「......み ......がみ! おいっ、大神(おおがみ)!」

 誰かが俺の名を叫んでいるのがぼんやりと聞こえる。 んー......と薄目を開けると、視界いっぱいの白い毛玉に深い青色のガラス玉2つが揺れているのがぼんやりと見えた。

「まったく、ようやく目が覚めたな。大神の寝起きが悪いのはどこでも変わらないな」  白い毛玉はピョンとベットから飛び降りるとはぁ〜と深いため息をついた。

「ふぁーぁ、根古(ねこ)かぁ。もう朝の時間?」  俺は気だるさの残る上体をよっこいしょと起こし、隙あらば閉じてこようとする瞼を擦りながら目の前の毛玉におはようと挨拶をした。 施設の朝は早いがこうやっていつも根古が起こしてくれるからすごく助かっている。

「いやいやっ! それどころじゃないんだよ! 早黒子っちに来いって」  そう言って俺の手を引っ張る根古に引きづられるようにして俺は寝床から出た。  根古って意外と力強いんだよなと思いながらぼんやりとした頭で後ろへ流れていく周囲を見渡すと、今いる場所がいつもの施設ではないことがわかった。

 ふかふかの絨毯にシックな壁、長い廊下の両側にはがっしりした扉がズラッと並んでいる。少し埃っぽい空気が鼻にくすぐったい。  遠くの窓からは雨粒が激しく叩きつけるのが見え、たまにピカッと白く発光してはドーンと低い重低音が聞こえる。ガタガタと窓枠全体を揺らす風の強さが天気の荒れ具合を物語っていた。  早く早くと急かす根古について行き緩やかにカーブしながら下る階段をトントンと降りていくと、そこには荘厳なシャンデリアがぶら下がる広めのホールがあった。

 なんでこんなとこにいるんだっけと思い出しているうちに、根古と俺は大きな古びた扉の前に到着する。  根古が重そうなそれを押し開けると、そこは広い食堂で部屋の真ん中にドンと備えられた長テーブルの周りに何匹か先客が座ってこちらを見つめていた。

「あ......」  そうだ思い出した。俺は親友の根古の連れとしてこの屋敷に来たんだった。  来たときに全員に挨拶をしたのでこっちを見ている顔ぶれには見覚えがある。

「大神を連れてきました」  根古はそう言うと俺の手を引っ張って空いている席に座るように促した。

 フカフカの絨毯に引っかかる椅子に苦労しながら俺は席につく。  未だに状況は読み込めないが、何かただならぬことが起こっているのはピリピリとした空気と皆の表情を見るに明らかだった。

 ゴホンと咳払いをして上座の男性が話し始めた。 「さて、この屋敷にいる者が全員集まったところで一度状況の整理をしようじゃないか」

 その獣人はぴっちりとしたスーツを着こなしたライオンで、名前は確か獅子(しし)さんだった気がする。 「皆も知っている通り、本日我々黒猫家の親族がこの屋敷に集められ、夕食の後資産の相続について黒漆(くろう)氏から話がある予定だった。しかし、最初の挨拶をして退室してから何時になっても姿を見せない。黒漆氏の持病が悪化して何処かで倒れている可能性を考えて皆で捜索したところ、黒漆氏が自室で何者かに殺されているのを発見した」

 ゾワッと全身の毛が逆立つ。とんでもないことに巻き込まれてしまった。

「すぐに警察に連絡しようとしたがこの屋敷には外部と連絡を取る手段が全くないうえに、この嵐で基地局がやられたのか携帯も圏外になってしまっている」  俺はポケットからスマートフォンを取り出して確認してみた。確かに画面左上のマークは電波がないことを示している。

「俺がバイクを走らせて麓まで行こうと思ったんだが、途中で土砂崩れが起きててよ。通れなくっていやがった」  そう椅子の背にもたれながら気だるそうに話すのは、鼻にピアスを通したやんちゃそうなジャガー獣人だ。  彼は話しながら湿った白いタオルをクシャクシャにしてテーブルの上に放り投げた。

 その様子を獅子さんが嫌そうな顔で見る。 「邪我(じゃが)くん、補足をありがとう」

 ふぅと重いため息を吐きながら、獅子さんは瞼を揉んだ。 「つまり、だ。私達は外部との連絡手段もな黒子こに閉じ込められた、ということになる」

 ダンッとテーブルを叩く音に皆がビクッとする。 「こんな流暢なことやってていいのかよ! この屋敷の中に殺獣犯がいるってことだろ?!」  周りを鋭い眼光で見渡してグルルと威嚇するガタイの良いトラ獣人に獅子さんは押し黙る。

「そんなこと言って、斗羅(とら)、あんたが殺したんじゃないの?」  そう言って女性のヒョウ獣人がしなやかな足を組み直しながら斗羅さんをあざ笑った。

「なんだとっ!! 妃歌(ひう)、てめぇっ!」  毛を逆立てて妃歌さんに噛みつかんばかりに立ち上がった斗羅さんを、隣の席に座っていた俺はまぁまぁと宥めながら彼の太い腕を掴んで引き止める。

 その様子に手の甲で口元を隠しながら妃歌さんがウフフと笑う。 「だってぇ、殺された黒漆さんの背中には鋭い鉤爪で引き裂かれたような痕が残っていたって言うじゃない? 私にはそんなのつけられないしぃ」  そう言いながら妃歌さんは手の指を広げて真っ赤なマニキュアが塗られた爪を眺めた。  たしかにあの爪で跡を残すのは難しいだろう。

「だったらお前が殺ったんじゃねぇか?!」  そう言って斗羅さんは俺の腕を振りほどいたかと思うと逆に俺の腕をねじ上げた。思わぬ反撃に俺は思わずイタタタッと声を上げてしまう。 「お前ら狼には大量殺戮の歴史があるしなぁ!」

「そっそんな!」  顔をあげられないから周りは見えないけど、周囲からの視線が集まるのを嫌でも感じる。  あぁ...... いつもそうだ。  確かに大昔に狼達が本能のままに他種族を襲ったという話は、形を変えておとぎ話にもなっていて小さな子でも知っている。そのせいで何かあると狼が疑われて悪者にされてしまうのだ。  俺はギリギリと腕を締め上げられる痛みで顔を顰めながら、何も言い返せない自分が悔しくて歯ぎしりをした。

