『本日は貴重なお話を頂きありがとうございました』。 橘淳平はPCから流れるその最後の発言を文書ファイルに打ち込んだ。 ファイルをしっかりと保存し、指定されていたクラウド上にアップする。 椅子の背もたれに体を預け大きく伸びをした。凝り固まった体からポキポキと小気味の良い音が鳴る。仕事終わりのこの解放感が心地良い。 淳平が生業にしているのは文字起こしの仕事だ。講演や会議、インタビューの音声データを議事録として記録する。  業務としては地味な作業だが見た目以上に根気がいる。発言者の滑舌、適切な日本語への変換、不要な発言の削除、いわゆるケバ取りという作業だ。慣れないうちは僅か10分のインタビューに1時間ほど掛かったりもする。  幸い彼は耳とタイピングの早さにはある程度自信がある。今回は1時間ほどのインタビュー音声だったが2時間ほどで完了した。  淳平は今、定職には就いていない。クラウドソーシングの仕事で生活を賄っている。今は在宅の仕事の需要が高まっているため彼としては大変ありがたかった。  次の案件を探すためメールボックスを開いた。大量のオファーメールが届いているが殆どは考慮にも値しない低単価な案件ばかりだ。  良さそうな案件は無いか、と諦めかけたその時、1通のメールが目に留まった

  【急募】インタビュー音声の議事録作成 内容:15分の音声ファイルの文字起こしをお願い致します。 報酬:25,000円

記載の間違いではないかと疑った。あまりにも単価が高すぎる。もちろん多少のバラつきはあるものの文字起こしの仕事は30分のデータで2,000円~3,000円くらいが相場だ。それをこの案件は15分25,000円で募集しているのだ。 メールに記載されている募集ページのリンクを押してみる。やはり高単価な案件は競争率が高い。既に800名近いワーカーから応募があった。 怪しいがしかし15分25,000円の案件は魅力がある。淳平は応募ボタンをクリックした。

 翌日。日課のメールチェックをする。  すると昨日応募した例の案件のメールが届いていた。

橘様 この度はご応募ありがとうございます。私、今回のご依頼をさせて頂いた佐田と申します。 貴殿の実績を鑑み、業務をお願いしたく存じます。つきましては案件に関しての詳細なお話をさせて頂きたいのでお電話可能な日時をお知らせください。宜しくお願い致します。

まさか自分が採用されるとは思ってもみなかった。嬉しいと感じる反面、やはりあの怪しさが頭から拭いきれない。ひとまず話を聞いてみないと始まらないため、淳平はメールに返信をした。 メールで指定した時間ちょうどにスマホの着信音が鳴った。通話ボタンをタップする。 「お忙しい所恐れ入ります。私、佐田と申します。橘様のお電話でお間違いないでしょうか」 かなり低い男性の声。営業マンや販売員のような声から見える明るさはあまり感じられなかった。 「はい。私が橘です。」 「改めて今回は弊社の案件にご応募頂きありがとうございます。早速、今回の依頼に関してですが・・・。 淳平はこの佐田という男から今回の案件に関する説明を受けた。 内容としてはほぼ要項に書いてあった通り。約15分のインタビュー音声の内容を文書ファイルに纏めること。納期は明日まで。インタビュー内容は口外しないことなど基本的には他の案件と大差無いないようだった。 しかし、淳平はどうしてもあの点を聞かずにはいられなかった。 「あの、1つ質問しても宜しいですか」 「どうぞ」 「この報酬25,000円というのは間違い無いのでしょうか」 「と言いますと?」まるでこちらの質問がおかしいかのような返答だ。 「私が言うのも何だと思いますが、15分ほどのインタビュー動画で25,000円というのはあまりにも破格すぎます。記載間違いを疑うのも当然かと」 クラウドソーシングの仕事の中には時として法的に見ればグレーなものが紛れ込んでいることもある。企業間との契約とは違い、個人と企業との契約になるため犯罪の隠れ蓑として使われることも少なくないのだ。 「なるほど。確かにこの案件は他の物に比べると著しく高単価です。その理由はインタビューの内容が関係しているんです」 「内容?」 「はい。今回の内容はある男性への取材音声になるのですが、その方はかなり特殊な方でして、内容としてもかなりセンシティブなものなのです。」 ようやく話が見えてきた。つまりは緘口令だ。高い報酬を渡す代わりに絶対に口外するなという強い意思をそこに感じた。

電話が終わってから5分ほど経った後、依頼者からメールが届いた。“調査1.mp3”という音声ファイルが添付されている。淳平はそれをダウンロードした。 いつもの文書作成ソフトを開き、イヤホンを装着。そして音声ファイルを再生した。

