栗色の地味な鼻先。可愛げのない鋭い目つき。色褪せた鈍色の毛皮。   鏡の中に映るいつもの光景に、ため息を吐くのすら飽きてしまった。そんな鬱屈とした気分を洗い流すように、桶に張った水をかき上げて顔を洗う。鏡の中に現れた、濡れた岩肌をきっと睨みつけて私は朝の身支度に取りかかった。  寝間着を脱ぎ捨て、草色の狩装束をまとえば、高山にそびえる岩のような力強い姿が現れた。 ごつごつとした大きな手も、太くて強靭な腕も、ピューマという種族としては当然の体格だ。けれど、この町に住んでいると思う。皆から怪物を見るような視線を注がれているのではないか、と。実際、この町の住民は皆私より一回りも二回りも小さく、脆そうで、か弱い。そして――可愛らしい。  ぶっきらぼうに昼飯をカバンに詰めていると、外の方から黄色い声が聞こえてくる。窓の外を見ると、私の家の前に町民が群がっていた。いや、正確に言うと、うちの真向かいだ。  集まったやつらの頭の上から、青い鳥顔がのぞいた。彼に会うために、彼女らはわざわざ朝一番でやって来たのだ。  彼は突然現れた。全身黒い服装に、黒い靴、黒い手袋。そんな怪しげな格好で、こんな宿も娯楽もない小さな町にいったい何をしに来たのだろうと、皆はじめは警戒していた。それにもかかわらず、いつの間にやらすっかり注目の的となり、彼は数日で居場所を作り上げたのだ。幼いころからずっとこの町に住んでいるのに、たいして話し相手もいない私とは天地の差だ。今や彼はこの町一番の人気者だ。風の噂で聞いた話だと、想像をはるかに超える金と名誉を持っているだとか。ただ、それ以上に、彼は「美しかった」。  象牙を加工したような鋭利な嘴。柔らかくも精悍な瞳。光を受けて瑠璃色に輝く羽毛。  町民のひとりは、一目見ただけで魅了させられるような容姿だと言った。青と緑の羽毛の交わりが絵画のようだと喩える者もいた。そのように評される彼の種族は、クジャクというらしい。黒い服が気にならないくらい、鮮やかな顔立ちをしていた。  そんな話題で持ちきりのやつが真向かいに住み始めただなんて、迷惑な話であるけれど、彼はこの町に長くいるつもりではないらしい。それならば、深くかかわる必要もない。極力避けていればいい。  カバンを腰に巻き、家の扉を開けると、いやでもあのぎらぎらとした体が目に入ってしまう。睨みつけるように一瞥して通り過ぎようとすると、彼の眼が私を捕らえた。 「やあ、おはよう」  ああいやだ。声までもが「美しい」。朝の空気を震わす涼やかな声は、かえって胸を凍てつかせた。私はぴくりと耳を動かすだけにとどめて、足早にその場を去っていく。町のやつらから不満を漏らす声が聞こえたが、知ったことではない。今さら誰かと馴れ合う気なんて、露ほどもなかった。

 しばらく石畳の道を歩いて、町はずれの森に到着した。ここから先は滅多に誰も立ち入らない。途中まで舗装されていた道は忽然と途切れ、一歩先を見ればひたすら草木が生い茂っている。けれど、そんな密林も私にとっては庭みたいなものだった。  私はいつも、この森で狩りをしている。仕事として、だ。森には怪物が住んでいて、その肉体からしか得ることのできない資源がある。それを町の商店に売っては稼ぎ、生活の糧としていた。  狩りそのものは嫌いじゃない。己の爪と牙に任せていれば、くだらない悩み事を考えなくて済んだ。けれど、仕留めた怪物の亡骸を目にすると、否でも自身の強さを実感する。爪と牙によって受けた傷は、自分の胸にも刻まれるのだった。それでも、狩りを止めようかと考えたことはない。私の武器は自分自身の体しかなかったからだ。  周りに注意を払いながらもずんずんと森の奥へ進んでいくと、一体の怪物を発見した。全身黒色の饅頭のような怪物が、木を揺らして赤い果実を落とし、手あたり次第に貪っていた。どちらが前でどちらが後ろなのかわかりにくい怪物だが、食事をする様子から、頭部の位置を見定める。  