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「次回も、異世界でチートばっかし大活躍!」  ヒロインが次回予告の決まり文句を言い、お楽しみタイムの動画が終わった。一瞬だけ暗転する大型モニターに、ボーッと眺めてる俺の間抜け面と、乱雑に散らかった部屋が反射して映し出された。頬肉にくいこんでる眼鏡と、その奥の生気のない目、不定期シフトの仕事で荒れた肌。そして100キロ超えの肥満体。自分自身とはいえ見たくないもん見ちまったぜ。いつもなら目を背けて操作するところをすっかり油断してた。異世界転生アニメは楽しいけど、この瞬間に一気に見たくもない現実を突きつけられる。時刻はもう夜の11時を過ぎている。久々の休日も終わり、明日は午前シフトなのでPCを消そうとしたら、ふと画面にポップアップ広告が映し出された。 『異世界に、行きたいか~!!』  という文面の広告には、この手の異世界ファンタジーモノによくあるように、エルフやドワーフやオークやコボルトなどの異種族キャラがちりばめられている。エルフの女の子は大好物だけど、豚顔のオークは正直自分を見ているようで苦手だな……よく見ると小さめの画像の中に『はい いいえ』の選択肢があるでやんの。  異世界のほうが、こんなクソみたいな生活よりもいいに決まってる。行けるもんなら行ってやるね。俺は速攻で『はい』をクリックした。 『本当に行きたいんですか?』とメッセージが切り替わってまた『はい いいえ』の選択肢が表示された。行きたいっつってんだろ! また『はい』をクリック。 『今の生活には戻れませんが、よろしいですか? はい いいえ』  あーしつこい! 俺は半ば意地になって、念押しや条件確認の設問に『はい』を連打し続けた。77回くらい続けていると、『そこまで言うのなら、決意は本物のようですね』と表示されて、PCが尋常じゃない稼働音を発した。  慌てて画面を凝視すると、奮発して買った大型モニターの中心に黒い円形が広がり、深淵を覗き込む穴のようにぽっかりと開いた。周囲にはバチバチと電撃のようなエフェクトが発生してる。ゲームでよくあるワープゾーンのようだった。 (ここをくぐり抜けたら、異世界へと行けるのか?)  そう思って穴の中心に手を伸ばしてみると、柔らかいものに指先が触れた。腕が穴から出てきたものに押し戻される。それはサーモンピンクの逆ハート型をしていて、2つの穴が開いていた。これってどっかで見たような? という思考を巡らせている間もなく、それを先端として巨大なものが穴から這い出てきた!  ドサッ! ズウーン!!  出てきた巨大なものにつぶされた俺は、そのまま意識を失った。そりゃあ、転生したいと願ったけど、こんな形で生涯を終えるのか……

