暑い。気温が30℃もあるのだから当然だ。高地の森の中に住んでいたとされる先祖なら、既に音を上げてしまっていただろう。特に目の周りが熱を帯びてヒリヒリする。ツートンカラーの毛皮は笹薮の中で身を隠すにはもってこいだったのかもしれないが、それも過去の話。今は中新世ではない。獣だった我々は山を下り、平地を開拓し、代償はたくさんあったがそこで文明を発展させた。そうして獣からケモノへと変わって、我々はあっさりと過去の生態を捨ててしまった。それまで生態系の、決して少なくない比率の生態的地位として先祖を育んでいた生物相から見れば、薄情この上ないことだろう。  などと、太古のロマンに独り愚痴りながら、竹でできた水筒を開け、中の水を飲む。冷たくて美味しい。程よく水分がわずかに蒸発するせいか熱が奪われ、ひんやりとしている。故郷の村を離れるときに、親が持たせてくれたもの、ではない。脆いので流石にそう経たずに壊れてしまうのだが、どうしてもこの冷えた、わずかに竹の風味のある水の味がやめられず、故郷に帰るたびに買い溜めしたり、通販でわざわざ購入したりしている。文明化して以降、生態を丸きり忘れてしまいつつあるこんな世の中への、ちょっとした抵抗のつもりだった。なんせ掴み心地もいいのだ。  いまいち理解されないことも多いが、先祖からの形態的な遺伝は意外に残っていたりする。モモンガは体躯が大きくなって飛べなくなっても未だ被膜が残っているし、イルカなんか先祖返りの先祖返りで足が腹鰭状になって生まれてくる者もいるらしい。急激な文明化に対して、ケモノの生きものの部分は意外と頑固なのだろう。そんな自分も例外ではなく、先祖代々同じ種には、指が7本生えている。正確には本来の5本に加えて2本、骨が指状に隆起したところがあって、先祖はそれを主食である笹を掴むのに用いていた。先祖がこのような独特な形態をしていたためか、現在の我々には他の種が収斂によって獲得した拇指対向性が存在しない。不便でもあるが、世の中のデザイン面の進歩も著しく、我々にとってはありがたいことである。  などと考えているうちに、やっと目的地に着いた。都会のはずれ、閑静な住宅街にぽつんとある、小さな飲食店だ。学生時代によく使った行きつけの店で、今日はここで昔の仲間との飲み会になっている。変わらないな、と言いたいところだったが、店主が代替わりしてから大幅に改装したそうで、雰囲気こそ変わらないものの、所々綺麗になっている。  「いらっしゃいませ」  二代目店主である、ツパイの青年が爽やかに呼びかける。飲み屋でツパイとなるとステレオタイプ一直線な感じがして笑ってしまうが、先代に以前聞いたところ、割と由緒正しき酒屋の家系らしい。  「予約です」  「はい、奥の部屋へお進みください」  指示通り、店の奥にある個室に足を運ぶ。入り口には立て看板があって、「世界四大珍獣御一行様」と書かれている。  「お疲れ、待った?」  既に自分以外の3名は席に着いていて、雑談に耽っていたらしい。  「おーす、お疲れ!」  「まあ時間通りかな」  年甲斐もなく元気に呼びかけたのはオカピで、それに続いたのはコビトカバだった。残ったボンゴはいつも通り何を考えているのか、腕組みをしたままこっちを見ているだけだ。  「んじゃ頼むか!全員生でいい?」  「車なんでノンアルで」  「俺はハイボール」  「お茶」  相も変わらずばらばらである。空気を読まずにハイボールな自分も悪いし、車で来ているコビトカバは仕方ないのだが。ボンゴはよく考えたら、学生時代含め一度もアルコールを飲んでいるところを見たことがない。  「お前飲まないの?」  テーブルを挟んで斜め向かいに座ったボンゴに思わず聞いてみる。  「酒乱だから」  本当か嘘かわからないことをよく言うボンゴだったが、もし本当でこの角と体躯で暴れられたら困るな、と思いそれ以上は聞かなかった。まあ全員その辺は同じだが。  「田舎の親がさ、いい相手いないのか、ってすごく言ってきてさ」  既にコビトカバは愚痴り始めている。この年代だったら誰でもある、交際とか結婚といいった話だった。  「アグレッシブに動いちゃえば?俺も今の彼女、合コンでうまいこといった感じだったし」  とオカピが若干自慢を兼ねて言う。7人目だっけ、お前の彼女。  「アグレッシブなあ…そっちは?」  