオンは彼が考え得る最良の方法で、レイフ・ラルフの物語を伝え広めたと言うことらしい。リオンが最後にラルフと話してからずっとずっと後のこと。それでも、ネットもパソコンも全く普及していないあの時代において、だ。敬服に値することだ。彼がラルフを表現するにあたってどういう手法を用いていたか、知りたいって? いや、それも私から語ることではないだろう。  全てはリオンの中にあり、全ては、リオンが成すべきことなのだから。 (38枚)