 次に意識を取り戻したとき、俺は異世界にいた……という展開を所望してはいたが、自分の部屋の見慣れた天井が目に入った。上体を起こしてモニターを見ると、ブラックホールエフェクトはもう発生してなかった。一連の流れは夢だったのか……とも思ったが、モニターの前のデスクにあった物は衝撃で散らばってたし、キーボードにもひびが入っている。夢か現実か戸惑ってると、ふと背後から何者かに肩に手を置かれた。 「ようやく目が覚めたみたいだね。いやあ、このボテ腹でつぶしちゃって悪い悪い。よけられないってのもそうとうな鈍さだけどね」  誰も招いたことのない俺の部屋に侵入者か? 恐る恐る振り返ってみたら、想像を絶する光景が目に入ってきた。 「ぶ、ぶたーっ!! 豚がしゃべってる~!」 「そんなに驚かんでも……日本語が通じる異世界モノには慣れてて、理解も耐性もあると思ったんだがなあ」  侵入者をまじまじと観察してみた。厚ぼったい瞼の下の大きめの三白眼、顔の中心でドーンと主張するサーモンピンクのブタ鼻、下あごから上向きに突き出してる黄ばんだ二本の牙、と豚そのものの特徴を残した顔をしている。体格は肉がよくのってるがっしりした体つきで、どの生物かわからないレザーのアーマーで胸元と腰回りを覆っていた。まるでファンタジー世界に出てくるオークそのものの風貌だった。 「こ、このブタ! 俺の部屋に何しに来たんだよ!」 「質問したってことは、話を聞く意思はあるようだね。ではまず自己紹介から」  そう言ってオークは腰の革袋からカードを取り出した。 「ワシは日本転生協会の異世界教育係、ブヒッテルと申します。短い間ですがよろしくお願いします。……と、こっちの世界ではこんな挨拶でいいんだっけか」  差し出されたカードは羊皮紙のような材質をしていて、名刺のようにこう書かれてあった。 『NTK(日本転生協会) 異世界教育係 ブヒッテル』 「……こんなの渡されても信用できるか! だいたい日本転生協会ってやたら限定的な名称なんなんだよ!?」 「そこツッコまれてもねえ。そうそう、キミは『異世界転生したい』ってクリックしまくったんだよね?」 「そうだけど……あんなの半分、ネタだと思ってたし」 「やれやれ、この世界の現代人の感覚ってそんなもんなのか。先が思いやられるなあ。そんな感じで、転生しても状況を受け入れられずホームシックになったり、身の程をわきまえずにネタ的行動に走ってすぐ死んじゃう人が多いんだよね。それで、転生希望者がこっちで死ぬまでに、異世界の基本的なルールを叩き込むのがワシの役目なの」 「そうなのか……目的はわかったけど、いきなりこっちに来られても……」 「そもそもキミ、異世界転生したいと願ってたじゃん。行きたいってことは、迎え入れる覚悟があるってことだよね? それに、わかりやすく例えるとだね……」  ブヒッテルと名乗った豚が、ブフーッと鼻息を荒げた。 「留学生と仲良くなれない人が、海外留学でうまくやっていけると思う?」  まあ、それもそうか。でも素直には受け入れがたいなあ。……ちょっと待てよ。 「さっき俺が死ぬまでにルール教えるって言ってたね。そんなに長い共同生活はできないってば」 「呑み込みが悪いなあ。死神はキミが老衰で死ぬまで待ってられないよ。転生モノのお約束通り、事故で突発的に死ぬんだよ!」 「な……それマジかよ! じゃあいつ死ぬんだよ!」 「お約束通り、100日後に死にまーす! ……と言いたいところだけど、諸事情で7日後になるよ」 「えーっ! あと7日間の命! 急すぎ! ワニじゃなくてセミか!」 「こっちの世界の言い伝えによると『神は世界を6日で創って7日目に休まれた』そうじゃない。大丈夫、7日でなんとかなるほどのカリキュラムは組んであるから」  藪から棒だったけど、まあ、どうせ生きてたってろくなことないんだ。ズルズル生きるよりスパッと転生したほうが楽かも。けどなあ…… 「なんでエルフとかじゃなくてオークなの? 普通モニターから出てくるのは美少女でしょ?」 「その発言はテレビのオバケに失礼じゃね? まあね、最近転生希望者も多いから、他の異世界住人も駆り出されて忙しいし。それにさあ、適材適所って言葉あるじゃん。似た者同士仲良くやろうぜ! えっと、キミの名は……」 「キヨノブだけど……」 「いい名だな、よろしくなキヨノブ! もう夜だから、詳しい説明は明日からにさせてもらうよ。ここで適当に寝るから、おかまいなく」 「まあいいけどさ、寝る前にシャワーでも浴びたら? 言いづらいけど、お前ちょっと臭いよ……」 「これでも7日前には温泉で古傷の湯治をしたばっかりなんだがなあ。まあ気にすんな。豚だから汗はかかないほうなんだぜ。それにそんな神経質じゃ異世界じゃやっていけないぞ。シャワーとかない世界だし」  やんわりと伝えたがこの様子じゃ無理だな……俺が我慢するしかないか。  そんなわけで、強引な形で俺とオークの共同生活が始まった。ガチャで誰得なハズレを引き当てた気分だ。

 俺が死ぬまで、あと7日。

    2

   午前シフト用にセットした目覚まし時計に叩き起こされた俺の耳に、ブゴブゴという鼻息交じりの野太い声が響いてきた。 「おはよう。居候させてもらうのも悪いから、ありあわせのもので朝ごはん作っといたよ」  オークのブヒッテルが朝飯を準備して満面の笑みで待ち構えていた。やっぱり昨晩のことは夢じゃなかったのか。このシチュエーション、エプロン付けた美少女だったらよかったのにな……  朝飯を食べ終わって職場に行く支度をしていると、ブヒッテルが玄関に立ちはだかった。 「おいおい、この期に及んで、まだ働くつもりなの? 6日後には死ぬんだよ? 失礼ながら、それほど責任ある仕事やプロジェクトを担当してるようには見えないけど。働きながら転生準備をしてる暇なんてないよ? 辞める連絡を会社にしちゃいなよ」  ブヒッテルが俺のスマホを指差して促した。言われてみればそうだな……律儀に死ぬまで働き続けるほど社畜なわけじゃない。でも、ただでさえ休みがとりづらいブラックな職場なのに、いきなり辞めたら何を言われるか……  かなり迷ったが、意を決して上司に連絡を入れた。 「朝のお忙しいところすみません。勝手ですが今日から向こう一週間、お休みをいただきたいのですが……いや、もうこの仕事、辞めさせていただきます!」 「いきなりなに寝ぼけたこと言ってんだ! もうお前をシフトに入れて組んじまったんだぞ! 無責任にもほどがあるぞ! それで社会人としてやっていけるとでも思ってるのか! うちの職場でダメな奴は、どこに行ってもダメだぞ! だいたいお前はなー、人よりも鈍いしトロいしどんくさいし……」  クソ上司の怒声が激しくなり、聞きたくもない説教が続いたのでスマホから顔を離したら、ブヒッテルが「切っちまえよ」と言いたげに目配せしてきた。 「とにかく、俺はもう仕事辞めます! 二度と連絡してこないでください!」  それだけ言い放って強制的にスマホの通話を切った。大それたことをしてしまった興奮と、説教に対する憤りでしばらく震えが止まらなかった。 「いやあ、言いたいことをしっかり主張できたようでなによりだよ。今時あんなふうにずけずけ言ってくる上司も珍しいもんだねえ。どうしたん? 言われたことそんなに気にしてんの?」 「どこに行ってもダメだとか、さすがにこたえるし、あんな職場でもうまくやれなかった自分が嫌になってくるし……」 「気にするなよ。どうせその上司、キミが異世界に行くことまでは想定してないんだから。……そんなに言われてムカついてるんならどうする? そのクソ上司の家に押しかけてわからせに行く?」 「いや、そこまでするのはちょっと……」 「よかった、ある程度わきまえてて。転生希望者の中には、どうせ最後だからとやけになって、犯罪とかやり放題で死んでく奴いるんだよ。そんな奴は悪行ポイントが溜まって、ろくな生物に転生できないんだけどね。まあとにかく」  ブヒッテルがドヤ顔で俺を見つめてきた。 「ムカつく奴にかまってる暇はないよ。残りの人生は短いんだ」  そう考えると、常日頃からクソ上司のことで悩んでたのが馬鹿らしくなってきた。 「さて、仕事辞めたことで時間は充分にできたわけだね。といってもあと6日だから、のんびりしてはいられないよ。まずは転生する覚悟を決めなくちゃね。今日一日は断捨離と身辺整理だ。立つ鳥後を濁さずだから、6日分の生活必需品を除いてこの部屋の物を処分してね」 「ちょ、待って、このフィギュアコレクションとかもか!?」 「もちろんそうだよ。どうせ異世界には持っていけないんだから、ショップに売り払って換金して使い切ったほうが得でしょ?」 「それもそうだけど、そんな急に自慢のコレクションを手放せるか! どれだけ苦労して集めたと思ってるんだ! 理解のない豚野郎!」 「苦労して集めたことが自慢なの? キミごときの収入の大半を費やしてたとしても、もっと高収入のマニアと比べたら雑魚レベルだよ。キミ個人の思い入れなんて、他人には全く関係のないことだし。  それに、百歩譲ってこれが世界一のコレクションだったとして、キミが死んだら遺族の手に渡って、相続した遺族が世界一優秀なコレクターになっちゃうけど、それでもいいの?」  たしかに、俺のクソ親に美少女フィギュアが渡ってしまうのは避けたい。死後軽蔑されてゴミのように処分されるくらいなら、今売ったほうがマシか。 「納得してくれたようだね。とにかく、6日後にはここほど娯楽のない異世界に行くんだから、娯楽への執着は残しちゃダメだよ。今日一日使って、アパートの退去手続きやサブスクの解約などもしとかなくちゃね。」  そんなこんなで、今日一日は断捨離やアパートの解約などで終わってしまった。もう引くに引けないとこまで来てしまった。