皮肉にも、狩りにはこの地味な体が役に立つ。地に紛れるように這いよると、怪物めがけて一気に飛びかかった。 「ぐぎゅる!」  怪物は反応できずに、私の牙をもろに受けた。黒い体液を流して暴れていた体を四本の爪で押さえつけ、牙を食い込ませる。ほどなくして動きをとめた。あとは解体するだけだ。食べることも可能だけれど、おいしくはない。 「……はっ」  何者かの気配がしたのを察知して、身を屈めてあたりの様子をうかがった。 「いや、すごいな」  大きな木の陰から、青い鳥頭が現れた。 「実に見事な身のこなしだ」  鳥系の種族特有の三つ指の手を叩きながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。一度見たら忘れない、あの派手な鳥だ。 「何をしに来た。ここはよそ者の来る場所じゃない」 「ご心配感謝するよ。しかし、ぼくはこの森の奥に用があるんだ」  森の奥の方へ向けて、彼は爪を指す。彼の格好を見ると、上下黒の厚手の服でぎらつく体を覆っていた。背中の翼は窮屈にも外套の中にしまっているようで、どうやらこの森を探索する気なのは本当らしい。それでもなお、色とりどりのインクに浸した絵筆のような飾り羽が、ズボンの隙間からはみ出している。これでは目立ってしまって怪物に襲われても仕方ないだろう。 「失礼、自己紹介がまだだったね。ぼくはパストリス。きみは向かいに住んでいるピューマだよね。やっと挨拶ができて嬉しいよ」  パストリスと名乗るクジャクは、手を差し出し握手を求めてきた。私はその手を眺めるだけで、手に取ることはできなかった。そもそも、向かいに引っ越してきたのにかかわらず、ろくに口を交わさなかったのは私が避けていたからだ。 「きみの名前は?」 「教える名前なんかない」 「うーん、それは困ったな。何と呼べばいい? お嬢さん?」  背筋の凍るような呼び方に尻尾をぞわりと立てると、咳払いをした。変な呼ばれ方をするくらいなら、名前を教えた方がまだましだ。 「……カヤ。私の名前だ」 「そうか。よろしく、カヤ」  目をはじめてちゃんと、パストリスと合わせた。身を屈めなくても、同じ高さに目線が来る。ずっと周りには小さい種族しかいなかったため、見下ろしてばかりだったけれど、目線をそろえて話ができるというのは新鮮だった。 「ぼくは植物の研究をしているんだ。今回は調査のためにこの森に来たんだけど……きみはここに詳しいようだね」 「ここは私の仕事場だから」 「なるほど。それはちょうどいい」  パストリスは目の周りの白い模様を大きくしながら、手を打った。 「ぼくに付き合ってくれないかい?」  突然の提案に、思わず声が漏れた。 「ど、どうして、どこの誰だかわからないやつと一緒に行かなくちゃならないわけ!?」 「きみの腕を見込んでさ。ボディガードとして、ね」 「そんなに暇じゃないんだけど」 「もちろん対価は払うよ。きみは怪物を狩って暮らしてるんだろう。一日当たり怪物十体相当の報酬は出すことを約束しよう。どうだい、お互い好都合だろう」  あまりに高額な報酬を提示され、考えた。怪物を狩ること自体は苦ではないけれど、一日一体分稼ぐのでさえ、それなりに大変だ。売りものになる部位は限られているし、きちんとさばかなければならない。仮に一日に十体狩ることができたとしても、とてもひとりでは運搬できない。  それに、この鳥が森で事故に遭ってしまえば後味が悪い。決して、心配しているわけではないけれど。 「……出発は、明後日でいいか」 「ああ、感謝するよ!」  彼は私に詳細な書付を残した後、まだ少しこの森を調べてみるからと姿を消していった。嵐が過ぎ去ったように、再び静寂が訪れる。私はどっと疲れを感じながら、黙々と怪物を解体する作業を始めた。