「斗羅君やめないか。黒漆氏の顔にはチアノーゼが見られた。もし死因が首を絞められたことによる窒息死だとすれば、ここにいる全員に殺害が可能だ。もちろん君にもね。つまり彼が犯獣とは言い切れないってことだ」  静かに獅子さんがそう言うと、チッと舌打ちをして斗羅さんは俺を捨てるように開放した。  根古が慌てて俺に近寄って大丈夫かと声を掛けてくれるのに対して引きつった笑顔で大丈夫だと答えながら、俺はジンジンと痛む腕をさすった。

「ところで、そっちの奴等は容疑者じゃないのか?」  そう言って邪我さんが壁際で静かに立っている執事と三匹のメイドを顎でしゃくった。

「彼等は容疑者から外して問題ないだろう。我々がこの屋敷に到着してから死体が発見されるまで、常にお互いペアで行動してことと、黒漆氏が獣払いをしていたこともありこの食堂と厨房しか移動していないのは君達も見ていた通りだからだ」  獅子さんはそう言って椅子に深く腰掛けた。

「しかも捜索の際にこの屋敷内には我々しかいないことは確認したし、この嵐の中外部から侵入したとした痕跡もないことから外部犯である可能性も低い」  獅子さんがペラと一枚の大判紙を皆に見えるように机に置いた。

□━━━━━━━━━━□━┷┷━□━┷┷━□━┷┷━□ ┃│         ┃    ┃    ┃    ┃ ┃││←階段    _┃    ┃     ノ   ┃ ┃│        乀  風呂 ┃ 寝室 ┃    ┃ □━━━━━━□   ┃    ┃    ┃    ┃ ┃      ┃   ┃    ┃    ┃殺害現場┃ ┨  厨房  ┃   □━□━━□━□  ┃    ┃ ┨      ┃  _┃ ┃    ┃  ┃    ┃ ┃      ┃  乀   トイレ ┃  ┃    ┃ □╸━━ ━━╺□   ┃ ┃    ┃  ┃    ┃       ┃ ┃  │ノ  ┃   □━□━━━━□━━□╸━ ━╺□  ┯┯…窓  ノ…扉 ┨      ┃               │ノ ┃       ┃ ┨      ┃                  ┃ ┃      ┃                  ┃ ┨      ┃_     □━━━━━━□━━━━━□ ┨  食堂   ノ    ┃      ┃     ┃ ┃      ┃    _┃     _┃     ┃ ┨      ┃    乀  娯楽室 乀  応接室 ┠ ┨      ┃     ┃      ┃     ┠ ┃      ┃玄関ホール┃      ┃     ┃ □━━┯┯━━□━━ ━━□━━┯┯━━□━━┯┯━□          │ノ

「これがこの屋敷の簡単な構造図だ。犯獣が殺害現場に侵入する経路としては部屋の窓が一つと廊下につながる扉しかない。窓は全て内側から鍵がかかっていた。扉へは玄関ホールから伸びる廊下を通るしかない。となると、我々が黒漆氏の捜索を開始してから屋敷内を通って殺害現場から逃げることは難しい。つまり、犯行は我々がこの食堂で黒漆氏と別れてから捜索を開始する間までに行われたことになる」  テキパキと要所要所を指差しながら説明していた獅子さんはそこでピタッと手を止めると、みんなの顔を見渡した。  眼鏡の奥で鋭い眼光がキラリと光る。

「つまり、黒漆氏を殺した犯獣が我々七匹の中にいるのはほぼ間違いない、ということだ」

 そう言われて俺はふと気が付いた。  一,二,三……食卓に座っているメンバーは自分を入れても六匹しかいない。

「あの......七匹って、一匹足りないみたいなんですけど」  俺がそう言うと、正面に座っていた邪我さんが獅子さんの隣りにある椅子をんっと指さした。

 俺が首を伸ばすようにしてそこを覗き込むと、テーブルの影に隠れるように小さな黒い子猫が俯いて椅子に座っていた。

「彼は黒漆氏の息子の黒子(くこ)君だ。私達が現場に辿り着いたとき彼が部屋の中で立ち尽くしていたところを保護した。事情を聞こうと思ったんだが口を閉ざしてしまっていてね。まぁ父親の死を目の前にしたショックは大きいだろうから仕方ないにしろ、アリバイがはっきりとしない限り彼も容疑者の一匹だ」  こんな小さな子まで容疑者だなんて...... 俺は少し彼に同情した。

「とにかく、斗羅君も言っている通りこの中に犯獣がいる可能性が高い以上、放置しておくわけにもいかない。警察もいつ来れるかわからないしね」  そこでだと獅子さんはメガネをカチャリと指で押し上げた。 「これは逆にチャンスでもある。犯獣がこの中にいるなら私達で犯獣を特定できれば捕まえられるということだ。そこで犯獣を特定するためにも事件が起こったであろう時間帯の君達の行動を聞かせてほしい」

「はぁ? まじかよ! 俺たちを疑うのは勝手だがなんでお前なんかに協力しないといけねぇんだ!」  ガタンと椅子を倒して立ち上がった邪我さんは声を荒らげて獅子さんに食って掛かったが、獅子さんはそれに臆せず邪我さんをギラリと睨んだ。

「ここでそのような非協力的な態度を取るとあなた自身の為になりませんよ? 警察官として疑わしい獣人は私自ら縛り上げますからね。」  そう凄まれた邪我さんはチェッと舌打ちすると渋々といった感じで椅子に座り直した。

 獅子さんはコホンと咳払いをすると話し始めた。 「ではまず私から。私は十九時に食事が始まってから二十時過ぎにお手洗いに行くために少し席を外しました。私が戻ってきてから暫くして黒漆氏が来ないという話になりまして、彼の捜索を開始しました。二・三十分ほど捜索した頃妃歌さんの悲鳴を聞いて現場に駆けつけると、そこには黒漆氏の死体がありました」