(ガサガサガサとマイク位置を調整する際のノイズが入る) 『いやー、すみませんお待たせしまして』 『・・・いえ』

電話で聞いた声と全く同じだ。どうやら取材しているのは佐田のようだ。

『改めまして、今回取材をさせて頂く佐田と申します。事前にお伝えしておりますが、少し踏み入ったお話をさせて頂く可能性もありますのでご了承ください。あまりにも回答し辛い質問は回答頂かなくても構いませんが、出来るだけお答え頂けると助かります』 『・・・分かりました』 『では始めます。貴方は幼少の頃、ご家庭の事情が原因で周囲から差別の目を向けられていたと伺っております。その”家庭の事情”いうものを少し詳しく教えて頂けますでしょうか』 (少し長い沈黙) 『分かりました。俺の家系は代々、特殊な能力を持った子供が生まれてくるようになっているようなんです。両親は幼少の頃から俺に思想についての教育を施してきました。恐らくそれが周囲から異質に見えたのでしょう』 『ほう。その思想とは?』 『正直、今でもよく分かっていません。“世界のリセット”だの“ラッパの力”だの』

  ん?  私は足元に置いてあるフットスイッチを1回踏んだ。これを押すことで聞き取りにくかった部分を巻き戻すことが出来る。音声ファイルが10秒巻き戻した。

『“世界のリセット”だの“ラッパの力”だの』

やはり“ラッパ”と発言しているように聞こえる。 しかし文脈に合わないため『ラッパ(聞き取り不明瞭)』と記した。

『世界のリセット・・・。それは何か宗教的な何かですか?』 『・・・分かりません。ただ両親とも昔から神仏信仰はしていません。どちらかと言えば科学的な物の方が好きだったので』

そこからしばらくは相手を慮るやり取りが続く。相手の疲労具合を見てか、今回分の取材は終了するようだ。

『お疲れのようですので今回はこのくらいにしておきましょう。本日はありがとうございました』

そこで音声ファイルは終了した。内容としてよく分からない部分はあれど、ほぼ普通の取材音声だったため少し拍子抜けしてしまった。 起こした文章を見直し、日本語としておかしい部分を整文して文字起こしの作業は完了する。 壁に掛かった時計を見る。作業開始から35分しか経っていない。僅かこれだけの作業で25,000円の報酬になったのだ。 文書を添付したメールを依頼者の佐田へ送信する。その日の夜、佐田からの電話が掛かってきた。 「お世話になっております。佐田です。文書ファイルの方、確認致しました。橘さん迅速なご対応ありがとうございます。やはり仕事の早い方にお任せして正解でした」 「いえ、とんでもないです」 「橘さん、折り入って相談なのですが、取材データは今回の分だけではなくあと数本ありまして、追加案件という形でお願いできますでしょうか」 思った通りだ。今回のファイル名が“取材1”だったため続きがあることは大方予想していた。 「次回は30分ほどのデータになります。報酬は70,000円でいかがでしょうか」 「えっ!?」 またもあまりに破格な報酬を提示してきた。 「データは既にありますのですぐにお送りできます。同じアドレス宛でよろしいですかね?」 断る隙を与えない喋り方で相手が話を進めてきている。少しの恐怖と高い報酬を前に淳平は断ることが出来なかった。

翌朝、メールをチェックする。早速佐田からのメールが届いていた。“調査2.mp3”というファイルが添付されている。ファイル容量は昨日の倍ほどとなっていた。  文書ファイルを開き、イヤホンを装着する。メールから音声ファイルをダウンロードし再生ボタンをクリックした。

『おはようございます。すみませんね、こんなは朝早くに。今日はこの時間しか取れないもので』  『いえ、構いません』 『ありがとうございます。今日は・・・(窓の外から重機の大きな音が鳴る) 『あぁ、すみません。近くで改修工事を行ってまして、ダンプなどの重機が一番行き来する時間帯なんですよ』(スライド窓を閉める音) 『失礼。では始めましょう。今日は昨日より貴方にとって酷な質問をすることになるかもしれません。幾分お察しかと思いますが、貴方のその容姿に関してです。』 『・・・まぁそうでしょうね』 『前回お伺いしたように、周囲から異様な目で見られているのはご家庭の事情もあるでしょうが一番の原因は間違いなくその奇抜な容姿にあるでしょう』  『・・・・・。』  『ギロリと切れた目、尖った耳、鋭い爪、大きな牙、そしてその全身を覆う毛皮』

なんだその容姿は。それではまるで・・・

『そう。まるで狼だ』

その発言からしばらく2人は言葉を発しなかった。外から僅かに聞こえる工事の音が空しく響く。

『生まれた時からその姿に?』 『いえ、子供の頃は普通の人間の姿をしていたらしいです』 『らしい、というのは?』 『俺は人間の姿だった頃の記憶が全く無いんです。両親の話では俺の肉体は何年かの周期で人間の姿とこの狼の姿が入れ替わるそうです。そしてその度に全ての記憶が俺の中から消えます。だから以前人間だった頃の記憶も当然ありません。その後はこの現実に耐え兼ね俺は家を飛び出しました。』