「やあ、おはよう」  その日、森へ向かうと青い鳥頭が立っていた。以前と同じように黒い服装に身を包んでいるけれど、遠目で見ても目立つ。書類をのぞきながら待っていたようだけれど、私が近づくやいなや涼しげな声をかけてきた。 「向かいに住んでいるのだから、ここまで一緒に来れたらよかったのに」 「今回の同行は、あくまで仕事のためだ。馴れ合う気はないから」 「そうか。それでも、ひとりで行くには物騒だったからね。きみがいてくれたら心強いよ」 「ふん。さっさと目的を果たしに行くぞ」  今回の目的は、とある植物の採取だそうだ。聞いたことはないけれど、この森にしか咲かない花があるらしい。  パストリスの前を歩きながら、木に印を付けていく。十年はこの森で狩りをしているけれど、私もすべての場所を知っているわけではない。今回の目的はこの森のかなり奥深くということだったので、いつもより念を入れていた。 「ところでさ、本当は宿屋に泊まる予定だったんだ。だけどあの町、草食系の小さい種族ばかりだろう。ちょっとぼくには窮屈でさ。でも町長さんがちょうどいい空き家を手配してくれて助かったよ」  この鳥はというと、森に入った瞬間からこの調子だ。とりとめのない話をぺらぺらと。嘴を動かす回数が、今日一日で私の一生分を越してしまうのではなかろうか。 「きみにとっても、あの町は狭いんじゃないのかい?」  返事の代わりにひとつ、ため息をついた。やはり集合場所を森の前にしたのは正解だった。朝一番からぴーちくぱーちく止まらない話を聞いていたら、森に着く頃にはへとへとになっていたに違いない。 「きみはいつもそうやって不愛想でいるんだ」 「今は仕事中だ」 「話をするのもボディガードの仕事に含めてもらってもいいかな?」 「だったら言わせてもらうけれど、おまえこそずけずけと私のテリトリーを侵してくるじゃないか。町のやつらには、そういう態度をとっているようには見えないんだけど」 「それはそうだろう。波風立てない方が生きやすいじゃないか」  右手をひらひらとさせながら、あっけらかんとして言い放つ。あまりにも正直に言うものだから、面食らってしまう。 「じゃあ、私にも少しは気を遣ったらどうだ」 「いやあ。なんだろうね。きみとは正直に話した方が楽そうだなと思って」 「はあ……」  言葉も出てこなかった。腹立たしさを超えて呆れかえっている私とは裏腹に、この鳥はどこか嬉しそうだった。とんでもないやつだ。普段は冷静な学者を装っておきながら、裏では飄々としているのか。一発かみついてやりたい気分にもなるけれど、ここまで来てしまえば引き受けた仕事は断れない。パストリスの軽口をいなしながら、襲ってくる怪物を撃退して道なき道を進んでいった。  森に入って、三日。こんなにこの森は広かったのかと、改めて驚く。景色は変わらず草木が続くのみだけれど、奥に進むにつれ地形が複雑になってきた。いよいよ森も深く険しくなってきたからか、パストリスも口数が減っていた。 「止まれ」  慎重に歩みを進めていたところ、今までと違う気配を感じ取り、小さく声を張った。黒紫色の巨大な塊が鎮座し、進行方向上の道ををふさいでいた。私の三倍程度の高さはある。怪物だろうか。あれほどの大きさのものは今まで見たことがない。 「あの怪物は……仕方ない、いったん引き返すしかなさそうだね」 「それには同感だ」  はじめてパストリスと意見が一致した。あくまで私の仕事はこの鳥を無傷で帰すことだ。得体のしれない怪物を刺激することは極力避けたい。森の奥まで行く方法はいくらでもあるはずだから、回り道をするべきだ。 「前に印を付けた木の場所まで戻って、進めそうな道を選びなおし――」 「……危ないッ!」  怪物に背を向けた瞬間。私の言葉を遮って、パストリスが叫んだ。 「グゴオオッ!」  後ろから、来る。あの巨体が! 振り返る間はない。咄嗟に転げるように飛び出す。 「首を丸めて歯を食いしばってろ!」 