やせっぽちな少女がいた。少女は身なりが貧相で服は汚く、何日も風呂に入っていないのかとても臭かった。家に帰っても彼女の居場所は家にはなく、親やその恋人の機嫌が悪ければ、たとえ寒空であっても外に追い出される。そんな彼女でも、年齢を重ねるごとに少しは女っ気も出てきたのだが、そのおかげで母親の恋人に体をべたべたと触られるようになり、もう家にいることすら危険を覚えるようになってしまった。  そんな生活が続いたせいで、彼女は人気のない空き地に段ボールハウスを作り、ホームレスのように暮らしていた。  空地は住宅地からほど近いおかげか、食事の匂いもかすかに届く。いつだったか学校で見たマッチ売りの少女という奴で見た、幸せな家庭の匂いというやつだ。  美味しい物、食べているんだろうなぁ。どんな味なんだろうなぁ。何枚にも重ねた段ボールと、丸めてよく揉んだ新聞紙で暖を取り、体が休まらない丸まった体勢で凍えながら、少女は幸せな家庭を夢想する。そんなある日、それは姿を現した。 「こんばんは、哀れな少女よ」  男性の声が聞こえて、少女は身構えて錆びついた鎌を握りしめた。 「なんだか、欲求不満をたくさん抱えている、そんな気配だね」 「貴方は誰?」  彼女は錆びついた鎌を手にして男に問うた。 「……人間じゃあないさ。少しだけ、特別な見た目をしているよ。見るかい?」  わけのわからない返答をされた彼女は、鎌を硬く握りしめて段ボールハウスの外に出る。あやし真似をしたらいつでも返り討ちにしてやると気合を入れた彼女が見たのは―― 「山羊?」  その男は黒い山羊のような頭をしていた。思わず驚き、少女は鎌を振り下ろすのだが、その一撃は体をすり抜けてしまい、不発に終わる。 「おやおや、驚かせてしまったかな? だが残念だね、私は触れないんだ」 「うそ……貴方、何なの!?」  その山羊、首から下は逞しい体ながら、黒いローブを羽織っており、どうなっているのかわからない。服から覗かせた首から上は山羊。どう見ても作り物には見えず、ちゃんと瞬きもするし、横に割れた黄色い瞳も揺れ動いている。喋れば口元も動くし、びっしりと並んだ臼歯も、唾液で濡れている。  そして、袖口から覗かせる手もびっしりと黒い体毛が生え、黒いマニキュアでも塗ったかのような黒い爪。どれも人間のそれとは違うもので、こちらも見たところ手袋のようには見えなかった。 「ちょっと変わった見た目だろう? でも、見た目などどうでもいいんだ……私は君のような子を探していたんだ」 「私に? なんで? 家出中の子供……を、探していた、とか!?」  こんな異常な相手に見つめられた少女は怯えながら後ずさりをしている。 「いや、違うさ。沢山の欲求不満を抱えている者だ。君はこう考えていないかい? もっと美味しいものを食べたい、色んなものが欲しい、誰かに殴られ足りしない安全な場所に行きたい。願ってもかなわない欲求がたくさんあるはずだ」 「そりゃあるよ。あるけれど、でも、そんなの、願ってもどうにも出来ないよ。それとも、お金でもくれるの? なら嬉しいんだけれど……」 「そうだね、私は君にお金を与えることはできない。けれど、力を与えることならできる要だ」 「お金が無いなら、いいよ……どうせ何もできないんでしょ? 結局誰も助けてくれないんだよね……みんな死ねばいいのに」  いやに落ち着いた声を出す山羊の男に、少女は静かに怒りを露わにするが、山羊はそれを気にする様子もなく微笑んだ。 「その怒りを向けるのは私じゃないだろ? 君をこんなところに追いやったのは誰だ? 君にこんな服しか着せなかったのは誰だ? 君をこんなに痩せ細らせたのは誰だ? 私はね、それを絞め殺す力を与えられるんだ」 「どうやって?」  山羊の男の言葉に少女は問う。この世には、魔法や超能力なんてものはない、今の今まで彼女そう思っていたので当然だ。 「こうやってさ」  山羊の男は言うなり、少女の手に自らの手をかざす。すると、少女の荒れた掌に熱いものが流れ込んできた。冬の寒さに晒され、指先は感覚がなくなるほど冷え切っていたというのに、今はお湯の中に指をつけたように熱い。 「これは、何?」 「君と、君の誇りを守るための力だ。ほら、そこにスチールの空き缶が見えるだろう? 握ってみるといい」  男が転がっているコーヒーの空き缶を指さした。恐る恐るそれを握ってみた少女は、力を込めた瞬間にスチール缶がグチャグチャと、見事にひしゃげた音を聞く。 「うそ、つぶれちゃった……私、こんなに力強くないはずなのに!?」  普段からろくなものを食べていない彼女は、当然ごとく体力もなく、握力だってか弱いはずだった。 「貴方は何者なの? なんでこんなことが出来るの?」 「私はアルベル。まぁ、本名ではないがね……いわゆる悪魔だよ。幽霊みたいなものだから、君は触れないし、私も君には触れないがね」 「悪魔? 悪魔がなんで私を助けるの? 悪魔って悪いことするんじゃないの?」 「……それは、次に会う時に話すけれど、これだけは教えておくよ。悪魔っていうのは、別に人が苦しむ様子を見て楽しみたいわけじゃない。もちろん、そういう悪魔もいないわけではないけれどね。要するに、君を助ける代わりに、君にも何かを差し出してもらえるなら、いくらでも君を助けるってことさ」 「じゃあ、今のこの力を貰ったら、私は何かしないといけないの?」 