自分は今、何を聞かされているのだろう。打ち込んだ文章を改めて見直してみる。 世界のリセット?狼の姿をした男?まるで絵本の中の物語だ。

『周期ですか・・・。ところで今の姿になってからどれくらいの時間が経過しているんですか』 『もうすぐ10年になります』 『ご両親の話では、貴方が狼の姿になったのはいつ頃だと?』 『たしか10歳の誕生日を迎えてすぐだと言ってました。』

なるほど。この“周期”とやらが10年毎に起こっている事が分かった。 そして今の姿になってから間もなく10年が経つ。つまり、また人間の姿に入れ替わる日が近いということだ。  しかしここで1つの疑問が浮かぶ。この取材そのものについてだ。  佐田は偶然この人物と知り合い、偶然入れ替わる周期ギリギリに取材を行ったということになる。  幾多もの偶然の産物と言われればそれまでかもしれないが、妙に靄が掛かったような疑問が拭いきれない。  そう頭を抱えていてふと気付く。自分は何を考えているんだ。 自分はこの取材とは何の関係も無い。あくまで取材テープを文字に起こし議事録を作っている第三者に過ぎない。  見ると音声データもあと3分ほどで終わる。最後の気を引き締め、キーボードに指を置いた。

『おっと、もうこんな時間でしたか。本日はここまでにしましょう』 『佐田さん、俺が今のところお話出来ることは全てお伝えしたつもりです。この取材はこれで終わりなんでしょうか』 『申し訳ございませんが、あと1回ご協力ください。それで今回の取材は以上になります』  『・・・分かりました』(音声終了)

あと1回。それを聞いて淳平は次の展開を予想していた。 あまり見返したくはないが、これが自分の仕事だ。しっかりと見直しを行い整文を行う。そして佐田宛にメールを送信した。

「お世話になっております。佐田です。橘さん、今回も迅速なご対応ありがとうございます。つきましては・・・」 「あるんですよね。まだ続きが」 「お話が早くて助かります。次回が最後になります。報酬は100,000円でお引き受け頂けますか」 今の彼にとって100,000円という報酬はあまりにも大きい。 だが、それ以上に淳平はこの調査の行く末が気になって仕方がなかった。 仕事だと割り切ろうとしても無理だった。何故かは分からない。だが何故か魅入られる。なぜ。

 「あーあー、聞こえるー?」  「おう、聞こえるよ」  「健介」  「なに?」  「その無精髭いい加減剃れよな」  「バカ。これは無精髭じゃなくてチンストラップっていうオシャレなの!」  画面の向こうでそう軽口を叩くのは友人の健介。今は生物学の研究をする大学院生だ。就職そっちのけで博士課程まで進み、研究熱心で頭も良いが、“俺は正義のヒーローになる!”という子供のような理由で生物学の研究を始めたという経緯がややかっこ悪いと淳平は思っている。  最近ではこうやってZOOMで定期的に連絡を取り合っている。  「悪いな。研究で忙しいって言ってたのに急に呼び出して」  「気にすんなよ。で?何があった。お!もしかしてお前もついに彼女でも出来たか!?」健介は画面の向こうでガハハと豪快に笑い缶ビールを呷った。  「そんなんじゃねーよ!ただ、ちょっと変なこと聞くようで申し訳ないんだけどさ」  「うん、なに?」健介はつまみに用意していたのであろうピーナッツを口の中に放り込んだ。  「狼男っていると思うか」  「ぶっ!」驚いてピーナッツが健介の口から飛び出す。  「ゲホゲホ!お、狼男!?藪から棒に何言いだすんだよ!?」  「いや、すまん。詳しくは話せないんだけど、生物学的な観点から何か見出せるものがあるんじゃないかなーと思って少ない可能性に賭けてみた」  むせた健介は水道水をコップに入れ飲んだ。  「何があったか知らんが、まぁいいや。んー、狼男かどうかはともかく、人間と動物の混合種の研究は過去に実際行われているよ」  「えっ!?そうなのか!?」あまり期待していなかった分もあってか、かなり意外な答えだった。  「ああ。かなり昔の研究にはなるがイギリスで実際に動物の卵子に人間の精子を受精させるという研究は成功しているらしい。だがその後、生命倫理的な観点からその研究自体は中止・・・とされているが、それもどうかな」 「どういう意味だ?」  「研究自体は秘密裏に続けられてた可能性があるってことさ。もし仮にその研究が成功していたとする。そうすれば動物と人間のDNAを併せ持つ生命が生まれてる可能性は否定できない」  現実的な話とは思えない。だが理屈は通っている。  「あとこれは都市伝説レベルだけど、山奥で狼男の鳴き声を捉えたっていう録音テープって話もあったな。まぁそれは信用にも値しないけど」  「えっ、どうして」  「どうしてって音声なんて何の証拠にもならないじゃないか。まるでそんな生物がいるかのような音声を作るなんて造作もないことさ」  そう言われ、まるで頭を割られたような衝撃が走った。  淳平はこれまで2人の会話を基に勝手に頭の中に佐田と狼男が対面で会話しているかのようなシーンを想像をしていた。  “そう、まるで狼男だ”わずかその一言でその場に狼男がいると勝手に思い込んでいたのだ。  顔や目、耳、手足が奇形である人間は世界中にいくらでもいる。それを“狼男”と比喩していただけではないのか。  「健介!ありがとう!参考になったよ!」  「お、おう。それは良かったな」急に元気になる淳平の様子に健介は少し戸惑った様子を見せた。  「あともう1つだけ聞いてもいいかな」  「なに?」  「健介はラッパって聞いて何が思い浮かぶ?」  「ラッパ?あの楽器の?」先ほどからの変な質問からか健介は怪訝そうな表情を浮かべる。  「いや、これはいいや。忘れてくれ」  「なぁ、さっきからお前変だぞ。何があった」  「いや、いいんだ。忘れてくれ。もうこんな時間だし今日はこれくらいで」  淳平は退室ボタンを押そうとした。  「なぁ淳平」健介にそう呼びかけられクリックしようとした手を止めた。  「なに?」  「もう1度大学へ戻ってくる気は無いか」  それを聞き、淳平はしばらく沈黙した。  淳平と健介はもともと同じ大学の研究室に所属していた。だがやはり淳平は周囲に馴染めず、そのまま自主的に大学を辞めた。 その後定職には就かず、対人の必要がないメールやチャットでほぼ完結することが出来る仕事で糊口を凌いできたのだ。  「・・・ごめん」そう言い残し、淳平は退室ボタンをクリックした。