「ぼくに歯はないんだけど……うわっ」  こんなときにまで御託を並べる鳥の体を抱えて大きく跳躍した。太い木の枝へと飛び移り、下で暴れている怪物の様子を伺う。  なんだあの怪物は。とんでもない反応速度、そして移動速度だ。音をほとんど立てずに攻撃してくるなんて―― 「まるできみのようだね」 「勝手に言ってろ!」 「褒めているんだよ。それにしても、一筋縄ではいかなさそうな怪物だ」  敵は私たちが乗っている木に体当たりを続けている。このままではふたりとも落下して襲われてしまう。パストリスを抱えたまま移動するのも難しい。 「おまえ、鳥の種族だろう。空は飛べないのか?」 「クジャクはあいにく飛ぶのが苦手なんだ。木から木へ飛び移るくらいはできるけどね」  それだけできれば十分だ。パストリスを木の上に下ろし、下の怪物へ向けて狙いを定めた。 「ちょっと待って。あいつと戦う気なのかい!?」  私は無言でうなずくと、木から身を投げ出した。パストリスがけたたましく叫んでいるけれど、もう、やるしかない。  興奮している怪物の上に、爪を突き立てて着地した。どろりと沈み込む被膜はまるで沼地だ。泥がまとわりつくような感覚が、全身にぞわりと走った。それでも、怪物は怪物だ。怪物の頭部には「核」と呼ばれる動力源がある。それを砕いてしまえば、動きも止まるはずだ。 「ジュルル!」  私は振り落とされないように黒紫色の体を這い、核と思われる部位に牙を突き立てた。怪物の動きが静かになる。やった! この巨体を倒したんだ。  勝利をパストリスに報告しようと、沼地から抜け出そうとする。ところが、どこかおかしい。怪物はおとなしくなったはずなのに、視界がぐわんぐわんと揺れて安定しない。 「あ、れ……」  途端に息苦しくなり、感覚が鈍っていく。あの鳥の声も聞こえない。意識が遠く――

「はっ……!」  目が覚めると、暗い空間にいた。ひどく体に倦怠感がまとわりついている。体が重く、なかなか動かない。まさか、あの怪物の体内に取り込まれたなんてことはないだろうか。そう思っていると、きらきらとした青いものが近づいてきた。 「ああ、気づいたんだね」  飽きるほど聞いた声が耳に入る。ぼんやりとした視界に目を凝らすと、青い冠に白い嘴が見えてくる。その後ろには星空が見えた。夜になっていたようだ。 「ここは開けている場所だし、火も焚いているから安全だ。まだ痛みが残っているだろうから、動かない方がいい」  すました顔で指摘するパストリスを見て、途方もなくみじめな気分になった。私はこんな鳥なんかに助けられたのだろうか。護衛が守られてどうするんだ。 「あの怪物は神経毒を出すタイプの怪物だったようだ。噛みついたときに毒が入ってしまったようだね。きみには申し訳ないけど、解毒薬を無理やり飲まさせてもらったよ」  この森のことはわかっていた気になっていた。知らない場所があるように、知らない怪物だって住んでいるのだ。パストリスだってこの森は初めて訪れるだろうに、私よりよほどうまく立ち回れていた。 「おまえは、どうやって逃げて来たんだ」 「きみのおかげで怪物の動きが鈍っていたからね。その隙に麻酔薬で眠らせておいたよ。それにクジャクは毒に耐性を持つ種族だから、近づけたってわけさ」  彼はリュックから色とりどりのラベルがついた薬瓶を取り出し、並べてみせた。解毒薬や麻酔薬のほかに、傷薬や爆薬なんてものもある。彼が余裕な態度を見せていたのは、これだけの装備によるものもあったんだ。  私の牙でも敵わない相手がいた。私より賢くて強いやつがいた。私には「強さ」しかないと思っていたのに。 「きみもそんな顔をするんだね」  パストリスが腰を下ろして、青い顔をのぞかせた。きれいだ。ずっと認めたくなったけれど、やはり彼は美しい。 「そう。そうだ。私なんて、つまらない存在だから。自分の力を過信して、勝手に怪我して、ただの足手まといだもの。