ノールは朝からずっとイライラしていた。彼を支配している主人のせいだ。  その狼人の少年は気分を晴らすために、何か面白そうなものはないか物色することにした。いつものことだった。人目のないことを確認してから、彼の身長の三倍以上はある鉄格子をひょいと乗り越えて、内側をウロウロと歩き始めた。  鉄格子を越えたところでその街には、主たる守りである砦の厚い壁がさらにぐるりと取り囲んでいるから、それほど期待はできない。柵と砦の間にあるのは地面と草っ原ばかりだったのだ。  ノールはそれでも、何かを探したかった。この間見つけた、触覚の生えたカエルはビィビィと珍しい鳴き声をしていてそれなりに面白かったが、すぐに飽きて、食べてしまった。それで腹を壊してしまったらそれはそれで面白かっただろうとすらノールは考えるのだが、なんともなかったので、つまらなかった。  もっと面白くて興奮を沸き立たせるような何かがないかとノールは首を巡らせたが、彼の目に入ってくるのはただひたすらに地面と草と砦の壁と、それから壁の途中でそびえ立つ高い塔だけだった。砦の塔は全部で6基あったが、取り囲む壁の全周はそれなりの長さがあったので、ノールの位置からは近くで立っている一本と、その隣の塔の先端がわずかに覗けるのみであった。  塔は物見の役割を果たしており、ちょうど今も人間の魔術師がひとり、上方から首を覗かせたところであった。しかしノールはそれを気にも留めなかった。  俺の隠蔽術は完璧だ。絶対に見つからねぇ。他の愚図共にはできねぇ芸当さ。  ノールはそんなふうに高をくくっていたが、実際ほぼその通りで、砦にいる見張りの人間たちは誰一人としてノールに気付くことができなかった。今日も今日とてノールは自慢気に、隠密に、堂々と、鉄格子と砦の間をひた歩くのだが、それも彼のイライラを解消する助けにはほとんどならなかった。  ノールは自分のようにいらだちを募らせる者が、自分以外の仲間のうちに誰も居ないことが、不満だったのである。仲間とはすなわち、魔獣兵たちのことだ。  街はしばしば魔獣による襲撃に晒されていた。それらに対抗する手段として役割を担わされたのが、彼ら魔獣兵であった。外から襲ってくる魔獣どもと違うのは、彼らが人間との契約によってその命を長らえさせられている、ということだった。  どうやらこの街の中心の地下の奥、さらに奥へ深く深くと至ったところに、魔獣の生命の秘訣となる何らかが安置されているらしく、そこからもたらされる魔力を対価として人間と主従関係を結んでいるという話である。だが、魔力の源となるその何らかについて、実のところは誰も知らないらしい。噂によれば、はるか昔に魔族の頂点に君臨していた魔王の遺体がそこで眠っているという話だったが、ノールはそれを信じていなかった。今朝もちょうど、彼の後見人とそのことで口論になったところだった。 「くそっ!」  ノールはそのことを思い出して、ますますいらだった。彼の不満はあまり余って無意識にその腕に魔力の鉤爪を生み出し、八つ当たりのように砦の壁に向かって斬撃をくりだした。  しまった、とノールは思った。 (ノール!)  ノールの頭に、殴りつけるように声が響いた。たったその一撃で、ノールはめまいがした。 (また勝手に防衛線を越えたのか。クズめ) 「うるせえクソじじい」  ノールが反抗的な一言を放った瞬間、彼の身体は一気に砦の壁の方へと引き込まれた。  ところが、ノールの身体が城壁に叩きつけられることはなかった。 「がああああああああ!」  代わりにノールの身体は、城壁から数寸だけ離れた箇所に張られた光の幕に、縛り付けられてしまった。 (どうだ、強力な結界だろう。貴様には身をもって知ってもらった方がいいな) 「ああああああっ」  ノールの頭で声が鳴るが、言葉を理解する余裕はいっさい無かった。それはまるで身体全体をあちこちからぎゅうぎゅうと握りつぶされるような、乱暴な痛みだった。  そのまま五分経った。ノールの口は、何の音も発さなくなった。 (所詮はまだ子供ということか。根性がない)  頭に響く声がそう言うと、ノールを縛り付ける力が少しだけ緩んだ。しかしまだ自由に動けるまでには至らず、ノールの身体は大の字になってその場に磔にされたままだった。 「くそ、はあ、てめえ、クラウス、絶対に許さねえ」 (貴様から何を許されることがあるというのか。そもそも見張りの番を放棄して侵入禁止の規律まで破った貴様こそ、私に許しを請うべきであろう。それから)  クラウスと呼ばれた声がそう言うと、 「う、あああああ!」  ノールは再び、先程と同じ痛みに一瞬だけ襲われた。 (貴様ごときが私の名を呼ぶな)  心が凍り付くみたいに冷たい声だ、とノールは思った。それでもクラウスに屈したくないノールは、必死にもがき続けた。  一方のクラウスにはノールの様子がよく見えていた。人間の魔術師である彼は、ノールのいる場所よりちょうど真反対の塔の中で、遠視の術を用いながらノールを罰していたのだった。  クラウスは弱々しく暴れるノールのそばの、城壁へと視点を向けた。強固な鋳造石のレンガが、爪で引っ掻いたようにボロボロにえぐれていた。 (……全く、これではアルバートの苦労が偲ばれるというものだ) 「あ? はあ、はあ、なんで、クソ親父が出てくんだよ」  ノールの目は、血走っていた。 (少しは父親を敬え、ノール。彼は貴様よりもはるかに我々の役に立ってくれているぞ) 「ハッ、そりゃあアイツが犬っころだからさ、人間のペットがよっぽどお似合、が、グハッ!」  ノールの腹部に、大きな鈍器が打ちつけられるような衝撃が走った。何度も、何度も。 (私はアルバートの強かさと、コボルトらしからぬ繊細な魔力の扱いを買ったのだ。貴様ごときが考えるような低俗な理由などでは決して、ない) 「ごぼぉっ」  クラウスがノールにとどめの一撃を打った。  クラウスはそれきり、何も話さなかった。  ノールはくやしかった。くそう。くそう。どうしてヤツなんかに、俺は。  魔法で打ち据えられたノールの身体からは一滴の血も流れなかったが、涙はぼろぼろとこぼれていた。  抵抗する力も次第に失せ、狼人の少年は意識を闇に落としていった。