 次は私ねと妃歌さんが続ける。 「あたしわぁ、時間は見てないけど食事中に一回だけ化粧直しでトイレに行ったわ。あとは食堂に戻ってから黒漆さんの捜索隊に入って手伝っていたときに、物音がした部屋を覗いたら彼の死体を見つけちゃったってわけ。もぅまじびっくりして叫んじゃったわよ」

 ほら次やりなさいよと妃歌さんが邪我さんをつっついた。 「ぁ? さっきも言ったが俺は騒ぎが起こったとき外部に連絡を取りに行こうと思って愛車に乗って麓まで行こうとしたんだが、土砂崩れで通れなくて引き返した。片道大体二十分くらいだったかな。あぁ? 騒ぎが起こる前? そこのトラ親父と二匹っきりになったのが気まずくてタバコを吸いに一回部屋の外に出たが、時間はあんまり覚えてねぇ」

 次やれよという邪我さんの目線を受けて、斗羅さんはムスッと腕組をしながら唸るように言った。 「俺か? 俺はずっとこの食堂にいた。お前らが部屋を出た順番ならよく覚えてる。大神、根古、妃歌、獅子、邪我だ。疑うならそこのメイド達にでも確認してくれ」

 話し終わったと言わんばかりに黙り込んだ斗羅さんを見て俺は話した。 「俺は食事をしてたら急に眠気が襲ってきたんで、根古に連れてもらって自分の部屋に行きました。その後はさっき根古に起こされるまでずっと寝てました」

 自分で言っていて情けない内容だが仕方ない。根古が続ける。 「大神もさっきも言ってたように、眠そうな大神を部屋まで連れていきました。こいつよく食事中に眠くなるんですよ。食堂に戻って来たとき入れ違いに邪我さんが出ていったのは覚えてます。暫くしたら騒ぎになって皆と一緒に黒漆さんを捜索しました」

「……」  根古が話し終わっても黒子君は俯いて黙りこんだままだった。  その様子を伺っていた獅子さんはダメかとため息をつくと皆に向き合った。 「協力ありがとう。取り敢えず嘘を付いているものがいるとしたらここから探るしかないな」

 皆が思い思いに考え始めたとき、根古が俺の袖をクイクイと引っ張ってきた。 「なんとか大神の無実を証明することはできないのかなぁ」  俺は頭をひねって考える。 「んー、とは言っても俺は部屋で熟睡してただけだからなぁ......」

 根古は頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに背中を預けた。 「僕もすぐ食堂に戻っちゃったし、大神がずっと寝てたって証言できる人は誰もいないしねぇ......」

 現実を突きつけられて耳を垂らしシュンとしょげる俺を慌てて根古が慰める。 「だ、大丈夫だって。要は真犯獣を捕まえればいいってことだろ?」  そうか、単純なことだが俺が犯獣を見つければすべて解決するじゃないか。

「よしっ、一緒に犯獣を捕まえようぜ!」  俺達はがっしりと互いに手を掴み合った。  俺はそのときにふと気付いた。 「なぁ、いつも身につけてるキーホルダーがないけど、どうしたんだ?」

 するとあぁ、これねと言いながら根古はキーホルダーがあったであろう場所を撫でた。 「気付いたら居なくなってたんだよ。古かったし多分どっかに引っかかって取れちゃったんじゃないかな」  大切にしてた相棒を失って少し寂しそうだ。

「そういえば根古って昔からああいうかわいいの好きだよな」  俺がそう言うと根古はてれっと笑いながら答えた。

「ほんとに小さい頃にさ、お気に入りだった黒猫のぬいぐるみを持ってたんだ。何をするときも一緒でさ、お風呂も一緒に入ったし、公園に持っていって一緒にブランコをしたりしてさ」  そう言いながら少し悲しそうな顔をして根古は天井を見上げた。

「母親が死んで施設に連れて行かれたときも持っていこうとしたんだけど、ダメだって大人達に取り上げられちゃったんだ。そのせいか今でもあのぬいぐるみに似たのがあると思わず買っちゃうんだよね」

 根古の横顔から感情は読み取れなかったが、言葉の端々に哀愁を感じ取った俺はポンと背中に手を置いた。 「もし俺の無実が証明されたら、一緒に新しいのを買いに行こうぜ!」

「そうだな」  そういうと根古は俺を見てニカッと満面の笑みを浮かべた。

「そういえば一つ気になっていたんですが、邪我君。」  そう言って獅子さんが邪我さんに声を掛けた。

「貴方が屋敷の外に行ったのは死体を発見した後でしたよね?」

 邪我さんはテーブルに片肘を付きながら答えた。 「あぁそうだ、俺は死体が見つかって騒ぎになってからすぐに外部と連絡を取りに行ったからな」

 それはおかしいですね、と獅子さんはメガネをくいっと上げる。 「片道二十分かかるということは行き帰りで最低でも四十分はかかります。もし死体を発見した後に屋敷の外に出ていたならばちょうど今くらいに戻ってくるはずです。しかしあなたは既にここにいる。ということは、あなたは死体が見つかる前にこの屋敷を出たとしか考えられません!」

 な゛っ!と狼狽える邪我さんに畳み掛けるように獅子さんは続けた。 「なぜ貴方は黒漆氏が死んでいると分かる前に屋敷を出たんですか? しかも死体を発見してから屋敷を出たと嘘までついたのは何故ですか?!」

 獅子さんの猛烈な勢いにタジタジになりながら邪我さんは答えた。 「そっそれは、屋敷を出る時間帯をうっかり間違えて覚えてただけだ! そ、それに死体が出る前だって黒漆の奴がいなくなったことには変わりなかったから、捜索するのに応援を呼ぼうとしただけじゃねぇか!」

 冷や汗を流しながらしどろもどろに説明する邪我さんを見ながら、俺は誰かがボソボソと呟く声を聞いた。

 耳を澄ますとどうやら獅子さんの隣に座っている黒子君が何かを言っているようだが、声が小さすぎて聞き取れない。  俺は静かに立ち上がって黒子君のもとに行き、顔の高さに合わせるようにそっとしゃがむと彼の口元に耳を寄せた。 「僕、見たんだ......」