「心配しないでいい、それはサービスだ。ただし、一度使えばその力は消えてしまう。よく考えて使うんだよ」  アルベルと名乗った黒山羊の男はそう言うと、歩いて空き地を去っていく。追おうと思えば追いつくのは簡単なはずなのに、彼が視界にいる間、少女は足に根が生えたように動かず呆然としていた。しかし、アルベルが視界から消えて我に返った少女は、自分の掌がまだ暖かいのを確認すると、掌の熱に促されるように家に帰る。  家では、母親の恋人が母親の帰りを待ちながらふんぞり返っていた。 「お、どうしたクソガキ? 俺がいるときに帰ってくるなんて珍しいじゃねえか? もしかして俺に抱かれる気になったか? お前の母ちゃんも悪くないが、やっぱり若い女のほうがいいからな。何なら、お前が良ければ俺の家に住んでもいいんだぜ? 楽しませてやるし、小遣いもやるし、もっといいもん食わせてやってもいいんだぜ?」  母親の恋人の言葉に、少女は一切答えなかった。 「おい、聞いてるのかぁクソガキ!? 無視だなんて偉くなったじゃねーか?」  男は少女の荒れ放題なぼさぼさの髪を掴み上げ、すごんで見せる。少女は黙ったまま彼の首に自分の両手を添えて、一気に首を絞めた。男は抵抗し、少女のか細い腕を掴んで引きはがそうと足掻く。しかし、骨と皮しかない彼女の腕は、その見た目に反してあり得ないほどの力があり、抵抗空しく気絶してしまう。  少女は、男が気絶するのを見届けると、彼の財布を奪い取り、夜の街へと消えた。

 時刻はまだ20時。少女の街には21時まで営業している総合商業施設があり、そこには食事がとれる場所、服が買える場所、食品を売る店、なんでもある。まず最初に彼女は、食事をとり空腹を癒すことを思いついた。  どうせ食べるならば美味しいところがいいので同級生がしていた会話を思い出しながら施設内の飲食店を物色する。すると、『こってりで美味しい、濃厚背脂つけ麺』というのが目に入る。近寄って鼻をヒクつかせてみると、とてもいい匂いだ。彼女はそれを夢中で食べたが、あまり食べなれていない背脂という存在に、生まれて初めての胃もたれを経験しながら何とか食べ終える。  食事が終わったら、残された時間で服を買いに行った。男の財布にはクレジットカードがあったので、その気になればもっと買い物も出来たのだが、彼女は幸か不幸かクレジットカードの使い方を知らないし、それが何であるかもわからんかったために気にも留めなかった。財布の中に残された一万と数千円で買えるだけの服を買い、ショッピングモールを後にした。  段ボールハウスに戻る道すがら、よくよく考えると大変なことをしてしまったと、少女は恐ろしくなった。警察を呼ばれるんじゃないだろうか? 母親の恋人に殴られるんじゃないだろうか? そんな思いがぐるぐると回る。このままじゃ家に帰れないと思っていると、「やぁ」とあの男の声がする。 「アルベル!? 今度は何?」 「君の感想を聞きに来たんだ。私が与えた力はどうだったかい?」 「良かったような、悪かったような……なんか、調子に乗って財布まで奪っちゃって……なんで私、あんなことを……」  少女は一部始終を語る。今まで一切の抵抗が出来なかった相手に、あの握力で力で抵抗できるようになったことはいいのだけれど、その後がまずかった。自分は何で財布を奪ってしまったのだろう? 犯罪者になってしまったじゃないか、と。 「すまないね。人間が私の力を受け取ると、気が大きくなってしまって、理性の歯止めが利かなくなるんだ。まるで酒を飲んだ時のように、ね」 「何それ……そんなものを勝手に押しつけたの!? 私、犯罪者になっちゃうじゃん」  少女は言いながら、まだ少年法が適用されるけれど、と心の中で付け加える。 「……うん、確かに君は犯罪者になってしまったね。でもそれは、嘆くようなことじゃないよ。そいつは、いつも虐待していた女の子に首を絞められて、財布を奪われたとか、警察に泣き付く人かい?」 「そう言われると、そんなことしなさそうだね」  確かに、あの無駄にプライドの高そうな母親の恋人なら、警察に泣きつくようなことはしないだろう。その点では大丈夫だと少女も苦笑する。 「でも、復讐されたら……」 「もちろんそれだけじゃない。君が怒りをあらわにしたことで、奴らは君が反撃してくる存在だということを理解した。人は、反撃してこない相手にはどこまでも残酷になれるけれど、反撃してこない相手にはそうはならない。そいつはもう。君に下手に殴りかかるようなことはできなくなるよ」 「確かに、そうかも」  一度殺されかけた相手に、もう一度舐めた態度で挑めるような奴はそういないだろう。 「まぁ、でも、あいつは今度はいきなり殴ってくるかもしれない。そうなる前に備えておく必要はあるかもね」  やられた、少女は思う。確かに警察を呼ばなくとも、実力行使に出る可能性は大いにある。 「でも、どう備えればいいの? アルベルに力を貰えばいいの? 確かアルベルは私に見返りを求めるんだよね?」  話が速い、とアルベルはほくそ笑んだ。 「私達悪魔は、人の感情や魂を食べて生きている。よく、お化けや妖怪が人を脅かすというのがあるが、あれはなぜそうするかわかるかい? あれはね、驚いたり、怖がったりする感情を食べたいからそうしているんだ。