 翌朝、いつものように仕事の準備をする。  昨日の健介との会話を思い出す。そうだ、狼男などいるはずがないのだ。少し変わった容姿をした人物への普通の取材テープだったのだ。  そう考えると気持ちが楽になった。高報酬も相まってか気分も幾分晴れやかになる。昨晩届いた佐田からのメールを開いた。

  橘 淳平様 お世話になっております。佐田です。 改めて過去2回の迅速かつ高品質な納品、誠にありがとうございます。  今回が最後のご依頼になります。宜しくお願い致します。 添付ファイル:『調査3.mp4』

背筋を撫でるような怖気が襲った。 添付ファイルの形式が“mp4”になっている。つまりこれは動画ファイルだ。 昨晩得た一縷の安心をまるで嘲笑っているのだろうか。そんな錯覚に陥ってしまう。 だがその思いに反し、淳平は動画を再生せずにはいられなかった。 まるでマウスを持つ右手に魔の手が覆いかぶされているかのようなそんな感覚だった。 再生ソフトが立ち上がり、読込中を示すマークが画面の中央でぐるぐると回る。 マークが消え、白いタイルが全体に映った。ひっ、と思ったがどうやら部屋の床のようだ。そこからゆっくりとカメラが前へ向けられる。足元から胴体そして顔と全体映し出された。 そこに映っていたのは狼男・・・いや狼であった。ちょうどおすわりの姿勢で座っていた。 シルバーホワイトに輝く毛並。4つに割れた足先と爪、肉球。そして大きなふさふさとした尻尾が垂れ下がっている。 一見するとただお座りした狼が映っているだけの映像にしか見えない。

『佐田さん、今日はどうしてカメラを回すんですか?』

口を動かし人間の言葉を流暢に喋った。その時点でこれがただの狼でないことが分かる。少し開いた口の奥に小さく牙を覗かせた。  佐田の姿は今のところ映っていないが、狼の視点を見るに、カメラの反対外に立っているようだ。  しかし佐田は狼の問いに答えようとはしなかった。

  『佐田さん?』  『・・・また次だな』  『えっ、何が、・・・うっ!』

急に狼は頭を抱え苦しみだした。体は言うことを聞かないようで椅子から転がり落ち床をのたうち回っていた。 『おい!押さえろ!』と回りの人間が狼を取り押さえにかかる。 しかしあまりに暴れる狼の力には勝てないようで数人がかりでも抑えきれていないようだ。 そして大声とともに押さえかかる人間を跳ねのけた。 その衝撃でカメラが吹き飛び壁だけが映った。。映像外でガラスが割れる音。『逃げたぞ!追え!』との声を最後に映像は途絶えた。

動画が終わり画面が真っ黒になっても淳平はしばらく呆然としていた。今のは何だ。 居ても立ってもいられず佐田に電話をかける。 淳平の電話を待っていたかのようにすぐに電話が掛かった。 「佐田さん!何なんですかあの動画は!」 「橘さん、業務の方は完了したのですか?」佐田はそう平然と言ってのけた。 「何が業務だ!俺にあの動画を見せて一体何が目的なんだ!」電話越しに淳平は叫んだ。しばらく佐田は沈黙し、そしていつもの落ち着いた声で言った。 「橘さん、業務を行って頂けないようであれば契約はここで打ち切りです。今までありがとうございました」その一言を最後に佐田は電話を切った。 その後何度の電話を掛けなおしたが一切繋がることは無かった。