おまえのようにきれいでもないし、強くも賢くもないし、誰からも好かれない!」  気がつけば私は子どものようにまくし立てていた。全身の毛が逆立つようで、体が熱い。誰かにこんなに気持ちをぶつけたのは久しぶりだった。  一方、パストリスは少し目を丸くしながらも落ち着いた顔で私のわめきを聞いていた。しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと嘴を開いた。 「ふうん、きみは不思議だな。プライドが高くて完璧主義なのに、劣等感が強くて。孤高なのかと思えば、本当は寂しかったんだ」  彼の無神経な言葉は、すべて図星で反論できなかった。 「そう、だから、私にはボディガードなんて……」 「きみは、素敵だよ」  彼は静かに、だけど強く言った。私の弱音を断ち切るように。私は何を言われたのかよくわからずに、口を開いたまま固まってしまう。ぱちぱちと焚火の炎が燃える音だけが暗闇の中に響く。 「きみがいてくれたから、無傷で済んだし、怪物に薬を投げることができたんだ。きみはぼくを守ってくれた。少なくとも、これは事実さ」 「そ、それは仕事だったからで」 「それだけじゃないさ」  パストリスは腰を落としたまま、首を伸ばして顔を近づけてきた。  「格好良さと可愛らしさを兼ね備えたマズル。ガラス細工のように輝く瞳。銀色のしなやかな毛皮――どれも素敵さ」 「ば、ばっかじゃないの!」  そんなこと、誰にも一度も言われたことないのに。 「ああ、気分を害したなら謝るよ。口説いているとかではないし、これは……そう、ただの感想だ」  感想だとしても、お世辞だとしても、私の胸はいっぱいだった。熱くなっていた体から火が出てきそうな勢いだ。彼が今まで私に対して正直だったことが、その言葉の重みに拍車をかけていた。 「私なんて、ごつごつしてて、地味で、おまえとは正反対なのに」 「きみは、ぼくと似ているよ」 「そんなわけないじゃない」 「今のぼくを見て、羨ましいと思っているだろう」  彼は続けて言った。これはまやかしだ、と。 「偽りの羽で着飾ったぼくなんて、つまらないものさ」 「……その色とりどりの羽毛は染めたもの、ということか?」 「まあ、そんなところかな」  黒い服から飛び出した尾羽は、とても作りもののようには見えない。パストリスはどこか寂しげな表情を横に向けた。気になって、もうひとつ尋ねてみた。 「なぜ、おまえはいつも全身黒い服を着て、翼を隠しているんだ?」 「黒い服は落ち着くんだ。それと、飛ぶことに用いない翼をひけらかしていても仕方ないだろう?」  意地でも翼は見せてくれないようだ。クジャクという種族なりに、悩みがあるのだろうか。自分だけみじめな思いをしているように感じていた私が、少しばからしくなってきた。 「ぼくの話は置いといて。はい、森で見つけたハーブを調合して作った回復薬だよ。それを飲んだらもう今日は休むといい」  彼は立ち上がると倒木に腰掛け、眠る準備を始めた。濁した言い方が気になったけれど、話したくなさそうだったのでそれ以上は聞かなかった。そんな彼のことが気になり始めていた。こんな気持ちは久しぶりだった。

 翌日。朝起きると気分はよくなっていて、無事調査に戻ることができた。パストリスからもらった解毒薬と回復薬のおかげか、調子はすこぶるいい。道中に現れる怪物を残らず一掃していた。ただし、通常サイズの怪物のみ。今のところ、昨日の巨大な怪物が出てくる気配はない。 「いやあ、やはり素晴らしい動きだ。それにしても、それだけの力を持っていながら、外の世界に出ることは考えなかったのかい」 「それは――」 『きみにとっても、あの町は狭いんじゃないのかい?』  以前かけられた言葉が頭の中でこだまする。私の居場所がないのは、とっくの昔に気づいていた。私は慎重にあたりを見回しながら、パストリスに話し始めた。  私は、あの町の生まれではない。