 何を?と俺が優しく聞くと、彼はすっと邪我さんを指さし、はっきりとした声で言った。 「あの男がお父さんの部屋から出ていくのを、僕見たんだ!」

 バッと皆の視線が邪我さんに集まると、邪我さんの顔からみるみる血の気が引いていくのがわかった。

「僕、お話が終わるまで待ってなさいって言われてお父さんの寝室にいたんだけど、バタバタと暴れるような音がして怖くて布団にくるまってたの。暫くして静かになったからそっとお父さんがいる部屋を覗いたら、ちょうどあの男が部屋から出ていくのが見えたんだ。」

「いやいやいやっ! だから俺じゃねぇって!!」

 妃歌さんがスクッと立ち上がるとツカツカと歩いていって真っ赤に鋭い爪先を邪我さんの喉元に突き当てた。 「じゃぁ何? この子が嘘をついてるとでも言うの?!」

 えぇ!?と詰め寄る妃歌さんに気圧されて真っ青になっていた邪我さんだったが、ついに観念したのかバッと後ろに飛び下がり土下座をした。

「黙っていてすまねぇ! でも俺は殺してねぇ!」  ガタガタと震えながら邪我さんは続けた。 「お、俺が食堂から出てブラブラしてたとき、扉が開きっぱなしの部屋があったからちょっと気になったもんで覗いてみたんだ。そしたら、や、奴が死んで床に転がってたんだ! それで......ちょっと魔が差して屋敷から金目のもんを失敬してたら騒ぎになってきたんで、それに便乗してここから逃げようとしただけなんだ!」  信じてくれよぉと盗品をどこからともなく出して並べ、涙声で話す邪我さんを冷ややかな目で見下ろしながら妃歌さんは深いため息をついた。

「分かったわよ、取りあえずは信じてあげる。でも盗んだものは全部返しなさいよ?!」

 邪我さんはバッと妃歌さんを見上げると満面の笑顔でありがとう、ありがとうと何度もその頭を絨毯にこすりつけた。 「全く、そんな情けない姿を見せられちゃったら怒る気力もなくなっちゃったわ」  そう言いながら土下座をする邪我さんを尻目にくるっと身を翻して席に戻る妃歌さん。

 邪我さんも面目ないと恥ずかしそうにながら自分の席に戻った。  気まずそうに体を縮めているが、最初と比べてまるで肩の荷が下りたかのようにすっきりした表情だ。

「しかし、これで振り出しに戻ってしまいましたね」  獅子さんがそう言うと体の中の空気をすべて吐き出したような深いため息をついた。

「あの......」  と、重たい空気が漂う中涼やかな声が壁際から発せられた。 ずっと沈黙していたメイドだ。

「差し出がましいですが、私から証言してもよろしいでしょうか?」

「あぁ、勿論だ」  獅子さんが返事をすると皆の目線がそのメイドに注がれた。

「実は厨房から包丁が一本行方不明になっておりまして......それを最後にお貸ししたのが妃歌様なのです」

 それを聞いた妃歌さんは今までの余裕さを失い明らかに慌てた様子で言った。 「ちっ違うわよ! 私はただ厨房で果物を剥くのを手伝っただけで......ついでに料理の肉を切り分けるのに使おうと思って借りたけど、使い終わったあとはそのままテーブルに置いておいたわ!」

 邪我さんが心底驚いた顔で言った。 「まじか! 俺はてっきりメイドさんがやってくれたのかと思ってたぜ。お前って意外と器用なんだな」

 斗羅さんもその言葉に同意するように頷く。 「確かに、皮は綺麗に剥かれていたしあまつさえ器用に動物の形にカットしてあった。普段から料理を作る奴じゃないとできない芸当だ。」

 いや、待てよと邪我さんが頭を捻る。 「確か妃歌のやつ、食事のときにうちには家政婦が何人もいるから家事とかはやったことないってほざいてなかったか? だとしたらそんな芸当できるわけがねぇ。だとしたら果物を切るのに包丁を借りたっていうのは嘘で、本当は黒漆を殺す為だったんじゃねぇの?」

 根古もそれを受けて頷く。 「確かに包丁なら妃歌さんでも爪で切り裂いたように偽造できるよね......」

 畳み掛けるように皆から犯人ではないかと容疑をかけられて、妃歌さんは息切れした金魚の様に口をパクパクさせることしかできないようだった。明らかに血色が悪くなり絶望の表情を浮かべている。

「おっおい、皆待たないか! たかだか包丁の行方がわからないだけで妃歌さんを犯人だと決めつけなくてもいいだろう。別の獣人がテーブルにあるのを持っていった可能性だって十分にある!」  そんな妃歌さんの窮地に助け舟を出したのは、意外にも獅子さんだった。

「なんだなんだー? 急に妃歌のことを庇いやがって。俺のときなんてまっさきに犯獣扱いしてきたくせによぉ。なんかあるんじゃねぇか?」

 ぬぅと口ごもる獅子さんを煽るように邪我さんが立ち上がって続ける。 「もしかしてお前と妃歌は共犯かもなぁ! お前が職権を乱用して現場の指揮さえ取ってしまえば妃歌にとって有利にことを運べるし?」

 くっと獅子さんはヘラヘラと煽ってくる邪我さんを睨みつけるが、最初のような威圧感は失われていた。テーブルに置かれた獅子さんの拳がブルブルと小刻みに震えている。  勢いに乗った邪我さんはズボンのポケットに手を突っ込んだまま少しづつ獅子さんの方へと荒々しく歩いていく。 「おいおいどうした? まさか図星かよ。黙ってないでなんとか言ったらどうだ!」

 獅子さんの目の前まで来た邪我さんが彼の胸ぐらをつかみ上げようとしたその瞬間。 「やめてっ!!」  妃歌さんからまるで悲鳴のような金切り声が響き渡り、食堂の中は水を打ったようにシーンとなった。