 その後、淳平はすぐに健介に今回の一連の経緯について全てを話した。  先日話せなかったことへの謝罪と力添えが欲しかったのかもしれない。  淳平のすべての告白を聞き、健介はそうかとだけ答え、暫し思案した後に少し調べたいことがあると言いそこで電話を切った。  そしてその夜、健介は急かすかのようにZOOMの通話を要求した。  「淳平、お前から貰った音声データと映像ファイルを見て1つ分かった事がある」  「分かった事?」  健介は画面共有をした。そこには“取材2”のデータの再生画面が映っている。シークバーを動画の最後の方に合わせ健介は再生ボタンを押した。 『おっと、もうこんな時間でしたか。本日はここまでにしましょう』健介はそこで再生を止めた。 「聞こえたか?」 「何が?佐田が喋ってる声しか聞こえないけど」  健介はコンプレッサーで音を上げてもう一度再生した。  すると佐田の声の後ろで微かに音楽が流れているのが聞こえた。  「この曲は『アメイジング・グレイス』?」 「そう。おそらくこれは防災無線から流れている音楽だ」 防災無線とは市町村が緊急時のテストを兼ね、毎日夕方5時などに『夕焼け小焼け』などを流し子供達に帰宅を促す放送のことだ。 「これがどうしたんだ?」 「色々調べてみたんだが、防災無線の定時放送で『アメイジング・グレイス』を流す地域はかなり珍しいんだ」 そう言って健介は画面を地図アプリに切り替えた。日本列島全域の地図が表示され数ヶ所にピンが刺さっている。おそらく防災無線で『アメイジング・グレイス』が流れる地域だろう。 「さらに、音声ファイルには改修工事をしている音が入ってたよな。この無線が聞こえる範囲でそのような工事を行っていた場所を調べてみたら1か所しかなかった」健介はその場所をクリックしピンで示した。 そこには『(株)遺伝子改変研究所』と書かれた建物が表示されている。聞いたことがない名前だ。だが地図を見るにここから電車で2時間ほどの距離に位置しているようだ。 ふとWebカメラに映る健介の顔を見るととても渋い表情をしている。 「健介、どうした?」 「俺、もう少しこの地域について調べてみたんだがどうにも腑に落ちない点があってな」 「腑に落ちない点?」 「実は、今この地域の防災無線の定時放送で流れる音楽は『アメイジング・グレイス』じゃないんだ」 「えっ」 「そしてさっき見せた会社。かなり前に廃業してる」 「・・・つまりどういうこと?」 「つまり、これまで文字起こししてた音声や動画はかなり昔に収録されてた物ってことになる」 どういうことだ。そんな昔に収録された音声を今更文字起こししたところで何になると言うのだろうか。 「その会社が廃業したのっていつだ?」 その質問に対し、健介は少し躊躇った後に答えた。 「10年前だ。防災無線の音楽もちょうどその時期に変更されてる」 「10年!?」 「淳平、これ以上この件には関わらない方がいい。何が目的なのかは分からないが嫌な予感がする」

翌日、淳平は特急電車に揺られ窓の外を眺めていた。 鼻と口を覆うようマスクをしっかりと着けて目的地へ向かう。 前日のうちに行き方は調べておいた。あとはこの電車で1時間ほど。 窓の外に流れる景色にこれまでの疑問が画になって重なる。 健介の言う通り、あまりこれ以上首を突っ込むべきではないのだろう。だが疑問は絶えない。 佐田とあの狼の正体は?なぜ10年も前のデータを今依頼に出す?そして、なぜ淳平に依頼してきたのか。 そこに行けば答えが見つかるかは分からない。だが動かずにはいられなかった。 そんな思いを巡らせている間に最寄りの駅に到着する。駅前だというのにとても閑散としていた。お世辞にも賑わっているとは言えない町並みであった。 スマホで地図アプリを開き目的地を確認する。ここからまた30分ほど歩くようだ。 歩き始めは寂れたアーケードが続いていたが、しばらくすると店も民家も少なくなってきた。 研究所はおろか、プレハブ小屋一つ無さそうな場所でスマホから目的地周辺に到着したとのアナウンスが流れる。 よく周りを見渡すとその場にそぐわない白い建物が一軒だけ建っているのが見えた。 入口横に掲げられている薄汚れた表札には「(株)遺伝子改変研究所」と書かれている。どうやらここで間違いないようだ。 幸いにも鍵などはかかっておらず中には簡単に入ることが出来た。やはり既に廃墟となっており中は薄暗く、割れたガラスや埃が床を覆っている。  事務室や様々な薬品が並ぶ実験室らしき場所を覗くが特に目ぼしい物は見つからなかった。  無駄足だったかと諦めかけた時、長い廊下の先に他とは違う頑丈な扉の部屋が事に気付いた。  少し押してみる。どうやらここにも鍵はかかっていないようだ。 錆びてやや固くなったドアを力強く押し開く。部屋の中を覗いて淳平は驚愕した。 広い部屋の中心に椅子が一脚とカメラが一台。まさに動画で見たあの構図だった。違う点と言えば佐田と狼が居ない事であろう。 椅子に近付き淳平は違和感を覚えた。壁や天井は汚れ、蜘蛛の巣も張っているというのに椅子は新品のように綺麗だった。 カメラを確認してさらにおかしな部分に気付く。これは確か最近発売された最新のものだったはずだ。 その事に気を取られていた淳平は背後に立つ人物に気付かなかった。 振り向いた時には遅く、淳平は薬品のような物を嗅がされ意識を失った。