そして私の場合は、君たち人間が欲望を満たし、幸せになる感情が好きなんだ」 「じゃあ、アルベルは私を幸せにしてくれるの? そういう妖怪……悪魔なの?」  少女がアルベルに問う。 「そうともいえるし、そうじゃないともいえるね。少なくとも、一時的に幸せになる手助けはするけれど、後始末は君次第だ」  アルベルが微笑むと、少女は首を傾げた。 「つまり、どういうこと?」 「……人間には代表的な欲望がある。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。意味は分かるかな?」 「なんとなく」 「これらは七つの大罪と呼ばれていたものだ。この欲望を満たすと、人はとても幸せになる。でも、その幸せを守ろうとすると、破滅もする。例えば強欲を満たすために、人を騙したり脅して金を手に入れて、最終的には警察につかまったり。暴食なんてのは最も身近だ。食べ過ぎで太ったり、飲み過ぎで体を壊したり……」  アルベルの言葉を少女は黙って聞く。 「私は、それらをかなえる力を君に送ることが出来る。そして君はその力を使って幸せになる……でも、力の使い方を間違えれば、いずれは身を亡ぼすかもしれない」 「強盗をして、逮捕されるみたいに……か。それで、アルベルは何が出来るの?」 「そうだな、憤怒と色欲ならば、私の力で叶えてあげられる」 「憤怒って怒ること、だよね? さっき、私が怒りに任せて首を絞めることが出来たのはあなたの力のおかげってこと?」 「そうとも。そうでもなければ、君みたいな女の子が男の首を締め落とすなんて出来るはずもない」  当たり前だ。そもそもスチール缶をつぶすことだって、普段の少女にはできるはずもないことだ。 「あと、色欲って、要するにエッチなことだよね? じゃあ、いらない」 「そうだけれど、何故?」 「……お母さんみたいになりたくないから」  脳裏には、いい年して恋人のことばかりにかまけて、自分には全くお金も愛情もかけてくれなかった母の顔が浮かぶ。自分が最もなりたくない女性像を想像して、唾棄するように少女は言う。 「それは、君の母親が分不相応な欲望に溺れただけだ。欲望は上手く飼いならせばいい」  少女の怒りの表情に、アルベルは穏やかな顔で言う。 「どういうこと?」 「先ほど言った七つの大罪は、全て健康に生きるために必要なことだからだ。例えば傲慢さがなければ、人は自信を失い、何もできなくなる。上に立ちたいという欲求がなければ、オリンピックやプロスポーツ選手、医者や学者になろうとする者もいなくなるだろうな。  強欲さがなければ、何か物を欲しいと思うモチベーションを失う。確かに強盗や詐欺をしてまで金や物を手に入れるのは褒められたことではないかもしれないが、働いて何かを手に入れる気力が失われては意味がない。嫉妬もそうだ。うらやましいと思った相手を邪魔し、蹴落とそうとする方向に嫉妬をたぎらせるのは良くないが、追い抜き、追い越すために努力をするモチベーションにもなる。色欲は、中学生の君ならわかるだろう? エッチなことをしなければ、動物は子供を作ることが出来ない。  暴食……食べ過ぎは良くないが、何も食べなければ動物は死ぬ。怠けすぎるのは良くないが、休まなければ人は死ぬ……と、いうふうに」 「長々とどうも……それで? 例えば、掌からクッキー出す能力を手に入れても、食べ過ぎなければ大丈夫ってこと?」 「さすがにそんな能力は与えられないけれど、そういうことだね。では、君を幸せにする話をしよう」 「一応、聞かせてもらうわ」  本題に入ることになって少女は頷いた。 「君の家庭を覗いたことがある。母親の恋人は何度も君のことを殴ったし、寒空の夜に君を家から追い出して、寒さと危険に何度も晒しただろう? 君にはそれにやり返す権利がある。そして私はそのための力を与えられる」 「また、私の握力を強くして、相手の首を絞められるようにしてくれるの?」  少女の問いにアルベルは頷いた。 「そうだね。それがまず一つ目の力。君が男を締め落とした握力を……今度は全身に使えるようにしよう。腕も足も、顎の力も最強だ。そうすれば、君は真っ向からの勝負になっても、男に負けなくなるだろう」 「……それは助かるけれど、なにか見返りが必要なんでしょ?」 「話が速くて助かるよ」  抑揚のない声でアルベルは言う。 「まずは一つの見返り。君が誰かを殺し、その魂を私にささげることだ。もしも魂が捧げられない場合は、君の命を貰うことになるだろうね。でも、問題はない。君には殺したい相手がいるはずだ」  アルベルにそう言われると、少女には二人の人間の顔が思い浮かぶ。 「どうやら、殺したい人間がいるようだね。さっき殺し損ねた男かい? それとも、君を愛しない母親かい?」 「どっちも……」 「そうか。それは何より。ではもう一つ。君にはどんな男をも魅了する力を与えられる。その魅力があれば、君は男を手玉に取り、お金も物も君の思うままだ。働かずとも生きていけるだけの貢物を得られるだろう。  その代わりに、君は少しばかり気が大きくなり、また欲望も強くなる。場合によっては色欲に溺れ、君の母親のように堕落してしまうかもしれないね。私は、その色欲が満たされた君の感情を啜らせてもらう。私は人の色欲が満たされる時の感情が大好きだから、君とは長い付き合いになるだろうね。