 城壁の内側から、その声は投じられた。 「狼くん」  ノールはぎょっとした。どこか夢見心地だったが、引き戻された気分だった。 「あ、誰だ、おまえ」  ノールは耳が良かったので、それが人間の女性の発する音声だとすぐさま分かった。自分から見て左側、城壁内部の通路から、そうだ確か鉄柵付きの小窓がそのあたりにあったからそこから声が聞こえてきたのだろう、とノールは思った。やはり実際、その通りだった。 「キサマ、いま俺を呼びやがったか」 「ええ」  その声は透き通っていた。  今まで自分に向けられたどんな声よりも、奇麗だ。  と、ノールは思った。  ノールは我に返って眼を剥き出した。それから少し考えて、牙も剥き出した。うなり声も上げた。もちろん、結界で固められているノールからは女の姿は見えなかった。彼女の方からも、角度からして自分の方はよく覗えないはずだが、それでもノールは威嚇して見せた。  声は笑って、壁の向こう側から語りかけた。 「ナナ、といいます。あなたは」 「は?」 「お名前。何というのかしら」 「……なんでアンタに教えなきゃいけねぇんだよ」 「名前を知らないと、お話をしようにも困るじゃない。ね、教えて。お願い」  ノールは変な気持ちになった。彼はもともと人間が嫌いと言うより、どちらかというと興味が無かった。  魔獣兵は基本的に城壁の外でしか暮らしておらず、街の人間との接触もほぼ無かった。魔獣の襲撃から街を防衛しているとき、大きな音を立てるとそれだけで砦の内側からはるばる悲鳴を届けてくれるほどだから、よっぽど人間どもは自分たち魔獣が恐ろしいのだろう、と子供心に思っていた。どうして自分はこんなところで兵なんてしているのだろう、とも思った。  しかしノールは人間のことを嫌いにも憎くもならなかった。自分を街に縛り付けている魔術師たちは憎いが、人間そのものに対しては何とも思わなかった。その辺で見つけたカエルよりももっとずっと、どうでもいいものだった。  それが唐突に、お話をしようというのである。 「何を話そうってんだ」 「なんでもいいじゃない。お仕置きの間のいい暇つぶしになるでしょう」  ノールはその言葉を聞いて怪しんだ。 「お仕置きって、なんでそれを知ってるんだよ」 「だってそれは、どう見たって罰を受けているじゃない」  ノールはますます不可解だった。「どう見たって」って言ったって、アンタは俺の方をどうやって見てるって言うんだ?  この女、何者だ。 「アンタ、あやしいぜ。俺はもう話さねぇ」  いち兵隊らしく、ノールは警戒して見せた。しかしナナは未だ余裕そうにこう話す。 「なんだ、意外としっかりしてるのね。残念」  狼人の鼻先が、わずかにひくついた。 「私ならその結界の呪縛、解いてあげられたのに」 「……な、なに! ちょっと待て、おい、アンタ」 「ナナ、よ」  ノールの鼻にまとわりつくにおいが濃くなった。  ノールは思った。間違いない。これは魔力だ。 「お前、魔術師、いや魔女だな」  ナナは黙っていた。壁の向こうから漂っていた魔力が急に引っ込んでいくのを、ノールは感じた。  ノールはなんだか一気に冷静になっていくようだった。そういえばもう辺りはすっかり薄暗くなってきている。さすがに夜になればこの拘束も解けるだろう。この街は夜こそ警戒すべきだから、兵の手を減らしたままにしておくわけにはいくまい。こんなボロボロの状態の俺まで兵力に数えるんだとしたらだが。  いや、奴らは平気で俺をこき使うだろう。魔術師ってのはそういう奴らだ。  そこまで考えてノールは、ふと思った。  魔術師はそうだけど、魔女ってのはどうだろう。  少なくともこの女は自分を解放するようなことをほのめかした。魔力を扱う人間にろくな者はいないと諦めていたが、しかしこの女に限っては自分のことを憎からず扱ってくれそうな気配がする。  なによりも、魔法を使う女という存在が面白そうだ。このナナとかいう奴は、俺に何かを見せてくれそうな気がする。  ノールは持ち前の恐ろしく愚かしき好奇心をもってして、ナナに接近することを決めた。  ところがその願望はさっそく潰えようとしていた。 「……聞いてたとおり、魔術師のことは良く思ってないみたいね。そんなに警戒されてたら、仕方ないわ」  そんな言葉が力なく発せられたものだから、ノールはあわてた。 「おいちょっと待て、待てって」  ノールは引き止めるが、返事がない。 「ええっと、なんだっけ、そうかナナか。おい、ナナ」 「なあに」  今度は声が返ってきた。彼はほっとした。  喉を鳴らして狼人は言う。 「ノール」  甘い香りが、また漂ってきた。 「ノールだ。俺の名前」