目覚めた時、淳平の体は椅子に座らされていた。項垂れていた顔を上げるとカメラのレンズがこちらに向き、録画中を示す赤いランプが光っているのが見えた。 椅子から立ち上がろうと体を動かすが、体が椅子から離れない。見ると背もたれに後ろ手が縛られていることに気付いた。 「気が付きましたか」聞き覚えのある声が聞こえた。右を向くと黒いサングラスとマスクを着けた男性らしき人物が立っていた。 「初めまして。私が佐田です」 「貴方が佐田さんか。これは何の真似ですか。早くこのロープを解いてください」 「申し訳ないですがそれは出来ません。もうすぐリセットが達成できるというのに」 「リセット?・・・あんた一体何者なんだ」 そういうと佐田はふっと笑った。 「悲しいな。もう俺の事忘れちゃった?」聞き覚えのある声に変わった。そして佐田はゆっくりとマスクを外した。口元には特徴的な無精髭があった。いや違う。たしかチンストラップという形だと教えられたはずだ。 「・・・健介?」 「やっと分かったか」健介はサングラスを外し地面に放り投げた。 「お前に依頼を出したのも、ここへ連れてきたのも全て俺だ」 「連れてきた?昨日、この件にこれ以上関わるなって忠告したのはお前じゃないか」 「そう。でもな淳平、お前は必ずここへ来ると思ってた。確信と言ってもいい」 「なぜだ!」 「お前ももう薄々気付いてるじゃないのか?」そう言って健介は淳平の耳元で言った。 「あの狼の正体は淳平、お前だ」

淳平は幼少の頃から過剰ともいえる親の庇護を受けてきた。“狼の心を持つ人間であり人間の心を持つ狼”であると。 その時の淳平はまだ幼くその意味が分からなかった。だが、彼が10歳になった頃、最初の変化が訪れた。 自分の実体が日に日に無くなっていくのだ。まるで氷が溶けていくかのように自分の体が少しずつ無くなっていく。 自分は死んでしまったのだろうか。いや、どうやらそうではないらしい。意識はあったからだ。 そしてある日、病院のベッドの上で目を覚ました。山中に倒れていた淳平を見つけた人が助けてくれたらしい。 自分の手を見る。大人の手。体もしっかり形があった。  看護師に話を聞くと記憶が消えたあの日から10年もの時間が経っている事を知った。 そんな彼がそれから周囲に馴染めるはずもなく、それからは在宅ワークで生計を繋いだ。人と会わなくても良い仕事は淳平にとってとても好都合だった。 仕事の一環で知り合ったのが健介だった。最初はあの快活な性格がちょっと鬱陶しくも感じていたが、淳平の過去には一切触れず、明るく接してくる彼と話す時間が楽しくなってきた。 それからは健介が色々な相談役になってくれた。研究に誘ってくれたのも彼だ。学問の奥深さを知り、勉強を手助けまでしてくれた。 意識が無くなった頃の記憶はほとんど無いが1つだけ覚えていることがある。 風の薫り、木々の音。人間の頃は感じられなかった自然の挙動一つ一つが明確に感じられるのだ。今思えばそれは狼の魂として存在していた証なのかもしれない。