 俺が死ぬまで、あと6日。

    3

 次の日の朝、殺風景になった部屋でブヒッテルが切り出してきた。 「引くに引けなくなる覚悟ができたところで……キヨノブは異世界でどんな生活を望んでるの?」 「もちろん、高パラメーターのチートキャラになって大活躍したい!」 「やっぱりそうは思うよね……では話を変えて質問だ。『強くてニューゲーム』とか『周回プレイ』のシステムがあるゲームを2週前提でやるとき、1週目をどうプレイする?」 「まあ、2週目が序盤から楽になるように、1週目でレベル上げやスキル習得で高ステータスにしといて、金も稼げるだけ稼いどいてから引き継ぐけど」 「それを逆に考えてよ。この世でろくに鍛錬や稼ぎを行ってなかったら、転生した世界で高ステータスのチートキャラになれるわけないじゃん。見たところキヨノブは勉強や運動での鍛錬や、仕事での荒稼ぎもしてなかったようだけど」 「え、それじゃあ、結局この世で勉強も運動も得意な高ステータスの奴は転生しても高ステータスで、俺みたいな底辺は転生しても雑魚ってことか? ……ほかにステータス稼げる方法ってないわけ?」 「あとは、善行ポイントを稼いで高ステータスになるってのもあるけどね」 「そんなのもあるのか。どんな稼ぎ方?」 「困っている人を助けるとか、人に生きる希望を与えるとかあるけど……残りの時間でそんな都合よく機会が訪れる可能性も低いから、現実的ではないね。こういうのは日ごろの行いが大切ってこと。あとの善行ポイントの稼ぎ方といえば、慈善団体に稼いだ大金を寄付するとか、高額納税者になって社会に貢献するとかあるけど……」 「ちょ、それも元手持ってるエリートとかじゃないとできねえじゃん! 結局、恵まれた奴ばっかり異世界でもいい思いすんのか……クソみたいなこの世界みたいだな……」 「まあまあ、劇的にチートキャラってのは無理だけどさ、やっと世界の法則に気づけただけでもよかったじゃん。転生後に少しでもいいパラメーターのキャラになるように、残りの時間で鍛錬あるのみだ! 知識や運動神経は、転生後も持ち越せるぞ!」  目の前に分厚い本がドサドサと積み重ねられた。これほどの分量、学生時代の授業でも使ったことないぞ! 「これでも異世界の地学や生物学や魔法学とか、基本的なことがまとまってるんだぜ。重要なことは抜粋してここで講義するから、真剣に聞くように。講義以外の時間でも独学で付加スキルを習得できるんだから、ダラダラしてる暇はないぞ!」  ブヒッテルが暑苦しく鼻息を噴出させた。自分で望んだこととはいえ、クソ親や学校の先生に言われたことをそのまま押し付けられているようで、気が遠くなってきた。 「そんなこと言ったって、こんなに勉強したことないし、苦手なもんは苦手だし……」 「そうやって苦手なことから逃げ続けてきた結果が、転生したいと願ってる今の状態でしょ? とにかく、死ぬ気でやりなよ。どうせ死ぬんだから」  こうして、午前中は聞いたこともない世界の講義が延々と続き、寝ずに聞くだけでもかなり苦しんだ。  昼食後には転生後の戦闘能力を上げるため、ブヒッテルとの実戦形式の組み手が行われた。運動不足の俺にとって、これもかなりキツい。受け身を習得して防御力を上げるために、何回も布団を敷いた床に叩きつけられ、関節技を仕掛けられた。攻撃練習としてブヒッテル相手にパンチを連打したが、こっちの腕が痛くなっただけだった。 「どうした? そんな打ち込みじゃ、雑魚モンスターに1ダメージも通らないぞ!」 「はあ、はあ、ブヒッテル、ちょっと休ませて。息が上がって死にそうだ……」 「はあ? いつ死ぬの? 5日後でしょ!」  そんなこんなでやっと1日分のカリキュラムが終わった。こんな苦行がしばらく続くのか……