君がいずれかの契約を果たすのであれば、私はどちらの力も君に与えていいと思っている。つまりは『人の魂を捧げるか、欲に素直になるか』。言い換えれば、『生贄を与えるか、崇拝するか』が、契約の対価ということだ」  アルベルの出した提案は、どちらも魅力的な誘いだった。自分の人生が不幸なのは、母親とあの恋人のせいだ。当たり前の生活が出来ないのはあいつのせいだ。憎たらしいやつを簡単に殺せるだけの力が手に入るならば、少女は是非ともそれを欲しいと願う。  だが、その代償に命を捧げなければならない。つまり、犯罪を犯さなければならにということだ。先ほどのようにお金を奪っただけならばごまかすこともできるかもしれないが、殺人ともなると大ごとだ。一応、まだ13歳の自分ならば、少年法に守られてはいるが、そういう問題でもないだろう。  もう一つの提案にしてもそうだ。母親は、若いころモテていたらしい。若いころの写真は確かに美人だったし、派手な身なりをしていた、しかし今は、身の丈に合わない贅沢と、酒と夜遊びのせいで身を持ち崩している。見た目も悪ければ、金もない。だからろくでもない男しか寄ってこない。  どんな男も魅了すると聞けば魅力的だが、おばさんになっても金は手に入るのか? 結局は母のように破滅するのではないか? そんなことを考えると、とても手放しに良い提案だとは言えない。欲に溺れたくはない。 「ねぇ、契約は……待って、くれる?」  結局、すぐには決められず、少女は契約を先延ばしにする。 「あぁ、いいとも。ずっと待っているよ」  アルベルはそう言って笑み? を浮かべた。人間と違うから表情がわかりにくく、その感情も読み取れない。彼が何を思っているのかもわからないまま、少女は不安と誘惑を抱えて現実と向き合わねばならなかった。

 アルベルと話した後、少女は重い足取りで家に帰る。物凄く怒られるかもしれない。下手したら何度も殴られるかもしれない、と。 「てめぇ! やりやがったなこのクソガキ!」  家に帰ると、母親の恋人が胸ぐらをつかんできた。とても怖かったが、一つ名案を思い付く。そうだ、正当防衛なら罪が軽いじゃないか。数発殴られて、血反吐を履いて、決死の思いで反撃して、はずみで殺してしまったことにすれば何の問題もないと。実際には、いかに正当防衛であっても殺人までいってしまえば過剰防衛とされる可能性は否めないのだが、少女の頭にはそんなことはなく。 「殴れば? それか警察に訴えればいいじゃん。私は、昔から殴ったり、家から追い出していた女の子に反撃されて、首を絞められて財布を奪われましたって! いいじゃん、私を警察につきだしなよ。私も、警察に今までのことを洗いざらい話してやる。殴られたし、服を脱がされそうになったって」  少女にとってみればそれは挑発のつもりだった。こんなことを言えば、母親の恋人はさらに激高して自分を殴るだろう。そうすれば、今この場でアルベルと契約して返り討ちにしてやればいい。が、その思惑は外れた。母親の恋人は、先ほど首を絞められたのがよほど印象に残っているのか、ここでさらに少女に暴行を加えれば反撃を受けるかもしれないと臆病風に吹かれてしまう。  少女の服の胸ぐらをつかみ、今にも殴りそうな剣幕だった恋人も、急に気まずそうに歯ぎしりをすると、そのまま拳を下ろしてしまった。 「今度やったら容赦しねぇからな……」  なんだか、拍子抜けだった。いくら正当防衛などと言い張っても、ほとんど怪我をしていない状況では通じないじゃないか。人を殺してもなるべく罪にならないようにしてから契約したいのに、どうして殴ってくれないのか? 「あんたこそ、今度私を誘おうとしたら、あれじゃすまないからね……ほら、これ返すよ」  少女はそう言って財布を返す。服を買った金が減っていることに気づいた母親の恋人はこちらを怖い顔で睨んできたが、中学生に手を出そうとしたということが警察にばれると相当にまずいのか、恋人は何も言わなかった。

 これではまずい。正当防衛で殺せないのなら、人殺しはしたくない。人を殺せば長いこと警察のお世話になることになってしまう。少年法があっても、施設に入れられてしまうはずだ。そうだ、母親の恋人がダメなら母親だ。あいつならば自分を殺そうとしてくれるかもしれない。そうなれば、私が殺しても正当防衛だ! 少女は名案を思い付き、それを実行する。 「あんたダーリンに何をしたのよ!? あんたが気に食わないから別れようとかって、メッセージが来たのよ! あんたが何かしたんでしょ!? ふざけんな!」  夜のお仕事から帰ってきてそうそう、母親は酒臭い息を振りまきながら眠っていた少女の髪の毛を掴んでゆする。叩き起こされた少女は状況を数秒で把握すると、あらかじめ考えておいたセリフを言う。 「あいつ、私を誘惑してきたんだよ。だから、首を絞めてお断りしてやったんだ。もうお母さんはおばさんだから魅力がないんじゃないの? 厚化粧のババアじゃん」  そう言って挑発をすると、母親は恐ろしい形相をして首を絞めてきた。ここまで来て少女は気づく。これ、契約がどうのこうのと言っている暇がない、と。 「お、おい! 大丈夫か!? 契約するのか、しないのか!?」  アルベルも慌てているが、もはや少女には聞こえない。聞いている余裕がない。少女は、掛け布団の中に隠し持っていた鎌を取り出すと、母親の腕に思いっきり振り下ろす。切れ味が悪いうえに、季節は冬。分厚い服に阻まれて傷を与えることは不可能だったが、鎌で切りつけられて恐怖を感じない人間はそういない。 「ひ!?」  そんな情けない声を上げて、母親は少女の首から手を離す。 「や、やめ、やめなさい。やめなさいって! ほ、ほら……もしかしてお金が欲しいの! あげるから、許して!」  母親が震える声で言う。アルベルはぽっかりと口を開けて唖然とし、少女も思わず呆然として思う。正当防衛にして、人を殺した悪魔と契約しても、短い刑期で終えるための計画は失敗してしまった……と

