夏も陰る頃合いに、締切まで残り7日を残すのみとなった。  いくつもの仕事に追われ、本田陸の表情には余裕などない。三上春は、その横でお茶を飲んでいた。 「俺、貯金してる締切の数で言ったら誰にも負けない自信あるよ」 「毎晩暇さえあれば、エイム練習やら、ランク回しやら、ゲームやらをやってれば、いくらでも締切負債は膨れますよ。時間がいくらあったって足りゃしませんよ」 「息抜きも俺みたいな物作りをする人間には必要でしょ。絵描き物書きはゲームも上手くてナンボ」 「りっくんは息抜きばかりではないですか」  三上は溜め息を付く。 「何はともあれ、早くプロットを書きなさいよ。何もない状態じゃ間に合いませんよ」 「もう俺の脳内ではプロットは完成してるんだよ。あとは書き出すだけなんだ」  本田は焦り半分で答えた。 「いつもそうやって締切ギリギリじゃないですか。この前の合同誌も、3日も遅れてひどい迷惑を掛けたでしょうに」 「今回はイケる! もう構想が練り終わってるんだよ!」 「でも、量は多いんでしょう」  掌編で原稿用紙10枚、短編で30~50枚。1週間で書き上げるのには、手慣れでもギリギリの分量だ。 「ギリギリだと、また前々回の合同誌のように、誤字脱字をやらかしますよ」 「今回は文法チェッカーをきちんと通すから問題ナッシング! 余裕余裕」  人力文法チェッカーをやらされた三上はうんざりした顔になった。 「そうやって成功体験にばかり依存して……ギリギリに私に読ませるのだけは勘弁してくださいよ」 「小説なら意外と書けちゃうんだよ。マンガはどんなに早くても1ページ10時間は掛かる。ネーム、下書き2回、ペン入れ、背景、トーン。めんどくさいんだよ。でも小説は1日1万字ぐらいは軽く書ける。だから割とどうにかなるんだ」 「小説なめすぎじゃないですか? 前、締切ギリギリに読まされたあの小説、ひどい文章で読めたもんじゃなかったですよ」 「小説書いてない人に言われたくないな」 「小学校で表彰されるぐらいには私も本は読んでますし」 「最近読んでないでしょ」  三上は無視して話しだした。 「今日はどこまで進めるんですか」 「今日は、……撮影をする」 「はぁ!?」  本田はカメラを防湿庫から取り出した。横に立てかけてある脚立を組み始めている。 「もう1週間しかないんですよ!? 正気ですか?」 「でも、今日はキ○タマキラキラ金曜日。#ファースーツフライデーをしなければならないからな!」 「そんな自信満々に答えないでください!」  ツブヤキッターには、毎週金曜日に着ぐるみ画像を上げる、ファースーツフライデーという文化が存在する。 「俺はコロナ禍でも、ファースーツフライデーをここ半年間欠かしたことがない。上げないという選択肢は、ないんだよ」 「写真のストックはないんですか」 「いや、今日は畳の日だ。せっかくうちは和室あるんだから畳で寝そべって撮らなきゃ」 「写真のストックに畳写ってるものはないんですか」 「それじゃダメだ。鮮度とシチュエーションが大事。こう撮りたい、っていうイメージが頭の中に思い浮かんだら、それを最速で形にしないと気が済まない」  本田はカメラをセッティングしながら答えた。 「後でシャッター押してくれない?」 「こんなことしてる場合じゃないでしょう?」 「いや、ちゃんとすぐ終わらせるから」  本田はインナーに着替えるために服を脱ぎ始める。三上はやれやれといった顔をした。 「締切一週間前なのにこんなことして大丈夫なんですか」 「あのねぇ、俺にとって承認欲求は生きる原動力なの! ふぁぼとリツイートがもらえないとやる気が出ないの!」 「悪びれもない!」  着ぐるみに足を通しながら本田が言い返す。 「毎週ここでたくさんふぁぼリツをもらえるから、今週元気に過ごせるんだよ。通知欄に20+とか出てるの、ほんと気持ちよくて」 「いつも、嬉しそうに私に見せてきますよね」  三上は嫌みありげに言ったが、本田には伝わっていない。 「毎週やっていることは絶対に欠かさないんだ。今日だけは撮る、明日からちゃんと書く!」 「りっくんが明日やった試しがありますか」  本田はヘッドを被ると、振り向いて子供のように返事した。 「やる!」  そこには、可愛らしい、ティールブルーの毛をまとった猫の女の子、テルルの姿があった。  三上はうんざりした顔をした。