 俺が死ぬまで、あと5日。

    4

 次の日もやっとの思いでカリキュラムをこなし終わったら、ブヒッテルが作戦会議っぽい時間を設けてきた。 「死ぬと決めたんだから、この世に未練を残さないために、やることリストでも作っておこうよ。死ぬまでにやっておきたいことって何かある?」 「うーん、ガチャでレジェンドレア引いてみたいな! 今まで金なくてろくに回せなかったし」 「それが心残りか……まあ引いた時の達成感が何事にも代えがたいのは認めるから否定はしないけどさ、それって残りの全財産使っても確定で引ける保証はないよ。第一、引けたところで異世界にはスマホを持っていけないんだから、レジェンドレアキャラで遊べるのも一瞬だし、かえって娯楽への執着や未練が残っちゃうけど?」  たしかにそう言われるとそれほどこだわりたいもんでもない。他のにするか。  やりたいことを列挙したけど、残りの時間や予算の問題もあり、達成できなかった時にこの世への未練となる可能性もあるため、協議の上で絞られていった。 「だいぶ煮詰まってきたなあ。キヨノブ、ほかに叶えたい願望とかないの?」 「……じゃあ、笑わないって約束するか?」 「おう、そういうことなら喜んで約束するよ! なんでも言ってみな!」  ブヒッテルが珍しく食いつくそぶりを見せたので、照れつつ語ってみせた。 「『本音で話せる友達がほしい』かな。今まで学校や職場でもいじられてばっかで、友達と呼べる人がいなかったんだよね……」 「……なーんだ。そんなことか。……それ却下。キミのほうに問題がありすぎるよ」  笑われなかったのはよかったが、必要以上に落胆されて人格否定までされたことに苛立ちを感じた。でも食い下がって言い返す気力も湧いてこなかった。 「結局、残ったのは『回らない寿司食べる』だけか。リストと呼ぶほど項目がなくなっちゃったけど、達成に向けてがんばってみなよ!」  ブヒッテルがA4の紙に大きめの字で書いて、よく見えるところに掲示した。 『やることリスト 回らない寿司食べる』  大きめの字だけど、これっぽっちの内容だからスカスカだ。まるで自分の人生のように感じられてむなしくなってきた。  その日の夜、俺が寝る前にトイレに行っていると、扉越しにブヒッテルの野太いつぶやきが聞こえてきた。 「一番肝心なこと、言ってくれなかったなあ。話の進め方、悪かったかなあ。それともワシ、信頼されてないのかなあ……」  どういうことだろ? 俺にはわからなかった。

 俺が死ぬまで、あと4日。

    5

 それから次の日も、俺はカリキュラムの消化に明け暮れていた。 「カリキュラムをなかなか高ペースでこなしてるじゃん。今日の夕食は外で食べてきなよ。やることリストをクリアするいい機会だし」  いつものブヒッテルの講義と戦闘訓練を受けた後、スマホで調査してた高級寿司店まで足を運んだ。念願の回らない寿司を懐具合を気にせずに食べまくったけど、いざ願いが叶ってしまうと空虚なものだった。そりゃ、旨いことは旨いけどさ、死ぬ前にやるべきことがこれだったのかは疑問が残る。 「またお越しください」という店員の決まりきった挨拶もむなしく感じられた。これが最初で最後なんだけどさ……  コレクションを断捨離したんで、回らない寿司を食べ終わってもまだ財布には余裕があった。今までは金がなくてできなかったけど、これなら思い切ったことに使えるか……俺は街中で熟考し、ついに覚悟を決めた。