「健介、お前の目的は一体何だ」そう言うと健介は近くにあった椅子を少し移動させて座った。ちょうど淳平と対面するような位置だ。 「7つのラッパって知ってるか?」 「えっ?」 「『新約聖書』に書かれている、要は預言書のようなものさ。神が与えし7つのラッパ。それが吹かれた時、世界の終末が訪れる。簡単に言うとそんな感じかな」 「世界の終末?」 「そう。淳平、お前のその特殊な生態には世界を終わらせる、いや、リセットする力があるんだ」 何を言っているのか分からなかった。だが健介の目は本気だ。冗談を言っているようには見えなかった。 「俺はその力が真実かどうかを確かめるため、10年前にあの取材を行った。そこで分かったのがリセットする力を得るには狼の姿の時点でDNAを採取する必要があった。だがその結論に至った時にはもう遅かったんだ」 そうか。だから動画データの最後の「また次だな」という発言はそういう意味だったのか。ただ、まだ分からない事がある。 「健介、そのリセット出来るとかいう力が本当だとしてお前の目的は何なんだ。世界を終わらせたいと思うほど憎むものがあるのか」 その疑問を聞き、健介は軽く笑った。 「憎む?まさか。むしろその逆さ。俺は今のこの世界が大好きだ」 「だったらどうして!」 「お前も知ってるよな。数年前から世界に蔓延るウイルスの事」 もちろん知っていた。確か数年前から世界中に流行し、あまりの感染力の高さから収束させるのが厄介だと言われているウイルスだ。   数年経った現在でも医療のみならず経済にも大打撃を与えている。 「様々な研究の結果、そのウイルスは人間が持つDNAにのみ影響し感染することが分かった。つまり、お前だけが持つ特殊なDNAがウイルス収束の鍵になるんだ」 健介は話を続ける。 「俺の狙いはこうだ。まずお前が狼の姿になった後、DNAを採取し複製。それを世界中にワクチンとして接種させる。その結果ウイルスの感染力をゼロにすることが目標だ」 「俺のDNAを世界中にって・・・。そんなことしたら」 「あぁ、ゆくゆくは通常の人類と言われる生物は1人も居なくなる。全人類が人間と狼のハーフのような生物になるだろうな」健介は平然とそう言った。 「そんな事・・・許されるわけないだろ!」怒りに任せて椅子を揺らせた。 健介は袖を捲し上げ腕時計を見た。 「もうすぐだ」 「もうすぐ?いったい何が。・・・うっ!」急に胸が苦しくなる。上手く息が出来ない。 「淳平。始まったんだ。お前がまた狼に入れ替わる時間が」 あまりの苦しさに淳平は椅子ごと横転した。正面の鏡に映った自分の姿を見る。少しずつ形が崩れている。目が霞んでいるのではない。確実にそれは起こっていた。 思い出した。あの時と同じ感覚。また消えていくのか。あの意識だけがある世界へ。 そこまで考えたところで淳平の意識は途絶えた。

「・・・い。・・・おーい」 誰かの声が聞こえる。ゆっくりと目を開けた。 「ここは・・・?」 どこまでも広がる目が眩むほど真っ白な世界。明らかに先ほどまで居た研究室ではなかった。 「おっ、やっと気付いたか」 「誰だ!?どこにいる?」 周りを見回すが誰の姿も見えない。 「俺だよ。お前の心の中に居た狼だ」 この声を聞いて思い出した。幾度となくデータで聞いたあの狼の声だった。 「おい、ここはどこなんだ」 「そこは言わば魂の世界。人間の姿の時は狼の俺がそこにいる。逆に狼の姿の時は人間のお前がそこにいる。この入れ替わりが起こる僅かな時間だけこうやって意思の疎通が出来るってわけだ。まぁ10歳の頃はお互い若すぎて何の話も出来なかったけどな。」 「そうか。また俺はこれから何年もの間、狼の魂として生きるんだな」 そう考えると悲しくなった。ここまで築き上げてきた物がまた無くなっていく。 「なぁニンゲン、一つ聞いても良いか?」狼が淳平に問う。 「お前は今の自分に満足してるか?」 「えっ?」 「俺はさ、人間の魂を持つ狼ってのも悪くないと思ってるけど、やっぱり俺は体も心も狼で生きて狼として死にたい。お前はどうだ?」 「もちろん、俺だってそうだ。人間として生きてそれを全う出来る方が良い。でもそんな方法が無いから俺は・・・」 「もしかしたら出来るかもしれない」 「えっ」 「お前、あの男から7つのラッパの話を聞かされたか?」 「あぁ、生命のリセットがどうとか言ってたけど」 「あの話には続きがあるんだ。”聖なるラッパで全てが終わり、世界は新しい天と新しい地を作る。”何が言いたいか分かるか?」 淳平はよく分からず、無言で首を傾げた。 「・・・ったく、ニンゲンってのは勘が鈍いなぁ。つまり俺たちが持つラッパの力には新しく生命を作り出す力があるかもしれないってことさ。俺とお前、それぞれの体と魂を作ることだって出来るかもしれない」 言いたいことは分かるが本当にそんな事が可能なのだろうか。半ばこじつけの様にも聞こえてしまう。 「本当に俺たちにそんな力があるのか・・・?」 「さぁ?俺にも分からねぇ」あっけらかんとした口調で狼は言った。 「分からないって・・・」 「だから言っただろ。もしかしたら出来るかもって」 「お前、そんな無責任な・・・」 「でも、そうしないとあの男、全人類を俺達みたいな生物にしちまうんだろ?」  そうだ、健介は人類を救うという名目で全ての人間を自分のような生物にしようとしているんだ。そんな事が許されていいはずが無い。 「どうするニンゲン。早くしないとまたしばらく俺の魂として生きなきゃいけなくなるぜ?」 淳平は目を閉じしばらく黙った。これまでの人生、そして今回の一連の事件を頭に思い描く。そんな淳平を察してか狼もしばらく何も言わないでいてくれた。そしてゆっくり目を開け言った。 「よし、やってみようぜオオカミ君」