 本田……もとい、テルルは、ころんと畳に転がった。 「かわいく……撮ってね?」 「はいはい」  床で媚びを売る猫を、上から見下ろすアングルで脚立に上った三上がシャッターを切っていく。 「にゃ~」 「かわいい、かわいい」  実際、着ぐるみは、かわいい。 「とりあえず、数十枚撮ったから確認して」 「ほい」  本田が何の抵抗もなくテルルのヘッドを脱ぎ捨て、カメラの画面を見た。 「んー……どれも可愛いけど、決定打に欠ける感じがする。試してみたいポーズあるから、これも撮ってもらっていい?」 「了解」  本田は汗で湿った目出し帽を少し直してから、またテルルのヘッドを被った。  電子ファインダーをのぞき、畳で爪を研ぐフリをする猫を撮る。カシャ、というミラーレスカメラ特有の嘘くさい電子音が響く。 「もうちょっと、上向ける?」 「こう……? しんどいから早くして」  テルルがプルプルし始めていた。

 一通り写真を撮り終え、再び頭だけ人間の本田のチェックが始まった。 「やっぱり、最初に撮ってもらったのが一番可愛いな! ありがとう!」 「どういたしまして……」  三上は疲れた顔で、そんなこと言わなくていいのに、と聞こえないように呟いた。

* * *

 翌朝、土曜日。  本田が起きたときには、もう三上は朝ごはんを食べ始めていた。 「おはようございます」 「おはよ……」  本田は眠そうな目で返事した。 「りっくん、今日はどこまで原稿を進めるんですか」 「ん? ハル。今日は帰ってきてから原稿やるよ」  三上の眉間にシワが寄る。 「昨日は、明日やるって言ったじゃないですか」 「ちゃんと帰ってからやるってば」 「どこ行くんですか」  本田が嫌な顔をした。 「なんで?」 「なんでって、同居人にどこに行くのかも言わずに外に出る人がいますか」  渋々、本田は返事した。 「ネコバーに行くんだよ。浅草の。緊急事態宣言のせいでしばらく営業してなかったから。今日は久々なんだ」 「ね、ネコバー? また行くんですか? このコロナ禍に?」 「俺はもう職域接種でワクワクチンチンしてるからな」 「そういう問題じゃなくて!」  三上は声を荒げて続ける。 「飲んできたら絶対、原稿しないでしょ! 毎回潰れるまで飲んでくるんですから」 「今回はちゃんとセーブするよ。こう見えても25の大人なんだから」 「25の大人に見えないから言ってるんですよ」  三上は嫌み臭く言った。 「酒もそんなに強くないのに、毎回あんなに飲んできて」 「ネコバーもコロナ禍で存続の危機らしいからな。潰れちゃ困る店には、毎回ちゃんとお金落としてきてあげないと」 「だったらソフトドリンクでもいいでしょう」 「カクテル綺麗じゃない?」 「アルコールにそんなに強くない人が飲む飲み物じゃないです」  三上はきっぱりと言い放った。 「そういうハルは酒強くていいよな。この前もイベントで買ってきた限定酒、1日で空けてたし」 「おいしかったので。ちょっともったいなかったとは思ってますよ」 「いや、俺ってあの酒蔵の日本酒、そこまで好みじゃないから別にいいんだけど。それよりジンとかカクテルの方が好きでさ。あの柑橘っぽい香りとか、フルーツ系のやつとか」 「それで、ギムレットとか飲んでベロベロになってましたよね?」 「たまには隅田川で風に当たってもいいだろ? ちゃんと夜には帰るから」 「朝帰りじゃなくて夜にちゃんと帰るんですよ? 早く帰ってくださいね? マスクと消毒液しっかり持って」 「親じゃないんだから、ちゃんと持ったって」  そう言って本田はさっさと出ていった。