 アパートに戻ってやることリストに線を引いていると、俺が大事そうに抱えている紙袋を目ざとく見つけたブヒッテルが尋ねてきた。 「念願の回らない寿司は喰えたようだね。で、何買ってきたん?」 「あ、……これはエルフのフルェール嬢のエロフィギュア。脱衣とかも可能になっててさ、細部の作りこみ凄いんだぜー!」 「……それで脳汁出るとか、いろんな汁出るとか、満足いくんなら否定はしないよ。でもそれ堪能できるの、あと3日もないのにいまさら物増やしてどうすんの?」 「えっ、まあ、前々から欲しかったし、手に入れないで死ぬのは心残りっていうか……」  言い訳を必死で探していた俺を、ブヒッテルがまじまじと見つめてきた。 「おおかた、女の子のいる店に行こうとしたけど葛藤して、結局エロフィギュアで済ませようとしたんでしょ?」 「うっ……」  図星だったんで言葉に詰まってしまった。 「こちとら、品性下劣な豚野郎なんでね。人のゲスな感情は嗅ぎつけられるよ。有名漫画のように、『童貞のまま死にたくない!』ってのが正直な願望だろ? なんでやることリスト決めるときに本音を言ってくれなかったの!?」 「……だって、33にもなってガチ童貞って恥ずいし、それまで何もできなかった自分が情けなくなってくるし……」 「性欲を考慮しない人生設計なんて、すぐに破綻するよ。死ぬ間際になっても、自分をごまかし続けてどうすんの? とにかく、自分の欲望には正直に向き合わないと!」  ブヒッテルは余白だらけのA4のやることリストに、マジックで大きく 『脱 童』  と書き加えた。 「今さらそんな壮大な目標掲げても……それに、誰も俺なんか本気で相手にしてくれないし……」  そう言ってる自分が情けなくて、大きなマジックの字もにじんで見えた。 「もう、キヨノブは『俺なんか』って言うの禁止! 吐いた言葉は呪縛となって、自分自身を縛りつけるよ。ジュバクよ~。……まあ、次の世界でも充分チャンスはあるんだから、そんなにくよくよすんなよ。それにさ、どうしてもって言うんならワシが相手してやるぜぇ~! これでも、前々々世はメスオークに転生してたし、それに……  豚には穴が二つ余計にあるんだぜ~!」  下卑た薄笑いを浮かべながら、ブヒッテルが鼻の穴を艶めかしく開閉してみせた。 「だ、だれがお前なんか相手にするかーっ!」  泣きながらクソ豚をポカポカ殴り、いつのまにか眠っていた。

 俺が死ぬまで、あと3日。

    6

 次の日、目を覚ました俺はすぐにテキストを開き、もくもくと勉強を始めた。ブヒッテルはそんな俺のふっきれた感を察して、淡々と講義と戦闘訓練を進めていった。予定を終えたところで、確認のテストが出題された。物覚えの悪いことは自覚してたけど、そこそこの得点を取ることができた。 「チートキャラには程遠いけど、冒険者としてやってく程度の基礎的な準備はできたみたいだね。ちょっと厳しめのカリキュラムだったけど、最後まで逃げ出さなかっただけでもたいしたもんだ。お疲れ様、キヨノブ」  一通りのカリキュラムを終えたブヒッテルは早々と寝床につき、ブゴーブゴーと高いびきをかきはじめた。それを尻目に、俺はスマホで検索しまくり、必要なものを深夜まで営業してるディスカウントショップで購入してきた。これで準備万端だ。明日になったら驚けよ豚野郎!

 俺が死ぬまで、あと2日。

    7

「おはようキヨノブ。スケジュールを提示するときに話したけど、今日は死ぬ日の1日前だから、あえて何も予定は入れてないよ。最後の休日だから、自由に行動していいよ。さあ、何がしたい?」 「おい、ブヒッテル。そのレザーアーマー脱げよ」 「なんだいいきなり。ははあ、さては、切羽詰まってその気になったん?」 「そんなんじゃねえっての、この臭ブタ! あまりにもきったねえから洗ってやるっつってんだよ!」 「この汚れも貫禄あって好きなんだがなあ。まあ、好きにしていいって言ったんだから仕方ないなあ」  ブヒッテルはしぶしぶ装飾品を脱ぎだし、全裸になった。 「うわっ、ブヒッテル! おまえ、たま、でかっ! スーパーたまでかっ!」 「そりゃあ豚族だからなあ、こんなもんでしょ。だから『豚玉』って言葉があるんだぜ~」 「今ので一生、豚玉食えなくなった……」 「その一生もあと1日で終わるけどね」  ブヒッテルをバスルームに連れていき、ボディーソープを大量にかけ、柄付きたわしで強引にゴシゴシとこすった。垢やら豚の角質やら異世界の土汚れなどがどんどん剥がれていった。 「綺麗になったから、体拭いてアーマー着けていいよ。その上にこのローブを羽織って、大型マスクで顔隠して。外に出かけるぞ!」 「でも、ワシがこの世界に出たら、大騒ぎになるから……」 「移動の電車の中なら、『ローブを着たちょっと変わった異文化の人』でギリ通るって。それに目的地はここだから、ありのままを晒しても平気さ!」  俺はスマホで「遊園地コスプレイベント」のページをブヒッテルに見せて、無理くり納得させてやった。