「あーあ、どうしよ」  少女が呟く横で、アルベルも同じことを思っていた。契約して、生贄か感情、そのどちらかを捧げてもらうつもりだったのだが、この少女は契約すべき危機的状況を自力で排除してしまった。命の危険がなければ、少女はわざわざ契約して怪力を得るような真似はしないだろう。それなら第二の提案、男を魅了する力を与えて色欲に溺れさせるほうに、誘導しようとアルベルは考える。性にだらしない女性になれば、必ずろくでもない男性が寄ってきて、その中には女性に危害を加えるタイプの一人や二人いるだろう。そんな奴をけしかけて、この少女を命の危険にさらしてやれば、その時に魂もささげてもらえて一石二鳥でちょうどいい。アルベルはそう計画を練り直す。 「見事だね。まさか自力であいつらを撃退するだなんて。君は思ったよりも強い少女だ」 「うん、ありがと……アルベル。しかし、恋人は逃げて、お母さんも私にお金をくれてその場をやり過ごすとか、そんなことになるとは思わなかったよ……結局自力で何とかなっちゃったけれど、きっかけは貴方が私にサービスしてくれたからだよね? あの、握力で首を絞めて気絶させて……」  少女は指をワキワキと動かし手遊びをする。 「それにしても、最初はアルベルさんの顔が怖かったけれど、なんか見慣れてくると山羊みたいで少しかわいいよね? 服を脱いだらどうなってるの? 全身毛むくじゃらなの?」 「普通に毛むくじゃらだよ?」  契約に持ち込む相手を邪険にするわけにもいかず、アルベルは少女に答える。 「へー、ちょっと見てみたいかも」 「いいのかい、私は男だから、ついているぞ? 悪魔の男根なんて見てしまえば、もう引き返せない、君は色欲の虜になる。それはそれで助かるがね。処女との性交は、悪魔にとってはすさまじい栄養だ、君を夢の中で欲に溺れさせるのも悪くない」  アルベルはそう言って少女を誘惑する。少女は少し考えて、首を横に振る。 「……やめておく」  少女とて、男性に興味がないわけではない。しかし、母親のようになってしまう、もしくはそれ以上かもしれないと考えるとそれは怖かった。

 ともあれ、少女の暮らしは一変する。母親を脅し、その恋人も追い払った少女は、母親からお金で生活を改善し、まともなものを食べ、まともな服を着て、まともな寝床で眠り、衣食住を確保することに成功した。少女は、衣食住が確保されたことで、欲求のステージは新たな段階へと進んでいた。誰かに愛されたい、恋人が欲しい、そんな欲求だ。 「……幸せな家庭とか、憧れちゃうなー」  少女がぼやくと、鬼の首を取ったようにアルベルは饒舌になる。 「誰かに愛されたいなら、体を差し出せばいい。お前ならそれが出来る。セックスが嫌いな男なんて少ないからな」  と、アルベルは言う。けれど、そんな方法で愛されても、結局は母親と同じようになるだけ、という疑惑がぬぐえなかった。だから彼女はアルベルの誘惑に乗れない。乗らないのではなく、乗れない。 「ねぇ、アルベル。私以外の人に同じような営業をかけたりしないの? 私なんかよりも、よっぽどそういう話に飛びつきそうな人、結構いると思うけれど?」 「そうしたいところだが、私が見えて存在を認識できるものがそもそも少ないのだ。君は、幼いころから何回か死にかけたことがあるんじゃないか? そういうものは我々のような存在が見えやすくなる。もしくは、父親が高名な霊媒師だったのかもしれないな」  アルベルに言われると少女は苦笑する。 「その二つのどちらかの理由なら、死にかけたほうじゃないかなぁ……風邪でほっとかれて、数日苦しんだことがあって」 「そうか、大変だったんだね……でもその代わりに私に会えたわけだから、災い転じて福をなすとはこのことかもね。まず、私が見える。それが契約を持ち掛ける第一の理由というか、前提条件だからね。そして、もう一つの理由だけれど……君には淫乱で、色に狂う素質があると思っている。君の母親がそうだし、そんな母親と子をなす父親も、そういう性質だろう。ならば、君もそうである可能性は低くない。だから私は君に営業をかけているんだ」  そして、アルベルは口には出さなかったが、少年法に守られていても殺人まで犯すような少女はまともな職業には付けないだろう。そこで、体を売る職業にでもついてもらえれば一石二鳥だとも考えていた。 「じゃあ、なおさら私……いやだよなぁ。どうしようかな?」  しかし、そんな思惑も空しく、少女は乗り気ではない。 「私の力を使えば、お前は人生に何の心配もなくなる。黙っていても男が寄ってくるし、セックスも、普通の人間よりずっと楽しめるようになるぞ」 「でも、母さんはちっとも幸せそうじゃない。