「…………て…………きて…………ぇー…………」  ――ゆっさゆっさと、体が誰かに揺さぶられている感触がある。少し乱雑なその動きは、寝ていた体を覚醒させるには丁度良いほどの刺激だった。 「ふぁ……あれ、もう夜……?」  今いるこの場所、街外れの閑静かつ古風な集落に入ったとき目にした燦々(さんさん)と輝いていた太陽は何処へ、今では青黒い闇、それと天上に位置する星々の細い光だけがぼんやりと周囲の画(え)を描いていた。人の影を感じさせない静寂の中、軽やかな風に乗せて届けられた虫のりんりんとした鳴き声が心地よく耳に残る。 「三時間もぐっすりしてたよー!」  そんなわたしのつぶやきに対し、快活な声で返したのは隣にいる同行者。  わたしを起こした張本人――ハルが八重歯を見せ、にぱっと笑いかけてきた。新雪を思わせるような白い毛並みと二等辺三角形を描く耳、青緑の眼が特徴的な白狼のケモノはその毛皮の流れを夜風に委ねていた。  いい寝顔してたよー、と楽しそうに話す彼を見ているうちに、あることに気づいた。 「……それ、何持ってるの?」  ハルの両手には、色とりどりの四角い薄紙が握られていた。 「短冊だよー! なんでもこの集落、願い事を短冊に書いて木にくくりつけるっていう風習があるんだってー!」  ふーん、と相槌を打つ。まあ聞いた限りだと子供たちが主体のものっぽいし、少し寄って見てみるぐらいなら――あれどうして目の前に短冊が? 「はいこれ! 折角だから一緒にやろー!」 「……あーいや実はふくらはぎの筋肉が張ってて、別に参加するのが恥ずかしいとかそういうわけじゃ」 「んにゃそうなの? じゃあおれが揉んであげるねー!」 「いや待って揉むと逆にいたゃぁぁあ゛あ゛――」  ――そんなやりとりをしたのがつい数分前、所変わって今いるここは集落の中心部。子供たちの遊び場らしい小さな円形広場には、その中心に立派な笹の木が供(そな)えられていた。周りに設置されているいくつかの灯(とう)籠(ろう)と相まって、そういったことに疎いわたしですらそれなりの風情を感じてしまう。 「うぅ……想像以上に酷い目に遭った……」  少し前の記憶を思い出し、自らのふくらはぎを擦(さす)る。あまりにも荒療治というか、数打ちゃ当たるというか……やっぱり雑だった。完全に力加減を無視した容赦のない揉み方。柔らかな彼の手の肉球と同じく柔らかなわたしのふくらはぎは余程相性が良かったようで、休む暇無く激痛をわたしの神経に伝達していた。というかハルの鉤爪まで食い込んでて普通に痛かった。あの時のわたしの奇声はどこぞの悪鬼羅刹、魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)のそれに似通っていただろう。 「この辺りでいいかな? あっ、手届かなかったら肩車してあげようか?」  そんな私の心境に対して、この天然狼の有り様である。隣にいる彼は、高いところに短冊を掛けようとする子供たちのために抱っこをしてあげていた。少し前までわたしに刺激的な経験を施していた人物と同一とは思えない。広場で困っていた子供を見た途端、一人で駆けつけていた。そこから子供たちと打ち解けたのは割とすぐのことで、今では輪の中心にいる。器用というか純粋というか、子供たちと一緒に屈託(くったく)の無い笑顔を浮かべている様子は――少し、羨ましく思える。 「おにーさん、あいがとー!」 「いいよー! 他に高いところに付けて欲しい子~?」  はーい、と次々に甲高い声が上がる。こういうとき、身長の低さが仇になるなぁ……。わたしも、何か出来たら良かったんだけど―― 「おねーさん、おねーさん、しつもんしてもいい?」  ふと、垂れ耳犬系のケモノの男の子がわたしに話しかけているのに気づいた。一旦わたしはそれまでの後ろめいた気持ちを仕舞い、どうしたの、と優しく子供に語りかけ、 「おにーさんとおねーさんって、つきあってるの?」 「ごふっ」  予想外の角度からのボディーブローに体全体を激しく揺さぶられた。訂正、そんな感覚がした。急激に体が沸騰していくのがわかる。なんとか弁明しようにも、口からは「やっ」とか「えっ」としか出てこない。後に連なるはずだった文脈は行き場を失い思考回路中で滞留してしまっただけに飽き足らず、続く言葉の行く手を阻害した。