 その夜、本田がベロベロに酔い潰れて帰ってきたのは言うまでもない。

* * *

 日曜日の朝。  本田は朝日と頭痛に起こされた。 「おはようございます、りっくん。調子はどうですか」 「朝から最悪だよ。クソ頭痛い」  ひどい二日酔いだった。 「今日は休んで原稿しましょうね」 「看護師、兼、編集者かよ」  本田は頭を抱えながら起き上がった。 「今日はちゃんと原稿やるんでしょうね」 「後で。宅オフから帰ったらね」  三上は呆れた。 「こんな状態で宅オフ行くんですか? 冗談抜きで死にますよ」 「1ヶ月前から約束してたからさ」  本田はアルミラックに掛かっていたテルルのボディをビニール袋に押し込んだ。 「こんな直前になってから、ドタキャンするわけにはいかないだろ?」 「翌日に宅オフがあるの分かってて、昨日そんなに飲んだんですか」 「いや、セーブしようとは思ったんだけど途中から記憶なくて……」  家にたどり着けたことを、ラッキーと言った方がいいのだろうか。 「二日酔いで着ぐるみなんて着たら、脱水状態で倒れますよ」 「短時間しか着ないから平気だよ。水でも飲めば治るさ」  本田はボディとヘッドをスーツケースの上に置いて、台所へふらふらと向かった。 「本当に大丈夫?」 「余裕……がホッ」  むせた。 「大丈夫?」 「平気だって」  本田は咳払いしながら、アクリルのグラスをシンクに放り投げた。 「俺は締切を守るからな」 「いや、時々過ぎてますけど」 「遅刻はする」 「それ、締切を守るとは言わないです」 「妥当なツッコミだな」  本田は着ぐるみをスーツケースに押し込んだ。 「行けば治るさ」 「もう……」 「じゃあ、行ってくる」  ろくに飯も食べず、靴を履き始める。 「誰の宅オフなんですか。何か食べなくていいんですか」 「あかまきさんとこ。途中で適当にコンビニで食うか、向こうで食べるよ。向こうもご飯食べてないと思うし」 「ケモ手、おとといからリビングに放ってあるけれどいいんですか」 「あ、じゃあ取って」  本田は靴紐を結び終えてそう言った。 「はい」 「サンキュー、行ってきます」  三上はリビングの床に転がったケモ手を拾ってきて本田に渡した。本田は隈のできた顔でウィンクをして、ドアを閉めた。時計を見ると午前11時過ぎ。三上は疲れた顔で溜め息をついた。 「まあ、今日は一人でゆっくりできると思えばいいかな……」  三上はやけに落ち着かなかった。何か、胸騒ぎがするのだ。

* * *

 月曜日。  本田と三上はお試し同棲期間中の二人で、共働きだ。たいてい、本田の方が帰りは遅い。  三上は今日も料理を作って本田の帰りを待っていた。 「ただいま~ハル」 「おかえりなさい、お疲れさま」 「おつー」  三上はご飯をよそいながら本田に聞いた。 「今日こそは原稿やるんですよね」 「いや今日はそれどころじゃないんだよ!」  本田は血相を変えた声で怒鳴った。 「今日ブケスの締切があってマジでホントにヤバいんだよ!」 「また忙しいのにコミッションなんか請けてたんですか?」  本田は副業で絵を描いている。いや、お小遣いレベルだ。 「60日締切がちょうど今日だったんだよ! 世界一、締切を抱える俺が、締切を覚えていると思うか?」  三上はうんざりした。本田は食事の並んだダイニングテーブルにタブレットを広げている。 「ブケスなら別に納品しなきゃ返金されるでしょう。今は忙しいんだし断ってもいいんじゃないですか」 「1万だぞ1万! 安月給の俺には大金なんだぞ?」 「それぐらいならいいじゃないですか」 「いや、信頼関係を崩さないことが大事だ」  本田もたまには良いことを言う。 「で、どんな絵なんですか」 「キャラは依頼者のオリジナルの猫で、サニーって言うんだけど。たぶんハルも聞いたことあるよね?」 「名前だけは……うっすら?」 「シチュは暗いベッドに転がって抱き枕を抱いているところだって。資料は今刷ってる」  アルミラックの上に置かれたプリンターがうなっている。 「めっちゃかわいい子でさ。ヒマワリみたいな模様の子で。この子はタイムラインで見てたから、知ってたんだけど依頼来るとは思わなくて。着ぐるみでもいるんだけど、しょっちゅう写真も絵もバズっててホントに最高でさ。個人的にも推してて。好みにも刺さるし。だから、絶対描きたいし、この依頼蹴ることはできない」  本田は真剣な顔になって言った。三上は、こう切り返した。 「じゃあ、なんで今日まで描かなかったんですか」 「めんどくさくて。ノリとテンションでラフまでは描いたけどそこでやる気なくなって放置してた。進捗はツブヤキッターに上げた」 「ツブヤキッターに上げた絵、完成率低いですよね」 「いやまあそうだけど!」  本田は唐揚げを頬張りながら言った。 「それに、どうせ今回も人気の子だから、いいねとリツイートがたくさんもらえるだなんて、下心あるんでしょう」 「いや別にそんなことはないけど!」  本田は、唐揚げをつまらせそうになりながら答えた。