「もうやめて。私からすべてを正直に話すわ。」  そう言うと妃歌さんは意を決したように今までと打って変わって真剣な面持ちで話し出した。

「私、本当はお金持ちじゃないの。日々の生活で精一杯の貧乏人よ。このブランド物の服やバックだって今日の為に友達から借りたものなの。」  そう言いながら妃歌さんがイヤリングや指輪といった装飾品を外していく。

「私ね、今の境遇から脱却するために今回の集会がチャンスだと思った。ここで出会ったお金持ちの人とお付き合いして結婚までいけば逆玉の輿でしょ? それで、警察のお偉いさんだっていう獅子さんに目をつけた。 私、食事中にこっそり彼をトイレに呼び出してずっとお話をしていたの。 最初は肩書しか目になかったけど、話しをしていて獅子さんの優しさと誠実さに心惹かれていく自分がいたわ......さっきだって自分が疑われるかもしれないのに、こんな私を必死に庇ってくれて...... とっても嬉しかった。同時に虚勢を張ってるだけの自分が恥ずかしくなったの。」

 妃歌さんはそこで言葉を止めると獅子さんを潤んだ瞳で見た。 「ごめんなさい、今まで騙してて。私のせいで貴方まで疑われるのは耐えきれなかった。」  妃歌さんは瞼に涙を滲ませてうつむくと、ふるふると肩を震わせながら押し殺したような嗚咽を漏らした。

「けっ、どうだかな?!」  せっかくの興を削がれた邪我さんは悪態をつきながら自分の席に戻ると、ドスッと乱暴に座った。

 邪我さんから標的にされていた獅子さんは、そんな邪我さんには目もくれず静かに泣き続ける妃歌さんの横顔を目をまん丸にして見ていた。獅子さんは何か言いたげに口を開いたが、その口からは何も言葉を発することなく震える唇を噛みしめた。  そのまま何か思いつめたように眉をひそめていたが、拳をぎゅっと握ると固い決意を滲みませながら話し出した。

「わ、私も......僕も隠していたことがあります。」  奥歯に物が詰まったように歯切れの悪い言い出しだったが、一度言葉に出すとまるで堰を切ったように獅子さんは続けた。

「僕は、本当は警察官ではありません。しがないサラリーマンです。この集会に呼ばれて妃歌さんに会ったとき......僕は一目惚れをしました。」  いきなりの告白に妃歌さんが驚いたように獅子さんの顔を見つめる。

「でも、貴方はとても綺羅びやかでどう見ても僕が釣り合う方じゃなかった。だからサスペンス好きを生かして警察の関係者だと見栄を張ったんです。まさか本当に殺獣事件が起こるとは思いませんでしたが......」  そこまで白状すると獅子さんはバッと立ち上がって皆に向かって勢いよく頭を下げた。

「その場の雰囲気に流されて皆さんを騙すことになってしまい、本当に申し訳ありませんでしたっ!!」

 まさかの証言にその場にいた皆は言葉も出ないようだった。  その中で妃歌さんは涙の残像を残しながらしなやかな体を翻して獅子に抱きついた。

「私っ、貴方がどんな身分だって関係ないっ! だって私が好きになったのは貴方自身なんですもの!」

 好きよ......と妃歌さんは恍惚とした眼差しで獅子さんを見つめるとそっとマズルを重ねた。  獅子さんは火が出るんじゃないかというくらい顔の毛元から真っ赤になっていたが、尻尾は嬉しそうにクネクネと波打っていた。

「おいおい、のろけは他所でやってくれよ!」  と邪我さんが呆れたように手のひらをひらひらさせる。

 ここまで黒子君のところでふかふかの絨毯に座り込んでいた俺だったが、目の端でイチャイチャする二匹を見ながら頭の中で事件の整理をしていた。  これで犯行が可能な容疑者が俺と根古、そしてこの黒子君だけになった。  とすると、犯人は黒子君??と思いながらそのフワフワとした黒い顔に鎮座する濁りのない澄んだ空色の瞳を見てしまうと、どうもそんな気がしない。  ふと黒子君が何かを握りしめているのに気がついた。 「ねぇ、手に何を持ってるの?」  怖がらせないように笑顔でできるだけ優しく聞いてみる。

 すると黒子君はそっとその小さな手のひらを開いて持っている物を見せてくれた。それは小さな黒猫のキーホルダーだった。

「お父さんの近くに落ちてたのを拾ったの」

 その言葉を俺は遠くの方で聞いた気がした。  まさか、信じたくない。  しかし、そのキーホルダーには見覚えがあった。かすかに漂ってくる匂いも嗅ぎ覚えがある。

 それでも、もしかしたらなにかの間違いかもしれない。 「それ、俺に貸してくれないかな?」  何事もないかのように装いながら俺が強張る顔に必死に笑顔を浮かべて聞くと、良いよと黒子君はキーホルダーを俺の大きな手のひらに渡してくれた。  俺は黒子君にありがとうとお礼を言って彼の頭をわしゃわしゃと撫でると、そっと自分の席に戻った。

「どうした? 顔色が悪いみたいだけど?」  根古の心配そうに尋ねてきた。いつもの見慣れた顔のはずなのになぜか歪んで見える気がする。

 俺が黙り込んでいると根古は足をブラブラさせながら続けた。 「まぁそうだよなー、容疑者が黒子君と俺達だけになっちゃったし」

 俺はそうだねと静かに相槌を打ちながら、思い切って根古に聞いてみた。 「なぁ、根古は死体を見たのか?」

 んっ?と怪訝そうな顔をして俺を見る根古。 「いいや、僕は現場には行ってないから見てないよ。声のする方へ行こうとしたらすごい顔をした獅子さんに止められちゃったから」

 そっか、ありがとうとうわの空で返事をして、俺は自分の世界に入り込んで頭の中でパズルを組み立て始めた。今までの証言を全て思い出すんだ。そこに真実がある。

「いい加減にしろっ!!」  野太く凄みがある声が轟き、食堂の空気をビリビリと震わせた。

「さっきから黙って見ていたがどいつもこいつもくだらん! 残る容疑者は三匹だ。だが、体格的に考えて倍以上もある大人をそこの子猫が殺せるとは思えない。ということは犯獣はそこにいる二匹しか考えられないだろうが!」