 そのあとナナはいとも簡単にノールの呪縛を解いてしまった。ナナいわく、囚われている者の名前と術の解法さえ分かれば、魔術師でなくとも解いてしまえるような代物だったらしい。何かひと言ふた言つぶやいたかと思えば、次の瞬間にはノールの身体は結界から抜け出し、地面に放り出されていた。 「結界から流れてくる魔力だけを使って縛ってたみたいね」  そう言いながら何か思案しているナナは、ノールの傍らに寄ると獣毛に覆われた肩をぽんぽん叩いた。 「大丈夫?」  ノールはずっと目を丸くしていた。ナナの方を見て、思わず言った。 「ええと、ナナ。おまえ、どうやってこっち側に来た」  彼は驚愕していた。ノールの呪縛を解く前、ナナはまるで壁も結界すらも無いかのようにそれらをすり抜けて、ノールのいる外側まで歩いて来たのだった。 「どうやってって、透化の術だけれど」 「……そんなにあっさり出来ちまうもんだったっけ」 「まあ、人間の魔術師でコレが使えるのはそんなにいないかもね」  そう涼しげに答えるナナは、ノールが声の印象で受けたものよりもずっと若い姿だった。幼い、というほどではないが、ノールと同じくらいの年齢の少女の見た目だった。濃い紫のローブが彼女の身体をすっぽり覆っていて、袖口が少々余っているようだった。  ノールがナナのことをじろじろ見ていると、 「どうかした? やっぱり具合が悪いかしら。ひどい罰だったもの」  と心配させたので、彼は慌てて取り繕った。 「い、いや。別に。思ってたより、もう痛くねぇ。滅茶苦茶にやられたと思ったんだけどよ」 「ふうん」ナナは目線を落とした。「確かに、それほどのことをやってしまったんだと思うけどね」 「それほどって?」 「だってほら、あの壁の傷」  ナナは城壁の根元の方を指さした。ノールが破壊してしまった壁は、縦一直線、それほど大きな範囲ではないが元の形が分からないほど砕けていて、その中心にまっすぐ鋭利な切り口が通っていた。ノールはいぶかしそうにそれを見つめて、言った。 「そんなにキレるほどのことかよ、これが」 「なに言ってるの、ノール。あなた大変なことをしたのよ」 「はあ、いやそりゃあ、うっかりぶつけちまってそのときはマズいと思ったけどよ。そんなに大騒ぎするほどのことかっての」 「……一大事だったのよ、それが。だって、結界を突き破って砦に危害を与えたんだもの。この結界を」  ナナはそう言って、深刻そうな顔で塔を見上げた。目線の先には塔の先、光り輝く宝玉があった。 「本当はね、私、昼間の騒ぎが気になってここに来たの。結界が破られたって。魔術師の人たちはみんな緊張してた。でもすぐに……師団長が通達を出したの。これは魔獣の襲撃によるものではないって、だから安心して欲しいって。対応はもう済んでいるからって言われたけれど、私はどうしても気になって、昼じゅう調べ回ってその結果、この場所で何かあったらしいということが分かって」 「それで、来たのか」 「うん」  ノールはナナと一緒になって宝玉を見つめていた。宝玉は6つの塔それぞれにあって、常に淡い光を発していた。宝玉どうしが陣を結び、そこからこの街の守りの要、大結界が降り注いでいる。街に住んでいる者であれば、誰でも知っていることだった。 「テラの街が始まって以来、あんなことは一度もなかったんだって」 「へぇ。誰がそう言ったんだ」 「師団長が、ね」 「……」  ナナの言う師団長というのは、クラウスのことだった。ノールにもそれは分かっていたが、ノールはクラウスのことをあまり話題にしたくなかった。 「要するに俺が結界を破っちまったってことが問題だったんだな」 「そう、魔獣であるあなたがそれをしてしまったんだもの。テラの街を防衛する上での前提が、根底から覆されたってこと」 「ふうん」 「……なに考えてるの?」 「別に。それだけ大げさに言う割には大した罰じゃねぇんだなって」 「全然懲りてないんじゃない」 「……ちげぇよ」  ノールは砦を見上げる。その場に座り込んで、言った。 「殺さねぇんだなって」  ナナは、何も言えなかった。自分も腰を下ろし、ノールと一緒になって塔を見つめることしかできなかった。ほんの気持ちだけノールの左隣に寄ってみたが、彼はなにも言ってこなかった。  砦の影がまっすぐに二人を覆っている。小窓の向こうには壁しか見えない。視界の端々にほんの少し映る橙色が、みるみるうちに閉じていくのが二人には分かった。  