幼いころから両親に連れられて、狩りをしながら旅をしていた。そしてこの森に入ったとき、両親とはぐれたうえに怪物に襲われたのだ。幸い、私はあの町に住むビッグホーンのおじいさんに助けられて、一命をとりとめた。その代わり、森の外で両親を待てども、帰ってくる日は来なかった。  正直、あのときはまだ何もわかっていなかった。たださみしい気持ちでいっぱいで、森を彷徨おうとしていた。狩りもできないのに。そんな私を見かねて、ビッグホーンのおじいさんは私を引き取り育ててくれたのだ。おじいさんは、以前は世界中を旅した冒険家だったらしいけれど、事故で片足を失ってからこの小さな町で余生を過ごすことにしたらしい。私には様々な本や思い出話を与えてくれたけれど、いつも「可哀そうだ」と口癖のように言っていた。  十歳を過ぎるころには、町のどの住民よりも体が大きくなっていたと思う。そして、時を同じくしておじいさんもこの世を去ってしまった。町のみんなとうまくやれなくなってきたのも、そのころからだった。可愛らしいみんなと「可哀そう」な私は違うんだと思い込んでいた。気を紛らわせるためにおじいさんの残した本を読み、そこで狩りの方法も覚えた。一心不乱に狩りの仕事をはじめて、それから何も変わらないまま、現在に至る。 「おもしろくない長話をしてしまったな」 「いや、こちらこそすまない。つらいことを思い出させてしまった」  自分のことを語ったのなんて、初めてだった。むしろ抱えていた見えない荷が下りて、楽になった気がする。 「ただ、ひとつ聞いてもいいかな。ここに留まる理由は、きみの両親を探すためかい。それとも育ててくれたおじいさんが眠る町だからかい」 「怖かったんだ」  自分でも驚くほど、はっきりと言っていた。怖かった。それが理由だ。  誰にも認められないまま外に出ることが。外の世界に出ても傷つくことが。怖かったんだ、と。もういない両親やおじいさんにすがっても、仕方ないことはわかっていた。 「そうだね。外に出ればつらいことばかりさ」  まるで自分が経験したかのように、彼は言う。 「――でも、素敵なものに出会えることもある」  生い茂っていた木々の間から、光が差し込んだ。その直後。一面の青が目に飛び込んでくる。久しぶりに見た太陽の光が、青の上できらきらと輝いていた。  思わずその光景に見とれていると、パストリスが小さく笑いながら声をかけてきた。 「きみは海を見るのが初めてなんだね」 「ええ。写真で見たことはあったけれど、本物はこんなに広くて、大きくて」  パストリスみたい。青に緑にと輝く水面は飾り羽のようだった。私はそんな風に考えていた。きっと、翼を広げた彼は、もっと美しいのだろう。 「おまえの翼は――」 「グギャアア!」  刹那、おぞましい咆哮が響く。私の口からこぼれた言葉をかき消すように。黒紫色の塊が暴れ狂いながら、森の中から現れた。この巨体は、間違いない。昨日出くわした怪物だ。こんなほとんど足場のない崖の先にいるときに出てくるなんて。 「せっかくいい話をしているところだったのに、タイミング悪く出てくるね」  私はすかさず戦闘の体勢をとった。逃げても追いつかれてしまうのはわかっていたから。私が戦ったところで勝ち目はないけれど、パストリスにはこいつに有効な武器がある。 「私が注意を引き付ける!」 「了解。任せたよ」  尻尾を揺らし、怪物の視線を誘導するようにパストリスから距離をとる。ゆっくりと。けれど、怪物は私ではなくパストリスの方にまっすぐ向かっていく。 「まったく、目立つ体ってのは。こいつの狙いはぼくだ。きみは逃げろ!」 「おまえはどうするつもりだ!」 「言っただろう。ぼくに毒は効かな……うぐっ!」  想定外のことが起きた。彼が麻酔薬を投げつけた途端、怪物は蛇のような姿に形を変えたのだ。まさかそんなことができるなんて。うまく薬瓶をかわしたかと思うと、驚く間もなくパストリスに巻き付いてきた。