ボンゴに話が振られる。しかし当のボンゴは首を横に振った。  「しばらくは独りでいたいから」  なんか凄く意味深な発言だが、ボンゴの雰囲気はそれ以上の深入りを拒んでいるように聞こえた。  「こっちも、まだいいかな、親も何にも言ってこないし」  ボンゴをフォローするわけではないが、あれこれ聞かれる前に自分も回答を提示しておいた。コビトカバとオカピはそりゃいいなあ、とかそっかーとか口々に言っている。ボンゴの方はというと、珍しく気まずそうに口を噤んでいた。なんだ、気を遣わせてしまっただろうか。何も言ってこないが、事情は知っているのかもしれない。  7本の指が先祖から受け継いだものなら、この形質もそうなのだろう。ある意味呪いとでも言うべきかもしれない。  自分たちの種は出生率が著しく低い。自然受胎による出生があまりにも確率が低いため、都市部では人工授精による受胎がほぼ主流になってしまっている。自分の生まれ育った山村ではそれ相応に「子供を残すための仕組み」が整っていたらしく、あまり語りたくはないが家系図が実際の遺伝と合致しない程度には色々事情があるらしい。更に、育児ノイローゼなどによる育児放棄など、生まれてすぐの子供はきちんと母子ともにケアを施さないと生存率が異常に低くなる。これらの呪わしい形質は、本来個体数もそう多くなく、低密度で分布していた先祖の生存戦略だったのだろうが、今となっては払拭したくなる。  この辺の事情をボンゴは理解していたらしく、言葉で示さずとも態度で気まずさを示してしまっていた。笑えない話だったかも、すまない、と心中で謝りつつ、残り2名の陽気なトークを聞く。  「ところでさ、教師やってると勉強の機会がいっぱいあるわけだけれどさ」  オカピがお冷を啜りながら続ける。  「将来的に、別種の相手と子供作れるようになったら、どうすんの?」  「そうだな、そうなったら候補は1名いるかな」  コビトカバがなんでもないことのように返した。医者をやっているらしい彼は、そこそこそういった話題が入ってくるらしい。  「まあ、遂にこの国にも、インタースピーシーズマリッジの波が押し寄せてきたということかな、問題はその後だけれどなー」  ニュースで最近よく聞く単語が、コビトカバの口から出てくるのはなんだか変な感じだが、彼も今忙しいのだろう。ライターの自分にも、医学界がパラダイムシフトの時期にある、という話が連日飛び込んでくる。  種間結婚は今まで、家を継ぐ、子孫を残すことをおおよそ放棄したケモノのやることだった。ミトコンドリアや葉緑体の研究過程で、あるウィルスが単離されるまでは。細胞そのもののキメラ化のみならず、条件によっては多核化、そして後に様々な場所から発見された近縁ウィルス群は特定の細胞に対する免疫攻撃の弱化や緩やかなキメラ化など、ミトコンドリアや葉緑体が細胞小器官として嫌気性細菌と融合した際のプロセスに関わったのではないかとされるウィルス群、後にシンビオウィルス群と名付けられたこれらは、当然のごとく、生物学や医学、特に発生学や産婦科学に大きな発展をもたらした。それが5年程前のことだ。瞬く間に実用化まで漕ぎつけたこの技術に基づいて、我々全ケモノは種の括りを超えた婚姻、継代が可能となった。  あれこれ議論しているオカピとコビトカバの脇で、ボンゴが呟く。  「シンギュラリティだね」  そして自分の方を見て、呼びかけた。  「君の7本の指も、他の誰かに受け継がれる日が来るのかもね」  ボンゴのまっすぐな視線を受け、思わず開いた手のひらに視線を落とす。5本の対向性のない指と、2本のそれを補う指、それを別種が受け継ぐ時が来るのだろうか。いや、これまでの種の垣根を越えて子をなすことが可能になるのなら、もはや種という括りは刹那であり、意味をなさない。そういった意味でも、ボンゴの言うようにシンギュラリティなのだろう。  「お待たせしました。生とハイボールとノンアルとお茶です」  「どうもー、そっちはハイボールだっけ」  「車だっての、はいお茶と、ハイボール」  「ありがと」  「オッケー、こっちにも回ったよ」  「んじゃ行きますか、卒業10周年と、これからの未来を祝って!」  乾杯。大小さまざまなグラスがぶつけられる。  自分もぎこちないまま、7本の指で、その未来の行方を願った。