大きな砦だ、とノールは思った。  大きな街だ、とナナは思った。  たいまつに灯りがともるころ、ナナは口を開いた。 「まだなにか処分があるとしても、それほど重くはならないと思う。ううん、きっともう大丈夫。さっきも言ったけど、本当に想定外だったから」 「……」 「……クラウスおじさんは、あなた達が思ってるよりもずっともっと、あなたたちのことを大事に思ってるよ」 「クラウスおじさん?」  ノールは驚き振り向いた。 「うん。師団長は、クラウスは私の伯父だよ。厳しい人だけど、この街と、街にいる皆のことを誰よりも思ってる」  ナナの言うことに、ノールはほんのちょっぴりだけうんざりした。 「あの野郎が考えてるのは、街のことだけだろ。俺達のことなんか、ちっとも」 「そんなことない」 「そんなことあるだろう!」  ノールはナナに迫った。ナナは少しだけ仰け反ったが、ノールから目を離さなかった。 「あなたたちを防衛のための道具としか考えてない、だとか思ってるの」 「そうだろうが。魔獣から街を守っているのは俺達。非力な人間どもは石の壁の中に匿う。別に、そこまでは良いんだよ。だけどよ」  ノールは息荒く唸った。 「俺達は、絶対に街に入れねぇ」  決して口にしてはならないことを言っているような気がして、ノールの心臓はばくばくと鳴っていた。  ナナはノールを見据えたまま、言葉を紡ぐ。 「おじさんは、……伯父は、魔獣兵を契約の元に支配している。それは事実。それも、伯父一人で全ての魔獣と契約を結んでね。どうしてそんな無茶なことしてるか、分かる?」 「なに? どうしてって?」  ノールはクラウスの力があまりにも強大であるから、くらいにしか考えていなかった。とてもじゃないが倒せない、はっきり言って、敵わない。己の生涯におけるそれこそ障壁のような者。それがあまりにも悔しくて、悔しくて悔しくてという気持ちがノールにとってのクラウスへの全てだったから、クラウスが契約を結ぶことに動機があるとかどうとかいうことに、全く考えが及ばなかった。 「伯父は、〝魔王との約束〟だと言っていた」 「魔王だって? ありゃただの噂だろう」  他の馬鹿どもはその話を信じ切ってるがな、とノールが付け加えると、ナナは食い下がった。 「そんなふうに考えてるのはあなただけよ」 「どうしてだよ」 「どうしてって、それは」 「俺からしてみりゃ、その話を信じてる他の魔獣連中の方が信じられねぇ。どう考えたって、クラウスが上手いこと言いくるめてるだけじゃねぇか」  そう言われてナナは、はじめてノールから視線を落とした。 「約束だか何だか知らねぇが、結局、この街に縛り付けられていることには変わりないんだよ」ノールは苦々しく砦を睨んだ。「俺達は、絶対に、街に入れないのに」 「……あなたは、〝魔王との約束〟がどんなものだったのか知ってるの」 「知らねぇ。興味もねぇ」 「そう。私も詳しくは知らないけれど」 「なんだよそれ」 「聞いてよ。……お願い、ノール。ちゃんと聞いて」  たしなめられているような言い方に、ノールは今度はちょっぴりだけ心が痛んだ。 「……分かったよ。なんなんだ、その〝魔王との約束〟ってのは」  ナナは、もう一度ノールに目を合わせて、こう言った。 「かつてこの街に突如現れて、そして静かに滅んでいった魔王が、私達に遺した言葉。……『我は人と魔の世を望む。故に、我は孤独の内に眠る』と」  たいまつに灯る魔法の火が、ボウッ、と音を立てた。  夜風は上空から壁を伝って、二人に静かに吹き下ろしていた。結界はゆるやかに波立ち、プリズムの色がきらめいた。 「クラウスおじさんが教えてくれたの。他の人間には秘密だって言ってたけれど」  でも魔獣のあなたになら平気よね、とナナはつとめて明るく言った。  一方のノールはナナから視線を外し、何か考えているようだった。 「ノール?」 「えっ」 「あの、やっぱり信じられないかしら。魔王が人間と仲良く、なんて」 「仲良くって、そんなちゃちな感じじゃないだろ」  ノールは視線こそ合わせなかったが、笑っているようだった。ナナはノールの態度に少しだけ腹を立てたが、彼が言うように簡単に片付くことではないと思い、なにも言えなかった。  ノールが口を開く。 「だから、俺を助けたのか」 「えっ。ああ……たぶん、そう」 「たぶんってなんだよ」 「だって、だってね。