「ッ!ーーーッ!!」  シグがケダモノの叫びを上げている。彼を拘束してすぐに、全身の変化が始まったのだ。骨が形を変え、肉が盛り上がり、脳を作り替える音がシグの体から鳴っている。俺はその音と変化の様子に神聖さを感じていた。  俺達が二足歩行に進化したのがいつだったのかは知らない。ただ、いきなりピョコンと立ち上がった訳では無いのは、流石に分かる。長い年代をかけて、環境に適応するために、外敵から身を守るために、生きるために少しずつ進化してきたんだ。俺たちはご先祖の無意識の努力を賞賛し、感謝すべきだ。おかげで俺は手を使ってタバコを吸いコーヒーを飲み、両足を組んで椅子にゆったり座れるんだから。ご先祖が思い描いた理想の未来像になれてるかは自信が無いが、俺は自分の生を思うように送れている。  ご先祖がどのように進化したのかは解明した俺達だが、未だに解けない謎が一つあった。それは俺達ヒトが、七歳になるまでケモノの姿を取るのは何故か、という謎だ。俺たちは生まれた瞬間から二足歩行が可能な体をしているわけでは無い。六歳までは四足歩行しかできないので、ケモノのように生きなくてはいけない。そして、七歳になった頃に体のつくりが変わり、二足歩行ができるようになる。体が変化する現象には正式な名前があるのだが、俗に"ヒト化"と呼ばれ、こちらの名前の方が世間には浸透している。  シグが横たわっているベッドから、ギリギリと拘束具が引っ張られる音が鳴る。体を貫く痛みをどこかに逃がそうと、シグが体を反らせ手足を振り回しているのだ。ベッドは固定されているので倒れないが、マットレスが跳ねて鈍い音を出している。まだまだ"ヒト化"には時間がかかりそうだ。俺は椅子に深く座り直し、目の前の光景から目を離さないまま思考の海に再び身を投じる。  "ヒト化"は通常、親と医療関係者が自宅もしくは専用施設で見守る。骨格の変化は激痛が伴うので、痛みで正気を失った子供が周りに危害を加えないよう環境を整える必要があるのだ。麻酔で眠らせて、その間にヒト化を終わらせる方法もあるが、目覚めた時に自分の体がすっかり変わっている事に精神的ショックを受ける子も少なくないので、あまり採用されない。そもそも、"ヒト化"はヒトになるための登竜門だと考え、苦痛は甘んじて受けるべきだと考えるヒトが多いのだ。子供はもちろん、激痛に苦しむ我が子を見る親は、ケモノとして可愛がっていた心を捨て去り、ヒトとして子供を見るべきだと考える一種の子離れができ、精神的な成長が期待できた  シグは親がいない子供が過ごす養護施設で育ったので、施設職員が"ヒト化"を見守るのが普通だ。しかし、他の子供の世話もある職員への負担が大きすぎるので、"ヒト化"を見守るボランティアが数十年前に発足した。専門知識と環境を整えられるヒトが、施設にいる子供達と日頃から交流をし、"ヒト化"の年齢になったらボランティア員の家で見守ってもらうのだ。俺は何人かの子供の"ヒト化"をすでに見守っており、シグは四人目だ。  俺は右手に持った厚みのある紙束を、目の前に持ち上げて読む。そこには"ヒト化"現象について言及した論文や、見守る際に必要な準備一覧、そして俺が個人的に必要だと考えている"ヒト化"ノウハウが書いてあった。俺は一番上の用紙の右端に"七つまでは..."という記述があるのに気が付いて、目を細める。  医学、科学、生物学。どの学問も"ヒト化"の明確な解明が未だできていない。数多の説、研究、実験が繰り返されてきたが、解明するどころかますます深みにハマるだけだ。進展のないヒト化解明の状況を見た世間に、どこからかある説が流れ始めた。ヒトの子供は七つまではカミの所有物で、七歳を境にヒトになることを許されるのではないか、と。ケモノの姿は、カミがこの世界に我々を生み出したままの姿。必ずその姿で生まれることでカミの存在を忘れさせないようにしているのではないか。この考えは"七つまではカミのうち"と名前をつけられ、肯定も否定もされずにヒト化現象の隣に居座るようになった。  著名な学者達はこの説に正面から向き合う事は避けている。認めたくはないが、原因もメカニズムも分からないヒト化を前にすると、スピリチュアルな俗説も無視できないのだろう。俺も否定はしないが、一つだけ訂正したい所があった。ケモノがヒトになるのは、カミに許されるからでは無く、ヒトがカミから勝ち取った権利だと。 「ーーーーーッ!!!、ッ!!」  シグが吠える。