 会場の遊園地に着き、コスプレ参加者用の男性更衣室に入ったら、鏡と向き合ってメイクに集中してるコスプレイヤーが数名いるだけだった。男性レイヤーの割合なんて、こんなものか。俺は注目されないのを幸いに、ブヒッテルのローブとマスクを脱がせてやった。これで人前に出す準備は万端だ! 俺もデジカメを構え、専属カメラマンに見えるようにブヒッテルを先導していった。  更衣室から出て一般エリアに入った途端、レイヤーや一般客の注目を一斉に浴びた。 「すっげーリアル! どう見てもオークじゃん!」 「どうやってこの着ぐるみ作ったのかな?」 「すいません、うちの息子と一緒に、写真撮ってもいいですか?」 「私の異世界戦士キャラと、あわせで撮影してください!」  ブヒッテルは照れ笑いを浮かべている。この世界の人前に出てたちまち人気者になり、まんざらでもなさそうだ。俺もカメコに扮してシャッターを切ってあげてるうちに、自分が必要とされてることを実感していた。 「あの二人、お似合いのコンビじゃね?」 「あのぶたさんのおともだちもぶたそっくりー!」  ときおりこんな言葉も聞こえてきたけど、言われ慣れていたし、前ほど傷つかなくなっていた。それよりも、得意げにポーズをとり続けるブヒッテルの生き生きとした顔を見るのが嬉しくなっていた。  時間がたって人波も途絶えたところで、遊園地の軽食コーナーでブヒッテルに食事を振舞った。 「いつもはキヨノブの家のカップ麺とか冷凍食品ばっかだったけど、いろいろ喰えるっていいもんだ。特にこのギョウジャニンニクドッグっての、美味いなあ。」 「じゃああと7個追加で買ってくるから、じゃんじゃん食べてくれよ。財布に残ってる残金、使い切らなきゃ損だし」  食べ終わって満腹になったブヒッテルに、勇気を振り絞ってせがんだ。 「あの……一緒に観覧車に乗りたいんだけど、いいかな?」 「最後の休日の頼みだ。そんなことならお安い御用だよ」  観覧車に乗り込んで半周ほどすると、遊園地特有の色彩で彩られた絶景が目に入った。造られた世界である遊園地の向こう側の居住空間も見えてくる。 「しっかり見といたほうがいいよ。これが見納めになるんだから。こうして見ると、人間がちっぽけに見えてくるなあ。ところでキヨノブ、最後の休日の使い方、本当にこんなのでよかったん?」 「うん、最後の休日で何をしたいか必死に考えて、誰かのためになることをしようって思ったんだ。そうしたら、今まで世話になったブヒッテルのことが気にかかって……ほら、俺の部屋に閉じ込めてばっかで、この世界のことも見れてなかっただろ? それに、今まで友達も恋人もできなかったから、大人になってから遊園地にマトモに行ったことなかったんだ。一人遊園地って痛々しくていたたまれなくなるだろうから……ブヒッテルがうちに来てくれてよかったよ」 「最後の休日をこんな風にワシのために使ってくれたケースは初めてだから、ワシもキヨノブ担当で嬉しくなってくるなあ。この世界のうまいもんも腹いっぱい喰えたし」  上機嫌でポンポンとボテ腹を叩いていたブヒッテルの鼻の穴が、いきなり大きく広がった。  ブッフーウッ、ブウェップ!  豪快なゲップ音と鼻息と共に、観覧車の中一面にニンニク臭がたちこめる。猛烈な臭さだ! 「あ、こりゃ失礼。ギョウジャニンニクドッグ食べ過ぎたし……つい……」 「うおえ~、前言撤回! 豚じゃないほうがよかった! 殺す気か!」 「まあ、もうすぐ死ぬんだけどね……」  ほぼ密閉された観覧車の中で、俺は地上までの半周、もだえ苦しむことになった。

 観覧車を降りて染みついた臭いを必死に振り払っていたら、犬顔のコボルトを連れたエルフのコスプレイヤーに声をかけられた。 「すいませーん、異世界モノあわせの写真撮りたいんですけど、ご一緒していいですか? このシャッターを押してください!」  また撮影依頼か。だんだん慣れてきたし、エルフの女の子の頼みなら断れないなあ。 「じゃあ3人ともポーズとってー! はいポーズ!」  ブヒッテルも険しめで強そうないい表情をしてる。何枚か撮り終わったら、エルフの子が俺に急接近してきた。 「ありがとうございます。いい思い出になりました。ちょっとお話いいですか?」 「あのオークのコスプレイヤーは、ちょっと事情あって交流苦手なんですよ」  真実をバラせないので適当に取り繕ったが、返ってきた答えは予想外のものだった。 「オークさんじゃなくて、カメラマンさんとお話したいんです。異世界転生アニメとかお好きなんですか?」  えーっ! こんな展開って……とっさの流れに驚いて周囲を見回すと、さっきまでいたコボルトがそそくさと場を離れていくのが見えた。 「ああーっ! ワシ、急用ができてしまった! 一人で帰れるから、話を続けてていいよ」  ブヒッテルもわざとらしい大声を出して、この場を後にした。急用なんてできるはずもないのに、気を遣ってくれたのか? いいやつだなあ。 「え、まあ、異世界モノは大好きですけど……それエルフのフルェール嬢のコスプレですよね? クオリティ高いですね。7話の決意のセリフとか特に気に入ってますよ」  舞い上がった俺はオタク特有の早口で思い入れをまくしたててしまった。 「よかったー! 話が通じる方に出会えて。ここで立ち話もなんなので、軽食エリアで落ち着いてお話しませんか?」  彼女に誘われるままに、カフェをたしなみながら異世界モノの熱いオタク談義を交わした。自分の好きなことが、こんなにもアドバンテージになるのか! 彼女は『カナエ』と名乗り、異世界アニメへの憧れを同じくらいの熱量で語ってくれた。  その後のことはすっかり舞い上がってて夢うつつだったけど、1日が1年間に感じるほど濃密だった。  彼女に誘われるままに観覧車に乗って、誘われるままにメリーゴーランドにも乗って、誘われるままに閉園後に夕食もご一緒して、誘われるままに……  そして、ゲームのトロフィー獲得画面のように、次の一文が俺の脳裏に表示された!