私、いてもたってもいられなかった。おじさん、罰は与えた、もう問題ない、って言ったっきりだったもの。まさか……命を取ったりまではしないだろうって思ったけれど、ひょっとしたらって考えたら」 「えらく心配してくれんだな。俺だって魔獣だ。外から襲ってくる奴らと大して変わらねぇさ」 「違う、全然違う」  ナナはそう言って、ノールに向き直った。 「私、いつも見てたもの。塔の上から、いつもいつも。あなたたちは街を守るために何度も傷ついて、助け合って、毎日生き抜いて。笑ったり怒ったり泣いたりして、いつも一生懸命生きているの。それでときどき、こっちを見るの。ひどくさびしい顔をして」  気付けばナナはノールの身体に寄りすがっていた。掴みかかられた毛皮が少し痛いと思ったが、ノールは何も言わずに聞くことしかできなかった。 「あなたと私が違う生き物だなんて、思えない。でもそう思ってるのはあたしだけかもしれない。だからすごく苦しかった。でも、今日あなたを助けてあたし、わかったよ」  ナナは、少女らしい顔立ちをして、言った。 「あたし、あなたたちのことが好きなのね」  ノールはナナの瞳を見ていた。丸くてきらきらしたブルーだった。  自分とさして変わらない思いを、人間もするのだな、とノールは思った。ノールはやみくもになにかを探していたが、ナナは魔獣達の心を見つけたのだ。自分がただとにかくなにかを探していたのは、さびしかったからだ。ノールはナナの瞳にも、同じような淋しさが見て取れるような気がした。けれども同時にその奥には、きらきらしたなにかがあった。  ノールはその光るものが、とても欲しいと思った。  ノールは少女の手を取り、そっと自分の頬へ当てさせた。  少女の手は自然と頬をなでた。彼もまた、その手の中で動くやわらかな感触を確かめていた。  互いの視線の先に、ノールとナナがあった。  ノールは今自分の中でわき上がっている感情がどういうものなのか、分からなかった。それでも自分が今ナナにしているようなことが、ナナが自分に触れていることへの心地よさが、永遠に続けば良い、そういうふうに自分が思っていることを、自覚した。自分がナナに対してそんなことを考えているのが、ノールはなんだか、うれしいと思った。  ノールは再びナナの手を取り、そして静かに頬から下ろした。 「ナナ」 「うん」 「……ありがとう」 「……うん」  塔からの風が、もう一度静かに吹き下ろした。 「ナナ、それでも俺は、……俺達と街の関係が変わるなんてことは、簡単には無ぇと思う。俺達はずっと、この街を守るためにしか生き続けられねぇんだ」 「ノール……」 「だから、俺はこの状況から力ずくでも抜け出してやる」 「えっ?」 「俺はまだ子供だから、敵わねぇ奴がいるから、どうにもならねぇ。でも、いつかもっと力を付けて、契約の呪縛を解いて、この街をオサラバしてやるんだ。そして、この街なんか目じゃねぇ、もっと広い世界を見に行くんだ。ナナ、お前と一緒に」 「ノール、それって」  ノールは立ち上がり、ナナに向かって言った。 「そうだ。俺はお前をさらって、この街を旅立つ。それが俺の夢だ」  言い放つノールの瞳は、輝く赤をまとっていた。  ナナもまた立ち上がり、ノールに言う。 「そんなの、私は許さない」  ナナは一瞬なにか考えて、それから続けた。 「私は、いつかあなたたちがこの街で暮らせるようにする。私だってまだ子供だから、大人になに言ったって聞いてくれないわ。でも、私もいつか力を付けて、それで」  ナナの瞳は、潤んでいた。 「私があなたの運命を変える。……私の運命を全て使って。そうすれば、私は」  瞳から、涙がこぼれた。 「あたしは、あたしの運命を、やっと、ちゃんと受け入れられるんだわ」  ナナは顔を震わせながら、笑顔で泣いていた。泣きながら、ノールの顔をしっかり見ていた。  ノールはナナの言う運命というのが一体何のことか分からなくて、戸惑ったが、彼女の泣く姿にたまらなくなって、寄り添い、ぎゅっと抱きしめた。 「ナナ」  ノールはナナの震えに、もう一度戸惑った。それでもナナは、ノールの背中に腕を回し、抱きしめ返してくれたので、彼は声を振り絞って言った。 「じゃあ、競争だ。俺が強くなってナナを連れ出すか、ナナが強くなって俺を街の中に引き込むか、だ」  ナナはノールのその言葉に、堰を切ったように涙を溢れさせるのだった。