カミの許しを主張しているヒトからすると、これはケモノからヒトに成るのを許された悦び、もしくはカミから離れる悲しみの声になるのだろうか。だがそれは、ヒトがケモノから進化した功績を否定する主張だ。俺は、シグの叫びはカミから解き放たれ進化したヒトの勝利の咆哮だと考える。俺は無神論者ではなく、むしろカミがいて欲しいと思っているが、カミの御業で全てを片付けてしまうのも勿体ないではないか。  俺は右端の記述から目を反らして、一番上に書かれている内容を確認する。そこには、"ヒト化"が終わったらまず最初にすべき事が書いてあった。それは、ヒトがヒトたり得る理由であり、カミにもできなかった偉業だ。これのためにシグにも前から準備してもらっていた。  朝から始まったシグの"ヒト化"は、外がすっかり暗くなるまで続いた。"ヒト化"にかかる時間は個体それぞれだが、二十四時間以上かかる場合はほとんどない。シグも十五時間ほどで大分容態が落ち着き、それから一時間もしないうちに"ヒト化"は終了した。俺は椅子から立ち上がり、ベッドに近づいてシグの様子を確かめる。  シグは月のような灰色の毛が美しいケモノだった。顔も灰色の毛がグラデーションを作ってスマートだが、マズルが黒く幼さを感じさせる。目は黄金の角膜に真っ黒の瞳孔が映え、今は部屋の暗さで瞳孔と虹彩が開いているようだ。朝までは足がケモノだったが、今は股関節から股にかけて筋量が増え、二足歩行に耐えられるよう足の面積も広くなっている。骨盤は上半身を支えられるように、ケモノの時よりも横に広がっているのが分かった。シグは体力をほとんど使い果たした様子で、顔から滝のような汗を流している。歩く練習は明日からで良いだろう。まずは、俺の確認事項を消化しなくては。 「シグ、良く頑張ったな」  労いの言葉をかけると、シグがオレを見て「ぁ...」と何かを言おうとする。俺が何を言っているのか理解して、言葉を返そうとしている。"ヒト化"は彼の脳もしっかり変化させていた。水受けから水を飲ませた後、俺は興奮を抑えながら震える唇を開く。 「俺の名前、言えるか?」 「...ぅ...?」  シグがこの家に来た一か月前から、俺は少しずつ"名前"を教えていた。家に置いてある物の名前、シグの名前、俺の名前。物体や個体を指差し、名前を言って、それらが結びつくものだと伝える。最初はやはり難しかったようだったが、徐々に俺が指さした物が何か理解し、名前を音に出そうとしてくれていた。ケモノだった時は脳が物と名前を結びつけられず音にできなかったが、今なら。 「ぉー、わぁっ!!ぅう~...ぁお!!」  シグの拘束具を外しながら、俺は辛抱強く待った。体力の限界で声を出す事さえできなくなったら、今日は無理させないようにしよう。シグは少しずつ、脳の中で俺と音を繋げていく。 「ぉー、ま...ぁ?ぉ、おぉー...すぉ...や...す、そ?」 「っ!そう!」 「そー、まぁ。そーま」  俺は足元から這い上がってくる感覚に全身の毛を逆立てた。今、シグはヒトになった。カミにさえできない、ヒトだけの権利。カミに近いケモノでは不可能だった脳の電気信号処理。自然界では不要だが、ヒトの世界では必須の作業。 「偉いぞ、シグ。良くやった」  俺はシグの頭に手を乗せ、額から後頭部にかけて撫でてやった。シグは「そーま...そーま」と呟きながら、嬉しそうに目を細めた。しかし、やはり体力は限界のようで、そのまま目を閉じていく。俺は汗に濡れてしっとりしているシグの体を抱え上げた。朝にベッドに寝かせた時より、幾分か重い。  やはり、ケモノがヒトになる瞬間は、素晴らしい。途方もない年代がかかった進化の歴史、その過程を全て覗き見してしまったような幸甚と背徳感。こんな現象を引き起こせるのは、カミをもって他に無いと主張したくなる気持ちも分かる。しかし、俺はヒトが進化するのはヒトの力だと言いたい。カミはもっと原始的で、ヒトとはかけ離れた存在だ。歩行にしても、言葉にしても、名前にしても、ヒトが自分で獲得した特技である。それが可能になったヒトは、カミから解放された存在なのだ。  俺はシグを抱えながら拘束部屋から出て、リビングを通り抜け風呂場に向かった。汚れたまま寝かせるわけにはいかないので、体を流してやらないと。俺の肩に頭を乗せて寝息をたてるシグ。これからはケモノの時にできなかった事を、沢山できるんだ。名前を覚えて、二本足で歩いて、手で物を持てる。それがケモノである事より良いのかは、分からない。良いか悪いかは自分で決めれば良いんだ。ただ、俺から言えるのはこれだけ。 「ようこそ、ヒトの世界へ」