「そういえばさ、りっくん。なんで絵も小説も、どれもそんなに上手いんです?」 「才能かな?」  三上はむっとした。それを見て本田は慌てて取り繕った。 「冗談冗談。単に、どれも好きだから」  本田の答えはシンプルだった。 「そりゃ、もちろん色んな人から評価をもらえるのって嬉しいけど。結局好きじゃないとここまで続かないよ。上手いって言ってもらえてるのは、単に俺の好みと世間の評価と流行が偶然、一致してるってだけ。誰にでも才能ってあると思うけど、単にそれが他人にとって都合がいいかどうかだけで『才能』とか『天才』って呼ばれるかどうか決まってるだけだと思うんだよね。俺は」 「才能のある人だけが言えるセリフですね」 「ご丁寧にどうも。褒め言葉として受け取っておくよ」  三上は、今日はこれ以上何を言っても無駄だと悟った。  本田はコミッションに夢中で、唐揚げを頬張るばかりだった。ご飯は冷めきるまで手を付けなかった。

 過集中の鬼、本田は“無事”締切10分前に納品し、力尽きたポーズでベッドに倒れ込んだ。

* * *

 火曜日になった。

 本田が起きると、時計は9時50分を指していた。既に、三上は家を出ていっていた。寝坊だった。  本田は5分でシャワーを浴びて家を飛び出していった。

 その夜、本田はやけにせわしなく飯を食いながら愚痴っていた。 「今日は寝坊して遅刻してさ~めっちゃ気まずかったんだよね」 「大変でしたね」  三上は適当に流した。 「今日は原稿やるんですか」 「今日はこの後推しの猫音にゃんちゃんの配信日なんですよ! せっかくそのために仕事早く終わらせてきたんだから見逃せるわけがないじゃないですか!」 「仕事、遅刻したのに早く終わらせてきたんですか? というか、後で録画で見ればいいじゃないですか」 「記念すべき1周年ですよ!? 録画じゃ意味ないの! それなら切り抜きで十分だから! リアタイで見るからこそ意味があるの! VTuberの配信なら、別窓で見ながら作業できるから。今日は記念すべき1周年なんですよ! 絶対この枠は見逃せないし、スパチャ打ちたいから」  本田は興奮しながら言った。 「口に食べ物入れながら大声で喋らないでください。もうそれ今日は絶対作業しないじゃないですか」 「今日は大丈夫! できる!」  本田は自信満々に答えた。 「はあ……VTuber見ながら手が動いているところ、私見たことないですけどね」 「ハルが見たことないだけで、俺はちゃんとやってる! やってない時に来るんだよ」 「いつ見てもやってないじゃないですか」 「いや、進めてはいるから!」  本田は声を荒げて言った。 「にゃんちゃん、チャンネル登録者500人ぐらいのホントに最初期の頃から見てて。今や8.9万人ですよ。できたばっかりの頃から『#にゃんにゃんマーチの絵』って付けてファンアート上げまくってますからね? もう、私が育てたって言っても過言じゃないぐらい。ほら、このスク水の絵とか何千リツイートもされてて……」 「バズったやつですよね」  三上はレタスをかじりながら適当に返事をした。 「そうそう! 公式で絵の紹介されたときにはほんとテンション上がったし、その回のユーチューンコメ欄今でも追ってますよ。たまに『スク水のにゃんちゃんとっても可愛いです💕』みたいなコメントが付いていてホント最高で」 「それだけやる気があるなら、1割でも今小説に振ったらどうですか」 「わかった! OK! 終わったらやるから!」 「どうしてもやりたくないってことは分かりました」  これ以上言っても意味がないことに気づいたときには、皿の上からサラダはなくなり、オリーブオイルの水たまりだけが残っていた。 「俺、ちゃんと認知もされてて」 「認知?」 「配信者が名前知ってる人のこと。常連さん。俺は絵描いてるし、いつも配信行ってコメしてるから」 「ああ、わかりました」  三上は味噌汁を一気に啜る。 「この後配信あるから!」  そう言って、本田は自分の部屋に逃げていった。