「またここでお話しして、良い?」  別れ際、ナナが言った。ノールは快くそれを受け入れた。 「どうせなら、目印でも付けようぜ」  ナナはノールの提案に首を傾げた。 「要は結界に触れなきゃ良いんだろう」  そう言ってノールは爪先に魔力を込めると、壁に向かっていくらか丁寧に指を動かし始めた。 「あっ」  ナナは驚いた。ノールが動かす指に沿って、ガリガリと壁が削れていっている。 「ちょっと、ノール……」 「なんだよ、集中してんだ。気を付けるから見ててくれよ」  仕方がなくナナはノールの作業を見守った。果たして結界に波ひとつ立つことなく、出来上がった跡には、こんな文字が書かれていた。

   〝ナナとノールがいない街〟

「へへへ」 「……なによ。まだそうなってもないじゃない。気が早いわ」 「いつか、そうなるだろ」  ナナはノールの自慢気な顔に、頬を膨らませた。そして、 「だったらあたしも」 「は?」 「えいっ」  ナナは指に込めた魔力を一気に壁へと振り付けた。一瞬のことだった。ノールが彫りつけた文字の隣に、小さな土煙が立ち上っていた。 「おいおい」 「うふふ」  ナナは自慢気に笑い返した。土煙が晴れたところには、こう書かれていた。

   〝ノールとナナの街〟

 それから二人は、何度も何度も話を交わした。  そんなに小っこいのにもう魔術師の仕事をしているんだな。――あたしは十三だよ。もう大人。  クラウスはナナにも厳しいのか。――厳しくはないよ。そっけないけど。  遅くまで話していて家族が心配しないのか。――心配してくれる家族はもういないから。  俺も同じだ。――そうなんだ。じゃあ、一人で暮らしてるの?  いいや。家に帰ったらクソ親父がいる。――まあ。何だか楽しそう。

 塔の見張りなんてヒマじゃないのか。――そんなことないよ。景色を眺めるのは好き。塔の見張りをしている時ね。塔の上からしか見えないんだけど、森の向こうに丘があるの。そこにぽつんと立っている一本杉が、風に揺れているのを見るのが好き。ねえ、ノールは街のこと、どう思ってるの?  中を見たこともないのに好きも嫌いもない。  ときどき来る行商が、街の噂をしてるんだ。だから俺は、この街の話なんて疲れるだけだ。  要塞都市。化け物が取り囲む街。6つの宝石の街。魔王の墓場。どこまでも暗い噂の絶えない、鬱屈した場所だ。