 そう言って斗羅さんが俺たちをビシッと指差す。そうだ、俺の疑いも晴れていないんだった。

 グルルと威圧する斗羅さんに臆せず根古はすくっと席から立ち上がると、良く響くリンとした声で言った。 「ちょっと待って下さい。可能性は低いにしてもまだ外部犯の可能性だってあります。しかし斗羅さんの仰る通り今の所僕らが一番疑わしいのは確かです。もし皆さんが望むのであれば警察が来るまで僕らを拘束して頂いても構いません」

 確かに現状ではそれが一番もっともらしい決断ではある。しかしそれは俺にとっての敗北判決でもあった。  根古は賢いから警察は彼の動機を見つけられないだろう。俺にだって黒漆さんを殺す動機はないが、遺産相続の席で親族である根古がわざわざ黒漆さんを殺すとは考えにくい。  そうなると狼が犯獣に される のだ。種族による差別をなくそうとか平等とか叫ばれてはいるが、そんなのは全て建前だ。この世界は狼には優しくない。

 俺はそれでも悩んでいた。親友の罪を暴くのが親友を裏切る行為のような気がして。  でも自分の無実を証明するには真犯人を見つけるしかない。  俺は手の甲に筋が浮かび上がるほど強く拳を握りしめると喉から声を絞り出すように言った。 「俺から話があります。皆聞いて下さい」

 心臓が喉から飛び出そうになるのを堪えながら、俺は皆の顔を見渡した。 「まず俺以外に黒漆さんが殺された部屋に行ってないのは誰ですか?」  すると根古と斗羅さんが手を挙げた。

「ありがとうございます」  俺は二匹に手を下げるようにお願いすると、すぅっと深呼吸をして続けた。

「さっき黒子君から死体の傍に落ちてたっていうあるものを受け取りました」  そう言いながらポケットからゴソゴソとキーホルダーを取り出すと、チャラリとそれを根古の前にかざした。

「これ、根古のだよな?」  俺の指先にぶら下がるものを見てサッと根古の顔色が変わった。

「お前はさっき死体が見つかった部屋には行っていないと言っていた。なのにどうしてこれがそこにあったんだ?」

 俺がそう尋ねると、根古は何事もなかったかのようにいつもの顔に戻ってハハッと笑った。 「そうだね、たしかにそれは僕のだ。でもだからって僕を犯獣扱いするなんて大神もひどいな。だって、黒子君が僕に罪を着せるために別の場所で拾ったのを死体の傍で拾ったって言ってるだけかもしれないだろ?」

 俺もそれだけで根古が白状するとは考えていなかった。だから更に追い打ちをかける。 「でも、犯行ができる時間帯で全くアリバイがないのは俺と根古だけだ。それでお前のキーホルダーが殺害現場に落ちてたっていうことは......」

 バンッと根古が手のひらをテーブルに叩きつけた。 「だから! それだけじゃ僕が犯獣ってことにはならないだろ!! 自分が犯獣になりたくないからって僕に罪を押し付けるなよ! 何ならそこにいるジャガー野郎の方が殺害現場の書斎で盗みをしてたんだから犯獣の可能性は高いだろ!」

 唾を飛ばしてまくし立てる根古を俺はギラリと睨みつけた。 「なんでお前は殺害現場が”書斎”だって知ってるんだ?」

 あっ、と根古が絶句する。

「確かに、俺も書斎というのは初めて聞いたぞ」 と斗羅も相槌を打つ。

 俺はズンズンと根古に詰め寄りながら言った。 「それになんで邪我さんが盗んだものが書斎にあったって知ってたんだ? 邪我さんは屋敷で盗みをしたとは言ったけど、どこでとは一言も言ってないんだ。それを知っているのは、邪我さんが盗みに入る前に殺害現場に居た犯獣だけだ!」

 俺の影にスッポリと覆われた根古から色が失われていく。そして、そのまま力が抜けたようにガクッと膝から崩れ落ちた。

「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」  耳を劈くような絶望の叫び声が食堂中に響き渡った。

「そうだよ、僕が殺ったんだ!」  根古は両手をブルブルと握りしめながらそう怒鳴った。そして観念したようにうつむくと苦虫を噛み潰したような顔をして全てを話し始めた。

「母親が病気で亡くなった後、僕はあいつに施設に預けられた。当時幼かった僕の気持ちが分かるか? あの子は母親と一緒に父親に捨てられたんだって施設の皆が噂しているのが聞こえるんだ。皆が思っている以上に子供は敏感なんだよ」  くすぶっていた火種が再び勢いを取り戻したかのように、根古の瞳の奥に強い憎悪の炎が燃えていた。 「あのクソ野郎は死んで当然の獣人だったんだ。だって僕と病気だった母さんを見捨てて、自分自身は別の女と子供なんか作っちゃってさ。」  そう言って根古は黒子くんの方を睨んだ。

「僕は......ここへの招待があったとき、黒漆に食事が始まったら部屋へ来るように言われていたんだ。二匹っきりになれる格好のチャンスだ。そう思って僕は今回の犯行を考えた。まず僕の代わりに罪を着せるやつが必要だ。そこで僕は大神を選んだ。」

 頭を固いもので殴られたようなショックが俺の全身を貫いた。まさか親友に裏切られていたとは。

「周りが知らない獣人だけだと不安だからという適当な理由をつけて大神を連れて行く許可をもらった。食事が始まってから大神に寝てもらう為に料理に睡眠薬を仕込んでおいた。丁度いい量を調整するために施設でも何回か試してみたよ。食堂に包丁があったからそれも持っていった。そして大神のアリバイを消した後、僕はあいつに会いに行ったんだ。」

 根古は顔をしかめ、怒りを顕にしながら語りだした。 「あいつは......あいつは豪華な部屋の中で高そうな椅子にゆったりと座って本を読んでいたよ。僕と母さんを捨てた獣でなしのくせに」

 あいつは僕が来たのに気付くと、椅子から立ち上がって小走りに近づいて来たかと思うと僕のことをギュッと抱きしめた。 「根古、迎えが遅くなってすまない。ずっと会いたかったよ。」