 本日の進捗、わずか30文字。

* * *

 今日は、水曜日だ。  本田は家に着くと、元気良くこう答えた。 「今日はVRモフカフェのすいすい水曜日だ!」 「原稿、そろそろまずいんじゃないですか。どのぐらい書けてるんですか」 「余裕余裕。ちゃんと昨日も進めたし、毎日やってれば終わるよ」  本田はトラッカーを腰に巻きながら答えた。 「もうあと1日しかないんですが」 「VRやりながら書くから」 「どうやってVRしながら書くんですか……1秒で分かる嘘つかないでください」 「いや、でも最近だとVR上でストーリー作れるツールとか出たし!」 「みんなで遊ぶんだから、それで原稿はできないでしょ」 「いやもうホントこれだけは外せない! モフ成分がなきゃ1週間耐えられない」 「この前の日曜日に宅オフ行ってきたんでしょう」 「もうモフ成分枯渇した」 「早すぎませんか」 「このコロナ禍で、推し吸わないで生きていけるわけないだろ」  足トラのサンダルを履き、ヘッドマウントディスプレイを頭の上に乗せる。 「コントローラー充電してたんだった」  そう言って、壁にぶら下がっているコントローラーを取りに行こうとした。  足元のコードにつまづく。本田はよろけて反射的に手をついた。  どこかで……見たことが? 「りっくん大丈夫……?」  三上は、嫌な既視感を覚えた。 「あ、平気平気。ちょっとつまづいただけ」 「それなら、よかったです」  三上は返事をした。 「よし、VRやろう~。スモーク推しエヴリディ、デーィデ・ダッデー」  本田は下手な歌を歌いながら、楽しそうにVRを始めた。  三上には、既視感の原因が分からずじまいだった。

* * *

 今日は木曜日だ。

「ただいま~」  本田はのんびりと家に帰ってきた。  対照的に、三上は険しい眼差しだ。 「今日は何の日か分かってます?」 「もくもく木曜日だろ?」 「ノベルコンテストの締切ですよ」 「えっ?」  本田の表情が曇る。 「今日の23時59分までに提出しないと、締切オーバーです」 「あ、あと、何時間?」 「今は20時10分。あと4時間弱しかありません」 「そんな……早くパソコン起動しなきゃ」  本田はパソコンの前に走った。乱暴に椅子に腰掛ける。 「早く……早く書かなきゃ……3時間半なら30分で1500字のペースで書けばギリギリ間に合う……とにかく急いで書きあげなきゃ」 「言わんこっちゃないじゃないですか」 「ごめん今はちょっと静かにしてて! 申し訳ないんだけど、ご飯デスクまで持ってきてもらえる?」 「はぁ……」

 修羅場にならなければ書かない、書けないのが本田だった。  三上はご飯を持っていったり、水を持っていったりと使われた。しかし、精一杯な本田の姿を見ると、どんなに自業自得に見えても、ノーとは言えなかった。