彼のカバンからばらばらと薬瓶がこぼれ落ちる。  いくら毒が効かなくても、あんな攻撃を受け続けたら致命傷になってしまう。けれど、私が手を出したところで、果たして勝てるだろうか。 「に、げ……ろ」  締め付けられているパストリスが、あがきながらも苦しい声を上げた。何を迷っているんだ、私は。立ち止まっている場合では、ない。 「逃げるわけ、ないだろう」  ここで使わなければ、爪と牙は何のためにあるんだ。唯一の武器。聴覚と嗅覚、そして長年の勘が、怪物の「核」はここだと教えてくれる。 「私はおまえのボディガードなんだから!」  大蛇のような怪物の頭部に飛び乗り、爪を突き立て、沼地のような体を引き裂いた。泥のような肉片が飛び散り、赤い核が姿を現す。ためらうことなく、私はそれにかみついた。 「グギャアアア!」  怪物は唸り声をあげて、締め付けの力を弱めた。パストリスが解放される。それを確認して、私は拾った薬瓶を怪物の元に投げつけた。これで最後だ! 「……ッ!」  爆発。怪物と私は、崖に向かって投げ出された。私が投げた薬瓶は「爆薬」だ。落ちていく。上も下もわからない。 「カヤーッ!」  パストリスが叫ぶ声が聞こえた。空に響き渡るその声も、どんどん遠くなる。  そういえば、毒が回っていない。パストリスの解毒薬の効果がまだ残っているのだろうか。そんな、ことを考えても、どうにもならないのに。私はただ目をつぶっていた。  いったいどれだけ落ち続けるのだろうか。  ……いや、落ちていない。

 飛んでいる!

 目を開けると。海と空の間に私はいた。見上げると、翼を広げたパストリスがいた。私を抱えて、必死な表情をして、空を飛んでいるのだ。クジャクは飛べないと言っていたのに。けれど、彼は飛んでいる。真っ黒の翼をいっぱいに広げ、空を飛んでいる。  私たちは風に乗りつつ、崖の下にぽっかりと空いていた小さな岩場に降り立った。パストリスは翼を使うためか、黒い上着と手袋を脱ぎ捨てていた。今は彼の姿がよくわかる。海のように光を照らし返す体からは漆黒の翼が生え、同じく手は黒いかぎづめになっていた。  異質だ。どう見ても、それらはクジャクのものではない。 「いやあ、そうだな。お互い、無事でなによりだ」  パストリスは気まずそうに閉じていた嘴を開いた。明らかにから元気だった。 「おまえは……何者なんだ」 「気味が悪いだろう?」  私の心中を察したように嘲笑して、彼は翼に目線を落とした。 「ぼくは、クジャクじゃない。ワタリガラスだったんだ」  私は言葉を失った。彼が冗談を言っているとは、とても思えなかった。でも、本当にそんなことが起こるとも信じられない。クジャクも、カラスも、その姿を本で見たことはある。七色を使って描かれたクジャク。黒一色で塗りたくられたカラス。お互い似ても似つかない姿だった。  どのように答えていいかわからない私を前に、パストリスはおもむろに嘴を開いた。きみが話してくれたのに、ぼくだけ昔話をしないわけにはいかないね、と。 「ぼくは華やかな鳥たちが住まう町で生まれ、育った。赤色に。黄色に。緑色に。そんな色とりどりの皆のことが羨ましかった。皆と仲良くできなかったぼくの唯一の楽しみは、いろんな花を観察して過ごすことだった」  遠い目で彼は語る。そんな孤独な過去があったなんて、今のおしゃべりな彼からは想像できなかった。 「それからぼくは、その町で植物の研究者になった。研究に没頭してる間は悩みなんて忘れたし、草花を使って新たな薬を生み出すことは楽しかった。けれど、研究の成果が嘘だと難癖付けられて、認めてもらえなかった。それも、カラスであることを理由に言われているような気がした」  まるで、私自身の話を聞いているようだった。彼が私と似ていると言ったのは、本当だったんだ。 「それからは、やけになって希少な花に手を出した。