 ――それだけ皆が、この街を気にかけてくれているんだよ。

「ナナ。お前はどうして、この街が好きなんだ?」  ナナは、ノールに薄く笑いかけるだけで、なにも言わなかった。

   *

 その朝の襲撃は、それはそれは酷いものだった。不意打ちと言うほかなかった。  ある魔術師の記録によると、突然の轟音を聞きつけ慌てて第3塔から南東の森を遠隔視した際には、すでにもう、真っ黒なうねりがあちこちから粉塵を上げていたらしい。  黒の塊をつぶさに観察すると、そこから血走った目玉だの鉤爪だのがあちこちから露出しており、それがつまり複数の魔獣たちの塊だったということである。定かではないが。  街の守りは強固そのものだったが、物理的装備に関してはこの魔獣の群れに対してほとんど意味を成さなかった。第1塔と2塔側の鉄格子が崩落したとの報告が早々に入った。森とは反対方向の、海に面した岩壁側だ。  奇襲だ。明らかに今この街を襲撃している魔獣たちは知恵を付けている。やみくもに襲いかかってきたこれまでとはわけが違った。  そうなると、此度の魔獣共の狙いは自ずと知れるのだった。 「おい、まさか結界が解かれると言うことはあるまいな」 「塔の宝石が魔獣兵たちを従わせてるんじゃないの? もしあれが、宝石が壊されでもしたら……ああ、考えただけで恐ろしい」 「だからクラウスのやり方には反対だったんだ! 魔獣なんて飼い慣らせるわけがない!」  民衆の憶測や不安をよそに、外敵は着々と侵攻を進めていた。もう外壁の中程までよじ登られているとの一報があった。正確には城壁に沿って敷かれた結界にしがみつき、焼けただれて消滅する間もなく次の魔獣がその背中を、さらに次の魔獣がその肩に、といったふうに、前の仲間を踏み台にして無理くりに頂上へと達そうというのだった。  全ての塔が制圧されるまで、もはや幾分の猶予もない状況だった。  ノールはその日非番であったが、四の五の言わずと戦場へ躍り出た。 「状況は!」  ノールはやぐらの陰で仲間の治療をしている角ウサギに声をかけた。 「の、ノールぅ。だめだよう全然手数で負けちまってるよう。ていうかあいつら、おいら達を無視して塔に向かっていくんだ。おいら達、結界には触れねぇし……どうしたらいいんだあ……」 「情けねぇこと言ってんじゃねぇ! ……くそ、点で守りを厚くするしかねぇか……おい、アルバート隊長はどうした」 「えっ隊長ぉ? あれぇどこいっちまったんだろう」 「ちっ」  ノールは悪態をついたが、それどころではない。こめかみに手を当て、神経を集中させる。 (第4塔防衛班および連接する哨戒班に告ぐ! 壁じゃねぇ、塔を守れ! 4塔はまだ間に合う、ありったけで塔周辺を囲んではたき落とすんだ!)  ノールはテレパシーを終えると、その場に膝をついた。 「う、くそっ、こういうのは親父の仕事だろうが……どこほっつき歩いてやがる」 「ノールぅ! 無茶すんなよぉ」  角ウサギが慌ててノールに駆け寄り、回復の術をかける。 「……俺はやらなきゃいけねぇことがある。第4塔の根元だ。俺はこれからそこへ行く。いいか、絶対に塔に近づけさせるなよ」 「えっ。ちょ、ちょっとまってよノールぅ」  ノールはわき目も振らずに駆けていった。  大丈夫だ、あいつらなら上手くやる。矢のように森と鉄柵の間を駆け抜けながらも、ノールはなぜか気持ちが高揚していた。  仲間が傷ついて倒れるかもしれないのに。急ごしらえの策が外れるかもしれないのに。自分のせいで街が崩壊するかもしれないのに。  そうだ。俺にとっちゃあどうでもよかったはずのことごとに、どうして今こんなにも気を掛けているのだろう?  脳裏に光るのは、小さく笑う魔女の姿だった。  ここを抜ければ、ナナがいる。きっといる。ノールはありあまる力で鉄柵を飛び越えていった。  思った通り、ナナはいつもの場所で、砦の外に出ていた。  そのそばに、犬人の魔獣が一体立っているのが見える。 「ノール」犬人はほとんど表情を変えずに言った。「こんな事態にもお前という奴は、持ち場をサボってきたんだな」 「親父……なんでここにいるんだよ」  ノールが一歩近づくと、ナナが間に入った。 「アルバートをここへ呼んだのは私です。ノール」 「ナナ……?」 「あなたが父親と呼ぶこの方が、秘法の生成を唯一コントロールできる魔獣だというのは、何とも皮肉なことよね」  アルバートと呼ばれた犬人は、ナナの言葉に目を伏せた。 「秘法? 何のことだ? ナナが親父になんの用があるってんだ」 「お嬢、時間がありません。手筈どおり私があなたを連れて行きます」 「てめぇアルバート! なに言ってやがる!」  ノールはアルバートの言葉に思わず食ってかかった。アルバートがナナを連れて行くって? どこに? どうしてこんな時に?  まずもってそれは、俺の役割だ。 「アルバートさん。大丈夫よ。ノールに任せるから」 「しかし、お嬢」 「親父は黙ってろよ!」  ノールがもう一度叫ぶと、アルバートはノールを見据えた。 「ノール。……残念だが、時は来てしまったんだ」  時? なんの? アルバートもナナも、どうして勝手に何かが進んでいるように話すんだ?  ノールはもう、わけが分からなかった。 「落ち着いて聞け、ノール! ……いつも話していただろう。魔王様の力をやつらに奪われるわけにはいかないんだ」 「魔王って……」  街の中心に眠る魔王。〝魔王との約束〟。 「そう。あの中心地を守り抜く。魔族と人が手を取り合うその日まで。それが」  ナナの目が、青く光る。 「あなたの本当の両親が引き継いだ、〝約束〟」 「ナナ!?」 「お嬢……!?」  ナナの言葉に、ノールもアルバートも驚愕した。 「ごめんね、ノール。あたし、知ってたの。……だから……時間がないから、お願い、ノール」  ノールはその言葉の影に、出会ったころのナナを見た。 「なんだよナナ、何がしたいんだ。ちゃんと説明してくれ」 「ノール、お嬢も言うとおり本当に急がないといけないんだ。説明は、……お嬢がきちんと道中でするだろう」 「そんなこと言ったって意味が分からねぇよ! どうして、どうして……」  ノールは、怯えた顔でナナを見た。 「ナナは、そんなに震えているんだ……!」  ナナははっとした。アルバートも動揺しているようだった。 「お嬢、やっぱり……」 「アルバート。あなたはあなたのするべきことを遂行しなさい。これは〝命令〟です」 「う、あ」  瞬間、アルバートの身体が硬直した。後ずさりをし、塔へと近づいていく。 「ナナ、なんだよお前、なにしてるんだよ。これじゃまるで」  クラウスと同じだ。 「……お嬢。あなたの覚悟は、俺は分かっているつもりです。……ノール」  アルバートはノールを見てから、城壁の方に振り返った。彼が見る先には、あの彫文があった。 「もっと、お前とナナお嬢様には多くの時間を過ごして欲しかった。……お前の両親が生きていたころを思い出して、俺はうれしかったよ。ノール」  彼がそう言うと、結界と同じ輝きの膜が体を覆い、たちまちに上空へと飛び去っていた。 「親父……アンタは……」 「ノール」  気付くとナナは、ノールの眼前にいた。 「私をあの丘の頂上……一本杉の根元へ連れて行きなさい」  ノールはナナの声が、きれいで、恐ろしいと思った。彼女の言うことに抗うことが、どうしてもできなかった。  狼人の少年は少女を抱きかかえ、震える足取りで、確実に丘へと駆けていった。  自分がナナにさせられていることにノールは向き合うことができず、ナナに身体を操られるがまま、目を瞑り、意識を手放した。