『実績を解除しました! 初体験』

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 次の日の朝、カナエさんと連絡先を交換してひとまず別れた。上機嫌でアパートに戻ったらすでにブヒッテルが待ち構えていて、下衆な笑いを浮かべた。 「ブッヘッヘ……夕べはお楽しみでしたね」 「ブヒッテル、なんで知ってんだよ!?」 「カマかけてみたら、やっぱりそうか。まあよかったんじゃない? おめでとう、とは言わないけどね」  俺はやることリストの『脱童』の文字に、得意げにマーカーで線を引いた。 「ブムム……これでコンプリートか。でもこれでこの世界に未練はなくなったでしょ? 浮かれている時間はないよ。今日は念願の転生日なんだ。さっさと死に場所に行くよ」 「あの、そのことなんだけど……死ぬのやめられないかな?」 「なに? 今更怖気ついたの?」 「そんなんじゃなくて、この1週間ブヒッテルと暮らしてさ、いろいろ叩き込まれて……そりゃあ最初はうざったいと思ったよ。でも、こんなにも俺に向き合ってくれる人って初めてだったし、こんなに頑張ったことも人生初だった。そんな感じであがいた結果、前々からの願いもかなったし、この世界も捨てたもんじゃないと思ったんだ。だから、色々あるだろうけど、どんなつらいことがあっても乗り越えてみせるよ!」 「……どんなつらいことがあっても乗り越えてみせる、そう言ったね? その言葉に偽りはないね? よし、その言葉を待っていた!」  ブヒッテルはいきなり俺の肩をつかんで、壁に押し付けた。 「大丈夫、痛くはしないから、おとなしくしてて」  豚鼻が目の前に急接近してくる。視界がサーモンピンク一色になった。まってくれよ、どんなつらいことにも耐えるって言ったけど、こんなことは正直かんべんして……  ブフウゥ~~!  目前に迫った鼻の穴から、吐息が吹き出された。思ったより臭くない、いい香りだな……そう感じた俺の意識はだんだんと薄れていった。 「甘い息、習得しといてよかったよ」  ブヒッテルのつぶやきを耳にした俺は、担ぎ上げられて外に運び出されたことを感じ、眠りについた。