本当に幸せなら、私のことだって愛してくれる余裕があるはず。セックスだけしてれば幸せになるってことじゃないんだろうね」  少女は優柔不断であった。しかし、悪魔も無理やりに少女と契約を結び、どうこうすることはできない。待つしかないのであった。 「ねぇ、アルベル。私、何かあなたに恩返しが出来ないかな? 少しでもまともな生活に慣れたのはあなたのおかげだし」  だが、その一方で、少女は自分が最低の生活を抜け出すきっかけを与えてくれたアルベルに対して、一定の信頼を置いていた。 「なら契約してくれ」 「それはイヤです」  そんな口を利きあって、少女は笑う。家では一人、学校では居場所がない、そんな少女は唯一の話し相手にアルベルを選んだ。立派な角、豊かな黒い体毛、横割れの瞳、黒光りする艶やかな爪。そんな彼の見た目を愛らしく思い、常に近くで自分を監視している彼を見つめると、恋人がそばにいるような気がしてなんだか嬉しくなった。  そうして、少女とアルベルが出会ってから二週間も経つ頃には、アルベルも理解する。少女は自分と契約する気はないし、何ならずっと話し相手にして楽しむつもりらしい。だが、契約はできないながらも、人間から向けられる親愛の情もまた、悪魔にとっては食料となる。悪魔が見えるほど魂の力が強い彼女の感情は食料としても優秀で、アルベルはついつい少女の隣にいることを選んでしまい、気づけば契約の件は何の進展もないまま、1年半が経過してしまった。

 彼女の生活はこの二年間、非常に落ち着いていた。しかし、今のところは義務教育だから何とかなっているが、この先の将来の見通しはまるで立っていない。普通に食事が出来て、普通に衣服が買えて普通に寝られる。そんな生活に満足し過ぎたせいで、周りの同級生たちが進路を決めている中、自分はどの高校に行きたいのかすら、そもそも決めることが出来ていなかった。そもそも、高校に行けるだけのお金もない。中卒で、住み込みで働ける仕事。そんなものがあれば、そこにするべきだろうかなんて、教師とも真面目に話したくらいだ。 「私の人生って、どうなっちゃうんだろう……」  不安な気分になる彼女に、アルベルは懲りもせずに言う。 「男を見つければいいさ。男を見つけて、貢いでもらえばいいさ。そのまま金を貰うでもいいし、換金性の高いバッグや宝石を貰って、それを質屋に売るんだ。そうして貯金を貯めれば、君の老後は安泰だ」 「ちゃんと貯金できるかなー……?」 「君の母親にはできなかったがな。君は現在進行形でしているだろう? 母親からもらえるお小遣いなんて二束三文なのに、せっせと貯金して……君と一年以上の時間を共にして、君のことはよくわかった。君は欲に溺れたりしない。色欲をうまく飼いならせば人生で金に困ることはないんじゃないのか?」 「そっか……色欲とだけ、何とかうまく飼いならせれば、か」  そんなのも悪くないのだろうか、などと少女は考える。もちろん、アルベルは少女に契約させるために都合のいいことを言っているだけという可能性もあるのだけれど。 「でもそれって、男をとっかえひっかえするってことだよね? なんていうの、そういうの……そう、焼き畑だ! 私、焼き畑みたいな生活は嫌かな……それに、貴方と契約しちゃったら、色欲ってのに溺れちゃうんでしょ? それ、うまく行っているうちはいいけれど、浮気とかして……慰謝料? っての、請求されたりとかしちゃいそうだし……どうやったって、不安しかないよ」 「一人の人間を愛し続けることなんて、普通の人間には難しいことさ。離婚する夫婦の多さがそれを証明している」 「貴方じゃダメなの? 貴方を愛したら。ずっと一緒に居るし、貴方と話しているのが一番楽しいしなぁ」 「……無理だね。そもそも、愛し合おうにも、私は触れもしないよ? アイドルのファンでも握手くらいはできるのに」 「そっか、無理か。でも、アイドルのファンは会話なんて出来ないじゃない? 毎日会話ができるのなら、それはアイドルよりもアリ、じゃない? 誰かに触れられるっていうのもいいことだけれど……ずっとそばにいて、いつも通りに話が出来る。すごいことだと思うけれどな」 「君のプラス思考にはかなわないね」  少女の言葉にアルベルは笑う。このころになると、少女は彼の表情の変化が何を意味するのかもすっかりわかるようになっており、相手が喜ぶ反応をしてくれてよかったと、少女もつられて喜んだ。 「君も変わり者だね。私のような山羊の顔をした男に惚れるだなんて」 「だって、私をあの最低な状況から救い出してくれたのはあなただから……最初はちょっと怖かったけれど、立派な角、手触りのよさそうな毛皮、優しげな雰囲気の瞳。悪魔だなんて言われているけれど、どれも好きになってしまって……眺めてるだけで安心する。  いつでも契約してくれるって思うと、私だけ銃を持っていうような安心感もあるし。ずっと、傍にいてほしい」  話しているうちに、少女はアルベルへの思いが少しず強くなっていく。将来の不安も、傍に誰かがいるならばなんとかなるような気がした。 「君は人間の恋人を作ったほうがいい。そうすれば、君の素質も有効活用されるはずだ」 「やっぱり、そうしなきゃダメ?」 「君は無欲すぎる。そんなんじゃ、人生つまらないよ?」 「たのしいよ。