「これで・・・これで俺が人類を救うヒーローになるんだ」 着実に狼の姿に変わっていく淳平を横目に健介はこれからの栄華を頭に思い描いた。昔から憧れたヒーローさながらに夕日が差し込む窓の前に立ち西の空を眺めた。 その時だった。窓ガラスに自分以外の影が薄っすらと映った。背後に気配を感じ振り向く。しかし気付くのが遅すぎた。そして大きな黒い影が健介に襲い掛かった。

冷たい床の上で淳平は目を覚ました。周囲を見渡すと先ほどまでの真っ白な世界は無くなり、元の研究室に戻っている。 いつの間にか腕のロープも解かれている。自分の手を見た。細い腕に指が5本。ゆっくりと指を閉じ、また開いてみる。その手で頬を撫でてみた。すべすべとした肌。人間の肌。間違いなく自分の体だ。 目の前の床に影が落ちる。淳平はゆっくりと顔を上げた。 そこには動画で見たあの狼がいた。仁王立ちで淳平を見下ろしている。太い手足、フサフサとした尻尾、鋭い爪。全身を覆う毛皮は背後から差す夕日に反射しきらきらと光っているように見えた。 「よう、無事みたいだな」とても流暢な日本語でそういうと狼がニッと笑った。口の奥に太い牙が覗く。 「もしかして?」 「そう。大成功だ。やったぜニンゲン!」そう言って狼は淳平の両脇をひょいと持ち上げ抱きしめた。柔らかい。まるで羽毛布団のようだ。見下ろされている時は分からなかったが、狼は淳平の身長より少し高く更に威圧感があった。 「・・・そうだ!健介は?」それをきいて狼は自分の後ろを親指で差す。  そこには身動きが取れぬよう、ロープで縛られた健介の姿があった。  「おい、健介は大丈夫なのか?」 「心配すんな。俺の愛のゲンコツで気絶してるだけさ。じきに目が覚めるさ」 先ほど軽く持ち上げられた時にも思ったがかなり腕っぷしは強いようだ。 「オオカミ君、これから君はどうするんだ?」 「さぁな。とは言え見ての通り俺は狼だ。人間社会に溶け込むことはできねぇ。この広大な大自然のどこかに自分の居場所を見つけるさ」 「そうか」淳平はそう言って少し俯いた。 「なんだよその辛気臭い顔。・・・あっ!まさかお前、寂しいのか?心の中に俺が居なくなるから寂しいんだろうー?」いたずらっぽい笑顔で狼は淳平の頭を掌でポンポンと叩いた。頭に柔らかい肉球が当たる。 「べ・・・別にそんなことは・・・」 「そうか。俺はちょっと寂しいけどな。お前が俺の中からいなくなるのは」努めて明るい声を出していたが、狼は少し物悲しそうな目をしている。 自分はどうなんだろうと考えた。これからは普通の人間として生きていくことが出来るだろう。 でも自分はこれから上手く生きていくことが出来るんだろうか。心のどこかで狼の魂として存在していた事に安心や心地よさを求めていた自分がいたのではないだろうか。 そんな事を考えていると、ふわりと自分の足が地面から浮き上がった。見ると狼が淳平の体をひょいと持ち上げている。そのまま自分の背中にどさりと落とした。見た目以上にフワフワとした感覚が全身を覆った。 「えっ・・・何?」 「久々に狼の体に戻れたんだちょっと走らせろ」 そういうと普通の狼のように四足歩行の状態となり、それぞれの足に力を込めた。 「しっかり掴まってろよニンゲン!」 「ちょっと待っ・・・」 言うが早いか狼は窓を飛び越え研究所の外に向かい走り出した。 あまりの速さに振り落とされそうになる。淳平は目を閉じ狼の背中に強くしがみ付いた。 体が風を切る感覚を感じ、勇気を出して目を開けてみた。流れる木々や建物。過ぎていく地面。踏みしめる度に鳴る草木。そして向かい来る風の感触。それから匂い。 狼の魂だった頃に感じたあの記憶。いま体は分かたれているがきっと目の前の狼も同じ感覚を味わっているだろう。 狼は最後にこれを共有したくて淳平を背中に乗せたのだろうか。それは分からない。 だがこの感覚を体の芯まで感じたくて。忘れたくなくて。 淳平は今この瞬間を五感全てに焼き付けるよう目を開け、しっかりと前を向いた。