――おれは自由になりたかったんだ。 ――おとうさんとおかあさんが、おれに、自由に生きなさいって言ったんだ。 ――おれには、はじめっから、自由なんか、なかったってのによう。

  ……。

 ノール。お話をしましょう。  私は、私の魂はね、この街を守るためにあるの。  街の塔に据えられた宝玉は、街を守る確固たる意志で満ち満ちている。  そう、人間の魂と、……魔獣の魂の輝きで、満ちている。  お互い違う生き物なのに、同じ願いのために、その魂を捧げている。  私は……それはとても素晴らしいことだと思っていたけれど。……あなたはきっと、怒るのでしょうね。  だから、このときが来るまで話せなかった。  でも、でもね。  一番悲しいのは、魔王なのよ。  魔王。そう。あなたのひいおじいさま。  魔族なのに、人に仇なす存在なのに、人を愛して、それ故に孤独となり、静かに朽ちていった、かなしいひと。  私の両親も、……あなたの両親も、その孤独な祈りに共感した。  だから、きっと喜んで魂を捧げたのでしょう。  私も、そうよ。だから私は望んで、7番目の塔になるの。  私の好きな、あの場所で。  でもノール、あなたは私とは違うでしょう。  あなた自身が、自由を望んだ。  それも、とっても素敵なこと。  ……もしかしたらって、思ったの。  もしかしたら、自由なあなたこそが、人とけだものを繋いでくれるかけがえのない存在なんじゃないかって。  だから私が守らなきゃ。あなたと、ひとと、けだものを。私が、あたしが、守らなきゃ。  ……。  どうして、あたし、……

 ……恐いんだろう。

「ナナ!」  気がつくとノールは自分のはるか上、杉の木の天辺に、まばゆい光をまとったナナが浮かんでいるのを見つけた。光はどうやら、街の方からまっすぐ、丘に浮かぶナナへと注いでいるようだった。 「ナナ、ナナ、やめろ! どうしてお前が犠牲にならなきゃいけねぇんだ」 「ノール。ノール。だって、これがあたしの役割だもの。あたしは、みんなを守るために生まれて来たんだもの」  そう声を張り上げるナナに、ノールは何か語るよりもはやく、体が動いていた。一心不乱に杉の木を登り、ナナの元へたどり着いた。 「ノール……あなた、どうして来たのよ」 「ナナにお願いされたからだ」  ノールの言葉に、ナナは喉元が詰まるようだった。 「すげえな、ここ。街が一望できる。さすが、ナナの好きな場所だ」 「そうだよ……あたしだって、初めて見た。砦からの景色とも、違う。思った通り。きれいで、あたしの、守りたい街」  第4塔から粉塵が上がる。もはや全ての塔が、黒い塊に飲み込まれつつあった。  ナナはもう、泣いてしまいそうだった。 「なあ、ナナ。何が恐い?」 「……! あなたと……! もう二度と話せなくなること……! あたしはあなたが好きだったから……!」  ノールが、ナナの背中に覆い被さった。 「だったら、俺も一緒に居てやる」  ナナの手に、ノールの手のひらが重なる。  流れ込む光が、二人の目の前ではじけた。 「ノール、ノール、ごめんなさい、あたし」 「いいんだ。ナナ。それにさ、俺達は運命に抗うんじゃないぜ」  全部ひっくるめて、自由になってやるのさ。

 結界の中心点からナナに魔力を注いでいたアルバートは、その変化にすぐ気づいた。 「この魔力、まさか、ノール!?」  逆流してきた魔力が向かう先は、街の中心だった。反発するようにそこから光の柱が立ったかと思うと、柱から漏れ出す魔力によって、魔獣兵達の体はアルバート同様光の膜に包まれた。 「ノール、お前……まさかクラウス殿は、ここまで……」  アルバートが丘のある方角へ向き直ると、彼は戦慄した。  轟音が、響く。  街を見下ろすほどの巨大な狼の幻影が、そこにたたずんでいた。  狼の幻影は、ひと吠え、ひと睨みした。そうして一気にその大口で、街にかぶりつき、ひと飲みにしてしまったのだ。  幻影に包まれた街の中は、ぬるいつむじ風が吹き抜けた。街の民衆はこの地の終焉を悟ったが、実際に起こったことはそれとは真逆のことだった。  そう、たったそれだけ、たった一撃にして、うごめく魔獣の黒い塊は跡形もなく消え去ってしまったのだという。

 ノールとナナの行方は、その後、一向に知れない。

 それからというものの、魔獣が街を襲うことは一切なかったらしい。魔獣兵達はその役割をなくしたが、クラウスが契約を破棄しても魔獣達は意思を保てることが確認され、その後は穏やかに暮らした、ということだった。  ただひとり、アルバートだけが、街を去り旅に出た。彼は遠く離れた国でこんな噂を耳にしては、心の中で密かに笑ったのだという。  遥か遠方の地で、滅亡したはずの魔族が人間と手を組んだらしい。森へ入ったが最後、二匹の狼の幻影が、その魔境へといざなってしまうのだ、と。