「キヨノブ、目を覚ましなよ。目的の場所に着いたよ」  ブヒッテルに揺すぶられて目を開けたら、あたり一面に岩だらけの、特撮でよく見かけるような光景が広がっていた。ここは、採石場? 遠くには無人の大型トラックが1台停められていた。 「異世界転生モノの定番どおり、あのトラックに轢かれるんだ。どこかの魔法少女みたいでハクがつくでしょ? でも街中じゃNTKの後処理が難しくてね。こういう人気のない場所がベストなんだ」  大型トラックが無人のままひとりでに動き出し、猛スピードでこっちに接近してきた。ゲゲーッ! このまま轢かれて死ぬのか? 「安心しなよ、まだキミの順番じゃないから。先に死んどきゃよかったと思うほど、つらい思いはするけどね」  無人の暴走トラックは俺の目の前を通り過ぎて行った。向かった先を見ると、美女が目を閉じて祈るように両手を組んで立ち尽くしていた。その顔にははっきり見覚えがあった。 「カ、カナエさん!?」  ズシャー! ドンッ!  トラックが猛スピードで突っ込み、カナエさんの身体を上空に吹っ飛ばした。弧を描いた身体は頭から地面に直撃し、首がありえない方向に曲がったことも見てとれた。  目の前の衝撃的な状況を受け入れられないでいた俺に、ブヒッテルは淡々と語りかけた。 「さすが死神が作った自動操縦システム、正確な狙いだ。彼女は確実に苦しまないで死ねただろうね」  犬顔の獣人がカナエさんの遺体を担ぎ上げて運んで行った。あれは、昨日のコスプレイベントでカナエさんと一緒だったコボルトか? 「これで鈍いキミにもわかっただろう。彼女も転生希望者だったのさ。コスプレイベントにNTKの同僚のコボルトがいたんで、あのあと事情を聞いたんだよ。彼女がキミと付き合ったのもラストのポイント稼ぎ。キミは見るからに童貞だから、善行ポイントも高くなると思ったんだろうね」 「ブヒッテル、おまえ、知ってて見殺しにしたのかよ! よくもカナエさんを! 人の命をなんだと思ってるんだ!」 「こっちを責められてもお門違いだよ。第一、死ぬことを望んだのは彼女自身だし。それに、命を軽く考えてたのは、キミもおんなじでしょ? 大丈夫、彼女のことなら心配ないよ。キミへの善行ポイントを稼げたから、きっと高ステータスで転生できるよ」 「そんなポイントだとか、ステータスなんかどうだっていいんだよ!」 「ずいぶんな言い草だなあ。パラメーターにものを言わせてチートプレイとか、ガチャで高ランクのレジェンドレア引けたら嬉しいとか、さんざん数値にこだわってたのはキミだろ? このクソみたいな競争社会からつまはじきにされたキミが、数字比べにそこまでこだわるのも謎だけどね」 「とにかく、異世界でどうなろうが、この世界で生きなきゃ意味ないんだよ!」  「……言い合いを続けてる暇はないよ。彼女の処理は終わったから、キミの順番が来たようだね。ここにいちゃ巻き添えを食うから、離れとくよ」  ブヒッテルが足早に立ち去ると、カナエさんを撥ねたトラックが方向転換をして、俺のほうに猛スピードで突っ込んできた!  間一髪、俺は地面を転がりまわってなんとか避けることができた。ブヒッテルとの受け身の戦闘訓練が、こんな形で役に立つとは思わなかった。  しかし、トラックはまたも方向転換をして、こっちに向かって突っ込んでくる!  同じ要領で何度かかわしたが、繰り返すにつれ息が上がり体力も限界に近づいてきた。 「おーい、さっさと覚悟を決めて、轢かれたほうがほうが楽になるよー。どうせ財産も全部処分しちゃったし、彼女もこの世にはいないんだ。このクソみたいな世界に、執着する必要は何一つなくなったでしょ?」  いつの間にか採石場の小高い丘の上まで退避していたブヒッテルが、必死に逃げ回る俺を見下ろしながら説得してきた。 「俺は今までつらいことから逃げっぱなしだったけど、もう途中で逃げ出さない! 逃げ切るって決めたんだから、全力で逃げまくってやる! 死ぬまで死ぬ気で生きてやるぞ!」  俺は生まれて初めて必死で走ったが、転がりまわっているうちに岩の破片で足を傷つけ、激痛によりスピードが出なくなっていた。もうだめだ、トラックに追いつかれる! 「言ってることは無茶苦茶だけど、そこまで生きたいと願うんなら……」  悟ったように呟いたブヒッテルが丘から飛び降り、暴走トラックの真正面に立ちはだかった!  ブゴオッ! ブヒヒィ~! ブビブブリィッ!  荒々しい鼻息と咆哮とともに、ブヒッテルがガニ股で大地に踏ん張り、暴走トラックを抱え上げた! そのまま体勢をねじり、渾身の力を込めて地面に叩きつけた!  グガシャッ! ズズーン!  轟音をあげて砂埃が巻き起こり、天地逆になったトラックがタイヤを空回りさせていた。 「ありがとう、ブヒッテル! カッコよかったぜ!」  駆け寄ろうとした俺の鼻に、今まで嗅いだことのないような悪臭が漂ってきた。臭いの源のブヒッテルを見ると、レザーアーマーの尻のあたりがこんもりとはちきれんばかりに盛り上がってる。 「あ、いやこれは……つい力みすぎちゃって……ギョウジャニンニクドッグ食べ過ぎたし……ほら、重量挙げとかでもよくあることだし……」 「前言撤回! むちゃくちゃカッコ悪い! きったねえからこっちくんな!」  思わず後ずさりしたら、ブヒッテルは豚鼻をヒクヒクさせて、何かを察したかのように必死の形相で訴えてきた。 「キヨノブ、こっちくんな! 来ちゃいかん!」  そりゃ、言われなくても近づかんわ! と言い返そうとしたが、その声は轟音にかき消された。  ズドドゴーン!  倒れたトラックがいきなり炎上し、爆発音をあげた! 燃えたぎる爆炎が一塊になり、異世界モノの上級火炎魔法のように、一直線に俺のほうに飛んできた!  ゴオオオオー! ズブズブッ!  一瞬のうちに、ブヒッテルが身を挺して俺の前で仁王立ちになり、業火に包まれた! 豚肉の焼ける匂いがあたり一面に漂い、業火の消失とともに、消し炭のようになったブヒッテルが崩れ落ちた。 「ブヒッテル! しっかりしろよ、ブヒッテルー!!」 「オークがただの焼き豚になっちまったな……死神は必ず、命を奪い取る。それをすっかり忘れてたよ……」 「なんでだよ! なんで俺なんか庇ったりしたんだよ!」 「これは、カッコつけて来世への点数稼ぎをしたかっただけだからな……変な勘違いするなよな……ブフウゥ……」 「こんなときにツンデレってんじゃねえよ! 頼むから生き続けてくれよ、俺との言い合いは終わってないんだよ!」  しかし、サーモンピンクの豚鼻は次第に青ざめていき、あれほどうるさい鼻息を吹き返すことはなくなった。  俺は、黒焦げのブヒッテルの亡骸を抱きながら、涙が枯れるまで泣き続けた。

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 それからのことはよく覚えてないけど、俺は採石場から必死で街中へ逃げ延び、財布に残ってた金でなんとか田舎の実家まで帰省した。  クソ親と見下していた親元に戻り、しばらくは死神やNTKの追撃に怯えながら生き延びていたが、一向にその気配はなかった。どうやら死神にも見放されてしまったのだろう。親も退職やアパートの解約の状況から、俺を自殺志願者と察したのか、今までとはうって変わって丁重にもてなしてくれた。でも…… (これも来世への善行ポイント稼ぎをしているのだろうか?)  というように、人の無償の愛を素直には喜べなくなっていたのだった。 「できれば豚の顔を見て過ごしたい」という希望もあって、今の俺は親の口添えで養豚場で働いている。豚舎での給餌や除糞などの力仕事は正直ちょっとキツい。あの経験を通して、劇的に生きることに前向きになったわけではないし、そんな寓話性や主人公属性を持ち合わせてるわけでもない。でも、確実に変わったことは……

 俺は、豚が好きになった!