「締切まであと20分……どう頑張っても間に合わない」 「このさい、今回はすっぱりと諦めて、来年に出したらどうですか」 「今年じゃなきゃ意味がない……この小説のアイディアは、7をテーマに書いている。このタイミングを逃したら二度と公開できないし、後悔する。でも、まだ半分しか書けていない。どう頑張ってももう間に合わないんだ」  本田はうつむいた。 「だから、俺は今週をやり直す」 「やり……直す?」  三上の頭に疑問符が浮かび上がった。 「今週を最初からやり直すんだ。この巻き戻しボタンで、な」  本田は、ポケットから小さな機械を取り出した。5センチメートル四方の金属でできた小さな箱には、丸く赤いボタンが付いていた。 「巻き戻しボタン?」 「ああ。全世界を1週間前の状態にリセットできる」 「リセットって……?」 「じゃあ、お前はもし『5分前にこの宇宙ができた』という質問に、いいえって答えられるか?」 「そんな唐突に……」 「たとえ、5分前に宇宙ができたばかりとしても、今に矛盾は生じない。俺らに偽の記憶を植え付ければいいだけだからな。俺らの記憶ってのは曖昧なもので、今現在しか認識できない。要は、世界の因果律だって、必然じゃなく、俺らにとってはただの過程でしかないんだよ」 「……」 「このボタンは直接、時間を巻き戻すわけじゃない。因果律の仕組みを逆に使って、全世界の『知識』と『物質』を、特定の時分にあった場所に戻すだけのボタンだ」 「何のことか、理解、できないんですが」 「要は、1週間前から、記憶も何もかも全てリセットされた状態でやり直すんだ。――量子のゆらぎがランダム要素となって、毎回少しずつ違う未来ができ上がる」 「そんなこと、ありえるんですか?」 「素粒子物理学専門のあかまきさんにもらったからな。確かだと思うぜ」 「でも、そんなスイッチがありえたら、みんな押しちゃうんじゃないですか?」 「それはハルが気づいていないだけ。もう世界中で同じものなんて色んな研究者の手でたくさん作られてる。でも、一度押されたらもう記憶は消えてしまうから、知らないだけ。ハルも何兆回もこの世界を繰り返してると思うよ」 「もしかして……この1週間の既視感の正体ってこれだったの?」 「このスイッチの押された周辺には因果律の歪みができるから、わずかな確率で、既視感って形で記憶に残る回もあるかもね――って、あかまきさんが言ってた」  締切まであと15分を回った。 「俺はそれに希望を託しているのかも。脳内にプロットがあるからって言ってるのも、もしかしたらループの積み重ねの結果かもしれない。今回は書けなかったけど、いつか、きっとこの小説は締切までに、どれかの俺が書きあげられると思う。その時の俺を祝福してほしい」  三上はますます混乱した。 「そんなことが、本当にありえるの?」 「さあ? 知らない。けど、あかまきが嘘ついたことないから」  ボタンが冷たく、部屋の人工光を反射する。 「俺がなんで今このボタンを押そうとしてるか、わかる?」 「よくそんなパワハラみたいなセリフが出てきますね」 「ハルも皮肉ばっかりだな」  本田は笑った。時計は残り10分を刻む。 「今週が、人生で一番幸せだったから」 「え?」  三上はきょとんとした。 「こんな、毎日がお祭りの人に、今週が一番幸せとかあるんですか?」 「いやまあ確かに毎週幸せだけれども! 頭の中がハッピーパックみたいな言い方しなくても」  本田は続ける。 「今週ってたぶん一生の中で一番多種多様で楽しいイベントが詰まってたと思うんだよ。めちゃめちゃ可愛いテルルの写真も撮れたし、久々のネコバーにも行けて色んな人と話せた。宅オフも行けた。推しも可愛く描けたし、にゃんちゃんの1周年記念でスパチャ爆撃楽しかったし。昨日は推しも愛でられたし」  三上の眉間にシワが寄る。 「あっあとハルの飯もうまかったぞ! ありがとうな!」 「ありがとうございます」  この上ない棒読みだ。 「締切に間に合わないのは、俺がこのボタンを押すきっかけでしかなくってさ。今週あったことって、この先老けたら絶対体験できないことだと思うんだよ。年を取ったらできるようになることって増えると思うんだけど、やっぱり今しかできないことってある。若いうちしかできないこと。この巻き戻しボタンで戻せるのって、これが作られた1週間前が限度だから、さ。俺は、本当はいつまでもケモノで活動できると思ってない。いつかどこかで今の生活も終わりにしなきゃいけない時が来るってのは分かってるし、それが大人になる瞬間だと思ってる。ハルにも迷惑掛けてるし」 「そりゃ、誰だって20歳を過ぎれば大人になりたくないですけど」 「ハルにズバッと言われたけど、モラトリアムだよね。社会的責任の回避。ハルっておせっかいだけど、いつもそうやって痛いところ突くよね」 「おせっかいって。世話してあげてるのに」 「ありがとう」  本田は笑った。

 締切まで、あと数分。 「……やっぱり、押すのやめてもいいの、かな? そろそろ大人にならなきゃまずいしね」 「そもそも、そのボタンがまだ信じられないんですが」 「嘘だと思うなら、押してみる?」 「押したところで、どうせ何も……」 「じゃあ押すか」  三上の暗く狭くなる視界に最後に写ったのは、歪み、塵のように砕けていく、笑う本田の姿。

* * *

 夏も陰る頃合いに、締切まで残り7日を残すのみとなった。