貴方に出会ってからずっと」 「私がつまらないんだよ」  この生活も悪くはないと考えるアルベルであったが、今日はあえて突き放すような態度をとる。 「君はこの1年半、クリスマスと正月の時ですら贅沢もせず、母親からも経った小遣いをずーっと貯金。見ていてつまらなすぎる」 「だって、お金を貰える生活もいつまで続くかもわからないし……」 「確かに、無計画に金を使うような奴や健全とはいいがたい。だがな、我慢ばかりしている人も、健全とはいいがたい……人間には、欲望を好き勝手に満たす、羽目を外す日も必要だよ。なのに君は最低限の娯楽だけで、食事も質素。見ている方としては退屈だね」  アルベルに言われると、返す言葉もなくて少女は黙り込んでしまった 「君はもう一度、飢える必要がある。そうすれば、君は次のステップに進めるはずだ」 「どういうこと?」 「私がいると心地よくて無欲になるなら、私がいなくなれば、君はどうにでもするだろう、ということだ。狩りを知らない飼い犬でも、エサを与えなければ自分でエサを取りに行くだろう」  少女はしばらく沈黙するが、やがて意を決して頷いた。 「まぁ、契約を結ばせに来たんだもんね。ごめんね、契約もせずにずっと引き止めちゃって。いいよ、私は一人になったら、頑張って自分の欲を満たす努力をしてみるから」  アルベルに向けてそう言った少女だが、アルベルの姿はそこにはなかった。 「もう行っちゃったんだ」  少女は寂し気に顔を俯かせた。少し遅れてにじみ出た涙を腕で拭うと、なんでもないようにふるまってまた歩き始めるのであった。

 少女はその後少しだけ気分が沈んでいたが、数日後には前を向いて生活の基盤を整えるべく、何度も繰り返して教師と進路相談を行った。学校のパソコンを借り、教師の助けも借りながら、少女は中卒で、そのうえ住み込みで働ける好条件の職場を探す。その結果、教師の知り合いが働いているというプラスチックの部品工場で働かせて貰うこととなった。  彼女は職場で一番若いこともあって、特にパートで働く年配の女性が優しくしてくれる。もちろん、男たちも若い彼女を放っておこうとはしなかったが、少女を見守る年配の女性たちが、男たちへ手を出すなオーラを放っていたのだろう。  そのおかげで、幸か不幸か働いて三年は男が全く近寄って来なかった。通常ならば高校へ通っている年齢の子供に近寄ってくる男なんてろくでもないため、世間知らずの少女を守ったパートのおばちゃんたちの判断は英断だ。  おばちゃんたちは、数学や国語を教えることはしなかったが、世の中の仕組みに関してはそれとなく、世間話を交えて教えてくれた。いかにも騙されやすそうな中学生の一人暮らしなだけあって、詐欺と思われるような儲け話や、怪しいセールスの話を一切退けてこられたのも、彼女らのおかげだ。  そうやって、周りの大人に支えられながら少女は大人になった。それでも、彼女の頭の中にあるのはあの山羊の顔をした悪魔。いつかまた顔を見せてくれるだろうかと思って生きていたが、彼は一向に顔を見せる気配がない。引っ越しもしたし、見つからないのだろうか? もしかしたら一生、彼の顔を見ることはできないのだろうなぁと漠然と考えていた。  彼女は、夜の街に訪れた。親からの愛情を受けなかった子供は男に騙されやすいとか、そんなことをさんざんおばちゃんたちから脅されて、特にホストのような夜の仕事をしている奴はやばいから絶対に近寄るなと言われて過ごし、母親を見ていると自分もそうなりそうだなと言う恐怖心はあった。  しかし、職場で出会う男はなんだか自分の感性には合わず、何か素敵な出会いでもあるだろうかと、結局警告を無視して夜の街にきてしまった。とはいえ、まだお酒は飲めないので、行ける店も限られる。母親譲りの美人なこともあってナンパもされたが、こんなちゃらちゃらした男は絶対に嫌だ。  結局彼女はファミレスで食事をとり、自分から男に話しかけることもなく、家へと帰ろうとしていた。その時、道を間違え路地裏に迷い込んでしまったのが良くなかったのか。彼女は手を引かれてさらなる狭い暗がりへと引き込まれてしまった。  『あ、まずい』と思った瞬間に、彼女は両腰につけた防犯ブザーの片方を引き、それを止めるためのスイッチとなるピンを遠くへと投げ捨てるふりをする。暗がりではどうせまともに見えないだろうし、これだけでも効果はあるだろう。 「あ、テメェ!」  手を引いていた男が、思わず彼女の腕から手を離し、投げ捨てたピンがありそうな方向を見るが、見つけることは難しそうだ。そんなことをしている間に、彼女はとっとと人の多い、明るい場所へと向けて走り出した。防犯ブザーのけたたましい音を立てながら走る女性を見て、色々察したらしい周りの人が駆けよってくる。もう安心だが、うるさくて近所迷惑になりそうだと、防犯ブザーにピンを差しなおしてほっと息をついた。 「相変わらず君は、危機管理能力が高いみたいだね」  その声に驚いて振り返ってみると、誰にも見えずに体を素通りされているアルベルがいた。 「あ……」  人がいる状況で喜ぶのもなんなので、彼女は表情を変えるも、そのまま何事もなかったように前を向いて歩き始め、スマートフォンを取り出してからアルベルと会話を始める。 「それにしても、アルベル。どうして会いに来るつもりになったの?」  