つまるところ、緊急事態(パニック)である。 「えーそうなの? 兄妹(きょうだい)とか、そういうのじゃないのー?」  可愛らしい浴衣を着た兎系の女の子が反論した。ハルより歳が上なわたしの方が妹なのは引っ掛かるけど、今の発言で少し我に返った。上手くいけば切り抜けられる……! 「え、えっとね! 姉弟(きょうだい)、っていう訳じゃないんだけど、わたしとハルはただ成り行きで一緒にいるだけで!」  えーそんなー、と子供たちが残念そうにこぼす。最近の子は油断ならない……! 「……付き合ってるって……付き合ってる……つきあ……」  ついでにどうしてハルまで赤面してるの……いや待って、白い毛皮を朱に染めてまで焦ってるハルの姿、今まで見たことないんじゃ……? なんというか、こう、ちょっとかわい――あぁあだからそうじゃなくて! 「と、とにかく、わたしと、お兄さんは、一般の関係です。あまり大人をからかわないように! ほらそこ、『えぇー』とかみんなで合唱しない!」  だからどうしてハルまで落ち込んでるの……大きな耳を伏せ、ふさふさな尻尾を力なく垂らして涙目になっている彼の姿を見ていたら謎の罪悪感が湧いてきたので、冷静さを取り戻すためにも強引に目線を笹の木に戻すことにした。  ――赤、桃、黄、緑、青、紫、茶。色とりどりの短冊を葉の先に吊るした、黄緑の笹の木。願いは短冊の数ほどあれども行く先はひとつ、灯籠が示す輪郭(りんかく)の無い橙の光を頼りに、頭上の広大な天の川へと流れ着く。  足下ではしゃいでいる子供たちを尻目に、そっとハルの方を向いてみる。彼は丁度、自らの短冊を木の頂点に吊り掛けていた所だった――そういえば、大事なことを聞き忘れていた。 「ハルは、何を願ったの?」 「んー? みんなと楽しく生きていければいいなー、って書いたよー」  さも当たり前のように。ハルはそう応えた。……少し、旅を始める前の記憶を思い出してしまう。そんな当たり前が、わたしには遠い。 「そっちは何て願ったのー?」  手元にある、灰色の短冊に目線を落とす――何を書けばいいのか、改めて考えてみるとわたしには思いつかなかった。この旅だって、日常の慌ただしさから逃れたかったからしているようなものだ。だけど、ここまできても、わたしは『私(わたし)』を引き剥がすことは出来なかった――『私』は、あまりにも無難すぎる考えを書こうとして、 「ねえってばー……よし、えいっ」 「ゎッ……!?」  後ろから、ふわふわとした感触に包み込まれた。驚きで咄嗟に目を閉じ、ゆっくりと開いていく。  やさしく、白くてやわらかい毛皮。目を閉じたままだとまどろんでしまうような、ゆったりとした鼓動。複雑に絡まった『私』を溶かす、からだのぬくもり。彼からすれば、深い意味なんてきっとないのだろう。でも、わたしにとってはそれが―― 「……そうだね。うん、そうだよ」  自分の気持ちを確認するように、ゆっくり呟く。ああ、そうか――なんだ、そんな簡単なことでよかったんだ。 「んにゃ、どしたの?」 「――ううん、なんでもない。それより願い、決まったよ」  わたしは自らの短冊を、ハルの白い短冊が掛けられている所――その少し下の、今わたしの手が届く所に掛けた。途中ハルから肩車を提案されたけど、子供たちが見ていることもあって断った。 「よし、じゃあ次の街に行こうか!」 「えぇーもう夜だよ……」 「なら野宿だね! 楽しみだなー!」 「いやまだわたしは了承したわけじゃちょっと待てぇええ!」  子供たちの「ばいばーい!」という言葉と同時に、わたしはハルがいつの間にか駆け出していた事に気づく。呆れながらも、いそいそと走る準備をする。  服を整えながら、ふと、空を見上げた。数百個の小さな瞬(またた)きの中、ひとつ、白く輝くおおきな星がなんとなく目に留まった。なんでもない、ただ遠く輝いている星。今のわたしに、あの美しい星まで辿り着く術は、ない。  ――それでもいつか追いついて、肩を並べて一緒に歩きたい。  そう考えると、少し楽しくなって、思わず口元が緩んだ。 「おーそーいー! 置いてくよー!」 「今行くからそこで『待て』でもしてろぉおお!!」 「おれは狼だから『ワン』とは鳴かないよー!」  そうしてわたしは――どこまでものびやかな、彼のもとへと駆け出していった。