いくつもの花を混ぜ合わせて作っていた薬が、偶然にも『変異』を及ぼす薬になっていた。つまり、姿を変えることができる薬というわけさ。当時のぼくは、気の迷いからためらいなくそれを使ってしまった。そうしてぼくは、誰にも負けない華やかさを持つクジャクになった。ただし、効き目が不完全だったようで、翼や手足はそのままだったけれど」  彼は翼をはためかせながら、手を眺めていた。いつも黒い服をまとっているのは、カラスの部分を隠すためだったんだ。 「見た目が変わって生活は一変した。今までは気にも留められなかったのに、周りの皆から寄ってくるようになったんだ。カラスの時の研究成果も、クジャクとして発表すれば、手のひらを返すように認められた。一時的には満たされたけれど、それは結局、空虚だった。注目を浴びることで、それに合った生き方を選ばざるをえなかったしね」  そうして、皆から憧れるクジャクが誕生した。憧れの存在になれたと語る彼は、どこかさみしそうだった。  クジャクでもカラスでもない存在。彼はそう言った。自分が何者かわからなくなった、と。もう姿を変えられるかわからないけれど、当時実験に使った花のひとつがこの森にある可能性を見出し、ここにやって来たのだと彼は語った。 「さて、付き合ってくれてありがとう。つまらない話の分、報酬は弾んでおくよ」 「そんなのいらない!」  私は全身の毛が逆立つかのように吠えていた。ばっかじゃないの。ほんとうのことを、ほんとうのきもちを、ありのまま伝えてくれたのに、誤魔化さないでほしい。 「おまえは私のことを認めてくれた。それだけで十分だ。私も、おまえのことを――」  そのとき、大きな波が飛沫をあげた。彼と私は潮の雨に降られ、ぱたぱたと水滴がしたたり落ちる。冷たさに思わず体勢を崩した。そのとき、岩の隙間に青く光る何かが見えた。そこに注目すると磯のにおいに混じって、かすかに甘い香りが漂っている。パストリスが説明してくれた花の特徴にそっくりだ。 「ねえ、もしかしてあれって」 「あれは……ナナクサのひとつだ!」  殴って岩盤を破壊し、岩を持ち上げると、中からは可愛らしい星のような青い花が姿を現した。 「こんなところに咲いているなんて。いくら飛んで探しても見つからないはずだ」  パストリスは目を輝かせて、花を丁寧に採ろうとするも、道具を崖の上に置いてきたことを思い出したようだ。単に薬の材料を見つけられたことが嬉しいというだけではない。彼の目は宝物を見つけたときの少年の目だった。それほど花が好きなんだろう。 「カヤ。きみがいてくれなかったら見つけることはできなかった」  素直な気持ちをぶつけてくるパストリスに向かって、私は問う。 「全部の花を見つけたら、どうするつもりなの」  完全にクジャクの姿になるのか。カラスの姿に戻るのか。 「それは、どうだろうな」  風任せ、とでも言うように彼は翼を広げる。水に濡れ、太陽の光を受けて何色にも輝く翼は、青の体よりもずっときれいで、まぶしかった。 「わ、私は! パストリスの翼、好きだから」  パストリスは何も言わずに、海の方を見つめていた。今なら昨日の彼の気持ちが少しわかる。自分では武骨だと思っていたこの手も、ちょっとだけ愛おしく思えてきた。澄み切った青空に向けて手をかざす。横に並んでいたパストリスもつられるようにして、同じ方向に手を向けた。  彼の黒い三本の爪と、私の太い四本の指。合わせて七本の指が太陽に照らされて浮かび上がった。形も色も質感もまるで違う。けれど、私はこの手が好きだ。  パストリスの爪を潜らせるように手を握る。彼は少し驚いたような表情のぞかせて、すぐに涼しげな顔に戻り、飄々として言った。 「変わった握手だね」  そんな風に笑う、パストリスをもっと見ていたい。 「おまえのボディガード、続けさせてくれないか」  彼は静かにうなずくと、翼を広げ私を連れて空へと飛び出した。 「ああ、よろしく」