 僕はその腕を乱暴に振り払いながら言った。 「今更父親面なんてするなよ! それよりも僕は貴方に確認したいことがあってここに来たんだ。」

 あいつは少し寂しそうな顔をして頷いた。 「いいぞ、何でも聞いてくれ。」

 僕はこみ上げるものが目から零れそうになるのをぐっとこらえて、あいつを睨みつけながら聞いた。 「なんで......なんで母さんを見殺しにしたんだ」

 あいつの表情が固くなるのがわかった。 「そのことに関しては非常に残念なことだったと思っている。私の力不足だ」

僕は体の奥から湧き上がる怒りを抑えきれなかった。 「ふざけるな! 僕のことも施設に捨てたくせに!」

「お前には本当にすまないと思っている。だが、複雑な事情があったんだ。」

「複雑な事情って......っ! それは僕や病気で苦しむ母さんよりも大切なことだったっていうのかよ!」  マズルにシワを寄せて歯を剥き出しにしながら僕が叫ぶと、あいつはポカンとした顔をした後笑いながらこう言ったんだ。

「あぁ、そういえば、そうだったな」

 その瞬間体中の血液が沸騰して頂上に向かって逆流したかと思った。あいつは母さんの死因すら忘れていたんだ。

 気づいたら僕は体全体であいつにタックルしていた。不意打ちを食らったあいつはバタンと床に倒れた。そこに覆いかぶさるようにまたがった僕は、両手であいつの首を指の感覚が無くなるくらい強く絞めた。

 意外にもあいつはほとんど抵抗しなかった。寧ろ穏やかな顔をしているのが逆に腹立たしかった。

 暫くしてだらりと力の抜けたあいつの亡骸をうつぶせにした僕は、食堂から持ってきた包丁を使って背中に爪跡のような傷をつけた。手で首を絞めれば跡は残らないから、爪痕で大神のような肉食獣のせいに出来るはずだと考えていたんだ。  仮に死因が窒息死だと判明しても、警察が大神を犯獣にな仕立て上げることは容易に予想できた。包丁は部屋の窓を少しだけ開けて外に投げ捨て、全ての処理を終えた僕は何事もなかったように食堂へ戻った。死体がすぐに見つかるように扉を開けておくのも忘れずに。

「まさかその後泥棒が入るとは思わなかったけどね。」  はははと乾いた笑いを溢しながら根古は絨毯の上に足を投げ出して座った。

 俺はその話を聞きながら茫然と立ち尽くしていた。親友に裏切られたという喪失感と、自分の無罪が証明できたという安堵感が俺の中でせめぎ合いごちゃごちゃになっていた。

 そこに黒い小さな影が息を切らせて走ってきた。黒子君である。  黒子君はその勢いのまま根古に飛びつくとニャンニャンと大きな声で泣きじゃくりながら言った。 「違うの!勘違いをしているんだ。お父さんはお兄ちゃんのことを本当に愛していたんだよ!」

 根古は予想外の行動に目を白黒させていたが、自分に抱きついて離れない小さな塊におずおずと尋ねた。 「お、おにいちゃん? 僕が?」

 黒子君はまだグズグズと鼻を啜っていたが、手の甲でグッグッと涙を拭うと無邪気な笑顔で根古に笑いかけた。 「そうだよ。お兄ちゃん!」  根古はその告白に目を丸くして口をあんぐりと開けていた。

 その二匹だけの世界に乱入してきた奴がいた。  その巨大な影は世にも恐ろしい雄たけびとともにひとっとびでテーブルを飛び越え、鋭い爪をむき出しにして小さな二匹に飛びかかろうとしていた。俺はその様子をまるでコマ送りのように見ていた。

 考えるよりも先に無意識に体が動く。まるで誰かが自分の体を操縦しているかのようだった。その巨大な塊に全力で体当たりをした俺は、その勢いのままゴロゴロと一つの塊となって絨毯の上を転がった。

「どけぇ! 俺様の邪魔をするんじゃねぇ!!」  俺がその巨体に馬乗りになると体の主である斗羅はそう叫んだ。激しく抵抗する斗羅の体を床にねじ伏せ思いっきり体重をかけて抑える。

「なんでだ! なんでこんなことをするっ!」  少しでも気を緩めると抜け出されてしまいそうになるのをなんとか食い止めながら俺は斗羅に叫んだ。

「ようやく見つけたのに! くそっ、殺してやる! その目、憎たらしいその目を引き摺り出して! 二匹とも跡形もなく消してやるっ!!」  脈絡のない言葉を怒鳴り散らしながら、やたらめったらに暴れる猛獣となった斗羅と会話をするのは無理そうだ。口角から泡を飛ばしながら俺の腕に噛みつこうとしたり引っ掻こうと藻掻いていたが、馬乗りになった俺のほうが僅かに有利だった。

「誰か! 何か縛るものを持ってきてください!」  俺が必死にそう叫ぶと時が止まったようになっていた周囲がざわざわと動き出した。  メイドさんが持ってきてくれた縄で斗羅が身動きできないように縛ってもらう。

 ようやく手を離せるようになった俺はぺたんと絨毯に尻をつけると、袖で汗を拭い荒い息を整えた。  全身をぐるぐるに縛られてからもなお斗羅は唸りながら陸に揚げられた魚のようにのたうち回っていたが、もはやどうにもできないようだった。

「なんで...... なんで僕なんかを守ってくれたんだ?」  腰が抜けていたらしい根古がポツリと俺に尋ねた。

 我に返って急に照れくさくなった俺はポリポリと頬をかきながら答えた。 「実は、つい最近施設で君のお父さんと会ってたんだよね。ちょうど根古と一緒にここに来ることが決まったくらいだったかな。その時に根古が命を狙われているかもしれないから守ってやってくれないかって頼まれたんだ。 『君と根古との関係性は調べて知っている。親友の君にならあの子のことを任せられる。』ってさ。」

 根古は弱々しくふるふると首を振った。 「でも、僕はお前のことを裏切って濡衣を着せようとしてたんだぞ? それをただ頼まれたからって大神が体を張る理由なんてないじゃないか......」