目の前に存在しないものに話しかけても怪しまれないようにした彼女は、久しぶりに見たアルベルの姿を確認する。相変わらず、黄色い横割れの目、触り心地のよさそうな黒く豊かな体毛、黒光りする艶やかな爪、そして立派な角。悪魔は年を取らないから当たりまえの話なのかもしれないが、思い出の中にある見た目と全く変わっていない。  自分の背が少し高くなった分、視点は少しだけ下がっただろうか。 「君が夜の街に繰り出したから、何かあるんじゃないかと期待したんだ。何もなかったけれど」  不満げに、しかしどこか安心したようにアルベルは言う。 「私も何かあるんじゃないかって期待したよ。何もなかったけれど」 「相変わらず退屈だね、君は……襲われてしまえば契約を持ち掛けることも出来たというのに」 「へへ、それも悪くなったかもね……」  アルベルは残念そうな言葉とは裏腹に、少女の時から変わらない彼女の様子が嬉しいようだ。 「わたしは、アルベルがいない間に中卒で仕事を始めたよ。今は、とりあえず生活には困っていないよ」 「そうか。私は君から離れている間に、私は二人と契約を結んだ。一人は男性で、いじめっ子に反撃して三人殺して、今は少年院。もう一人は女性で、金持ちの中年男性と結婚して、とりあえずは成功してるよ。君と違って、なかなか欲望に正直な面白い客だったよ」  お互いにの近況を報告しあうと、二人とも微笑んだ。 「へー……結構契約してるんだ……私が退屈って呼ばれる理由がわかるね。それで、アルベルは親愛の情でも食べに来たの? 崇拝されるのも、悪魔にとっての栄養なんでしょ?」 「様子を見に来ただけだよ。結局、君は変わっていないようだし、このままお暇させてもらうよ」 「あ、待って。恋人はいないけれど、見せたいものがあるから!」  彼女が嬉しそうにアルベルに告げる。 「どうした? 気になる人でもできたのか? 契約してそいつを魅了する力が欲しいのなら、付き合うよ」  アルベルは彼女の話に興味しめし、彼女の顔を覗き込む。彼女はスマートフォンを使って誰かにメッセージを送っているようで、その手元はアルベルに見せないように隠している。やれやれ、サプライズが好きとは人間性も出てきたなと、アルベルは彼女の無邪気な行動を評価する……が、しばらく観察していると、彼女からはどうにも何か妙な感情がが渦巻いているように見えた。  それは、女を酔わせて家に連れ込もうとする最低な男のような黒い欲望。何故そんな感情が彼女から発せられるのだろうか? などと思いながらアルベルは言われるがままについていく。飛び乗った電車は明らかに彼女の住所ではない、田舎町のほうへと彼女を運んでいく。  目的の駅にたどり着くと、駅前にはちょっとした飲食店と雑貨屋くらいしかない田舎の駅。もうとっくに店も閉まっており、駅前は真っ暗だった。こんな時間にこんな田舎にいって何をするのだろう? と思いながら、アルベルは彼女の案内に従って歩く。すると、アルベルの意識は少しずつ薄れていき、ぼーっとした思考の中でゾンビのように歩き続け、次に正気に戻ったときは暗い部屋の、魔法陣の中にいた。 「……えと、これは?」  アルベルの体は重くはないが、自由に動かなかった。部屋の様子を見ようと思っても、なぜだか体の位置が動かせない。ゴム紐かなにかで繋がれたままプールを泳いでいるような感覚だ。 「あのね、以前アルベルが、私は霊媒師とか呪術師に向いてるっていうから、働き始めてから色んな黒魔術とかをやってるカルト集団を見てきたの。やっぱりというか、大抵は詐欺集団だったんだけれど、一つだけ本物があって……それがここ。ここなら、使い魔を私のモノに出来るって言われて、私はたくさん修業を積んだんだ」 「え……?」 「それでね、アルベル。私の使い魔になるとか、受肉して私の恋人になるとか、色々選択肢もあるけれど、どうしたい? ウチの団体の象徴になるのもいいと思うんだけれど、どう? 金を納めるくらいしかできない末端の信者でも、信仰心ならば捧げられると思うし……ほら、信仰心をたくさんの人から集めれば、悪魔は強くなるんでしょ? 信者が百万人いれば、神にだってなれるって言ってたよね? 私があなたを神にしてあげる!」 「え? いや、ちょっと待って、私、話が呑み込めないのだが……君、私と別れた後に黒魔術を学んでたの!? それで、私を捕獲しようとしてるの?」 「うん! 団長にも才能があるって褒められたよ……今では団長以上に魔術の腕も成長したから、団員を顎で使えるようにもなったし……設備さえ整えればアルベルを捕獲出来るかなって。捕獲する方法はあっても、会う方法はなかったから、正直期待薄だったんだけれど……アルベルから会いに来てくれるとは思わなかったよ。ついさっき、捕獲のための準備を団長にしてもらったんだ、スマホで頼んでさ」 「そ、それはど、どうも」  アルベルはどうにか脱出できないか考えるが、自身が捕らえられている魔法陣は隙がなく、自分程度ではとても太刀打ちが出来ない。大好きなアルベルを手中に収め、これからずっと彼と一緒に居られるとほほ笑む彼女。彼女は、獲物を前にした蜘蛛のように恍惚とした笑みを浮かべ、生きた人間には触れられないはずのアルベルに、そっと手を触れ…… 「これで、ずっと一緒に居られるね、アルベル」  ……てしまった。 「ひぃっ!」