 俺はじっと根古のことを見つめた。 「確かに根古に裏切られたのを知ったときはすごくショックだった。でも......」

 心の中のもやもやが晴れて気持ちの良い青空が広がったような気持ちで俺は根古にニカッと笑った。 「根古は俺の大切な親友だからさ。」

 根古の青い瞳からブワッと涙が溢れた。 「ばか、やろぉ......」  うわぁぁんと子供のように泣きじゃくる根古の頭を、俺は落ち着くまでずっと撫で続けた。

 根古が落ち着いた頃に黒子君はぽつりぽつりと語り始めた。 「僕が生まれた頃、親族の間での遺産争いが激しくなったんだって。お父さんはまだ幼い僕らとお母さんを守るために住む場所を別々にしたんだ。その時、戸籍から情報が漏れないように形だけの離婚もして僕をお父さん、お兄ちゃんをお母さんに託したんだって。 住む場所が別々になっても、偶にお父さんはお母さんのところに行って僕ら兄弟を会わせてくれてたんだ。」

 黒子君は泣きそうな顔をしながら続けた。 「でも、お母さんの居場所の情報を漏らした奴がいたんだ。三年位その状態で暮らしていたらしいんだけど、ある日お父さんが用事でお母さんと僕らを残して家を離れた隙に何者かが僕らを殺そうと家に侵入してきた。お母さんはその侵入者から僕らを守るために殺されちゃったんだ......お父さんが戻ってきたときにはもう手遅れだったって。犯人は今でも捕まっていないらしい。」

「で、でも守るためってことなら何で僕を施設なんかに預けたんだ? それに母さんは病気で死んだって施設の人が......」

 ううんと黒子君は首を振る。 「お母さんが殺されたのは自分が隠れ場所を行き来したせいで情報が漏れたんだって、お父さんは凄く後悔したんだって。だからお母さんの名字になったお兄ちゃんを自分の手元に戻すより、知り合いが経営している施設で保護してもらう方が安全だと考えたみたい。お母さんが病死したっていう話は、お父さんが施設の人にそう言ってくれるようにお願いしたんだって。お兄ちゃんと僕を守るためにお母さんが殺されたと知ったら、きっとお兄ちゃんは傷つくし犯獣に復讐しようとするだろうからって。」

「そ、そんな......」  驚愕の真実に根古は全身の力が抜けてしまったようだった。黒子君はそこにそっと膝をつくと根古の手をそっと握った。 「僕は小さかったからよく覚えてないんだけど、お兄ちゃんはいつも僕と一緒にいてくれたってお父さんから聞いたよ。それこそお風呂までも。」

 根古はふるふると震える両手をそっと黒子君の顔に添えた。 「この感触、今でもよく覚えてるよ。小さな頃に大切にしていた黒い猫のぬいぐるみ。お前のことだったんだな。」  優しくなでる根古の手に顔を摺り寄せてゴロゴロとのどを鳴らす黒子君。

 うぅぅと唸るような声が根古の喉元から聞こえた。ポタポタと溢れる雫が根古の手を濡らしていく。  止まらない涙を流しながら根古は黒子君を撫で続けるが、その涙は何から来ているのだろうか。  自分の誤解で父親を殺してしまったことへの後悔なのか、ようやく出会えた生き別れの兄弟に対しての喜びなのか。

 その後、夜が明ける頃に嵐は過ぎ去り電波が復旧して外部との連絡が取れるようになった。やってきた警察に事情を話し斗羅と根古の身柄を引き渡した。

 精神安定剤を打たれてようやく落ち着いた斗羅への事情聴取の結果、様々なことが明らかになった。  斗羅は黒漆さんとその子供達を殺して、自分もその後を追うつもりだったらしい。  元々親族だった二匹は家族ぐるみの付き合いで非常に仲が良かった。その関係の中で斗羅は密かに黒漆さんへの恋心を募らせていたが、黒漆さんは他の獣人と結婚してしまった。その結婚相手への恨みは相当なものだったらしい。何晩も悪夢でうなされ寝れない日が続いた斗羅はついに精神を病んでしまった。そして、黒漆の行動経路から家族の居場所を見つけ出した斗羅は全てを終わらせようとしたのだ。  しかし、結果としてそれは失敗に終わり黒漆さんと子供達の行方は分からなくなってしまった。 しかし、十数年経って今回の遺産相続に関しての招待が来た。斗羅は再び計画を実行しようとしたが、二匹の子供達の名前も年齢も種族も分からない。

 猫族の遺伝においては両親の種族のうちどちらかに寄ることが多いが、同じ血族であれば猫獣人の両親から他の種族の獣人が生まれるのははよくあることなのだ。  黒漆と同じ猫獣人の根古が一番怪しいと考えていたらしいが、黒猫獣人同士の両親から白猫獣人が生まれることは非常に稀なことなので、結局特定のしようがなかったのである。  そこで子どもたちが特定できるまで身を潜め襲うチャンスを伺っていたそうだ。二匹とも襲ったときの目が母親にそっくりだったと、狂ったように笑っていたという。  彼は警察病院に送られ二度と太陽を拝むことはないそうだ。

 根古は裁判の後刑が確定するが、すぐには出てこれないだろうとのことだった。  黒子君はそれを聞いてこの屋敷で根古の帰りを待つことにしたそうだ。

 連行される前に俺と根古は最後の挨拶をすることを許された。  俺は自分の胸の中を占めている揺るぎのない決意を根古に伝えることにした。 「俺、今まで目標とかなかったけど、今回の事件で改めて狼獣人の偏見に対する問題を実感した。だからお前が出てくるまでに俺がこの世界を変えてみせるよ」  大神らしいねと根古に笑われてしまったが、馬鹿にされたという感じではなくむしろ暖かく包み込んでくれるようだった。 「その偏見を利用した僕が言うのもなんだけど、お前ならきっとできるよ」  そう言って俺に見せた根古の笑顔は、後ろの朝日のせいかとても眩しく見えた。

 後に大神は狼獣人権回復運動のリーダーとして奮闘することになるのだが......それはまた別のお話である。